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#3−13:名が消える音

✦✦✦《闇の観測者》 ✦✦✦


 ――歓声が遠ざかっていく。


 Kは、闘技場の出口へと歩を進めながら、背後の熱狂を振り返った。

 先ほどまで死闘が繰り広げられていた砂の上には、敗者の血が赤黒く染み込んでいる。


 死闘の痕跡が、まだ砂の粒一つひとつに焼き付いているかのようだった。

 赤黒く染まった地面からは、まだ鉄のような匂いと、熱のこもった蒸気が立ち上っている。

 折れた武器の破片がいくつか、血の中に沈んでいた。


 観客たちはまだ興奮の渦の中にあり、次の戦いに向けて金と欲望を渦巻かせていた。


 Kは、自らの手を見下ろす。


 ……生き残った。ただ、それだけ。掌の血は重いのに、勝利はこんなにも軽い。

 命を奪って生き残った。それだけだった。


 目の前の「勝利」は、たまたま得られた命の継続に過ぎない。

 重い匂いが、まだ背後に残っている。


 誰かの命を奪って得た「勝利」は、ただの通過点にすぎなかった。

 勝った者が生きて、負けた者は……消える。それだけの場所なんだ。


「K、次の戦場に行くわよ」


 振り向くと、セリアが微笑みながら立っていた。


「……これで終わりか?」


 セリアは微笑んだだけで、すぐには答えなかった。

 数秒の沈黙が、Kの胸をざわつかせる。


「終わり? ふふ、それならあなたは甘いわね。……草レースなんて、ただの準備運動よ」


 その言葉とともに、彼女の指先が静かに市場の奥を示す。


 セリアの指先が、霧の向こうに光の列をなぞる。

 その先に広がっていたのは、観客の熱狂とは異質なざわめきと、浮遊する数字の光。


 Kの視界が、音もなく“開けた”。


 視界の奥行きが突然広がり、眼前には幾重にも交差する階層構造が出現した。

 宙を縫うように伸びる光の吊橋、上下を流れる浮遊歩道。

 その間には魔導回路のように絡みついた発光線が走り、都市そのものが脈打っているようだった。


 遥か上空では、光のスクリーン群が放射状に広がり、巨大な魔王像がデータの束と共に映し出されている。

 まるで神の審判を受けるかのように、魔王たちの名がその中央に掲げられていた。


 ――これこそが魔王市場。 《魔王取引所(Demonic Exchange)》その入口だった。

 ここでは、“名”が数値に変わり、評価がすべてを決める。


 「行きましょ。ここからが、本当の“戦場”よ」


 セリアの声に押されるように、Kは足を踏み出した。



 ――数字の光。その下で、影が囁く。


 Kは、薄い霧の中に差し込む光を見上げた。

 宙に浮かぶ魔導スクリーンには、魔王たちの名と揺れる数字――《魔株価》が並ぶ。

 それは“名の値段”を示す、非情な数字だった。


 その数字は単なる点数ではない。

 魔王が持つ軍事力、支配領域、魔力供給、投資家からの信用……。

 それらすべてを統合して“今のその魔王が、どれほど支配に値するか”を示す指標。


 数字が上がれば、力が集まる。

 下がれば、配下が逃げ、投資も尽き、やがて――名が消える。


 Kは、ここが単なる“戦果の掲示板”ではないことに気づいていた。

 そこでは、剣でも言葉でもなく、売買された価値が命を量る。

 まるで、“価値”だけを選り分ける計量器のようだった。


 評価スコアは、戦果や信用を数字に変えた“成績表”だ。生き延びる価値が、数値化される。


 Kは、浮かび上がるグラフを見つめた。

 魔王としての存在は、数字一つで天から地へと転がる。

 評価が落ちた者に、もう“名”は残らない――この市場では、それが当たり前だった。


 だが、それだけではない。


 スクリーンの下では、黒衣のブローカーたちが、音もなく交渉を交わしていた。

 その仕草は、どこか……儀式のように見えた。


 彼らの手元には、血で契約された書類、折られた魔王の角、そして……魔族の指輪――その者を“所有”していた証だった。


「……ゼグラント、そろそろ終わりかね?」

「いや、意図的な損失操作かもしれんぞ。あの男は何手も先を読んでいる」

「アステリウスの支配領域がまた縮小したな。……あのままいけば、売却話が本格化する」


 Kは思わず呟いた。


「……ただ、その程度の理屈で、命を削るのかよ」


 ひとりごちたKの背を、冷たいものが撫でていった。

 ただ見上げるだけで、寒気が走る――この場所は、それほどまでに非情だった。


 あれだけの力を持つ魔王でさえ、ただの使い捨て……。

 この市場では、力すら保証にならないのか。


「この市場は、まさに“狩場”よ」


 隣で微笑むセリアの声には、氷のような冷ややかさが滲んでいた。


「ここじゃ、勝った者だけがすべてを手に入れる。

……でも、負けた者はね――名前すら、残らないこともあるの」


 セリアは一呼吸置いて、少しだけ笑みを深めた。


「ま、逆に言えば“負けても名が残る”なら、それだけでも才能ってことね。……皮肉だけど、案外そういう奴が生き残るのよ」


 セリアはふと視線を外し、商人たちのやり取りを眺めた。


「ねえ、皮肉だと思わない? “価値を決める側”だった連中が、今は“値札をつけられる側”になってるなんて」


 複数の投資家やさまざまな思惑を持つ人らで溢れるこの場で、髭面の中年の男性魔族の低い声が妙に耳に響いた。


「……“王の退場”ってやつか。思ったより、静かだな」


 隣のブローカーが、冗談のように息を吐いた。

 Kは片目をわずかながら細めた。

 この空間では、命の価値すら“冗談”になる――そんな現実に、背筋がわずかに震えた。


 その瞬間、スクリーンの数字が一つ、大きく下がった。


「ほら、一人落ちた」


 セリアが指差した先――そこには、血の契約書が音もなく燃え尽きる。

 スクリーンの一角では、名前の文字がゆらぎ、ひび割れ、ノイズのように崩れて消えた。


 魔導スクリーンの数字がゼロに近づくと、名はひときわ明滅し――やがて、値札のように剥がれ落ちた。


 投資家たちは、手にしていた魔導証――魔王の名が記された札を、無言のまま破り捨てた。

 無数の断片が宙を舞い、魔素の残滓を帯びながら、紙吹雪のように地面へと降り積もる。


 光景を見たKの頭に、声が落ちた。


「……終わったな」


 頭が一瞬、冴える。全身が一気にくる。

 ヘラヘラ笑っている奴らの目が、茹で卵を割った黄身にしか見えね。

 口はやたら鋭利に吊り上がる様は、インク差しを突っ込んで膝蹴りを喰らわせたくなる。


 冗談じゃねぇぞ。紙吹雪ですら舞い終えればゴミになる。こいつらはゴミにすらならねえ。

 生きた生ゴミはいつ出すんだ?

 家畜は愛を持って育てりゃ、ぶくぶく太らせられるけどな。

 こいつらは違う。ケツの穴が開きっぱなしで、垂れ流し野郎どもだ。


 ……俺が叫んでも、この紙吹雪は止まらない。……クソが。


 数秒前までそこに存在していた“誰か”の証は、いまや一片も残らない。

 名前が消える音。それは、ただの静寂だった。


 その瞬間、ひとつの魔王の存在が――この世界から音もなく切り落とされる。


 Kはスクリーンを見上げ、数字の変動をじっくりと観察した。


 ここは、戦場以上に非情な場所だ。


 Kはもう一度、スクリーンに浮かぶ数字の変動を見つめた。


 名を刻むには、勝利だけじゃ足りない。

 ……数字を読む目。価値の変動を見抜く力。

 “誰が落ちるか”じゃない――“誰が落とされるか”。

 それを見極められなければ、この市場では生き残れない。



✦✦✦ 《影に潜む手》 ✦✦✦


 スクリーンに映る魔王たちの価値。

 その数字の上下は、剣戟ではなく、金と策略によって決まる。


「ゼグラントの支配領域は圧倒的だが……」


 Kは目を細める。


 成長が止まりつつある。上に固執してる奴は、下を見ない。……変わる気なんか、ないんだ。


 Kはまず鉱山争奪戦の結果を確認し、その後ゼグラントの市場価値の変動を分析した。


「2%も落ちてるのに……誰も動かない? 投資家たちは……何を待ってる?」

「ゼグラントは……この沈黙の中で、次を狙ってる?

あの北の鉱山――負けたことに、どんな意味を持たせる気だ……?」


 “市場価値”――それは支配力、魔力、信用すべてをひとつに束ねた数値。

 魔界ではこの評価が“魔晶”に換算される。

 魔晶とは、魔力そのもの――通貨であり、力の証だ。

 たとえば、どれだけの“魔導塔”を建てられるか――そんな具体的な形に置き換えられるのだ。


 Kはそのデータを眺めながら思索を巡らせる。


 だが、これはただの失敗とは思えない。


 彼はデータの中に“不自然な流れ”を見つけていた。


 争奪戦に敗れたとされる鉱山を調べてみると、

 その背後にゼグラントと密接な繋がりを持つ人物がいる……。


 Kは、かすかに目を細めた。気づかれない程度に、しかし確かに。


 Kはデータの動きを追った。違和感がある。

 いや、もしかすると――。


「……出来レース、か?」


 Kは息を止める。

 だが、心の奥で別の可能性がささやいていた――これは、もっと深い“仕掛け”かもしれない。


 ゼグラントは、あえて負けて“損したふり”を?

 狙いは――裏で価値を吊り上げること……?


 場は“手に入らなかったもの”に、金を流す。

 これで鉱山への投資意欲を煽り、資金の流れを活性化させる気か……。


 Kは小さく息をついた。


 見事な誘導戦術だ。

 単なる市場操作ではなく、心理戦の一環……。


 セリアが、素材でも見るような目で微笑んだ。

 その冷たさを、Kは一瞬読みかけて――わざと、目を逸らした。

 ……今は、その視線に触れたくなかった。


「ゼグラントの戦略に気づいたのね」


 Kは頷いた。


「勝ちゃいいってもんじゃねえのかよ……ったく、負けまでネタにしてやがる……」


 だが、その感情に追い打ちをかけるように、過去の記憶が蘇る。


 今こうしている間にも、クラスメイトたちは搾取され、実験され、苦痛を味わっている。


 Kは、無意識に拳を握っていた。指先にじんわりと汗が滲む。


 目的は、“勝ち進む”ことじゃない。

 影鬼を使い、情報と金を掴む――それが突破口になるかもしれない。


 草レースで結果を出しながら、影鬼を分散配置し、情報を集める。


 Kは、ちらりとセリアを見ると、眉間に皺を寄せた。

 ――戦場でも、補給線が断たれれば軍は崩れる。金の流れも同じだろう。

 勝者の背後には、必ず金の後押しがあった。……なら、その尻尾を掴めば、こっちの手番ってわけだ。


「この市場……金は、どこから湧いてくるんだ?」


 セリアは、少しだけ目を細めて微笑んだ。


「いい目ね。それを知りたがる時点で、あなたはもう“戦場の外”を見ているわ」




 次の瞬間、彼の思考は、冷酷な現実へと舞い戻っていた――魔導スクリーンの数字に。


 勝利の裏で、情報を拾う。……それが、次の布石になる。


 影鬼を動かし、情報を集める……それが最善策のはずだった。


 Kは、腰の影にそっと指を滑らせた。


 一体、影鬼が闇の中に溶けるようにして消えていく。


 Kが指を滑らせた瞬間、腰元の影がにわかに蠢いた。

 光を拒むように波打ち、影の輪郭が一瞬、生き物のように歪む。

 次の瞬間、影鬼は黒い霧となり、空間の継ぎ目へと溶け込んでいった。

 何の音も残さず――だが確かに、“誰かの背後”へと這い出していく。



「探れ。金の動き、人の視線、誰が誰を見てるか――全部だ」


 命令は短く、鋭い。


 草レースの勝者で終わる気はない。市場を読む目が、次の戦場を拓く。



 けれど胸の奥には、不安がずっと残っている。


 Kは、心の奥で問いを飲み込んだ。まわり道が、あの光景に届くのか――確信はなかった。


 その答えは……まだ、霧の中だった。

 でも、止まるわけにはいかなかった。疑念が背中を引いても、

 霧の向こうに答えがあるのなら、進むしかない。いまはまだ、立ち止まる理由もないのだから。




✦✦✦




 【次回予告 by セリア】

「名があるから生きていける? いいえ、違うわ。“価値”があるから名が残るの」


「次回、《名が消える音》――幕間:価値に沈む名」


「力ではなく、信頼。勝利ではなく、数値。

この市場では、“見られているかどうか”が、生き残りの条件なのよ」


「……ただの戦士に過ぎなかった彼が、“存在者”になるか――それは、“誰かが信じるか”に懸かってるの」


「でもね。信じられる価値って、“見せられる者”しか持てないのよ。

彼に、それがあるのかしら?」

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