――俺はとても悲しかったんだと思う。
いつもそうだった。元カレと歩いている彼女の後ろ姿を見たとき、俺はああそうかと。俺じゃ物足りなかったんだなと思ってしまった過去がある。
きっと俺は相手の気持ちを察する力が、感受性が強すぎたんだと思う。
だから彼女がいたとしても、相手の気持ちを察しすぎて、ああそうかと。俺はすぐに身を引くことが多かった。
俺はそんな浮気をした彼女を無様に責め立てることは一切せず、気配を完全に遮断して透明人間になることを選ぶ。そんな男だった。
オリビアさんが他の男に。メナンドールという明らかに良い男になびいているのを見たとき、俺はまた食らってしまった。
彼女はまだ俺の恋人というわけじゃない。そんなことはわかっている。むしろこういうことがあるということを痛いくらい解かっているからこそ、防衛線を引いていたんじゃないか。
それくらい慎重に慎重に関係を築いていくつもりだった。
だけど、やっぱり無理みたいだ。
だから俺は、この夜闇の虚無に融け込むことで安心を得ようとしている。
何にもない、空っぽの虚無。
気配を消して、息を殺して、まるで生きているのか死んでいるのかわからない存在になるのが一番生きる上では楽だと。透明人間になりたいと。
俺はそう願ったからこそここに立っているのだと、痛いほどわかってしまう。
雨粒がしとしと降り注いでいる。俺はただただ街頭に誰にも認識されないまま立ち尽くす。
まるで、俺など最初からここに存在しないかのように。
俺の涙など、最初からここにはなかったかのように。
……
気がついてみれば、俺は宿のベッドの上で見覚えのある天井のシミをただただ眺めていた。
俺はいつからここでこうしているのだろう。記憶が曖昧だ。
だが、どうやら帰巣本能らしきものは俺の中にまだ残っているらしい。
消えてしまいたいと願った世界から、別の世界に来てまで消えてしまいたいと願う自分。
それでもまだ、どうやら自分この世界で何かをしないと気が済まないらしい。
……とりあえずこの町を出よう。誰も俺のことを認識すらしていない場所に行こう。
そこではフードを目深に被り、今度こそ誰とも関わらず完璧な透明人間になろう。
俺の枯れ果てた目からはもはや涙など出ることはなかった。
「ハイド君!! 良かった、ここにいた……」
急に部屋のドアが開いて、俺の知らない女性が入ってきた。
俺は渇ききった何も見ていない虚ろな目をその他人に向ける。
「何やってるんですか! そんな酷い恰好で……。宿にも戻ってなくて、心配したんですから!」
その人はなぜか酷く泣いて俺を抱きしめてきた。
ふとペットのマメもベッドに横たわる俺の顔をペロペロと気遣うように舐めてきた。
なんだ? なぜ皆俺に優しくしようとする?
「喉が渇いた……」
気が付けば俺はガラガラの声でそんなことを呟いていた。