すでに6月も下旬に入っていた。その頃になれば、円陣倍数定理の実験は終了し、論文の執筆に入っていた。
「データは和公式の論文から流用して、そこに追加する形を取れば、問題ないかなぁ……」
そんなことを考えながら論文を執筆する。
それと同時に、ある論文の構想も練っていた。
「ホイター定数の話、ちゃんと考えなきゃな……」
新世界暦ではジュールという概念になっている、熱容量の話をまとめることを考えていたのだ。
現在はジュールのような、熱に関する統一した基準は存在しないはずだ。ヌルベーイが勝手に熱の大きさを計算するくらいには。
だからこそ、ホイターの名を使って熱容量をまとめる必要がある。
「熱容量って何が必要だったっけ……?」
雨宮は論文執筆の合間の休憩時間を使って、熱に関する公式を思い出す。
まず熱容量の公式は、以下の通りである。
熱容量C[J/K]=質量m[kg]×比熱c[J/(kg・K)]
Jはジュール、Kはケルビン、kgはそのまま質量である。この式が表すものは、mkgの物体を1K上昇させるのに使う熱はCJであることだ。
ではホイターが発見したホイター定数はどうか? 雨宮の記憶では1kgの水を1℃上昇させるエネルギーを1カイロを定義していた。これはジュール換算で4184J/Kということである。
これを踏まえて、今必要なものは何かを考える。ジュールの考え方はかなり先進的すぎてこの時代でそのままお出しすることはできない。ならば歴史通りにカイロの定義で出すしかないだろう。
つまり、水1kgのカイロ比熱(造語)は1カイロ/kg・Kもしくは1カイロ/kg・℃であり、水の量とカイロ比熱と温度の三つを乗じることで熱容量のカイロを算出することができる。
「よし、こんなところか……」
情報を整理し終わった雨宮は、とりあえず試しに何か算出してみることにした。
というわけで、和公式と円陣倍数定理の論文で使用したデータに適用してみる。この二つで使用した水の量は500gほど。最初の温度はデータによって多少差があるが、概ね18℃であった。
先に実験した和公式の最初のデータを見てみる。実験開始時の温度は18℃で、実験終了時の温度は24℃。温度差は6℃だ。計算すれば、0.5kg×1カイロ/kg・℃×6℃なので3カイロとなる。
これを計算した雨宮は、少し考えて言葉を漏らした。
「熱の数値としては数字が小さいな……」
正直使いにくいようにも見える。しかし、最初は不便であっても、時間と人の労力が改良を重ねてくれるはずだ。
(おそらく、この時代でジュールのことを提案しても、全員が受け入れられるとは限らないだろうし……)
とにかく、概念だけでも提案していかなければ、今後の人類史の発展はないに等しいだろう。その礎となるのが、今の雨宮であるホイターの生きる理由だ。
「さて、このことも論文としてまとめちゃおう」
そういってまずは下書きを書く。その時、ふと雨宮はあることを思った。
「学会に提出する前に、誰かに読んでもらったほうが良くないか……?」
一人で考えるより、誰かに読んでもらった方が客観的な意見を得られやすい。当然の話だ。しかし、雨宮は一人でやらなければいけないという思い込みが存在していた。
今この段階で気づけたのは幸運だろう。
「とりあえず、この熱容量の論文はヌルベーイ先生に見てもらおう。あと、イリナには和公式と円陣倍数定理の論文を読んでもらうか……」
イリナは窓際にある小さな机で、いつものようにペンを走らせていた。
「イリナ、今ちょっといい?」
「ちょっと待ってて」
ノートに何かの走り書きをすると、イリナは席を立ってこちらに来る。
「どうかした?」
「学会に提出する前に、論文を読んでほしいなって思って。何かおかしな場所とかあれば、指摘してほしいんだ」
「いいわよ」
そういってホイターから論文を受け取り、その内容を読んでいく。
その間に、雨宮は熱容量の論文の下書きを仕上げようとペンを走らせる。
数十分もすれば、イリナは論文を読み終える。
「いいんじゃない? 私から指摘することは特にないわ」
「良かった。論文書き直す手間が省けた」
「気になったのは、すごい固い口調で書かれてるから、それは今後気を付けたほうがいいわね」
「了解。気を付ける。助かったよ」
「また私にできることがあったら言ってね」
そういってイリナは再び窓際の机に戻る。
「とりあえずこの論文を完成させなきゃな……」
ようやく数学者らしい一面が出てきて、雨宮は内心テンションが上がっている。
そうして一気に論文を仕上げるのだった。