✦✦✦ 《影の戦場》 ✦✦✦
――ゴッ!
大気を引き裂くような衝撃音。
魔族の巨体が疾駆する。
獣のような膂力が地を抉り、四肢が唸るように迫ってくる。
Kは動かない。
予想通り。最初は速度で押し潰しにくる。
観客席から歓声が沸き上がる。
「へへっ、ヒト様が突っ立ってやがる! ……って、あれ家畜区画の残りモンじゃねえの?」
「見ろよ、噛まれる前に泣くぞあれ! 家畜の方がまだ使えるぜ?」
「……反応速度、下位分類以下。脊椎の反射も遅れてる。標本価値は低いな」
「つーか、召喚モンでここに出すとか……どんだけ数余ってんだよ」
巨漢の魔族は、一直線にKへと跳びかかる。
肩の筋肉が盛り上がり、黒鱗の間から滲んだ魔力が火花のように吹き出す。
刃のような腕が振り下ろされる――その瞬間。
――ズルリ。
Kの影が、床に染み込むように消えた。
黒い波紋が床を這い、Kの輪郭が煙のように崩れながら、影の底へと溶け落ちていく。
爪が掠めた空間には、もう誰もいない。
嘲笑は止まり、どよめきが観客席を走る。
「……消えた? いや……影か、あれは……」
「否だ」
背後から、氷のような声が突き刺さる。
魔族が振り向くよりも早く、影が伸びる。
足元から黒い縄が絡みつき、拘束する。
「ッ……!」
魔族は咄嗟に腕を振るう。
影を振り払おうとするが、無駄だ。
Kは影に沈んだ。重心を観察する。単調な動き――力任せだ。狙うのは、脚。
「――動くな」
低く囁くと同時に、影の束が強く締まる。
魔族の膝が一瞬だけ沈んだ。
今だ――。
Kは影の中から跳び出し、懐へと滑り込む。
掌から放たれた影が、魔族の脚を締め付けたまま、一気に崩しにかかる。
「ぐっ……!」
巨体が僅かに傾ぐ。
次の瞬間、Kの足が鋭く跳ね上がる。
――ズバッ!
Kの影が鋭い刃へと姿を変え、迷いなく魔族の膝裏へと走る――。
その刃には、もう“ためらい”はなかった。
骨までは届かないが、これで立て直しは不可能。
「ぐああああっ!」
膝をついた魔族の顔が歪む。
Kは即座に距離を取る。
……わずかにズレた。でも、まだ修正できる。
✦✦✦ 《影の乱れ》 ✦✦✦
――ズルリ。
影が更に広がる。
魔族が痛みに耐え、咆哮する。
「オォォォイ……チビィィ! 喰い甲斐のねぇ筋肉だなあ! ガハッ、ガッ!
全身から魔力が爆ぜ、空気がねじれた。
だが、Kは冷静だった。
無駄な抵抗――そう思ったはずなのに、違和感だけが残った。
Kは一歩踏み出そうとした、その瞬間。
――ザッ!
影の動きがわずかに鈍った。
……何だ?
魔族の黒い鱗が、ごく僅かに光を反射していた。
Kはその違和感に即反応し、距離を取った。
影の軌道が逸れている。歪んでいる。
Kは息を止めた。制御しているはずの“影”が、ほんのわずかに、ズレている。
拳を握る指に力がこもる。影の異常は確かだが、原因は霧の中だった。
その違和感を言葉にする前に、魔族がニヤリと笑った。
その刹那――。
ゴウッ!
魔族が吠えると同時に、魔力が爆ぜた。
Kの影が一気に弾かれる。
「……チッ」
Kは影を引いた――が、再構築は一瞬、遅れた。
影が弾かれた……? いや、違う。魔力が拡がってる?
わずかに目を細め、足元を確認する。
その瞬間、魔族が跳躍した。
「遅い!」
Kは咄嗟に身を翻す。
爪が掠めた。熱い線が、頬を裂いた。……血だ。
Kはすぐに影を練り直し、跳ねるように距離を取る。
長期戦は不利……でも、まだ引けない。
わずかに呼吸を整えると、再び影を練り上げた。
「……刈り取る……ために、ある……はずだ」
声に出した瞬間、喉の奥にひっかかった。
まるで、自分の言葉じゃないみたいだった。
どちらかといえば刈り取り、だけどな。
Kは影を再構築し、一瞬で影の軌道を変える。
敵の足元に忍び寄った影が絡みついた――だが、魔族の魔力が流れを反発している。
抵抗……? 魔力で、干渉を?
魔族の目が見開かれる。
「――な、影が……裏返った!?」
まるで“影”が、自分の意思で主人を離れ、別の動きを選んだかのようだった。
黒い影が地を裂くように走り、魔族の首筋を狙って跳ね上がる。
血飛沫がまだ空気を切る前に――。
ズバッ!
魔族の首が宙を舞う。
咆哮は、途中で途切れ――空気だけが震えていた。
一呼吸、全てが止まった。
観客席は、凍りついたように静まり返る。
そして次の瞬間、爆発するような歓声が巻き起こった。
「……おい、今の……影が逆流してなかったか?」
「いや、違う……自分で動いた。あれ、あの影、意思があったぞ」
「ありえねぇ……普通、影の制御権って使い手に固定されてるだろ!?」
「影法術って、そういうもんじゃないのかよ……」
一部の観客は立ち上がり、息をのんだ。
誰も、次の言葉を探せなかった。
「あれ……影が、自分で動いた……?」
「……あれ、本当に“技”か? 呪術なんかじゃ、片づかねぇよ……」
「……黙れ。あれは“闇呑み”だ。名前を出せば呑まれる。言葉で触れるな」
隣の観客は、冗談にすら寒気を覚えた様子で目を細めていた。
ふと、手のひらに冷たい感触があった。
血か、それとも――何か別の“代償”か。Kには、判断がつかなかった。
……?
一瞬、拳を握り直し、血に濡れた影を静かに巻き戻す。
そしてKは、倒れ伏した魔族を見下ろし、ただ一言、呟いた。
「――次は、誰だ」
勝利の音が鳴らなかった。
心臓は激しく高鳴るのに、心の静寂だけが、罰のように胸に残った。
音が一つ消えたような沈黙。
誰も来なかったら――それは、ただの、処刑だった。
血の温度だけが、やけに現実味を帯びていた。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「名があるって、素敵なことよね。でも……数字になった瞬間、その価値は誰かの都合で上下する」
「戦いは終わっていないわ。むしろ、ここからが本番。次回、《名が消える音》、『価値の断罪:前編』。
ここでは、“勝者”ですら、価値がなければ切り捨てられるの」
「セリアの小言? そうね……。
この世界じゃ、“死”より怖いのは、“忘れられる”ことよ。存在ごと、市場から消されるのよ?」
「……勝っても価値がないなら、それはただの処分。
でも、あの人だけは――数字で終わらせたりしない」