✦✦✦《草レース初戦》✦✦✦
フードの男が高台から声を響かせる。
「戦場は四つの領域に分かれる。自陣を守り、最も広い領地を奪った者が勝者だ」
「敵を倒すも、戦略で制すも自由だ。だが――生き残るだけでは、“価値”とは呼べない」
「市場にふさわしい『価値』を示した者だけが、魔王の座に近づける」
Kは、対戦相手を見渡す。
筋骨隆々の戦士型ギオル。圧倒的な肉弾戦で敵をねじ伏せる。
ギオルの軍勢が、前線を蹂躙していた。
吼えるような咆哮と共に、巨大な斧が振り下ろされる。
地面が裂け、敵兵が吹き飛ぶ。
筋骨隆々の巨体はまさに暴風のごとく、戦場を蹂躙する存在そのものだった。
Kはギオルの戦い方に目を細めた。暴力と数だけに頼る戦術には、必ず崩れる隙がある。
だが、こういう戦術には必ず“死角”がある。
Kの視線はギオルの周囲――その防衛線に注がれていた。
影鬼を敵陣に送り込み、兵士をひとりずつ削れば、いずれギオルも孤立する。
ギオルの戦術にとって、“兵が音もなく消える”という現象は、まさに瓦解の兆しだった。
Kはそれを利用する算段を立てていた。
長いローブを纏った術士ヴァルテス。広範囲の魔法で敵を焼き尽くす。
紫電が閃き、地を裂く轟音が戦場を飲み込んだ。
空気が軋み、皮膚が焼けるほどの熱が走る。
Kは、その瞬間に流れが変わったことを直感する。
——直接対抗は無謀だ。
影鬼を巧みに使い、広範囲魔法が最も効果的に広がる瞬間を見極める。
そして、雷撃の範囲外を掠めるように進行させ、攻撃の隙をついて敵陣に潜り込む。
魔法使いの唯一の弱点――連続攻撃の余力がない隙――を見逃すはずがなかった。
影鬼はヴァルテスの影へと入り込むと、外からは何も起きていないように見えた。
だがヴァルテスは、動くたびに体の力が抜け、魔力が静かに吸われていくのを感じていた。
漆黒のマントを羽織る吸血鬼ザーヴァ。闇の力で相手を弱体化させる。
ザーヴァの能力は、吸血鬼らしい敏捷さと鋭敏な視覚、
そして相手の力を削ぎ落とす闇の力にある。
しかし、彼の眷属たちは視覚に頼りすぎており、
音もなく忍び寄る影鬼にはまったく気づけなかった。
ザーヴァが信じる「影の主導権」。……そんなもん、信じすぎれば、足元すくわれる。
信じてても、影が味方してくれるとは限らない。……それでも、何かを信じてなきゃ、崩れる気がした。
Kはその特性を利用し、ザーヴァの闇の力を影鬼に取り込ませることで、
彼をじわじわと追い詰めていく。
どの相手も戦闘能力に優れ、配下を率いていた。
正面から戦えば勝ち目はない……はずだ。
待てよ? 影鬼だけで本当に支配できるのか?
Kは静かに考える。戦力では圧倒的に不利だった。
だが――彼には影鬼がある。
Kは小さく呟いた。
「勝てるのは……影鬼だけだ」
小さく吐き捨てた言葉に、自分ですら怯えた。
……そのとき、わずかに風が吹いた。
観客席の残骸が、カランと小さく転がる。
Kは目を細め、ふと天を仰ぐように息を吸った。
影が、わずかに揺らいだ。
強がりでも、口に出せば自分を動かせる――そう信じた。
Kはそう断じた後、短く息を吐いた。
戦力差は明らか。だが、影鬼の潜行能力だけが、わずかに勝機を残していた。
だが、制御を誤れば、自分ごと呑まれる可能性もある。
ここまでは事前の情報とシミュレーションしたまでだ。
あとは実戦を待つのみ。
✦✦✦《開戦》✦✦✦
「戦闘開始!」
号令が響いた瞬間、各陣営が動き出す。
ギオルの軍勢が、力任せに周囲を蹂躙する。
ヴァルテスは、広範囲魔法で敵を焼き払う。
ザーヴァは、吸血鬼の眷属を放ち、他の魔王候補を妨害する。
だが――Kは動かない。
今は待つ――。
彼は影鬼を呼び出し、自分の影に潜ませた。
影鬼は影の中を移動できる。ならば、敵の支配領域の影を奪えばいい。
影鬼は、いつもならKの命令どおり静かに広がる。
だが今回は、まるで“自分の意志”で這い出してきた。
影鬼は、命令を待たずに滑るように戦場へと広がった。
Kの意志とは無関係に、始めからそのつもりだったかのように。
“おかしい”――そう思った瞬間、頭の中がうっすらと鈍くなる。
意識のどこかが、じわじわと“別の意志”に触れているような気がした。
「……速い?」
影鬼はいつも以上に素早く、そして広がる範囲もKの想定を超えていた。
影は地表を舐めるように進み、意思を持った獣のように身をくねらせながら、敵陣の影へと溶け込んでいった。
Kは影の広がりに目を細めた。
「……勝手に広がって、どこまで行く気だよ」
呼びかけた声は、戦場に吸い込まれるように消える。影鬼は、なおも静かに蠢いていた。
ギオルの軍勢が、一つのエリアを制圧した。
戦士たちは雄叫びを上げ、自らの領土を誇示する。
だが――その瞬間、影鬼の動きが止まった。
「……?」
Kは異変に気づいた。
いつもなら影は敵を飲み込み、静かに支配する。
だが、今は違う。
波打つ影の中から、何か“別のもの”が目を覚ましたような錯覚がした。
Kは、自分の中に“知らないもの”が棲みついた感覚に、わずかに息を呑んだ。
違う。これは……もう、俺の“手”じゃない。
Kは、自分の影が膨張している感覚に気づいた。思わず、喉の奥に冷たい感触が広がる。
胸の奥に、ひやりとした冷気が差し込んだ。
黒が脈打つように震え、地面を吸い込むように膨らんでいく。
だが次の瞬間、外へと伸びていたはずの黒い腕が、なぜかKの足元へと這い戻ってきた。
……戻ってきた? いや、そんなはずはない――だが確かに、黒い気配が“俺の影”に滲み込んでくる。
自分の影であるはずのものが、まるで意思を持って俺の影に“馴染みに”来ている――。
……何を言っているのか、自分でもわからなかった。
影が、意志とは別の方向へ滲み出しているようだった。
影鬼は、Kの意志で制御できる存在だ。
だが、今の動きは、まるで意思を持つように独立している。
Kは、ほんの一瞬、指先をわずかに折り曲げた。
わずかな指の動きで、影の流れが敏感に反応する――その感覚が、まだ繋がっている証だった。
Kは拳を軽く握る。
まだ制御できている――そう信じているうちは、影は彼のものだ。
けれど、胸の奥には、冷たいざわめきが微かに残っていた。
説明のできない、身体の奥に残る拒絶反応が、わずかに胸を締めつけた。
だが、影鬼はKの影にまで広がり始めていた。
Kは呼吸を一つ整え、冷静に状況を見極める。
「……勝手に這い回るな。“借りてるだけ”って――おい、聞いてんのか?」
……クソ。動くのは、俺だって言ってんだろが……。俺の影……だよな?
静かな命令。しかし、影鬼はすぐには応じなかった。
Kの目が細められる。
制御に逆らう……いや、これは"適応"か?
ゆっくりと手を開き、影を観察する。
そこには 違和感 という言葉では片づけられない何かがあった。
Kは眉一つ動かさないまま、低く静かに呟いた。
「……興味深いな」
……これは、確かに俺のものじゃない“何か”だ。
ズルッ……闇が蠢く。
戦士の足元で、影がざわりと揺れた。
黒い腕が無音で這い出し、足を絡め取る。
「な……何だ……?!」
冷たい感触が、足元から背筋を駆け上がる。
反射的に体が硬直した。
次の瞬間、影がまるで液体のように足元に広がり、膝まで黒い沼に沈み込む。
「た、助けて……誰か……っ!」
周囲の仲間たちは異変に気づくも、動けなかった。
黒い液体のように影が蠢き、戦士の足を飲み込みながら、ゆっくりと地中へ引きずっていった。
残されたのは、踏みしめた地面の、ごく小さな歪みだけ。
恐怖は伝染する。……わかってるはずだ。
だが、“あいつ”は、それをどこまで意識して動いている……?
冷静な分析を続けるつもりだった。
だが――影鬼の異様な動きが、Kの胸に不穏なざわめきを呼び起こす。
「こいつは、俺の意志のままに動く……はずだろう?」
影鬼は、Kの命令など無視するかのように敵を呑み込んでいく。
だが、Kの直感が警告を発した――“何かが違う”。
――俺の影が……滲んでいる?
一瞬、視線を落とし、呼吸を整えた。
Kはわずかに視線を逸らした。
何だ――。
胸の奥に、見えない“ひび”が入ったような感覚――それが、Kをわずかに立ち止まらせた。
「……意図的か?」
声は変わらず静か。だが、影鬼は止まらない。
Kは視線を落とし、ほんの僅かに指を折り曲げた。
それだけで、影の動きが微かに変化する。
「……まだだ。これぐらいなら……握り潰せる、はず……だろ」
……言い切れなかった。
影は応じた。けれど、どこか――わからない違和感が残っている。
Kは、拳を握り直した。考えるより、先に何かを押さえ込みたかった。
その時、敵は驚愕に包まれた。
「な……何だ……?!」
叫びを上げる間もなく、影はそのまま戦士の体を引きずり込んだ。
気づいたときには、そこに彼の姿はなかった。
“見せかけ”じゃない、本物の価値を持つ者だけが、生き残る。
今、それを証明するんだ。
Kは静かに、影鬼の進行を見届けた。
影鬼は気配も音も立てず、濃墨を垂らしたように、静かに敵陣を染めていった。
気づかれぬまま、一人、また一人と、兵士たちが“影の底”に沈んでいった。
誰にも気づかれることなく、敵の戦力が徐々に減少していった。
✦✦✦《影の支配》✦✦✦
ヴァルテスの配下たちは広範囲魔法を放つ。
強大な雷撃が、闘技場全体に降り注いだ。
「これで……焼き尽くす。灰も残すな」
配下の内の一人は勝利を確信し、笑みを浮かべる。
しかし、次の瞬間――。
彼の影が不自然に蠢いた。
「な……何だ?!」
足元から、黒い触手が這い上がる。
だが、その影は次の瞬間、反転した。
「影が……戻って……?」
返された……? いや、弾かれた……のか。
侵入したはずの影が、まるで拒絶反応を起こすように弾かれた。
Kの耳元で、風が逆流するような音が鳴った。
それは影が“押し返された”という、明確な拒絶の音だった。
ヴァルテスが影を媒介にして、影鬼のエネルギーを逆流させたのだ。
「まずい……!」
影鬼の支配が破られた。
Kは歯を食いしばり、影を操る手を強く握る。
「魔力が……奪われていく……?!」
ヴァルテスの配下の顔が恐怖に歪む。
影がじわじわと染み込み、魔力が骨の芯ごと吸われていく感覚だけが残った。
空気が、一瞬だけ澱んだ。
雷光が止まり、耳鳴りのような静寂が流れる。
その静けさは、次の一撃を待つ“間”だった。
「力が……吸われてる……!? 魔力が……抜けていく……っ!」
配下の膝が崩れ落ち、そのまま戦場から消えた。
――静寂が訪れる。
けれど、それは嵐の“始まり”にすぎなかった。
✦✦✦《情報干渉:すず登場》✦✦✦
――その瞬間だった。
Kの影から放たれた魔力の一部が、戦場の“構造”そのものへと入り込み、
情報層――それは、魔界の全現象を記録し管理する“裏の層”。
本来は誰も触れてはならない、“魔界の記録中枢”とも呼ばれる禁領だ。
影がそこへ触れた瞬間、異常が起きた。
「黒市連盟」は、魔王市場の背後で動く“影の支配者層”とも呼ばれる、秘密組織だ。
市場の“格付け”を裏で監視・操作する、古代から続く調停者たち――それが彼らの正体だった。
Kの魔力が、その“目”の一端に触れた瞬間、異常が起きた。
Kの魔力が、そこに触れた。
警告も、遮断も間に合わなかった。
次の瞬間――。
「ちょ、ちょっと待って!? なに、これ――やだ、ちょっ……!」
何かが“引きずり出された”。
空間が軋み、電流のような光が走る。
戦場の空間の一角に、ふいに少女のシルエットが現れた。
ふわりと揺れる髪、フード付きの黒衣、どこか場違いな軽やかさ。
「こ、こんな出方とか聞いてないし……! もー……責任、取ってもらうんだからぁ!」
少女は、頬を赤く染めながら、うつむいた。
場違いな存在に、眉をわずかにひそめた。
「お前……どこにいた?」
問いに対し、少女はさらに顔を赤くして――声を裏返した。
「ち、違うし! ……見てたわけじゃ、ないからねっ……!」
言ってから、恥ずかしそうに拳をぎゅっと握る。
Kは、返す言葉を一瞬だけ失った。
この戦場に、明らかに“不自然”な存在――。
だが、それは同時に、今までになかった“何か”の始まりを告げていた。
✦✦✦《すず退場》✦✦✦
「……で、でも! これは不可抗力っていうか……!」
すずはバタバタと袖を振りながら、周囲をきょろきょろと見回す。
明らかに戦場の空気に馴染んでいない。魔力の余波に逆らって立っているのがやっとのようだった。
Kは、その様子を無言で観察していた。
「もー! ちょっと、どうなってんのよこれ!?
あんたの影が情報層に突っ込んで、私、巻き込まれたんだからね!?
……K様の影、絶対おかしいってば!」
すずは半ば早口に捲し立てると、ぷいと顔を逸らす。
その頬は、まだわずかに赤いままだ。
「も、もう知らない……! 今はまだ“関係ない”から……!」
バチッと魔力の火花が弾けた瞬間、すずの体がふっと宙に浮きかける。
情報網の逆流が収束し始めたのだ。
「つ、次に会うときは……ちゃんと許可、許可とか取ってよね!?
じゃないと……ほんとに……バカぁっ!」
そう言い残して、すずの姿は魔力の断層へと吸い込まれるようにして消えた。
……気まずさと可笑しみ、そして一抹の不穏を残して。
影が、音もなく戦場を侵す。
気づいた時には、全てが“沈黙の底”に沈んでいた。
Kは目を閉じた。
「……影も女も、好き勝手に動きやがる」
そして、静寂の中を影だけが這い続けた。
……そして、影だけが静かに戦場に残った。
【次回予告 by セリア】
「“従わせてるつもり”の時こそ、“従わされてる”のよ。……それが支配の正体」
「次回、《支配の兆し》――影が染み込み、市場すら飲み込む時」
戦場でただ勝つだけじゃ不十分。
“Kが勝った”より、“Kが怖い”の方が市場は敏感に反応するの。
影が揺らすのは、戦況だけじゃないわ。
魔王としての“立ち位置”そのものよ。
「セリアの小言? そうね……支配者って、命令する側じゃないの。
“命令を解釈される側”になる覚悟が、あるかしら?」