よく晴れた朝。
刹声が【closed】の札がかけられた扉を開くと、からんからんとベルが鳴った。
「やあ。おはよう、刹声ちゃん」
「おはようございます、マスター」
カウンターでグラスを磨いていた黒猫の獣人が、手を止めてこちらへ顔を向けてくる。刹声は軽く頭を下げた。
今日は土曜日。この喫茶店、パトリアで働くのは二日目だけれど、開店前に訪れるのは一度目だ。昨日は放課後からだったから。
「荷物置いたら……あれ、荷物ないか。んじゃあ、これ付けたらとりあえずテーブル拭いてもらえるかね。ほい」
渡されたエプロン――店のロゴらしきものが付いているシックなデザインのものだ――を手早く身につけるなり今度は硬く絞った濡れ布巾を手渡され、刹声はさっそく言われた通りにテーブルを水拭きする。
「それにしても、随分と早起きだねえ。お休みの日なんだから、寝坊して遅刻してくるのも想定済だったが」
現在時刻は午前八時半。確かに、普通であればまだ寝ていたりのんびりとお休みの朝を楽しんでいたりするような時間、なのかもしれないけれど。
「別に……開店三十分前にって言ったの、マスターじゃないですか」
「そうだけども。ワタシはまだ眠いから……」
言葉の通り、柚希はふああ、と大きくあくびをひとつ。猫獣人らしい鋭い牙がちらりと覗く。
実のところ、刹声もまだ眠い。今日に限らず、朝はいつだって眠いのだった。けれど、遅刻をすれば怒鳴られて給料を減らされるものだ、というのは前のバイト先ですっかり学んでいる。
手早くテーブルを拭き終わって柚希へと「終わりました」と声を掛けると、次は乾拭き。こぢんまりとした店ではあるが、テーブルの数はそれなりにある。上に置かれた備品――スティックシュガーとか、爪楊枝とか、胡椒とか――の確認も終える頃には、もう開店五分前になっていた。
「ちょっと早いか。でもまあ、刹声ちゃんのおかげでもうやることないしな」
柚希がくるり、と扉の札を回す。表に【open】の側が向いた。
「んじゃあ、今日も頑張っていこう。まだ二日目だけど」
「はい」
短く答えて頷くと、なぜか柚希が「うーん?」と首を傾げた。おかしな受け答えをしてしまっただろうか。
糊口をしのぐためにも、久音に【普通】の生活を与えるためにも、万が一クビにでもされてしまったら困るのだ。給料分以上に働くところを見せないといけない。そのためならばテーブルくらいいくつだって拭くし、父親と同じ種族たる大人の獣人相手に慣れない敬語を使いだってする。浮かぶのは、昨日渡された封筒に入っていた中身のこと。
(頑張らないと。あたしが、全部頑張るんだ)
そんな思考は、からんからんとなったベルによって打ち消された。客だ。
いつの間にやら険しくなっていた己の表情に鞭を打ち、刹声はにこっと口角を上げて目元を緩める。声のトーンも数段高くして。
「いらっしゃいませ! 何名様ですかっ?」
完璧である。
なにせ今朝、鏡を見て散々練習したのだ。
隣にいた久音はなんだか非常に微妙そうな反応をしていたけれど、誰がどう見たって完全無欠なスマイルである自信がある――営業、という前置詞はつくのだけれど、それはそれとして。目元の傷ばかりは隠しようがないけれど、それを補うだけの愛想はあるはず。
その思惑の通り、客は「あら」と好意的に目を瞬かせた。
「バイトさん? 三日月さん、可愛いコ雇ったわね~」
「あはは。おかげで楽できそうでね」
「それがマスターの態度なのかしら。一人よ、そこのカウンター席でいい?」
「あ、ええ、じゃない、はいっ。お好きな席に」
用意していた質問への答えを先に言われ、刹声はしどろもどろになりつつその客を席に案内する。丸椅子に座ると、客は毛のない尻尾をリラックスしたようにだらんと垂らした。
獣人、である。鼠の。
「ご注文お決まりでしたらお声がけください」
「はあい。ありがとね~」
とん、とお冷におしぼりを置いて、一旦やることは終了。けれど手持ち無沙汰になる前に、またも来客を告げるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「お、おお。二人だ」
見慣れぬ刹声に驚いたのだろう、目を丸くしたのは背の高い男性である。こちらは人間。
「カウンターとテーブル、どちらがよろしいでしょうか?」
「あー、テーブルで頼む……で、いいよな?」
男性客が横の連れに確認を取る。こくり、と三角耳が前傾した。こちらは猫の獣人だ。
「二名様、ご案内です」
昨日教えられた台詞を言いながら、刹声はちらと横目で店内を見た。獣人二人、人間一人。このまちの人獣比率からして、あんまりにも獣人が過剰だ。店長の柚希が獣人だから、なのだろうか。
「バイトちゃーん、注文いいー?」
「は、はいっ」
「あ、カウンターからの注文は基本ワタシが聞くから。刹声ちゃんはお冷とおしぼり」
「はいっ」
「こっちも注文頼むよ。水、持ってきてからでいいから」
「はいっ」
開店準備は前のバイト先と共通していたけれど、接客経験のほうは正真正銘二日目である。慣れぬタスクを脳内で組み上げながら、刹声は走らないよう注意しつつ店内を行ったり来たりする。
「お待たせしました。えと、ご注文は」
「モーニング、三日月炒飯セットで二つ。ドリンクはほうじ茶と緑茶で。あと、食後にブレンド二杯ね」
「はいっ、炒飯セットが二点、ドリンクは……あ、ホットかアイスか、どちらにしま、致しましょう」
「緑茶はホット……お前は?」
「……冷たいやつ。コーヒーはホット」
「えと、えっと……」
この店、パトリアにハンディなどという便利なシロモノはない。紙の伝票にペンで手書きだ。絵ならともかく、文字を書くというのが刹声はやけに苦手というか下手で、机の上で書いても不格好になる。それを空中で急いで書かないといけない、というのは、なかなかに忙しない作業だった。
あたふたペンを走らせる刹声を見て、男性客が軽く笑った。
「炒飯セット二つ、ドリンクがホットの緑茶。アイスのほうじ茶。それから、食後にホットのブレンドコーヒーを二杯」
「――っ、す、すみません」
「こっちこそ、ぺちゃくちゃと悪いね」
注文を復唱すると、刹声はぺこりと一礼してキッチンのほうに伝票を渡す。柚希はさっそく炒飯を作り始めた。
なんで喫茶店に炒飯やら緑茶やらが――という、昨日からずっと脳裏をよぎる疑問もそこそこに、悔しさが刹声の胸中へと滲んでくる。
早く文字を書く練習もしてきたらよかったのだ。あるいは、注文を頭で覚えておく練習。
この店のキッチンはカウンターキッチンで、そこにいる柚希からは店内の様子がすべて見えるようになっている。慌てふためく刹声のことも見ていただろう。昨日は業務内容を教えてもらう日だったからともかく、今日はもう初めてじゃあないのだ。失望されたら……刹声を雇うメリットがないと判断されたら、その瞬間に終わってしまう。
(頑張らないと……!)
そっと拳を握り締めた、視界の端。
「……うーん」
ひやり、と冷たいものが背筋を這っていった。
「柚希さん、暖房の温度上げた? いつもより暑いね」
「最近冷え込むからねえ。フロートでもどうかな、新メニュー」
「冷え込むのに? あ、でもおいしそ~」
中華鍋を振る柚希はすぐに客との雑談に戻っていったが、間違いない。今、彼女は刹声のほうを見て首を傾げていた。
浮かぶのは、『明日から来なくていい』――素っ気なくて致命的な、あの言葉。
元より、刹声に――親に見捨てられ、あるいは親を見限り、教室からも抜け出してばかりの自分に、居場所などないのだ。それでもどこかにいようというのなら、努力をするしかない。
からんからん、とドアベルの鳴る音。
一層の決意と気合を込めて、刹声は思い切り口角を上げた。
「いらっしゃいませっ、何名様ですか?」