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九重久音と、学校生活【後】

 そこは、屋上へと続く鍵のかかった扉だけのある突き当りだ。

 壁にもたれるように座って、なにやら広げたノートに鉛筆を走らせていた人影が、つい、と顔を上げた。逆光の中、その左目だけが淡く輝いている。


「――くおちゃん」


 答えず、久音はそのまま階段を上りきって、彼女の――刹声の隣に寄り添うようにして、ぺたりとやや埃っぽい床の上に座った。壁に寄り掛かるのに邪魔な尻尾は、ぐいぐいと刹声の膝上に預けてしまう。


「お友達と話してたんじゃなかったの?」


 先ほど上級生相手に凄んでいたのが別人かのように、刹声は優しい声色で久音に問うた。


「…………」

「お友達、大事にしないとダメよ。それに、あたしと一緒にいるトコ見られたら、くおちゃんまで怖がられちゃう」


 言いながら、刹声の三角耳がぴこりと動いた。狐は耳が良い。狐の耳を持つ刹声も聴力は人間離れしていて、だから立ち去ったあとでも梨緒の言葉が聞こえていたのだろう。


「……せつな、は、怖くないよ」

「でも、獣人は怖がられてるもの。あたしはくおちゃん以外からどう思われたってどうでもいいけど、くおちゃんは気を付けないと。ね?」

「んん……」


 ノートを持ったままの手に尻尾が撫でられる感覚に目を細めつつ、久音は曖昧に頷いた。


 このまち、ゆきなみ市は、田舎というにはいくらか新しくて、都会というには寂れ過ぎた場所だ。ひと昔前、その広さと平坦さに目を付けられて、たくさんの研究施設が建てられた。そのために外から研究者のたぐいがまとまって移り住んできたが、しかしもともとは獣人のいない土地であったらしい。

 獣人というのは人間よりも数が少なくて、しかもその中で狐獣人だの犬獣人だの猫獣人だのに細分化されている。だから血を残すために、というのと、それから本能的に故郷を大切にする性質があるという説もあるが、同じ種は同じ場所にまとまって暮らしていて、ほとんどよそに移住したりはしないそうだ。

 だから、獣人がいない土地に獣人が増えるということはあまりないし、外から来た少数派というものは、得てして奇異の目に晒されるものである――というだけではなくって、実際、獣人校である雪並第三中学校のほうではたびたび傷害事件やら窃盗騒ぎやらがあるらしいので、少なくともこのまちにおいての獣人を警戒する梨緒の姿勢は、まったく所以がないというわけでもないのだった。

 しかし、久音も、そして刹声も、獣人というわけではない。獣人というのは全身が毛皮に覆われていて、顔立ちも人間とは根本が異なっていて、人間校たる雪二には入学できない。二人とも、ただ、獣人の要素をいくらか持ち合わせているだけである。それは――人間と獣人の間に子供が生まれるということは、非常に珍しい事例らしかった。


 久音の要素は――見える場所にあるのは――尻尾と脚で、人間からして、これは別にそう気にならないらしい。顔は右目の色以外すべて完全に人間だし、脚なんて見ようと思わなければ視界に入らない。

 しかし、刹声の要素――つまり三角耳、獣の瞳、鉤爪と毛皮のある腕は、どうしたってよく視界に入る。それに、顔が人間と大きく異なっている、というのは相当印象に影響するらしかった。それに、刹声はいつも刺々しい態度をしているし、久音を除いた誰に対しても素っ気ない。


 実のところ、顔のパーツ自体は双子らしくよく似通っている。一日二食でもほんのり丸みを帯びた輪郭、すっと通った鼻梁、やや吊り気味の目。それにこうして久音とふたりきりでいる刹声の表情は時折ふんにゃりと緩んでいて、とても可愛い……と、久音は思うのだけれど。

 それでも結果として、久音は謎めいた美少女扱いで、刹声は粗暴な獣人扱い。

 こうなるのは昔からで、だから、中学生になるときに約束したのだ。学校の中では話しかけたり、ましてやこうしてくっついたりしない、と。仲良くしていたら、久音まで不良扱いされるかもしれないから。

 だからいくら刹声への誤解が溢れていても、根も葉もない悪評を聞かされたとしても、それを否定してはいけないのだ。


 ただひとつの例外が、この場所。

 屋上は、安全面の理由で生徒立ち入り禁止である。そのため実質的に行き止まりのここは、校内で一番人が寄り付かない絶好の隠れ家であったのだ。

 梨緒やとわ相手とは違って、いろいろ話したりするわけではない。ただこうして体温を分かち合うだけで、久音のなかのさざ波が収まっていく。言葉がなくとも、ふたりは通じ合っていた。

 だから多分、刹声は久音が少し寂しがっているのを分かって尻尾を撫でていたし、久音にも刹声が自分とクラスメイトの仲を心配しているのが手に取るように分かっていた。分かっていて、口にしないだけだった。


 無言のまま、刹声はまたノートに鉛筆を走らせ始める。次の授業の予習、とかではなくて、そこには白黒だけでできた猫が浮かび上がっていた。登校途中にたびたび見かける子である。刹声のノートに授業の中身はちっとも詰められていなくって、こういう絵ばかりが並んでいるのだった。そもそも、授業自体半分くらいしか受けていないらしい。その不真面目さが、不良扱いに拍車をかけていた。

 それを横目に、久音はポケットからせんべいを取り出す。とわに貰ったばかりのそれを開けて、二枚あるうちの一枚を刹声に差し出した。


「これ。せつなの」

「くおちゃんが貰ったやつでしょ。くおちゃんが食べたらいいじゃない」

「……はんぶんこ」


 刹声は納得していないようだったけれど、とにかくそれを受け取って口に運んだ。それを見てから、久音ももう一枚を食べる。

 食べ終わると、刹声はまた絵に戻る。久音はポケットから、今度はスマホを取り出した。といっても、SIMカードの入っていない古びたそれは通話もデータ通信もできないので、スマートフォンというよりはミニタブレットのようなものである。

 それにやはり古びたイヤホンを刺して、ダウンロードされた音楽を聴く。いつのかも分からないポップスと、横文字のジャズが数十曲。すっかり耳に馴染んだそれらを刹声の隣で聴くことは、久音の心にこれ以上ない平穏を与えてくれる時間であった。コップの中の水だとか、下駄箱の中に佇む靴だとか、夕焼け空に飛ぶカラスだとか、そういうふうに、あるべきものがあるべき場所にあるべきかたちで収まっているような穏やかさだった。

 惜しむらくは、人間の耳用であるイヤホンを、獣耳である刹声が付けられないこと。それから、スマホのスピーカーが壊れていること。


 一曲聴き終わったタイミングで、昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。


「ほら。くおちゃん、次数学でしょ。教室戻んなさい」

「……ん」


 刹声が体をすり付けてきたのに促され、渋々立ち上がる。その刹声はどうやら五限目を受ける気がないらしく、座ったままでこちらを見上げてきた。

 思い出したかのように。


「そだ。あたし今日もバイトだから、くおちゃんはいつものトコで待っててくれる?」

「…………」


 こくり。

 久音が頷くと、刹声は満足そうに笑った。自分以外に誰も知らない、陽だまりのような優しい笑顔。久音が一番大切なもの。

 刹声は、久音が【普通】に過ごしていくことを望んでいる。だから久音は言いつけを守っているし、そうしていれば刹声は笑ってくれるのだ。だから、こうしているのが正しいはずで。

 それに背を向けて、久音は階段を下りていく。消えたはずのさざ波が、再び広がってきていた。


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