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九重久音と、白紙の地図【前】

 朝に起きるのは、いつだって久音のほうが先だ。


 襖にさえぎられた押し入れの中はいつだろうと暗いけれど、その隙間からわずかに洩れる明かりで時間を推測することくらいはできる。そこから判断するに、恐らく刹声はまだあと三十分くらい寝ているだろう。

 スマホを見れば正確な現在時刻も分かろうが、下手に動いて刹声を起こしてしまいたくはない。だから久音は刹声と抱き合う姿勢のまま、ただじっとその寝顔を眺めている。

 狭い押入れは久音と刹声でほどんどぎゅうぎゅうで、少し身をよじるだけで貼られた紙がかさりと小さく鳴る。刹声の絵だ。


 寝ながらでも見える位置には、久音が特に気に入っているものを貼っている。学校の屋上に続くあの階段、晴れた空と電線の雀、何かのお店と思しき古い建物。久音が知っている風景もある。知らない場所もある。

 けれど久音の目で見ると、鉛筆の黒と紙の白しかないそれは、実物よりもよほど鮮やかな色彩をまとっているようだった。

 三十分はあっという間に過ぎて、そろそろ起きなければいけないような時間になる。けれど、刹声はまだすうすう寝息を立てている。昨日は随分遅かったし、疲れているのだろうな、と久音は考える。本当は寝ていてほしい、けれど。


「……せつな。朝」


 肩を揺すると、刹声は「んぁぁ……」と寝起きのお手本のような声を出し、もそもそ身をよじらせた。朝に弱いのだ。ふにゃふにゃの刹声を見られるのは、一日を通してここだけである。


「おはよ……くおちゃ……」


 緩慢に目を開いた刹声が、ぼーっとした視線を向けてくる。


「おはよ」

「……んにゅぅ」


 やけに可愛いらしい音を洩らしながら、刹声はまた目を閉じてしまった。二度寝する気満々である。


「せつな……ダメ。学校」

「ぅぅ……ぁと五時間……」

「昼休みに、なる」


 五分ならまだしも。


 心を鬼にして、久音は布団から脱出した。部屋の外に誰もいないのは匂いで確認済みなので、そのまま押し入れからも脱出する。

 ほどなくして、刹声ものたのた這うようにして出てきた。というのも、刹声は久音を抱き締めていないとよく眠れないのだ。なので、自分が起きてしまえば刹声もまた起きるしかない。逆もまた然り。

 ふらつく足取りをした刹声の手を引き、お風呂場へ。服を脱がせるのも、シャワーを浴びせるのも、髪や体を洗うのも、寝ぼけた刹声の分まで久音がやる。

 長い赤茶の髪をシャンプーしたら、今度は体。まずは小さな背中から、スポンジ代わりのタオルでこすっていく。なるべく優しく、丁寧に、新旧入り混じった無数の打撲痕ができるだけ痛まないように。続けて脚。腕の毛皮部分はシャンプーで洗っているので、肌の露出した肩付近だけ。

 さしものむにゃむにゃ刹声も、シャワーを浴びているうちに目が冴えてきたようで、表情が精彩を帯びてくる。それでも自分で自分の体を洗おうとはしないで、久音にされるがまま気持ちよさそうに目を細めていた。


「……ばんざい」

「んーっ」


 脇も洗って、最後にお腹。

 洗う順番含め、すっかり慣れた毎朝のルーティンである。何か言う前に、一糸まとわぬ刹声がくるりとこちらを向いた。

 まだ、背中よりは傷が少ない。けれど下腹部に一カ所、大きな火傷の痕があった。まるで腐った果物のような色をしたひどく痛ましいその部分へと、久音はそっと指先を触れさせる。もう、ずっと前の傷だ。


「……くおちゃんは、なんにも悪くないからね」

「ん……」


 わしゃっと頭を撫でられる。久音は小さく頷いて、またタオルを握り締めた。

 丸洗いし終わった刹声に狭い浴室から退散してもらい、今度は自分のほうに取り掛かる。髪と脚と尻尾をシャンプーで洗って流して、残りをボディソープで洗って。

 ふと、シャワーの横に据えられた鏡と目が合った。

 反射する泡だらけの体は、刹声のそれに比べて綺麗なものだ。傷ひとつない、とまではいかないれど、精々痣が二つ三つと軽い掻き傷程度で目立つものは特にない。ちょっと転んじゃって、とでも言えば納得されるだろう程度。

 シャワーの栓をひねる。ざーっとお湯があふれ出し、みるみるうちに浴室は真っ白な湯気で満たされた。鏡もまた真っ白に曇る。のんびりしている時間はない。登校まではまだ余裕があるけれど、刹声と一緒にいられる時間はいくらあったって足りやしないのだから。

 洗濯機にバスタオルとジャージを放り込んでスイッチを押すと、制服を着てドライヤーとブラシ片手に洋間へ。同じく制服を着た刹声が床にぺたんと座っているので、その後ろに位置どった。ドライヤーのコードをコンセントに挿して、スイッチオン。


「ぅうーーーーっ……」


 久音と刹声より年上である古いドライヤーの騒音に、鋭敏な刹声の獣耳がぺたんと寝かされる。構わず、久音はゆっくりと丁寧にその長い赤茶の髪を乾かしていった。腰まで届く髪を乾かしきるのは中々に手間だが、まったく面倒だとは思わない。これから学校に行ったら、夜遅くまで刹声と離れ離れになってしまうのだ。朝のこのひとときは、久音にとって大切なものだった。

 大切。そう、久音は刹声が大切なのだ。

 気弱で無口で、それに何より獣人の要素がほとんどない顔立ちをした久音のことを、あの狐獣人は『不気味だ』と酷く嫌悪しているらしい。

 少しでも口を開けば怒鳴られて、何かをすれば殴りつけられて。物心ついたころからそういう風にずっと自分自身を否定されて生きてきた久音は、あまり自分というものに自信がない。意見とか、意志とか、その手のことを考えてみても、なんだかどこか間違っているような気がしてならなくなる。

 それでも、刹声と一緒にいて生まれるこの想いだけは紛れもない久音であると言えるのだった。

 ……実際誰かに言うことは、他なら刹声によって禁止されているのだけれど。

 すっかり乾かし終えてから、久音はヘアゴムを取り出すと刹声の髪を結わえにかかる。


「髪……どう、する?」

「いつものでお願い」


 毎朝しているやり取りをしてから、左右の顔にかかる部分だけを細くまとめた、いわゆるツーサイドアップを手早く完成させる。本当は編み込みを混ぜてみたりだとかハーフアップにしてみたりだとか、いろいろ試してみたいのだけれど、『あたしはそんな可愛いの似合わないし』と刹声がむず痒そうにするためにいつもシンプルなこれである。とはいっても、獣耳の邪魔をしないようにちょっとしたコツはいるのだが。

 シャンプーがかさむのもあって、刹声のほうは髪を短くしたがっているようだったが、久音が嫌がっているのを分かってひとまずは保留にされている。


「……できた」

「ん、ありがと」


 ようやく身だしなみを終えて、刹声がこちらへ振り向いた。

 かと思えば、下ろしたままの久音の黒髪をじいっと眺めて。


「あーあ。あたしも、くおちゃんの髪、結んであげれたらいいのになあ……」

「……せつな、不器用」

「むう。くおちゃんが器用なだけじゃない?」


 前に試してみたときはまた髪を梳かし直さなければいけなくなって、そのせいで遅刻しかけたのだ。だから、刹声は実際に結んでみようとはしなかった。


「ま、いいわ。ほら、後ろ向いて」


 今度は刹声がドライヤーとブラシを持って、久音の髪を乾かし始めた。やっぱり刹声は不器用で、時々絡まった髪がブラシに引っかかる。少し痛い。でも、嫌ではない。どこか心地よい痛みだ。

 髪が終わると今度は尻尾で、これが一番の大仕事である。狐獣人のものである久音の尻尾は、犬獣人のそれより長いし猫獣人のそれよりふさふさしている。ほとんど毛のかたまりのようなものだ。

 尻尾が温かい。乾いてくると刹声は手櫛をすーっと交えてきて、それがあんまりにも気持ちいいものだからとろんと瞼が落ちてくる。シャワーのときとは真反対、されるがまま。


 朝は好きだ。

 どこか知らない女のひとの家で寝泊まりしているらしいあの父親なる狐獣人は、朝に帰ってくることだけはない。一番に安全な時間なのだ。だから、入浴も洗濯もこの時間にやっている。穏やかで優しいだけの、ぬるま湯のような時間。

 でも。

 ちら、とスマホを持ち上げる。


「そろそろ時間?」

「…………」


 こく、と頷くと、刹声は「じゃあここまでね」と尻尾から手を離した。実のところ、もう数分前にはすっかり乾ききっていて、いつもに増してふわふわになったそれを同じくふわふわの手が撫でてくれていたのだった。


「洗濯、干すのはあたしがやっとくから、くおちゃんは先に行ってなさい」

「…………」

「分かった分かった」


 久音の視線が獣耳に向いているのを見て、刹声はポケットをごそごそと探る。取り出した手には、きらりと小さく光るものが握られていた。

 イヤリングだ。半円に鍵型のくぼみが付いた四角を組み合わせた、つまり錠前型のチャームが付いている。それを、ぱちんと左耳に付けて。


「ね。大丈夫だから、行ってらっしゃい」

「……ん」


 ようやく、久音は通学鞄を手に取って玄関のほうへと向かう。

 そっとポケットに入れた手に、小さく硬いものが触れた。それをぎゅっと握りしめ、家を出て。


 知らないひとがいた。

 二人組の女のひとで、首から名札らしきものを下げている。

 無視して行こうとしたのだが、それより先に声をかけられた。


「九重……ええと、刹声さん? それとも久音さんかな。ちょっとお話、いい?」

「……学校、なので」


 久音の警戒が伝わったのか、若く柔和な雰囲気をしたほうがなるべく優しくしたのであろう声色で、


「あのね。お姉さんたち、困ってることとかないかな、って訊きにきたの」

「ない、です。何も、困ってない」


 言い切り、そのまま久音は小走りでその場を後にする。

 最近、何度か見かける格好のひとだった。刹声とふたりのときに声を掛けられたのが最初で、そのとき刹声から『怪しいからマトモにお話ししちゃダメよ』と厳命されている。大人は信用ならない、と刹声はたびたび口にしていた。


 ……小学校のときに一度、苛烈になっていく暴力に耐えられなくなった久音は担任の先生へと相談をしたのだ。そのとき返されたのは『でも、それは久音さんが何かお父さんを怒らせるようなことしちゃったんじゃないかな?』で、そんなことないと否定したところに重ねられたのは『ほら、物を壊したとか、ワガママ言ったとか』で、結局諦めて帰宅したところには怒り狂うあの狐獣人がいた。あろうことか、担任は彼にわざわざ電話をして、久音の相談内容を全部伝えてしまったのだった。

 仔細は思い出せない。思い出したくない。ただ結果として、刹声の腹には今でも消えない火傷の痕が残っている。


 昔からそうだ。久音が自分から何かをすると大抵上手くいかなくって、それを見た母親が不愉快そうにしたり父親が怒鳴ってきたりする。初めておつかいをしたときは卵を割ったし、部屋を片付けようとしたらうっかり中身の入った缶を倒して布団をダメにしてしまったし。だからあの火傷だって自分のせいだ。


 久音が、余計なことをしたから。


 それ以来、久音は刹声に言われたことを守るようにしている。学校では話しかけない。見知らぬ大人を信用しない。登校するタイミングを最低でも十分はずらす。他にもいくつか。全部が久音を守るためのルールで、それはつまり、久音に降りかかる痛みすべてを引き受けようとする刹声を守るルールでもあった。刹声を傷付けたくはなかった。


 久音は、ポケットの中で握ったままだった【それ】を取り出す。

 小さな鍵のチャームが付いたイヤリング。

 ただひとつの我儘が、これだった。

 中学生になってすぐの頃、刹声がバイトを始めた。放課後に長く離れているのは初めてのことで、それを寂しがった久音へと刹声が買い与えてくれたものである。鍵と錠前、ふたつでひとつのアクセサリー。

 『これを持ってる限り、あたしとくおちゃんは一緒だから』と、そう言って渡された片方たった五十五円相当のちっぽけなこれは、しかし、朝日を反射してきらりと輝いている。

 学校ではなるべく優等生でいること、の決まりがあるために校則違反のそれを付けることは叶わない。それでも、これがあるだけで久音は平気なのだった。平気でなければいけないのだった。そのために、刹声が与えてくれたものだから。


「……だいじょぶ。一緒、ね」


 離れていようと繋がっている、その証。

 だからきっと、大丈夫。


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