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九重久音と、白紙の地図【後】

 六限目の学活で配られたそのプリントには、【進路希望調査票】という漢字七文字が並んでいた。


「本格的に進路の話をするのは三年生になってからですけど」


 教卓で、担任の女教師がプリントの説明をしている。


「でも、一年のうちからも少しだけ考えておくと、後々慌てなくて済みますからね。どこの高校に行きたい、とか、こういう職業に就きたい、とか。具体的じゃなくても構わないので、何か書いてみてください。提出期限は来週の金曜日です」


 「はい!」と挙げられたのは、クラスの中でもお調子ものである男子生徒の手。


「美人と結婚したい、とかでもいいですかっ!」

「構いませんよ。お相手が美人さんかはともかく、結婚のほうは……するならやっぱり、ちゃんと稼がないといけませんから。そうなると良い高校に行くべきですし、ええと、山下くんは確か前回の英語の点数が……」

「先生! プライバシー侵害っすそれ! 俺の中間が二十七点だったとか、バラされたらマジ明日から学校来れないっすよ!」


 自分で言ってんじゃねえか、というツッコミがどこかから入って、教室中がどっと沸く。そんな中で、久音はそのぺらりとした紙切れへ難しい視線を向けていた。

 どうやら、本当に何を書いてもいいらしい。

 四角で枠を付けられただけの白紙たるそれに、久音は意味もなくシャーペンをあてがう。いくつか高校の名前を思い浮かべてみた。頭が良いなら隣市にある星浦第一に行くか、そこから少し落として市内の水園か。現状の久音の成績ならば、どちらも狙える範囲内だとは思うが――。


「二年以上も後のこととか、ぜーんぜん分かんないじゃんね」


 ほとんど自分が思っていた通りの文字列が降ってきて、久音は紙から顔を上げる。


「高校、職業……ヤだなー、働きたくないなあ!」

「梨緒ちゃん、もうニートになる気なの? 将来有望だねえ」

「え、逆に働きたい人とかいるん? うち、一生学生がいいんだけど」

「……わたしは、ちょっと働きたい……かも」


 久音の発言に、梨緒は信じられないとばかりに目を見開いた。


「ま、真面目ェ!」

「私も、将来的には働きたいかなー。上のお兄ちゃんも、働きだしてお家出ていったし」


 とわの追い打ちを受け、オーバーに上体を逸らす梨緒。


「ヒエッ……え、うち少数派? 嘘でしょ? 中一ってこんな立派なの? うわ、うちの意識、低すぎ……?」

「でもまあ、学生の本分は勉強だよねえ。高校どこにするかー、とか考えたほうがいいかも」

「や、うちは勉強もしたくないけどね。遊んで暮らしたい。うちらってば花のJCだしょ? 配信見てインスタ見てソシャゲ回して、コスメ買ってー、服買ってー、プリ撮ってー、カラオケ行きたいし……ランド、いやラウワンとかも捨てがたい!」


 どんどんと羅列されていく梨緒のやりたいことリストに、久音は内心で目を見張る。


「あー、もう遊び人って書こっかな、これ」


 ぴらぴら紙を弄ぶ梨緒へ、とわが苦笑いを向けた。


「遊び人も賢者になるんだから、やっぱり勉強しないとだよー。梨緒ちゃん、中間どうだった?」

「少なくとも、とわと久音さんよりは低いね。マジでそれだけは自信ある」

「そんな威張って言われても……」

「二人とも毎回点数良すぎるんだよーっ! このお勉強得意ちゃんどもめ!」


 ううん、と久音は首を傾げる。

 思い浮かべるのは、梨緒がよく熱心に読んでいるファッション雑誌のことだった。コーデがどうとか、モデルさんがどうとか、いつも饒舌に話している。


「……わたしは……勉強以外、やることないからしてるだけ。それより楽しいこと……やりたいこと? が、あるのは、すごい良い……と思う」


 思ったままの本心だった。

 たとえば、世間にはフリーWi-Fiというものがある。図書館や駅などでそれに繋げば、久音のおんぼろスマホでだってネットの海に潜ることができるのだ。でも、宿題なんかで必要に迫られでもしない限り、久音がその海を泳ぐことはない。調べたいことも見たいものもないから。

 だから、梨緒の持つそのバイタリティは素直に羨ましい――というだけの言葉だったのだけれど、何やら梨緒の様子がおかしい。動揺したようにぱちぱちと瞬きをして、とわへと口元を寄せた。


「……とわ。久音さんにお菓子あげて」

「梨緒ちゃんがあげる流れじゃないの、これ」

「持ってない。でも今、すごくお菓子をあげたい」


 授業中だというのに取り出された個包装のお菓子――今日は細長いウエハースチョコだ――を、梨緒はとわの手からもぎ取るなり久音のほうへ差し出してきた。


「はい、久音さん。これあげるね、うちから」

「……とわの、じゃ?」

「いいよー。それは梨緒ちゃんの取り分で、こっちは私から」


 とわからも全く同じお菓子を差し出されて、久音は首を傾げながら二つともを受け取る。


「そ、そんな……いや、致し方なし! 久音さん!」

「……? 武士……?」


 なぜか、包むようにして両手を握られる。


「もしうちが将来路頭に迷ったら……そのときは、養ってね……」

「お菓子の対価重いなあ」

「だってえ。うち、英語の中間二十二点……」

「うわあ」


 なるほど、なかなかに凄惨な点数である。先ほど担任にあしらわれた彼より低い。余裕で赤点だ。


「この後、勉強会でもする? それこそカラオケとか行って」

「とわさんや、カラオケは歌うための場所っしょ。勉強とかマジ無礼」

「じゃあ、ファミレスとかでも……久音ちゃんもどうかな。一回、おうちに鞄置いてから」


 その誘いへと、久音は首を横に振った。

 お金がまったくない、わけではない。いざというときのために、と刹声から千円札を渡されている。でも、それは刹声が働いて得た大事なお金だ。


「……放課後、遊んだりは、駄目」

「そっか。久音ちゃん、お家のひと厳しいもんね」


 こうして断るのは初めてのことではないので、とわはあっさりと引き下がった。


「今時スマホも持ってないしね。まー、姉の九重さんがああじゃ、久音さんへは過保護にもなるかぁ。しゃーなししゃーなし」


 刹声が『遊んでいる』不良なためにその分久音は親から厳しく育てられている、というシナリオがすっかりできあがってしまっていて、そのおかげで付き合いが悪いことを咎められることもないのだった。……微かに、久音の尻尾が高度を下げる。


 さざ波を、感じる。


「こら、そこ。一応授業中ですよ、お菓子はしまいなさい。お喋りもほどほどにね」

「あ、はあーい」

「すみません」


 担任に軽く叱られて、梨緒ととわはそれぞれ自分の机へと向き直っていった。久音もまた、居住まいを正して真っ白な進路調査希望票を見下ろす。

 既に何人かは提出してしまったようで、教卓には数枚の記入済用紙が並べられていた。そこまで堅苦しい調査でもないのだから、むしろこの授業中に片付けるほうがが多数派だろう。現に、とわはさっさとペンを走らせるなり立ち上がった。書き終わったらしい。


「んん……」


 適当に書いてしまおうか、と思ってみても、その適当さえ思いつかない。

 結局チャイムが鳴るまで久音の手は止まったままで、ちょっとした宿題が鞄の中にひとつ増えることとなるのだった。


 放課後、刹声がバイトをしている間、久音は図書館で勉強をしている。

 学校からも家からも少し離れたゆきなみ駅の近くにある大きな市立図書館は、夜の九時まで開館している。刹声がバイトを終えて帰ってくるのは十時半くらいだから、歩いて帰るのも考えれば一時間ほどしか待たずに済むのだった。

 とはいえど、たかが中学生に毎日四時間以上も勉強するような用事はない。

 中間テスト明けなのもあって量の少ない宿題も、どころか予習も復習もすっかり終わらせてしまった久音は、いつものように適当な本でも読もうと席を立ちあがりかけてはたと止まった。もうひとつ、宿題が残っているのを思い出したのだった。例の、進路希望調査票。


「……んん」


 しかし、時間を空けてみようとも、思いつかないものは思いつかない。読書のしやすいようにと少し薄暗さをはらんだ照明の下で、む、と二回ほど尻尾を振る、ちらちら影が揺れ動いた。

 久音は空っぽなのだ。

 だって、何かをしようとしてみても、それらは全部悪い方向に向かう。そうして久音が痛い目を見るなら別に因果応報としても、傷つくのはいつだって刹声なのだ。間違っている自分に進路の希望を訊くだなんて、まったく、中学校というのも意地の悪いところである。

 恨めし気にしばらく枠線を見つめていると、それをぺらっと誰かに取られた。驚き、上を向く久音。


「何これ、進路希望……ああ、学活のやつ。そっか、くおちゃんのクラスも配られたのね」

「……せつな」


 のけ反るようなポーズでさかさまにその顔を確認してから、久音はその背後にある時計を見る。午後八時半、いつもであれば刹声はまだまだ忙しく働いているさなかであろう浅い時間。


「…………?」


 姿勢を戻してから、今度は上体を捻る。正位置になってみて眺めても、やっぱり目の前のひとは刹声で間違いがなかった。


「そ、終わり。ガクセーがあんまり夜遅くに出歩くのもよくないって、マスターが」

「マスター……?」

「ああ、新しいバイト先の店長。なんか、そう呼べって。喫茶店だからって」

「男の、ひと?」

「女だけど。獣人の」


 はて、と英語の成績の良い久音が首を傾げた。


「……女のひと、は、ミストレス。マスターは、男」

「そうなの?」


 英語の成績の低い――というか、そもそも碌に授業を聞いていないだろう刹声が目を丸くする。ふうん、と不思議そうに呟いてから。


「それでね、今日もまかない貰ったの。なんか、パン? ここ、飲食スペースあったよね。お腹空いてるでしょ、食べて帰りましょ」

「ん……」


 久音は並べていた筆記用具を鞄にしまうと立ち上がる。図書館エリアのすぐ外、同じ建物に併設されている市営美術館との間には、椅子の並べられた休憩スペースのようなものがあった。そこにあるふかふかしたソファに、ふたりは並んで座る。

 刹声が見慣れぬ小さなバックから取り出したそのパンは、久音の予想していた食パンだとかスティックパンだとかと全然違うものだった。

 いや、食パンは食パンだ。ただ、こんがり焼き色がついていて、二枚重ねになっている。隙間からは、とろりと零れる黄色いものがあった。チーズの匂いだ。


「クロ……ク? マッシュだかメッシュだか、なんか、サンドイッチだって」

「……あったかい」


 久音の知るサンドイッチといえば、コンビニの冷蔵庫に並ぶひんやりとした三角形のことだ。でも、これは四角いし、ぽかぽかしている。

 サンドイッチはちゃんと二つ用意されていて、だからわざわざ刹声へと食べるよう促す必要もない。自分の分を取って、もぐ、とひと口かじり取る。

 つい、尻尾を大きく振ってしまった。


「くおちゃん、おいしい?」

「ん……」


 空腹による義務感ではなく、ただ食べたいという気持ちのままにそのチーズとハムの入ったサンドイッチを食べながら、久音はゆらゆらと尻尾を揺らす。

 刹声が早い時間にバイトを終わらせたこと。残飯ではなくちゃんとしたご飯を、それも二人分持たせてもらっていること。何より、先ほど『マスター』と呼んだその声音にいつものような他人への敵愾心がほとんどなかったこと。

 それは、多分、いいことだから。


 食べ終わったら並んで帰路につく。澄んだ空には星が燦然と輝いていて、オレンジに灯る家々の明かりにだって負けてはいない。

 ふと、思い出したことがあった。


「……あのね。さっきの……進路の紙。書くこと、思いつかない」

「ああ、あれ? 高校の名前書いたらいいじゃない。くおちゃん頭いいし、星一とか水高とか」

「……ん」


 自分で書こうとしてもなんだかピンとこなかった学校名も、刹声に言われると確かなものに思えるから不思議だ。

 でも、そうだ。刹声はあまり、というかかなり成績が良くない。中学生になってからの半年間、勉強をほとんどしていないからだ。そうなると、そのふたつの高校に行くのは厳しいはず。


「せつな、は……違う高校、行っちゃう?」

「いや? あたしはほら、就職」


 さらり、と刹声はそう言ってのけた。


「義務キョーイク終わったら、働けるとこの選択肢も増えるでしょうし。そしたら、くおちゃんにこんな不自由な思いさせなくたってよくなるもの。お小遣いも少ないし、小学校の遠足にだって行けなかったでしょ?」

「…………くお、は。不自由とか……思わない、よ」


 そっと、刹声の制服の袖を引く。

 十分だ。今、こうしてふたり並んで歩いているだけで。お小遣いも遠足もなくていい。


 けれど、刹声はそっとその手を振り解いた。外だと誰かに見られているかもしれないから、ということだろう。


「あたしが嫌なの。それにほら、家も出てけるかもだし……うーん、未成年だけで家って借りられるのかしら」

「……たぶん、親の同意、いる」

「そうよね……まあ、それはタイミング良さそうなときでも見計らいましょ。結局中学の手続きとかはやったワケだし、あたしたちが出てくってんなら文句もないわよ」


 ふふん、と刹声が気丈に笑う。


「……ん」


 久音はただ、小さく頷いた。いつものように、刹声の語るその全てを正しいのだと肯定した。


 いつだって、刹声はまっすぐだ。

 刹声のそういうところが、心の底から好きだったから。何も決められないふにゃふにゃでぐにゃぐにゃの久音にはない、その瞳に輝くきれいな灯火が。それは、意思の光だった。

 気が付けば、俯く久音よりも一歩前を刹声が歩いている。まるで先導するかのように。

 久音はただ、そのぴんと伸ばされた背中を追っていた。


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