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#3−11:血で刻む名

✦✦✦ 《血の契約》 ✦✦✦


「登録か」


 鬼の口の奥に座っていたのは、四本の腕を持つ痩せた魔族だった。

 舌は乾いた皮膚を這うように動き、しゃべるたび、ぬめりとした音を立てた。

 瞳には焦点がなく、何も映していないような、深い闇が広がっていた。


 Kは静かに頷いた。


「草レースに出る。命張るあの地下闘技の……一番底、だろ?」


 Kは視線を外し、カウンターの隅にこびりついた古い血の跡を見つめた。

 ……掃除って概念、ここにはなさそうだな。


 魔族はKを見上げ、ニヤリと口角を持ち上げた。


「ん? ……お前どこかで、いや、まあいい気にするな」

「……ヒトが出るとは、珍しいな」


 Kは一歩も引かずに返す。


「でも、俺が最初ってわけじゃない」


 魔族の視線がKを舐めるように走る。


「三百年見てきたがな……ヒトは沈む。例外は指の数で足りる」


「そうだな……生きて出た奴? 指折っても余るな」


 何かを思い起こそうとしているのか、顎に手を当て机に目をやる。


「ふむ……十年ほど前か。しぶといのが、二匹いたな」


 Kは表情を変えずに聞く。


「つまり、確率はゼロじゃない。そうだろ?」


 生き残った奴もいるってことだな。どんな奴か知らないが……。


 魔族は、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。


「ほう……その自信、どこから湧く?」


「……俺は残る。理由? 死ぬ気はねえ。それだけだ」


 ――そう思ってるだけかもしれないけどな。


 受付の魔族は肩をすくめ、ゆっくりとカウンターに羊皮紙を滑らせた。


「いいだろう。だが、草レースの掟に例外はない。『契約を交わした者は、死ぬか勝つかのどちらかだ』」


 魔族が指を鳴らすと、羊皮紙がKの目の前に浮かび上がる。


「血で名を刻め。……それが、お前が命を懸ける“証”だ」


 一呼吸を置く。


「僕は、妖精だよ?」


 唐突に響いた声に、Kはわずかに眉を動かした。

 カウンターの奥の帳の向こう、蝋燭の影から、ぬるりと姿を現したのは――あの神官だった。


「ふふ……妖精は見てるよぉ?」


 ぬめるような質感の空気が、帳の奥から漏れ出した。

 蝋燭の炎が一瞬だけ逆さに揺れ、まるで“影の中”から逆再生されたかのように、神官の姿が浮かび上がる。


 神官の輪郭は闇の中で一度“解け”、粘液のように這いながら再構成されていく。

 動き出したときには、服の裾も空気も揺れていない。ただ“そこに在る”だけだった。


 足音はない。ただ、羽ばたく手だけが“生きて”いるように動いていた。


 小太りの体に法衣をまとい、変わらぬひらひらとした手の動き。

 顔の表情も、口元の笑みも、全て以前と同じだった。


「契約かあ。ほんと、よくやるよね――命、貸す気なんてないくせに。

でもまあ……潰れるときは潰れるんだし。せめて、笑って飛び散るくらいが可愛いじゃない?」


 神官は指先を舐めながら、契約台の横に置かれた血判器具を撫で回す。


 Kは答えず、視線を逸らした。

 あの神官との距離感――記憶の霧が邪魔をしていた。

 神官の目に、悪意も同情もない。ただ、記録をなぞるような事務的な光が宿っている。


「さ、次の魂、登録どうぞ。妖精は、平等に見守るからね……うふふ」


 手を振る仕草も、どこか“壊れた人形”のようだった。


「でもさ……たまにいるんだよ。ルールの外に、落ちずに歩くヤツが。ふふ、変だよねぇ」


 Kはその言葉に反応しかけて――やめた。

 どこかで聞いたような口ぶりだったが、記憶に霞がかかっている。


 ……あの笑い、どこかで――いや、違う。

 思い出せないことが、むしろ不自然だ。


 神官は、Kの曖昧な記憶に針を刺すようにウィンクした。

 まるで、すべてを知っているかのように。


「また、会えるといいね。……あ、いや、もう“会ってた”んだっけ?」


 ニヤリと含み笑いをすると、見上げるように言った。


「妖精だからね。わかっちゃうのさ」


 そう言って、いつものように手をひらひらと振る。

 魔族は全く気にする素振りも見せなかった。

 ……まるで、その場に“何もない”かのように、完璧に無反応だった。

 だがKには、蝋燭の炎が一瞬だけ揺れたように見えた。神官が現れた直後だった。



✦✦✦ 《契約の刻印》 ✦✦✦



 Kは神官に視線を向けたまま、ゆっくりと目を細めた。

 確かに知っている“気がする”。けれど、名前も、因縁も、記憶にはなかった。

 傍から見れば、独り言に返事もせず黙りこむ奇妙な男にしか見えないはずだ。


 Kは羊皮紙を見つめた。


 ここで勝ち抜ければ……その先に、見えるかもしれない。


 迷いはなかった。

 指を噛み、滲み出た血を押し当てる。


 ――瞬間、契約が成立する。


 羊皮紙が黒い光を放ち、Kの手の甲に刻印が浮かび上がった。


 羊皮紙が黒く脈打った。

 光の紋様がじわりと滲み出し、血管のような線がKの手へと這っていく。

 皮膚の上を焼けた印が走り、思わず息を呑む。


 焼ける痛みがじわりと広がり、赤黒い筋が皮膚の中で跳ねた。

 まるで体内に針金を押し込まれてるみたいだ――だが、手は動かせない。

 闇の光が天井の梁を歪ませ、羊皮紙の影がKの肩に“手”のように落ちた。


「……っ!?」


 Kの手の甲には、焼けるような痛みが走る。

 闇の空気が脈動し、視界が一瞬だけ歪んだ。

 魔族は口角を持ち上げる。


「契約完了。お前は、もう戻れんぞ」


 魔族は満足げに頷くと、カウンターの奥から“黒い首輪”を取り出し、Kへと差し出した。


「試合の間、この“魔力制限具”をつけろ。過度な魔法の使用を防ぐためのものだ」


 Kは受け取り、それを首に装着する。


 魔力は封じられても、影鬼の力まで封じられるわけじゃない――Kはそう確信していた。

 だが、試してみなければ分からない。


 魔族は満足げに笑い、闘技場への扉を開いた。

 奴らにとっては“処刑場”のようなもの――Kはそう理解していた。


 Kは無意識に、ひとつ後ろを振り返った。

 神官の姿は、すでに帳の向こうに消えていた。

 ただ、あの薄ら笑いだけが――耳の奥に残っていた。



✦✦✦ 《影の戦場》 ✦✦✦


 Kは、控え室のような薄暗い待機場へと通された。

 試合開始までは、短い準備時間が与えられるようだ。


 影鬼の能力をどう使う? 影で拘束し、急所を突く。

 それが最適解か? いや、違う。何か見落としている気がする。

 もし相手が拘束を破る手段を持っていたら? 影を一撃で弾かれたら?

 ……確実に決める方法を考えろ。


 Kは影を指でなぞり、動きを確かめた。


 指先に追従するように、床の影が水墨画のように滲み、緩やかに形を変える。

 光の当たり方で細くなったり太くなったりと脈を打ち、生き物のように呼吸していた。

 Kが手を引くと、影はわずかに名残惜しそうに揺れて戻った。


 影に沈める速度は――遅い。

 ならば、一気に引きずり込むのではなく、意識を削りながら沈めるべきか。


 迷いは切り捨てた。

 拘束か、斬首か――決断の刃を心に浮かべる。


 影の端を伸ばし、手首に絡ませる。

 締める感触は、悪くない。ならば……。


 Kは待機場の床を見下ろし、わずかに目を細めた。

 影の濃淡――均一ではない。天井の明かりの位置、床材の凹凸、壁の質感……すべてが、影の流れを微かに歪ませている。


 その光景は、まるで見えない風が床を這っているかのようだった。

 一歩先の死角、凹みに落ちる闇の線、鎖の下に溜まった“濃さ”。

 Kの目には、すでに戦場が“影の地図”として描かれていた。


 右後方……こっちの影は“刺さる”。


 鎖、ボルト、掲示板――戦場の一部になるものはすでにいくつか見つけていた。

 Kは鎖に影を絡め、感触を確かめる。

 絡めたときの重さ、引いたときの摩擦。それを確かめる。


 影が曲がるなら、刺す。

 光が濃ければ、潜む。

 床が硬ければ、反響で囮に使える。


 地形、道具、光――どんな些細な要素も、死線を越える武器になる。


 力で勝つ気はない。勝つのは、“考えた者”だ。


 Kは、もう一度影を指先で操り、床に這わせた。

 “使える場”を、頭の中で地図のように描いていく。


 仕掛けの配置は、イメージできた。……あとは、どこで、どう刺すかだ。


 Kは影に力を込めながら、過去の失敗を思い出していた。

 巨体の魔族相手に、かつてのような拘束が通じる保証はない。

 ――別の策がいる。


 Kは拳をいつの間にか握っていた。指先にはじんわりと汗が滲む。

 わずかに喉が渇く感覚。意識していなかったが、身体は確実に戦いに備えている。

 ゆっくりと息を整えた。


 ……やるしかない。勝たなければ――ただ、それだけなんだ。



✦✦✦ 《殺意の設計》 ✦✦✦


 Kは影を細く収束させ、そっと自分の首に巻いた。

 ――スッ……キュッ。

 軽い圧迫。さらに力を込めれば、確実に息の根を止められる。


「よし、使える」


 Kは小さく呟いたあと、再び影へと視線を落とす。

 だが、影の中へ完全に沈めた場合は――どうなる?


 影の中は、どこまで落とせる?


 Kは小石を拾う。

 影へと落す。


 ――ズルリ。


 闇が石を飲み込む。


 Kは影の流れを探りながら、慎重に指を動かした。


 小石が沈む速度は――緩やかだ。

 ならば、相手を沈める際も、急激に引きずり込むのではなく、

 意識を削りながら沈めるのが得策か。


 では、沈めた後の攻撃は?


 首を締める、刃に変えて切る、圧縮して潰す――手は複数ある。

 だが、確実なのは、“首だけ”を影の外に残して断ち切る。それなら仕留めきれる。


 魔族の筋力なら、罠と見抜かれた時点で影を引きちぎられる。

 Kはそう想定していた。


 あるいは……俺が相手なら、影を利用して逆に攻撃するかもしれない。

 影を囮にする策が必要か?


 さらに、もう一つ。


 影を体内に送り込む――理屈では可能だ。だが、気取られたら終わる。

 最悪、影を逆利用される恐れもある。策は、二段構えにしておくべきだ。


 Kは影を糸のように細め、床の小石にそっと伸ばした。

 するりと、小石の隙間に入り込んでいく。


(侵入は可能)


 ならば――。

 口や鼻から影を流し込み、直接心臓を貫くこともできるはずだ。

 ……だが、それはまだ“検証されていない”。

 影は臓器を溶かせるわけじゃない。壊すだけだ。

 できるかもしれないが――やるには、時期尚早だ。


 Kは指先の痺れを感じた。

 ……精度は限界。だが、通るかどうかなんて、知ったことか。


 Kは息を吐き、影を指先から放った。

 ……ほんとに通るのか? わからない。でも――やるしかない。

 手を離す。影がしなる。

 ……行け。俺の全部を、賭けて。


 Kは短く息を吐いた。勝ち筋は、確かに“見えた”。


 ベンチに置いた上着のポケットから、カサリと紙の音がした。

 取り出してみると、飴の包み紙だった。いつのまに入れたんだっけな。


 Kは飴を見つめた。どこか懐かしい、甘い香り。

 過去の誰かの記憶と、今の“戦い”が、一瞬だけ重なる。


「……食っておきゃよかったな。ま、勝ったら、もう一個くらい食ってやるか」


 無意識に、肩の力が抜けた。


 ゆっくりと拳を握り、静かに闘技場の方向を見つめた。


「次なる命、名乗り出よ!」


 場内に響く声とともに、観客たちが沸き立つ。


 Kが静かに歩を進めると、観客席から罵声が飛んだ。

 その直前、観客の喧騒が波のように押し寄せる中で、Kの影が、身を伏せる獣のように床に沈んでいた。


「おい、またヒトかよ。どうせ砂が赤く染まるだけだろ?」

「あの細腕で、何ができるってんだ。……楽しませてくれよ?」

「五呼吸もつかな? ――死に際だけは、面白く頼むぜ」


 対峙するのは、巨躯の魔族。


 対峙するのは、巨躯の魔族。

 黒い鱗の隙間から、灰色の筋肉が浮き出ている。


 鱗は煤けた鉄板のように硬く、ひび割れた隙間から、何かが這い出しそうだった。

 灰色の筋肉が波打つたび、虫の群れのように皮膚がざわつく。


 目は左右非対称に歪み、光の角度で色が変わる。赤から橙、橙から黒――まるで闘争そのものが視線に宿っていた。


 爪は短剣のように鋭く、片方の腕には無造作に巻かれた鎖が光る。

 その目が、じわりと赤く光った。


「ヒトか……ヒトの血って、どんな味だったっけな?」


 相手の目は、Kを“狩りの獲物”として見ている。

 だが、Kの視線は静かだった。


 相手の力量は……体格から見ても、真正面からぶつかるのは無謀か。


 影鬼の力を、どう使うか。

 Kは足を半歩引き、影を踏みしめるように身構えた。


 魔族が地を揺らすような声で叫ぶ。


 「――ヤレ!」


 合図とともに、魔族が動いた。


 静寂が破られる。

 牙を剥くのは、闇か、意志か。――Kの戦いが、始まる。




✦✦✦




 【次回予告 by 妖精神官】

「うふふ……“勝った”と思ったんだね? それ、ちょっとだけ――惜しいなぁ」


「命を賭けた舞台、それは“価値の証明”じゃなくて、“選ばれるための踏み台”だよ。

次回、《影の共鳴》、『初陣』。

君の“意志”が動いたのか、それとも“影”が主を選んだのか――さて、どっちかな?」


「でもまあ、僕は見届けるだけさ。だって、妖精だからね。わかっちゃうのさ」



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