九重家があるのは、低所得者向けに建設された県営団地の一角である。
白くて四角くて画一的な面白味のない建物がずらり並んだうちのひとつたる五号練、一階の一号室に『九重』の表札がある――その前を通り過ぎて、刹声はそのまま煌々とした蛍光灯に照らされた階段を上がっていく。
二階、三階、四階も足早に駆け抜けて、五階建ての一番上まで辿り着く――直前の踊り場で、弾けるような勢いをしたものが跳びついてきた。
あらかじめ構えていた刹声は、危なげなくその相手を受け止めてぎゅっと抱きしめる。
「ただいま、くおちゃん」
「……おかえり」
久音だ。いつも寝るときに使うタオルケットを羽織っている。
「寒かったでしょ。ごめんね、遅くなって」
「んん、だいじょぶ……おつかれ、さま」
「くおちゃんだって、閉館までは図書館で勉強でしょ? 変わんないって」
久音にひっついたまま、刹声は残りの短い階段を上がりきる。
そこにあるのは扉が左右に二つきりで、どちらにも表札は付いていなかった。住人がいないのだ。
つまり寄り付く人もいないということで、ここも中学の屋上に続く階段と同様、絶好の隠れ場所であった。
のっぺりとした壁と扉と蛍光灯しかない行き止まりのために息の詰まるような閉塞感があるし、流石に室内よりは寒いけれど、明るいし雨風とも無縁である。
毎朝タオルケットと、それから枕代わりのタオルを家から持ち出して置いてあるので、万が一家から叩き出されたとして一晩くらいなら凌ぐこともできる、というのも証明済み。
刹声がバイトで遅い日は、ここを待ち合わせ場所にしていた。もしも家にアイツが――あの狐獣人がいたらと思うと、久音だけを帰すわけにはいかない。
「……?」
刹声が見慣れぬ黒い傘を持っていることに、久音が気づいたようだった。「ああ、これ?」と掲げてみせて。
「バイト先、変わることになって。分かるかな、団地から遊歩道の側に抜けたとこにある喫茶店なんだけど、そこの店長が貸してくれたの。……万が一アイツに壊されてもいけないし、ここに置いとこうかしら――あ」
そこまで言ってから、通学鞄の中にまとめてしまった手提げ鞄、ひいてはその中身のことを思い出す刹声。ごそごそとそれを取り出して。
「そこの店長がナントカ月……ええと、炒飯おにぎりくれたから、ここで食べちゃお。まだあったかいよ」
「……おにぎり」
ごろごろと片手に収まらないような大きさのおにぎりがいくつも出てくるのを見て、久音がしぱしぱと目を瞬かせた。
いつもは刹声が久音に全部食べさせようとして、久音が半分に分けることを主張する――という流れがあるけれど、今回のこれはとても一人では食べ切れない。刹声と久音、それぞれひとつずつおにぎりを持って「「いただきます」」と声をそろえた。
「――おいしいね、これ」
空腹のままにぱくぱくと食べ切ってしまった刹声は、驚きを滲ませた声音で呟いた。
水分の飛びきっていない米、何の変哲もない卵と細かく切られたソーセージ、それにネギが入っているだけの見た目通りをした味だ。だというのに、なんだか妙に美味しい。
「……あったかい、と、おいしい」
「ああ、それかも。夕ご飯、いっつもはパンとかだもんね」
クビになった例の定食屋の【まかない】だって、すっかり冷え切ったものばかりだった。それに、量もここまで多くはない。
それぞれ二つめも三つめも食べ切ってしまって「ごちそうさま」と手を合わせる。サイズが大きいこともあって、すっかり満腹になっていた。久しぶりの感覚だ。
そのままタオルケットやらを持って、傘と手提げ鞄だけは置いておいて、ふたりは階段を下りる。『九重』の表札がある一階まで下りると、久音が緊張したように小さく身震いをした。
鍵を開け、ノブを回す。
碌に油も差していない扉はキィィとうるさく軋んで、ただでさえ早まっている心臓のリズムをますます急かしてくる。しかし、玄関に靴がないのを見て、ふたりは同時にふうっと息を吐いた。
「アイツ、今日は帰ってきてないっぽい」
というか、そもそも帰らない日のほうが圧倒的に多いのだ。どうやらここ一年ほどは大概どこぞの女の家に寝泊りしているようで、その相手に追い出されたり折り合いが悪かったりしたときだけこの家に戻ってくる。週に一、二回といったところか。
しかしいくら七分の一の確率であっても、それを引いてしまったときの地獄を思えば久音の反応は当然だった。
いつ帰ってくるかも分からないので、ふたりは足早に家へ入ってパジャマ代わりのジャージに着替えると、そのまま押し入れの中に入り込んでしっかり襖を閉める。
あの狐獣人は、酒と煙草のためか獣人の癖に感覚が鈍い。それに、ふたりが視界に入らなければ激昂することもあまりないのだ。だからこうして押し入れで息をひそめてさえいれば、寝ている間に彼が帰宅したとしても問題はない。少なくとも、今日までは問題なかった。
久音の持つスマホの懐中電灯機能を使った薄明りのなか、刹声はノートを広げて昼休みの続きを始める。猫の絵である。刹声にとっての絵に暇つぶし以上の意味はないが、どうも久音は自分が絵を描いているのが好きらしい。描いているところを見るのも、できあがった絵を見るのも。だからこの小さなふたりだけのお城の壁や天井には、セロテープでぺたぺたとモノクロの空やら花やら校舎やらが散りばめられている。
寄り添い合う静寂の中、刹声が鉛筆を走らせるシャ、シャという音だけがする。久音はしばらく横からそれを見ているだけだったが、ゆっくりと尻尾を揺らし始めたかと思うと、小さな声で歌い始めた。歌詞の分からぬ英語のジャズ、そのメロディ部分だけを微かなハミングがなぞる。朝露のように透き通った、うつくしい音。
クラスで話題になっているようなゲームも漫画もないし、テレビだってほとんど見たことすらなかったけれど、それを不幸だとはまったく思わないのだった。こうして久音と一緒にいる以上の充足が、まさか画面なんかの向こうにあるはずもない。
そうして三十分もしていると、だんだんと眠くなってきた。刹声がノートを鞄にしまったのを見て、久音がスマホのライトを消す。そのままごそごそ布団に潜り込み、どちらからともなく抱きしめ合う。
(……どこまでも、こんな時間だけが与えられていたらいいのに)
久々にお腹もいっぱいで、新しいバイトのアテもできた。ひどく満ち足りて穏やかな気分のまま、刹声はゆっくりと意識が溶けていくのを感じていた。
ぼんやりと、夢を見ていた。
そこには人間の女性がいた。刹声と久音の母だった。目元には化粧でも隠し切れない隈が浮かび、表情はひどく倦んでいる。それを、刹声は随分と低い視点から見上げていた。まだ、小学校低学年のころの身長だ。
『それじゃ、お母さんはもう行くから』
その言葉と共に、白い封筒が差し出される。銀行のロゴが入ったそれには、刹声が今までに見たこともないような分厚い札束がぎゅっと詰め込まれている。
『あの人から逃げるための貯金だったけど、あなたにあげるわ。刹声』
違う、と刹声は首を横に振る。違う。必要なのはこんな紙切れじゃない。あの、酷いことを言ったり痛いことをしたりしてくる理不尽から生き延びるのに、こんなものが役立つとは到底思えなかった。
夕焼けの綺麗な秋の日だった。ここ数日で急激に気温が下がったためか、体の弱い久音は体調を崩し眠っていて、まさか母親がいなくなるとはつゆほども思っていないだろう。目が覚めたらこんな場所に放り出されているなんて、あんまりじゃないか。
『だって、あなたが言ったんでしょう? “××××”って』
母親は、もうすぐ母親でなくなるだろうそのひとは、つい先ほど刹声が放ったその言葉を繰り返した。その手には、中くらいのキャリーケースがある。
『だから、一緒にはいられないの』
玄関の扉を母親が押し開けた。その先には、薄暗い暮れの空があった。これからずっとずっと続いていくのだろう夜を帯びた、紫色の空が。
『さよなら、刹声。久音』
それだけ言うと、彼女は玄関の境を踏み越える。キィィ、と音を立てて扉がゆっくり閉まっていく。幼い刹声にはあまりに大きいその背中は、一度もこちらを振り返りすらせずに見えなくなった。
しん、と。
何もかも消え失せた静寂だけが、部屋のすべてを支配していた。そのなかで、刹声はあまりにちっぽけだった。あの理不尽の手によってすぐにでも消え失せてしまうだろう、と確信するほどに。
夜がある。長い長い、明けるかすらもさだかでない夜が。そこで、ひとり震えている。
ふと。
そのしじまに、微かな足音が響いた。
『――せつ、な?』
久音だった。
『くおちゃん、体調は? 起きてて平気なの?』
『ん……。おかーさん、は……?』
『……出てった。もう、帰ってこない』
端的に告げる。どのような取り繕いもできようはずがない。純然たる事実として、自分たちは見捨てられたのだった。
『あたしたち、もうなんにもないよ』
ぺたぺた、久音は刹声のもとに近づいて来て。
『…………だい、じょぶ』
そっと、その隣に座り込んだ。ふわふわの尻尾が、刹声の腰に回された。
『くおが、いる。……だいじょぶ』
『……そう、だね。うん……そう……そうだよ』
その通りだ、と刹声は思った。ゆっくりと尻尾を撫でる。
久音がいるのだ。世界のすべてが自分たちを見捨てたのだとすれば、久音を守ることができるのは、もはや姉たる自分しかいない。
『大丈夫だよ、くおちゃん。くおちゃんは、絶対にあたしが守ってみせるから』
まだ頼りなく震える声で、それでも刹声はそう言った。久音の尾に触れる手が熱を帯びる。
この温もりを守っていこう。
そのために、そのためだけに生きていこう。
その瞬間、夜へと向かっているはずの薄暗い部屋の中へ、確かに光が差したのだ。
それをまだ、覚えている。
はっと。
暗闇のなか、刹声は目を覚ます。
ドクドクと心臓がうるさく鳴っている。お腹が痛い。夢だ、今のは夢でしかない、と心の中で何度も繰り返して、ぎゅっと腕の中の久音を抱きしめる。
「ん……んん…………」
久音は眠ったままだったが、まるで応えるように刹声のことを抱きしめ返してくれた。温かく柔らかい感触。素足を毛皮が撫でる。ゆっくりと、鼓動が落ち着きを取り戻していく。
今のは夢だ。……でも、ただの夢ではない。本当にあった過去の再現だった。
母親は、自分たちを置いて一人で逃げた。裏切ったのだ。だんだんと酷くなっていく暴力と暴言の中で、彼女たびたび『一緒に逃げよう』と言っていた。刹声と久音はまだ幼すぎるから、もう少し大きくなったら一緒に逃げ出そうと。まだ小さかった自分にとって、それは間違えようもない希望だったというのに。
実の親さえ裏切る。大人なんてひとつも信用できない。
ますます苛烈になっていく痛みと理不尽によって、久音は少しも笑わなくなった。見咎められるのを恐れるように、ほとんど表情を動かさなくなってしまった。
母親――だったひとへ自分が返した言葉を、刹声ははっきりと思い出す。
『××××』、確かにそう言ったのだ。あのたった四文字で、刹声の未来は、運命は、大きくかたちを変えたのだろう。それでも、後悔することはなかった。色濃い夜の迫る気配を一身に受けていたあの瞬間も、降りそそぐ暗闇のなかを歩きつづけたすべての道中でも。
だから、九重刹声が折れることはない。この腕の中に妹がいる限りは、絶対に。