✦✦✦ 《影鬼の任務》 ✦✦✦
――魔界の闇市場、その最も深い影の中。
初めて受けた依頼は、闇市場からだ。
Kは、薄暗い路地裏に身を潜め、闇から溢れる光を睨む。
遠くから響く獣の咆哮が、魔界の夜に沈んでいく。
酒場の扉が軋む音がした。
鉄錆のような血の匂いがふと鼻をつく。
腐肉と酒が混じった重たい空気が、喉にまとわりついてきた。
目の前には、一軒の酒場。
標的は、その中にいる。
ここは、魔界のスラム街にある地下の“闇市場”。
ここは“正規の魔王市場”から漏れた取引の吹きだまり――いわば裏市場。
傭兵や奴隷、禁じられた魔術や密輸品までが、日常的に売買されている。
「今回の標的は、裏魔王レースの“草レース”に関与する商人よ。……例の、評価されなかった者たちが命を懸ける舞台」
セリアは、まるで近所へ買い物に来たかのように、リラックスした様子でKの隣に立っていた。
「彼は、実際に持っていない領地を“貸し出す”詐欺を繰り返していたの。
でも、その手口が正規の市場にバレて……今は“消される”対象よ」
Kは、じっと酒場の中を見つめる。
つまり、“邪魔者”を始末する仕事か。
彼にとって、これは初めての暗殺ミッションだった。
だが、問題はそこではない。
――今回は、影鬼を使った任務なのだ。
Kは、静かに影を操る。
自分の足元から、黒い影が滑るように広がった。
影が蠢き、そこから影鬼が生まれる。
墨汁のように、影鬼がKの足元にじわりと広がる。
黒が広がった。ただの暗さじゃない――何かが、滲んでくる。
墨みたいだ、いや、それより……もっと質が悪い。
空間が、ひしゃげたみたいにぐにゃりと曲がった。Kは思わず足元を見た。歪んでる?
――視界の端が、やけに柔らかく見えた。
空気がひやりと冷たくなり、影の蠢く音が耳を打った。
黒い霧がねじれ、じわりと人の形に近づく。
輪郭……ぼやけてる。顔? ……ない。いや、そもそも、そんなもん必要か?
ただ俺の意志に従えばいい……それだけだ。
……行け。
Kは、影鬼に指示を出す。
影鬼は、すぐに床の影へと沈み込んだ。
次の瞬間――影の中を滑るように移動し、酒場の奥へと忍び込んでいく。
Kの意識に、影鬼の視界が入り込んでくる。
薄い霧のような像が脳裏に浮かび、酒場の内部の様子が映し出された。
影鬼の視界が奥の個室を捉える。
標的が、誰かと密談を交わしているのが映った。
「……おい、最近の取引は危険すぎる」
「いや、大丈夫だ。正規の市場にも顔が利くヤツがいる」
「信用できるのか?」
Kは、標的の姿を影鬼の視界で確認する。
……ヤレ。
影鬼は、床の影から音もなく浮かび上がる。
背後から標的へ――影は刃に変わり、静かに狙いを定めた。
影は細く尖った線へと変化し、まるで冷気をまとったナイフのように光を吸い込む。
酒場の灯りが、その刃の周囲だけ微かにゆがみ、温度が一瞬だけ下がったように感じられた。
湿った肉を割く音と共に、鋭い影が標的の喉を裂いた。
ゴボッ――。
熱い血が飛び散る。焦げたような、鉄の匂い。――鼻を刺す。喉の奥に、残る。
標的は、喉を押さえる間もなく、椅子ごと崩れ落ちた。
鈍い音が響く。
……終わった。いや、終わった"はず"だ。だけど、なんだ……この違和感は。
Kは、影鬼の動きを見届けて……任務は、終わった、そう思いたかった。けれど、何かが引っかかる。
だが――その瞬間、異変が起こった。
Kは、標的が倒れた後、すぐに影鬼を戻そうとした。
戻れ――。
しかし、影鬼は動かなかった。
……?
影鬼は、標的の影にそっと指を触れた。
波紋のように影が揺れる。その動きは、どこか探るようだった。
その指先が影に触れた瞬間、まるで水面に石を落としたように、ゆるやかに揺らめく波紋が広がった。
だが、水ではない――空気そのものがうねり、場の重力がわずかに歪むような感覚が、Kの背筋を冷たく撫でた。
スゥ……。
影鬼は、指先で影の感触を確かめるように、何かを探しているかのようだった。
その動きは、何かを理解しようとするようにも見えた。
「……その動き、やめて。……私まで、飲まれそうになる」セリアが小さく呟いた。
まるで、赤ん坊が初めて物を掴み、確かめるような仕草だった。
Kは眉をひそめた。影鬼の指先が影をなぞっている――まるで何かを探るように。
……なぜ触れている? 何を見てる?
Kは違和感を覚えた。
何も聞こえない。いや、音はしている。
けど、意味がない。空気が、息を止めているようだった。
影鬼の輪郭が微かに揺れる。
だが、何かを取り込む様子はない。
影を弄んでいるのか、それとも、ただ興味を持っているだけなのか……。
Kは、言葉にならない違和感を抱えたまま、影鬼を見つめた。ただ、見ているしかなかった。
俺の命令を無視する……? なぜだ?
彼は冷静さを保とうと努めたが、胸中では制御を失う恐怖が渦巻いていた。
影鬼がこのまま制御不能になったら……それは、単なる失敗では済まない。
Kは、息を呑む。
「……命令、聞いてない……?」
……たった一言だったのに。
言葉がわからないのか? それとも、わかってて無視してる……?
……何なんだ、お前は……。
✦✦✦ 《自我の目覚め》 ✦✦✦
「影鬼がただの武器だと思ってた? ……なら、そろそろ考え直したほうがいいわよ」
セリアは、Kの肩越しに低く囁いた。
「あなたの命令には従う。でも、時々……そうじゃないこともあるわ」
「影鬼は、あなたの影……ううん、たぶん、もっと近い。……あなた、そのもの、かもね」
「……いや、違うか。ごめん、ちょっと変なこと言ったわね」
Kは、セリアの言葉を聞きながら、影鬼を見つめる。
俺の……影?
影鬼は、標的の影を指先でなぞりながら、
まるで飢えた獣が餌にむしゃぶりつくように影を喰らい始めた。
……その影を喰らう動きは、単なる捕食ではなかった。
やがて影鬼の輪郭が微かに“呼吸”するように膨らみ、Kの姿を模した腕が、ふっと伸びる。
ほんの一瞬、それはKの構えとそっくり同じ動きをしていた。
なぜ影を喰らう……?
……何をしている? Kは思った。いや、考えずにはいられなかった。
影を喰らうことで力を得ているのか? それとも、単に本能的な行動か……。
彼の視線は影鬼に釘付けになる。
影を喰らって……進化、する? もし、そうだとしたら。これは、もう……ただの道具じゃ、ない。
Kの胸に不安が湧き上がる。これが本当に自分の意志で動く存在なのか?
その疑念が、背筋を冷たく撫でた。
……だが、もし今止めたら、影鬼は“進化”の何かを掴みかけていた手を離すかもしれない。
支配するか、委ねるか。Kは、ほんの一瞬だけ、迷った。
Kは、もう一度、強い意志で制止の命令を出す。
戻れ――!
その瞬間、影鬼は動きを止めた。
命令には――一応、従った。
ゆっくりと、Kの足元の影へと戻っていく。
酒場の個室には、すでに息絶えた標的の遺体だけが残っていた。
Kは、静かに息を吐いた。
……今のは、何だった?
Kは、影鬼の本質に疑問を抱き始めていた。
「……影鬼は、何なんだ?」
彼は、静かにセリアに問いかける。
セリアは、わずかに肩を揺らして答えた。
「あんたの影よ。でも、ただの従者だと思ってるなら、浅いわね」
「……こっちが気づかないうちに、もう勝手に動いてるのよ。無意識って、ほんと厄介」
セリアの視線が、Kの影にすっと落ちる。場に沈黙が落ちた。
「……いい? “自我”が芽生える可能性があるのよ。あなたの中の影」
セリアは、わずかに口元を緩めた。
「でも、全部が脅威ってわけじゃないんじゃない? ……扱い方さえ間違えなければ、影鬼は――信じられないくらいの力になるはずよ」
彼女の言葉には、単なる警告だけでなく、期待の色が含まれていた。
もし影鬼の力を完全に支配できたなら……それはどれほどのアドバンテージになるのか。
セリアの声には、ただの警告だけでなく、どこかKへの期待を含んだ響きがあった。
Kは、その言葉を聞いて驚いた。
自我……?
「……道具のつもりだった。でも……最初から、生き物だったのか?」
この先の可能性は、もしや……いや、まさか。
「その通りよ」
Kは言葉を失い、ほんの一瞬、沈黙が場を包んだ。
「ずっと使い続けたら……いつか、あなたの影に、自分の意志が芽生えるかもしれない。そういうことよ」
Kは、拳を握る。
影鬼が、制御を離れたら――。
Kは喉奥が冷えるのを感じた。
自分の影が、自分を襲う日が来るのかもしれない。
いや、そんな……でも――。
Kは、初めて影鬼の“危険性”を意識した。
✦✦✦ 《境界としての影》 ✦✦✦
Kは、自分の足元を見た。――まだいる。
黒い、それは……まるで寝てるみたいだった。何もなかったみたいな顔して。
だが――。
……戦力? 違う。もう、そんな単純なもんじゃない。あれは……俺の影。
……いや、違う、もっと……俺の、何だ……?
……この“意志”を宿す影を、使いこなせるようにならなければならない。
けど、もし制御を失ったら――いや、それはもう、敵以上の“何か”になるかもしれない。
影鬼の使い方を、もっと深く知っておく必要がある。そう思った瞬間、足元の影が、わずかに揺れた。
にじむように歪んだ空気の中から、また、あの女が現れる。
今度は……また、透けていた。
軍服のデザインは精緻で、ボタンも階級章も完璧だ。
だがその生地は、あまりにも透明だった。
中に何も着ていない。着ているのに、着ていない。
Kは咄嗟に目を逸らした。
「K様、安心してください。今回は正式仕様の“解析用素材軍服”です。完全に戦場仕様ですので……性能は折り紙付きです」
自信満々に胸を張るユリエルの笑顔は、完璧な軍師のそれだった。
だが彼女はそのまま、すっとKの元に近づくと、わずかに身を乗り出す。
「……この軍服、ほら、K様の“匂い”が……ちゃんと、届くようにできてるんです。
視えるとか見えないとか、そういうのは二の次で……一番大事なのは、“感じ取れる”こと、ですから」
「深い森の奥で朝日を浴びて……ふぅって、息を吸うときと、町の中で吸う空気。
……違いますよね? ね? ……あれぐらい、違うんです。……ふふ、やっぱり、わかりづらいですか?」
そう言って、彼女はKの立っていた床の空気をふわりと吸い込んだ。
「……今日の香りは、いつにも増して鋭くて、凛々しい……」
Kのこめかみがぴくりと跳ねた。息を吸い込まれた感覚が、なぜか妙に生々しく残った。
……逆に、厄介だ。
Kは無言で顔を戻し、目線を上へ逃がした。
彼女の顔だけを見ていると確かに理知的で落ち着いている――が、
どうしても視界の端に透明な曲線がちらつく。
ユリエルはにこやかに続けた。
「視えるでしょ? でもこれ、ちゃんと“戦場用”なんです。体温も、魔力の放熱も……K様に、ちゃんと感じてもらえるようにって、設計されてますから」
「……おい」
思わずKが言葉を漏らす。
「これは“着てない”んじゃなくて……視えてるだけ、なんです。“布”かどうかなんて、大事じゃないですよ」
「それに……」
彼女はふっと微笑み、胸元を軽く撫でた。
「このあたりにまだ、K様の前回の魔力の……ああ……この“残香”に、K様の神性が宿っている……」
満面の笑みで理論武装を展開するユリエル。
Kのこめかみに、うっすらと脈が浮かんだ。
「二回目で修正したと思ったら……これはなんだ」
「ええ、前回は“妥協”でした。でも今回は、“K様の観測任務”に全力を尽くすために、最適解を選びました」
「つまり、また透けさせてきたってことだろ」
「“また”じゃありません。“これが、本来あるべき姿”なんです。K様のために……私は、最善だけを選びたいんです」
Kは目を閉じて息を吐いた。
セリアが横からぼそりと呟く。
「……前にも言ったけど、脱げばいいってもんじゃないんだからね」
セリアが呆れたように肩をすくめた。
ユリエルと目が合うが、その微笑みにむず痒そうに眉をひそめる。
ユリエルはどこ吹く風だ。
数秒だけ、誰も何も言わなかった。
Kは、ふっと息を吐くと、足元に落ちた影に目を落とした。
影が、自分の写し身であり、模倣であり、やがて自立する存在――。
その言葉が、胸の奥に、重く沈んでいた。
セリアは、静かにKの横顔を見つめ、満足げに頷いた。
「あんたもやっと、自分と向き合う気になったのね。……いい傾向よ」
Kは、小さく頷いた。
「では、次に進みましょ」
Kはわずかに頷いたが、胸の奥にはまだざらついた違和感が残っていた。
今後、影鬼の力をどう扱うか、真剣に考え始めた。
足元に落ちた影が、かすかにうねる。
その揺れは微細だが、確かに“呼吸”のリズムに似ていた。
光が触れたはずの黒は、まるで自律した生命体のようにわずかに反応し、
Kの足の動きに合わせて形を変える。まるで、こちらを“見ている”ようだった。
それは意思を持つ何かが、眠りながら呼吸しているようだった――。
そして、次に目を覚ます時、それはもう“ただの影”ではない。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「“価値がある”って、どういうことか……うーん、難しいわね。
評価されないってだけで、全部が“無い”わけじゃないし……。
……あんたの影、そのへん……もう、気づいてるんじゃない?」
「次回、《無冠の魔王》――名もなき戦場、価値は血で刻まれる」
「数字も肩書きもない戦場に、Kは立った。
勝てばいいってもんじゃない。どう勝つか――そこに名前が残るのよ」
「“影の魔王”? ……ふん、誰が呼ぶかは、まだわからないけどね」
「セリアの小言? そうね……
“冠”? あんたが黙って待ってたら、一生手に入らないわよ。……欲しけりゃ、奪うの」