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#3−10:消費される命

✦✦✦ 《闇市場の淵源》 ✦✦✦


 魔界の闇は、ただの暗さじゃなかった。まるで濡れた獣が、そこに潜んでいるみたいにじっとりと息づいていた。


 セリアに手招きされ、Kは闇市場と呼ばれる場所に足を踏み込んだ。

 ――空気が、変わった。


 頭上には、崩れた骨のアーチが並び、鈍く光る魔石の灯がぶら下がっていた。

 赤黒い霧が足元を這い、市場全体が、まるで生き物のようにゆっくりと脈打っていた。


 冷たいだけじゃない。

 背中をなぞるような緊張が、皮膚の奥へじわじわと染み込んでくる。

 まるで、場所そのものが、生きているみたいだった。


 天井の代わりに、黒い靄がゆっくり渦を巻いていた。

 足元は……ぬるぬるした泥――いや、魔力の流れと言えるか。

 靴がズブリと沈むたび、嫌な感覚が足にまとわりついてくる。


 血と硫黄の臭気に、焦げた金属の匂いが混じる。


 どこからともなく、痛みに耐える呻き声が響く。

 見れば、召喚者らしき人間たちが装置に繋がれ、魔力を搾り取られていた。

 虚ろなその目は、とても“生きている”とは呼べなかった。


 Kは立ち止まった。

 泥のような魔力が、靴底にじとりと染みこむ。

 ヒタヒタとまとわりつく不快感――死体の上を裸足で歩いているようだった。


 目の前に広がるのは、ただの闇ではない。

 血で契約書に魔印を刻む魔族、舌を切られ、身振りだけで交渉を試みる者――。

 すべてが「利用する者」と「利用される者」に分かれていた。


「ここが魔王市場の裏側、か。闇の奥に広がる、利用される者たちの終着点」


 Kは足元の泥のような魔力を見下ろした。

 そこには、生気を吸い取られた召喚者の亡骸が沈んでいる。

 ここは、魔族の間でも“価値を生めなかった者”が最後に行き着く場所。


 Kは視線を上げる。薄暗い一角に、異形の樽がずらりと並んでいた。

 どの樽も、爪痕のような焼印が押され、濃い紫の管が幾本も突き刺さっている。

 管の先では、何か粘性のある液体が、ぽと……ぽと……と滴り落ちていた。

 その中には、僅かに動く人間の手足。


「樽人間」――この市場じゃ珍しくもない。

 中に詰められ、魔力だけ吸われて、残るのは皮と骨。

 魔族にとっちゃ人間なんて、最初から“使い切る袋”くらいの認識だ。


 “契約”の代償として、彼らは生きたまま樽に詰められた。あとは、朽ちるまで吸われるだけだ。

 内部には特殊な装置が仕込まれ、抽出が止まることはない。


 意識の残る者もいたが、叫んでも何も変わらない――それを知っている。だから、希望はない。


 空っぽなのに、なぜか目だけが動きそうだった。

 “命の形だけ”が、そこに置き去りにされているようだった。


「魔力を吸い尽くされた者はどうなる?」


 コレは……カブトガニの血液採取が人に変わって、吸い出すのが魔力。

 結局、世界が変わっても同じかもしれないな。


「破棄処分よ」


 セリアは表情一つ変えずに答える。


 Kは立ち止まり、黙って列を見下ろす。言葉にならない苛立ちが、胸の奥で膨らんでいた。

 ――資源。そう呼ぶなら、使い終われば捨てるだけってわけか。


 手厚くするのではなく、鉱物以下とはな……。

 前言撤回だなこれは。流石に、本来いた世界でもここまで酷くはない。そう信じたい。

 いくら採取しても心が傷まないって、いうわけか。


 セリアは小さくため息をつく。


「ここは市場の“澱”よ。誰にも拾われなかった命が、最後に沈む場所」

「価値を生めない者は“消費”される。ここで“救い”を口にする人なんて、最初からいないわ」


 セリアの声は、どこか冷ややかだった。


 Kは目を細めた。


「誰が、こんな地獄を“当然”にしたんだ……」


 気づけば、声が漏れていた。

 直後、遠くで肉の裂ける音が響く。

 Kが視線を上げると、ぼんやりと紫色の灯りが揺れていた。

 そこに存在するのは――。


「……あれが、闘技場か?」



✦✦✦ 《闘技場の試練》 ✦✦✦


「K、あれがこの市場の“もう一つの舞台”よ」


 セリアが示した先に、闇の中にぽっかりと口を開けた巨大な闘技場があった。

 外周は黒曜石のような素材で囲まれ、その上に牙の装飾が並んでいる。

 入り口から吹き出す熱風には、血と灰の匂いが混じっていた。


 異形の観客がぎっしりと詰め込まれ、熱狂的な叫びを上げている。

 どこかに人間の姿もあったが、彼らの目は濁り、ただ獣のような歓声を上げるだけの存在だった。


「こんな場所に……本当に意味なんて、あるのか?」


 Kは呟くように問う。


「……草レースよ。『価値なし』って判定された連中が、命で証明しろって、最後に押し出される場所」


 闘技場の中央では、一人の魔族が膝をついていた。

 対峙する相手は、全身が漆黒の鱗に覆われた巨大な獣人。


「終われぇッ!」


 誰かの声と同時に、獣人の腕が振り下ろされる。


 鈍い音とともに、魔族の首が宙を舞った。

 地面に落ちた首が、理解が追いつかないかのようにピクリと痙攣する。


「うおおおおお!」


 観客席が震えるほどの歓声が沸き上がる。

 誰も勝者の名など気にしない。

 ただ、死の無惨さだけが、歓声を煽る燃料だった。


 敗者の血が闘技場の土を赤黒く染める。

 司会役の魔族が口を開いた。


「勝てば生き残る。負けたら、素材として処理されるだけよ」


 その言葉とともに、魔法陣が発動。

 死体が淡い光に包まれると、次の瞬間――ただの肉塊に変わった。

 まるで、生きていた痕跡を消し去るかのように。


 Kは闘技場を見つめた。

 焼けた肉の臭いが、鼻の奥に張りついて、吐きそうだった。

 血と金属と……髪。……なんの匂いだよ、これ。もう、息をするのも気持ち悪い。


 あの臭いだけで、ここがどんな場所か全部わかる気がした。

 さらに、耳を打つような死を歓喜する声が響く。


 戦わなければ、生きてるって言えないのか。


 胸の奥が、ずっと冷たい。Kは、まだ納得なんてできなかった。


 その熱狂に呑まれまいと、Kはただ黙って、闘技場の中心を見つめ続けた。

 戦うだけで、“生きてる”ことになるのかよ……。

 クソみたいな市場のくせに、ルールだけはご立派だな。


 Kは息を詰めた。

 むせ返る狂気に、虚しさと……どうしようもない既視感が混じっていた。

 こんな場所が、なぜ存在する?

 染まる。自分が、変になりそうだ。


 Kは拳を握る。命で証明しろって? そんな場所で、いったい何を証明しろってんだ……。


「見てる暇あるなら、教えてくれ」


 Kが睨む。


「教えるの、退屈なのよ。見てたほうが面白いじゃない」


 Kは、セリアの呑気な姿を見て、大きくため息をついた。


「……どこで影を使うか。それを見誤れば、死ぬだけだ」


 そうつぶやいて、Kは足元の小石をひょいと拾い、影の中へと投げた。

 黒い靄の中に沈み、音もなく消える。


「影の中に取り込まれる……?」


 もう一度、小石を投げる。結果は同じだった。


 Kは影に手をかざす。あの感触――前にもあった。沈み込むのではなく、飲み込まれていくような……。


 指を動かすと、小石が瞬時に元の位置へと戻る。

 ならば、武器を仕込むことも可能だ。

 敵の死角から武器を出し、虚を突く――そういう戦い方もできる。


「影に潜めて……そうか。引き出そうと覗いたら向こう側から逆に覗かれていたというわけか。おっかねえな」


 Kは目を細め、わずかに笑った。


「いや、待てよ――。時間で変わることはないか確認が必要だな……」


 闇の中からただ、刃を出すだけ。次の瞬間には、もう遅い。


 次に、影の刃を形成する。

 黒い靄が螺旋を描き、鋭く尖る。

 ――ザクッ。


 ……刃だ。手応えが、ある。


 そのとき――。

 遠く、耳の奥に微かな声が響いた気がした。


〈……お母さん、元気かな……〉


 まただ。あの声。


 Kは目を閉じ、気のせいだと振り払おうとした。

 だが、影はまるで共鳴するように、わずかに震えた。


 影の微細な震えが……何かを思い出してるみたいだった。いや、違う。俺の方か?


 影は俺の“意志”に応える。

 なら、こいつは――俺の牙だ。


 「……共鳴してるのね。やっぱり」


 いつの間にか隣に来ていたセリアが、ぽつりと呟いた。


「でも……実際の試合では、一度も“見届けた”ことがないの」


 Kは眉をひそめた。セリアの言葉には、何か含みがある。


 セリアはそれ以上何も言わず、ただKの影をじっと見つめていた。


 試しに影を自身の首へ巻きつけた。

 ――スッ……キュッ。


 殺せる。だが、ためらいがある。


 バチンッ! 影が自動で解けた。


 殺しきるには、まだ何かが足りない。……怒り、か。


 Kは静かに息を吐いた。


 呼吸を整え、影を指で弾く。


 次の実験――影を細くし、ゆっくりと体内へ侵入させる。

 指先が痺れる。緻密な操作が必要だ。


 滑り込ませるだけでいい。心臓まで……いける。


 可能性を確認すると、Kは静かに拳を握った。


 終わらせるには、まだ足りない。


 ✦✦✦ 夜中のスープ ✦✦✦


 真夜中。Kは誰にも気づかれぬよう、机の上に置かれた皿に顔を近づけ、舌でスープをすくっていた。

 スプーンなどもう残っていない。けれど、丹念に、何度も何度も味わっていた。

 よほど美味いのか――あるいは、他に何もなかったのか。

 その姿を、セリアは陰からこっそり見つめていた。口元に、小さな笑みを浮かべながら。


「ねえ、美味しい?」


 Kの背中がピクリと跳ねた。そのままの姿勢で、顔だけを九十度傾け、セリアを見つめる。

 喉が鳴る。けれど、言葉はない。


 セリアはニヤリと笑い、静かに歩み寄る。テーブルの皿に視線を落とし、満足そうに目を細めた。


「そこにあったのね。……でも、砂時計なしはダメよ」

「次からは、ちゃんと許可を取りなさい」

「そうすれば、もっと美味しいのを作ってあげる」

「――ただし、私の見てる前でね」


 そう言うと、セリアは皿と、その上に載っていた布ごと、音も立てずに持ち去った。


 セリアは、口元に小さな笑みを浮かべたまま、皿とその上の布ごと、音も立てずに持ち去った。

 けれどその笑みの裏には、Kの反応を精密に観察する“冷たい意図”が潜んでいた。


 Kは、しばらくその手元を見つめていた。

 その瞳には、悔しさとも名残惜しさともつかない光が、わずかに残っていた。

 それでもKは、背を向ける彼女の足音を聞きながら、心のどこかで「救われた気がした」ことを認めたくなかった。


✦✦✦ 《契約の門へ》 ✦✦✦


「セリア」


 Kが名を呼ぶと、彼女は微笑んだ。


「決めた?」


 どこか試すようなセリアの声に、Kは目を伏せた。


 ……他に選べる道なんて、なかった。


 Kは軽く息を吐いた。確かに、疑問は残る。

 考えても、答えは変わらない。


「出る。勝つ……それ以外、考える意味がない」


 もう迷っている時間はなかった。考えるべきは、どうやって“勝つ”か――それだけだ。


 Kは、一切の迷いなく言い切った。


 セリアの唇がわずかに持ち上がる。


「さあ、“受付”はあっちよ。契約って、意外と味気ないのよ。書類と血判、はいおしまい」


 セリアは微笑んだ。目元は優しげだったが、その奥に差した影は、まるで底を見せまいとする意志そのものだった。

 まるでKの決断を、本気で試していたように。


「命の前に書類って……地獄までお役所仕事かよ。笑えねぇな」


 そういう世界か……。


「そう。すぐに戦わせるわけじゃないの。ルールがあるのよ、こっちにも」


 セリアが指差した先、闇市場の一角に小さな石造りの建物があった。

 建物の入り口には、巨大な鬼の顔が刻まれており、その口が開いている。

 牙には錆びついた血がこびりつき、瞳の部分には魂のような灯火が揺れていた。


 戦いに挑む者を、静かに呑み込む門だった。


 Kはその門を見上げる。喉の渇きは、一瞬で消した。


 ……この先で、俺に何を見せる気だ、クソが。

 喉の奥の乾きに舌打ちして、一歩、無理やり踏み出した。

 喧騒は、遠ざかるというより、耳の奥でしつこく響いていた。


 ――立ち止まった瞬間、すべてに呑まれる。


 地獄なんて、ここに比べりゃ演出過剰な見世物だ。

 本当の現実は、静かに、容赦なく潰してくる。


 この市場じゃ、立ち止まった命から喰われていく。……なら俺は、進むしかない。




✦✦✦




 【次回予告 by セリア】

「名を刻むって、ロマンかしら? ……でも、“血で書かされる名”って、ちょっと趣が違うのよね」


「契約とは、選択じゃなくて“命の預け先”。次回、《血契の刻印》、『血で刻む名』。

問われるのは“力”じゃない。“命を何に差し出すのか”、その意志の質よ」


「セリアの小言? そうね……戦う覚悟なんて、どこにでも転がってるわ。

でも、“自分の死に場所を選べる者”は、ほんの一握りなのよ」

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