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#4−1:影を喰らうもの

✦✦✦ 《影鬼の任務》 ✦✦✦


 ――魔界の闇市場、その最も深い影の中。


 初めて受けた依頼は、闇市場からだ。

 Kは、薄暗い路地裏に身を潜め、闇から溢れる光を睨む。


 遠くから響く獣の咆哮が、魔界の夜に沈んでいく。

 酒場の扉が軋む音がした。


 鉄錆のような血の匂いがふと鼻をつく。

 腐肉と酒が混じった重たい空気が、喉にまとわりついてきた。


 目の前には、一軒の酒場。

 標的は、その中にいる。


 ここは、魔界のスラム街にある地下の“闇市場”。

 ここは“正規の魔王市場”から漏れた取引の吹きだまり――いわば裏市場。

 傭兵や奴隷、禁じられた魔術や密輸品までが、日常的に売買されている。


「今回の標的は、裏魔王レースの“草レース”に関与する商人よ。……例の、評価されなかった者たちが命を懸ける舞台」


 セリアは、まるで近所へ買い物に来たかのように、リラックスした様子でKの隣に立っていた。


「彼は、実際に持っていない領地を“貸し出す”詐欺を繰り返していたの。

でも、その手口が正規の市場にバレて……今は“消される”対象よ」


 Kは、じっと酒場の中を見つめる。


 つまり、“邪魔者”を始末する仕事か。


 彼にとって、これは初めての暗殺ミッションだった。

 だが、問題はそこではない。


 ――今回は、影鬼を使った任務なのだ。


 Kは、静かに影を操る。

 自分の足元から、黒い影が滑るように広がった。


 影が蠢き、そこから影鬼が生まれる。


 墨汁のように、影鬼がKの足元にじわりと広がる。


 黒が広がった。ただの暗さじゃない――何かが、滲んでくる。

 墨みたいだ、いや、それより……もっと質が悪い。

 空間が、ひしゃげたみたいにぐにゃりと曲がった。Kは思わず足元を見た。歪んでる?

 ――視界の端が、やけに柔らかく見えた。


 空気がひやりと冷たくなり、影の蠢く音が耳を打った。


 黒い霧がねじれ、じわりと人の形に近づく。

 輪郭……ぼやけてる。顔? ……ない。いや、そもそも、そんなもん必要か?

 ただ俺の意志に従えばいい……それだけだ。



 ……行け。


 Kは、影鬼に指示を出す。


 影鬼は、すぐに床の影へと沈み込んだ。

 次の瞬間――影の中を滑るように移動し、酒場の奥へと忍び込んでいく。


 Kの意識に、影鬼の視界が入り込んでくる。

 薄い霧のような像が脳裏に浮かび、酒場の内部の様子が映し出された。


 影鬼の視界が奥の個室を捉える。

 標的が、誰かと密談を交わしているのが映った。


「……おい、最近の取引は危険すぎる」


「いや、大丈夫だ。正規の市場にも顔が利くヤツがいる」


「信用できるのか?」


 Kは、標的の姿を影鬼の視界で確認する。


 ……ヤレ。


 影鬼は、床の影から音もなく浮かび上がる。

 背後から標的へ――影は刃に変わり、静かに狙いを定めた。


 影は細く尖った線へと変化し、まるで冷気をまとったナイフのように光を吸い込む。

 酒場の灯りが、その刃の周囲だけ微かにゆがみ、温度が一瞬だけ下がったように感じられた。


 湿った肉を割く音と共に、鋭い影が標的の喉を裂いた。

 ゴボッ――。


 熱い血が飛び散る。焦げたような、鉄の匂い。――鼻を刺す。喉の奥に、残る。

 標的は、喉を押さえる間もなく、椅子ごと崩れ落ちた。

 鈍い音が響く。


 ……終わった。いや、終わった"はず"だ。だけど、なんだ……この違和感は。


 Kは、影鬼の動きを見届けて……任務は、終わった、そう思いたかった。けれど、何かが引っかかる。

 だが――その瞬間、異変が起こった。


 Kは、標的が倒れた後、すぐに影鬼を戻そうとした。


 戻れ――。


 しかし、影鬼は動かなかった。


 ……?


 影鬼は、標的の影にそっと指を触れた。

 波紋のように影が揺れる。その動きは、どこか探るようだった。


 その指先が影に触れた瞬間、まるで水面に石を落としたように、ゆるやかに揺らめく波紋が広がった。

 だが、水ではない――空気そのものがうねり、場の重力がわずかに歪むような感覚が、Kの背筋を冷たく撫でた。


 スゥ……。


 影鬼は、指先で影の感触を確かめるように、何かを探しているかのようだった。

 その動きは、何かを理解しようとするようにも見えた。


 「……その動き、やめて。……私まで、飲まれそうになる」セリアが小さく呟いた。


 まるで、赤ん坊が初めて物を掴み、確かめるような仕草だった。


 Kは眉をひそめた。影鬼の指先が影をなぞっている――まるで何かを探るように。

 ……なぜ触れている? 何を見てる?


 Kは違和感を覚えた。


 何も聞こえない。いや、音はしている。

 けど、意味がない。空気が、息を止めているようだった。


 影鬼の輪郭が微かに揺れる。

 だが、何かを取り込む様子はない。

 影を弄んでいるのか、それとも、ただ興味を持っているだけなのか……。


 Kは、言葉にならない違和感を抱えたまま、影鬼を見つめた。ただ、見ているしかなかった。


 俺の命令を無視する……? なぜだ?


 彼は冷静さを保とうと努めたが、胸中では制御を失う恐怖が渦巻いていた。


 影鬼がこのまま制御不能になったら……それは、単なる失敗では済まない。


 Kは、息を呑む。


「……命令、聞いてない……?」


 ……たった一言だったのに。

 言葉がわからないのか? それとも、わかってて無視してる……?

 ……何なんだ、お前は……。



✦✦✦ 《自我の目覚め》 ✦✦✦


「影鬼がただの武器だと思ってた? ……なら、そろそろ考え直したほうがいいわよ」


 セリアは、Kの肩越しに低く囁いた。


「あなたの命令には従う。でも、時々……そうじゃないこともあるわ」


「影鬼は、あなたの影……ううん、たぶん、もっと近い。……あなた、そのもの、かもね」

 「……いや、違うか。ごめん、ちょっと変なこと言ったわね」


 Kは、セリアの言葉を聞きながら、影鬼を見つめる。


 俺の……影?


 影鬼は、標的の影を指先でなぞりながら、

 まるで飢えた獣が餌にむしゃぶりつくように影を喰らい始めた。


 ……その影を喰らう動きは、単なる捕食ではなかった。

 やがて影鬼の輪郭が微かに“呼吸”するように膨らみ、Kの姿を模した腕が、ふっと伸びる。

 ほんの一瞬、それはKの構えとそっくり同じ動きをしていた。


 なぜ影を喰らう……?


 ……何をしている? Kは思った。いや、考えずにはいられなかった。


 影を喰らうことで力を得ているのか? それとも、単に本能的な行動か……。


 彼の視線は影鬼に釘付けになる。


 影を喰らって……進化、する? もし、そうだとしたら。これは、もう……ただの道具じゃ、ない。


 Kの胸に不安が湧き上がる。これが本当に自分の意志で動く存在なのか?

 その疑念が、背筋を冷たく撫でた。


  ……だが、もし今止めたら、影鬼は“進化”の何かを掴みかけていた手を離すかもしれない。

 支配するか、委ねるか。Kは、ほんの一瞬だけ、迷った。


 Kは、もう一度、強い意志で制止の命令を出す。


 戻れ――!


 その瞬間、影鬼は動きを止めた。


 命令には――一応、従った。

 ゆっくりと、Kの足元の影へと戻っていく。


 酒場の個室には、すでに息絶えた標的の遺体だけが残っていた。


 Kは、静かに息を吐いた。


 ……今のは、何だった?


 Kは、影鬼の本質に疑問を抱き始めていた。


「……影鬼は、何なんだ?」


 彼は、静かにセリアに問いかける。

 セリアは、わずかに肩を揺らして答えた。


「あんたの影よ。でも、ただの従者だと思ってるなら、浅いわね」

「……こっちが気づかないうちに、もう勝手に動いてるのよ。無意識って、ほんと厄介」


 セリアの視線が、Kの影にすっと落ちる。場に沈黙が落ちた。


「……いい? “自我”が芽生える可能性があるのよ。あなたの中の影」


 セリアは、わずかに口元を緩めた。


「でも、全部が脅威ってわけじゃないんじゃない? ……扱い方さえ間違えなければ、影鬼は――信じられないくらいの力になるはずよ」


 彼女の言葉には、単なる警告だけでなく、期待の色が含まれていた。


 もし影鬼の力を完全に支配できたなら……それはどれほどのアドバンテージになるのか。


 セリアの声には、ただの警告だけでなく、どこかKへの期待を含んだ響きがあった。

 Kは、その言葉を聞いて驚いた。


 自我……?


「……道具のつもりだった。でも……最初から、生き物だったのか?」


 この先の可能性は、もしや……いや、まさか。


「その通りよ」


 Kは言葉を失い、ほんの一瞬、沈黙が場を包んだ。


「ずっと使い続けたら……いつか、あなたの影に、自分の意志が芽生えるかもしれない。そういうことよ」


 Kは、拳を握る。


 影鬼が、制御を離れたら――。

 Kは喉奥が冷えるのを感じた。

 自分の影が、自分を襲う日が来るのかもしれない。

 いや、そんな……でも――。


 Kは、初めて影鬼の“危険性”を意識した。



✦✦✦ 《境界としての影》 ✦✦✦


 Kは、自分の足元を見た。――まだいる。

 黒い、それは……まるで寝てるみたいだった。何もなかったみたいな顔して。


 だが――。


 ……戦力? 違う。もう、そんな単純なもんじゃない。あれは……俺の影。

 ……いや、違う、もっと……俺の、何だ……?


 ……この“意志”を宿す影を、使いこなせるようにならなければならない。

 けど、もし制御を失ったら――いや、それはもう、敵以上の“何か”になるかもしれない。


 影鬼の使い方を、もっと深く知っておく必要がある。そう思った瞬間、足元の影が、わずかに揺れた。


 にじむように歪んだ空気の中から、また、あの女が現れる。



 今度は……また、透けていた。


 軍服のデザインは精緻で、ボタンも階級章も完璧だ。

 だがその生地は、あまりにも透明だった。


 中に何も着ていない。着ているのに、着ていない。

 Kは咄嗟に目を逸らした。


「K様、安心してください。今回は正式仕様の“解析用素材軍服”です。完全に戦場仕様ですので……性能は折り紙付きです」


 自信満々に胸を張るユリエルの笑顔は、完璧な軍師のそれだった。

 だが彼女はそのまま、すっとKの元に近づくと、わずかに身を乗り出す。


「……この軍服、ほら、K様の“匂い”が……ちゃんと、届くようにできてるんです。

視えるとか見えないとか、そういうのは二の次で……一番大事なのは、“感じ取れる”こと、ですから」

「深い森の奥で朝日を浴びて……ふぅって、息を吸うときと、町の中で吸う空気。

……違いますよね? ね? ……あれぐらい、違うんです。……ふふ、やっぱり、わかりづらいですか?」


 そう言って、彼女はKの立っていた床の空気をふわりと吸い込んだ。


「……今日の香りは、いつにも増して鋭くて、凛々しい……」


 Kのこめかみがぴくりと跳ねた。息を吸い込まれた感覚が、なぜか妙に生々しく残った。


 ……逆に、厄介だ。


 Kは無言で顔を戻し、目線を上へ逃がした。

 彼女の顔だけを見ていると確かに理知的で落ち着いている――が、

 どうしても視界の端に透明な曲線がちらつく。


 ユリエルはにこやかに続けた。


「視えるでしょ? でもこれ、ちゃんと“戦場用”なんです。体温も、魔力の放熱も……K様に、ちゃんと感じてもらえるようにって、設計されてますから」


 「……おい」


 思わずKが言葉を漏らす。


「これは“着てない”んじゃなくて……視えてるだけ、なんです。“布”かどうかなんて、大事じゃないですよ」

「それに……」


 彼女はふっと微笑み、胸元を軽く撫でた。


 「このあたりにまだ、K様の前回の魔力の……ああ……この“残香”に、K様の神性が宿っている……」


 満面の笑みで理論武装を展開するユリエル。

 Kのこめかみに、うっすらと脈が浮かんだ。


「二回目で修正したと思ったら……これはなんだ」


「ええ、前回は“妥協”でした。でも今回は、“K様の観測任務”に全力を尽くすために、最適解を選びました」


 「つまり、また透けさせてきたってことだろ」


「“また”じゃありません。“これが、本来あるべき姿”なんです。K様のために……私は、最善だけを選びたいんです」


 Kは目を閉じて息を吐いた。


 セリアが横からぼそりと呟く。


「……前にも言ったけど、脱げばいいってもんじゃないんだからね」


 セリアが呆れたように肩をすくめた。

 ユリエルと目が合うが、その微笑みにむず痒そうに眉をひそめる。


 ユリエルはどこ吹く風だ。


 数秒だけ、誰も何も言わなかった。


 Kは、ふっと息を吐くと、足元に落ちた影に目を落とした。




 影が、自分の写し身であり、模倣であり、やがて自立する存在――。

 その言葉が、胸の奥に、重く沈んでいた。


 セリアは、静かにKの横顔を見つめ、満足げに頷いた。


「あんたもやっと、自分と向き合う気になったのね。……いい傾向よ」


 Kは、小さく頷いた。


「では、次に進みましょ」


 Kはわずかに頷いたが、胸の奥にはまだざらついた違和感が残っていた。


 今後、影鬼の力をどう扱うか、真剣に考え始めた。


 足元に落ちた影が、かすかにうねる。


 その揺れは微細だが、確かに“呼吸”のリズムに似ていた。

 光が触れたはずの黒は、まるで自律した生命体のようにわずかに反応し、

 Kの足の動きに合わせて形を変える。まるで、こちらを“見ている”ようだった。


 それは意思を持つ何かが、眠りながら呼吸しているようだった――。

 そして、次に目を覚ます時、それはもう“ただの影”ではない。




✦✦✦




 【次回予告 by セリア】

「“価値がある”って、どういうことか……うーん、難しいわね。

評価されないってだけで、全部が“無い”わけじゃないし……。

……あんたの影、そのへん……もう、気づいてるんじゃない?」


「次回、《無冠の魔王》――名もなき戦場、価値は血で刻まれる」


「数字も肩書きもない戦場に、Kは立った。

勝てばいいってもんじゃない。どう勝つか――そこに名前が残るのよ」

「“影の魔王”? ……ふん、誰が呼ぶかは、まだわからないけどね」


「セリアの小言? そうね……

“冠”? あんたが黙って待ってたら、一生手に入らないわよ。……欲しけりゃ、奪うの」

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