✦✦✦ 《血の契約》 ✦✦✦
「登録か」
鬼の口の奥に座っていたのは、四本の腕を持つ痩せた魔族だった。
舌は乾いた皮膚を這うように動き、しゃべるたび、ぬめりとした音を立てた。
瞳には焦点がなく、何も映していないような、深い闇が広がっていた。
Kは静かに頷いた。
「草レースに出る。命張るあの地下闘技の……一番底、だろ?」
Kは視線を外し、カウンターの隅にこびりついた古い血の跡を見つめた。
……掃除って概念、ここにはなさそうだな。
魔族はKを見上げ、ニヤリと口角を持ち上げた。
「ん? ……お前どこかで、いや、まあいい気にするな」
「……ヒトが出るとは、珍しいな」
Kは一歩も引かずに返す。
「でも、俺が最初ってわけじゃない」
魔族の視線がKを舐めるように走る。
「三百年見てきたがな……ヒトは沈む。例外は指の数で足りる」
「そうだな……生きて出た奴? 指折っても余るな」
何かを思い起こそうとしているのか、顎に手を当て机に目をやる。
「ふむ……十年ほど前か。しぶといのが、二匹いたな」
Kは表情を変えずに聞く。
「つまり、確率はゼロじゃない。そうだろ?」
生き残った奴もいるってことだな。どんな奴か知らないが……。
魔族は、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。
「ほう……その自信、どこから湧く?」
「……俺は残る。理由? 死ぬ気はねえ。それだけだ」
――そう思ってるだけかもしれないけどな。
受付の魔族は肩をすくめ、ゆっくりとカウンターに羊皮紙を滑らせた。
「いいだろう。だが、草レースの掟に例外はない。『契約を交わした者は、死ぬか勝つかのどちらかだ』」
魔族が指を鳴らすと、羊皮紙がKの目の前に浮かび上がる。
「血で名を刻め。……それが、お前が命を懸ける“証”だ」
一呼吸を置く。
「僕は、妖精だよ?」
唐突に響いた声に、Kはわずかに眉を動かした。
カウンターの奥の帳の向こう、蝋燭の影から、ぬるりと姿を現したのは――あの神官だった。
「ふふ……妖精は見てるよぉ?」
ぬめるような質感の空気が、帳の奥から漏れ出した。
蝋燭の炎が一瞬だけ逆さに揺れ、まるで“影の中”から逆再生されたかのように、神官の姿が浮かび上がる。
神官の輪郭は闇の中で一度“解け”、粘液のように這いながら再構成されていく。
動き出したときには、服の裾も空気も揺れていない。ただ“そこに在る”だけだった。
足音はない。ただ、羽ばたく手だけが“生きて”いるように動いていた。
小太りの体に法衣をまとい、変わらぬひらひらとした手の動き。
顔の表情も、口元の笑みも、全て以前と同じだった。
「契約かあ。ほんと、よくやるよね――命、貸す気なんてないくせに。
でもまあ……潰れるときは潰れるんだし。せめて、笑って飛び散るくらいが可愛いじゃない?」
神官は指先を舐めながら、契約台の横に置かれた血判器具を撫で回す。
Kは答えず、視線を逸らした。
あの神官との距離感――記憶の霧が邪魔をしていた。
神官の目に、悪意も同情もない。ただ、記録をなぞるような事務的な光が宿っている。
「さ、次の魂、登録どうぞ。妖精は、平等に見守るからね……うふふ」
手を振る仕草も、どこか“壊れた人形”のようだった。
「でもさ……たまにいるんだよ。ルールの外に、落ちずに歩くヤツが。ふふ、変だよねぇ」
Kはその言葉に反応しかけて――やめた。
どこかで聞いたような口ぶりだったが、記憶に霞がかかっている。
……あの笑い、どこかで――いや、違う。
思い出せないことが、むしろ不自然だ。
神官は、Kの曖昧な記憶に針を刺すようにウィンクした。
まるで、すべてを知っているかのように。
「また、会えるといいね。……あ、いや、もう“会ってた”んだっけ?」
ニヤリと含み笑いをすると、見上げるように言った。
「妖精だからね。わかっちゃうのさ」
そう言って、いつものように手をひらひらと振る。
魔族は全く気にする素振りも見せなかった。
……まるで、その場に“何もない”かのように、完璧に無反応だった。
だがKには、蝋燭の炎が一瞬だけ揺れたように見えた。神官が現れた直後だった。
✦✦✦ 《契約の刻印》 ✦✦✦
Kは神官に視線を向けたまま、ゆっくりと目を細めた。
確かに知っている“気がする”。けれど、名前も、因縁も、記憶にはなかった。
傍から見れば、独り言に返事もせず黙りこむ奇妙な男にしか見えないはずだ。
Kは羊皮紙を見つめた。
ここで勝ち抜ければ……その先に、見えるかもしれない。
迷いはなかった。
指を噛み、滲み出た血を押し当てる。
――瞬間、契約が成立する。
羊皮紙が黒い光を放ち、Kの手の甲に刻印が浮かび上がった。
羊皮紙が黒く脈打った。
光の紋様がじわりと滲み出し、血管のような線がKの手へと這っていく。
皮膚の上を焼けた印が走り、思わず息を呑む。
焼ける痛みがじわりと広がり、赤黒い筋が皮膚の中で跳ねた。
まるで体内に針金を押し込まれてるみたいだ――だが、手は動かせない。
闇の光が天井の梁を歪ませ、羊皮紙の影がKの肩に“手”のように落ちた。
「……っ!?」
Kの手の甲には、焼けるような痛みが走る。
闇の空気が脈動し、視界が一瞬だけ歪んだ。
魔族は口角を持ち上げる。
「契約完了。お前は、もう戻れんぞ」
魔族は満足げに頷くと、カウンターの奥から“黒い首輪”を取り出し、Kへと差し出した。
「試合の間、この“魔力制限具”をつけろ。過度な魔法の使用を防ぐためのものだ」
Kは受け取り、それを首に装着する。
魔力は封じられても、影鬼の力まで封じられるわけじゃない――Kはそう確信していた。
だが、試してみなければ分からない。
魔族は満足げに笑い、闘技場への扉を開いた。
奴らにとっては“処刑場”のようなもの――Kはそう理解していた。
Kは無意識に、ひとつ後ろを振り返った。
神官の姿は、すでに帳の向こうに消えていた。
ただ、あの薄ら笑いだけが――耳の奥に残っていた。
✦✦✦ 《影の戦場》 ✦✦✦
Kは、控え室のような薄暗い待機場へと通された。
試合開始までは、短い準備時間が与えられるようだ。
影鬼の能力をどう使う? 影で拘束し、急所を突く。
それが最適解か? いや、違う。何か見落としている気がする。
もし相手が拘束を破る手段を持っていたら? 影を一撃で弾かれたら?
……確実に決める方法を考えろ。
Kは影を指でなぞり、動きを確かめた。
指先に追従するように、床の影が水墨画のように滲み、緩やかに形を変える。
光の当たり方で細くなったり太くなったりと脈を打ち、生き物のように呼吸していた。
Kが手を引くと、影はわずかに名残惜しそうに揺れて戻った。
影に沈める速度は――遅い。
ならば、一気に引きずり込むのではなく、意識を削りながら沈めるべきか。
迷いは切り捨てた。
拘束か、斬首か――決断の刃を心に浮かべる。
影の端を伸ばし、手首に絡ませる。
締める感触は、悪くない。ならば……。
Kは待機場の床を見下ろし、わずかに目を細めた。
影の濃淡――均一ではない。天井の明かりの位置、床材の凹凸、壁の質感……すべてが、影の流れを微かに歪ませている。
その光景は、まるで見えない風が床を這っているかのようだった。
一歩先の死角、凹みに落ちる闇の線、鎖の下に溜まった“濃さ”。
Kの目には、すでに戦場が“影の地図”として描かれていた。
右後方……こっちの影は“刺さる”。
鎖、ボルト、掲示板――戦場の一部になるものはすでにいくつか見つけていた。
Kは鎖に影を絡め、感触を確かめる。
絡めたときの重さ、引いたときの摩擦。それを確かめる。
影が曲がるなら、刺す。
光が濃ければ、潜む。
床が硬ければ、反響で囮に使える。
地形、道具、光――どんな些細な要素も、死線を越える武器になる。
力で勝つ気はない。勝つのは、“考えた者”だ。
Kは、もう一度影を指先で操り、床に這わせた。
“使える場”を、頭の中で地図のように描いていく。
仕掛けの配置は、イメージできた。……あとは、どこで、どう刺すかだ。
Kは影に力を込めながら、過去の失敗を思い出していた。
巨体の魔族相手に、かつてのような拘束が通じる保証はない。
――別の策がいる。
Kは拳をいつの間にか握っていた。指先にはじんわりと汗が滲む。
わずかに喉が渇く感覚。意識していなかったが、身体は確実に戦いに備えている。
ゆっくりと息を整えた。
……やるしかない。勝たなければ――ただ、それだけなんだ。
✦✦✦ 《殺意の設計》 ✦✦✦
Kは影を細く収束させ、そっと自分の首に巻いた。
――スッ……キュッ。
軽い圧迫。さらに力を込めれば、確実に息の根を止められる。
「よし、使える」
Kは小さく呟いたあと、再び影へと視線を落とす。
だが、影の中へ完全に沈めた場合は――どうなる?
影の中は、どこまで落とせる?
Kは小石を拾う。
影へと落す。
――ズルリ。
闇が石を飲み込む。
Kは影の流れを探りながら、慎重に指を動かした。
小石が沈む速度は――緩やかだ。
ならば、相手を沈める際も、急激に引きずり込むのではなく、
意識を削りながら沈めるのが得策か。
では、沈めた後の攻撃は?
首を締める、刃に変えて切る、圧縮して潰す――手は複数ある。
だが、確実なのは、“首だけ”を影の外に残して断ち切る。それなら仕留めきれる。
魔族の筋力なら、罠と見抜かれた時点で影を引きちぎられる。
Kはそう想定していた。
あるいは……俺が相手なら、影を利用して逆に攻撃するかもしれない。
影を囮にする策が必要か?
さらに、もう一つ。
影を体内に送り込む――理屈では可能だ。だが、気取られたら終わる。
最悪、影を逆利用される恐れもある。策は、二段構えにしておくべきだ。
Kは影を糸のように細め、床の小石にそっと伸ばした。
するりと、小石の隙間に入り込んでいく。
(侵入は可能)
ならば――。
口や鼻から影を流し込み、直接心臓を貫くこともできるはずだ。
……だが、それはまだ“検証されていない”。
影は臓器を溶かせるわけじゃない。壊すだけだ。
できるかもしれないが――やるには、時期尚早だ。
Kは指先の痺れを感じた。
……精度は限界。だが、通るかどうかなんて、知ったことか。
Kは息を吐き、影を指先から放った。
……ほんとに通るのか? わからない。でも――やるしかない。
手を離す。影がしなる。
……行け。俺の全部を、賭けて。
Kは短く息を吐いた。勝ち筋は、確かに“見えた”。
ベンチに置いた上着のポケットから、カサリと紙の音がした。
取り出してみると、飴の包み紙だった。いつのまに入れたんだっけな。
Kは飴を見つめた。どこか懐かしい、甘い香り。
過去の誰かの記憶と、今の“戦い”が、一瞬だけ重なる。
「……食っておきゃよかったな。ま、勝ったら、もう一個くらい食ってやるか」
無意識に、肩の力が抜けた。
ゆっくりと拳を握り、静かに闘技場の方向を見つめた。
「次なる命、名乗り出よ!」
場内に響く声とともに、観客たちが沸き立つ。
Kが静かに歩を進めると、観客席から罵声が飛んだ。
その直前、観客の喧騒が波のように押し寄せる中で、Kの影が、身を伏せる獣のように床に沈んでいた。
「おい、またヒトかよ。どうせ砂が赤く染まるだけだろ?」
「あの細腕で、何ができるってんだ。……楽しませてくれよ?」
「五呼吸もつかな? ――死に際だけは、面白く頼むぜ」
対峙するのは、巨躯の魔族。
対峙するのは、巨躯の魔族。
黒い鱗の隙間から、灰色の筋肉が浮き出ている。
鱗は煤けた鉄板のように硬く、ひび割れた隙間から、何かが這い出しそうだった。
灰色の筋肉が波打つたび、虫の群れのように皮膚がざわつく。
目は左右非対称に歪み、光の角度で色が変わる。赤から橙、橙から黒――まるで闘争そのものが視線に宿っていた。
爪は短剣のように鋭く、片方の腕には無造作に巻かれた鎖が光る。
その目が、じわりと赤く光った。
「ヒトか……ヒトの血って、どんな味だったっけな?」
相手の目は、Kを“狩りの獲物”として見ている。
だが、Kの視線は静かだった。
相手の力量は……体格から見ても、真正面からぶつかるのは無謀か。
影鬼の力を、どう使うか。
Kは足を半歩引き、影を踏みしめるように身構えた。
魔族が地を揺らすような声で叫ぶ。
「――ヤレ!」
合図とともに、魔族が動いた。
静寂が破られる。
牙を剥くのは、闇か、意志か。――Kの戦いが、始まる。
✦✦✦
【次回予告 by 妖精神官】
「うふふ……“勝った”と思ったんだね? それ、ちょっとだけ――惜しいなぁ」
「命を賭けた舞台、それは“価値の証明”じゃなくて、“選ばれるための踏み台”だよ。
次回、《影の共鳴》、『初陣』。
君の“意志”が動いたのか、それとも“影”が主を選んだのか――さて、どっちかな?」
「でもまあ、僕は見届けるだけさ。だって、妖精だからね。わかっちゃうのさ」