✦✦✦ 《戦奴の選択》 ✦✦✦
Kは瓦礫の尾根に立ち、迫る敵の波を睨んだ。
戦奴を使えば勝てる。
だが、それでいいのか?
俺は、知略で勝ち続けてきた……。
だが――力だけが通じる場面だって、あるだろう。……どうする。
Kは拳を握る。
指先がじんわりと汗ばむ。
迫る敵軍を前に、砂時計の砂は尽きかけ、残る粒は、あとわずかだった。
「……これが、俺の答えか」
Kは拳を握った。
崩れた戦列の向こう、影鬼たちが逃げる。
……そして、黒い波が静かに迫ってきた。
影が揺らめく。
戦奴を発動すれば――何もかも、変わってしまう。
だが、本当にそれでいいのか?
胸の奥で、何かがざらついた。
影鬼たちの瞳に、濁った恐怖が滲んでいた。
刹那、風の音に、誰かの声が重なった気がした。
――「お前は、“命令”じゃなく“願い”で動く男だったろう?」
Kの胸が軋んだ。
声の主は思い出せない。ただ、心の奥に刺さった。
“戦奴”――思考が、戦いに染まる。
発動すれば、迷いは消え、論理と殺意だけが残る。
肉体の制限も外れ、限界を超えた動きが可能になる。
けれど、それは自由ではない。
自分の意思で戦うことが、できなくなる。
Kにとって、それは勝利を選ぶ手札じゃない。
“勝ち方”を失う危険だった。
刹那、敵の剣が迫る。
迷いの余地はなかった。
Kはゆっくりと動く。
まるで時間が止まったかのように。
左手を顔の前にかざし、五指を開く。
その隙間から、赤い輝きが漏れた。
一瞬の静寂が、Kを包み込む。
……どこかで、風が止まったような錯覚がした。
そして、低く囁いた。
Kの目が、じわりと赤く光を放つ。
その輝きは、迷いを捨てた意志の色――“知”を捨て、“力”だけで戦う者の覚悟だった。
影よ、命令を受けろ。これが……戦奴。
Kは、目の奥に力を集めた。
……風が、一度だけ止んだ。
そして――。
「……黙って従え。これは命令だ、戦奴――発動」
その言葉と共に、すべての音が凍りついた。
そして世界の呼吸は止まる。
✦✦✦《解放の代償》 ✦✦✦
Kの体に、異様な感覚が走った。
肉体が軽くなる。
……視界が赤に染まり、鼓動だけが、やけに大きく響いた。
すべてが、遅い。
敵の動き、風の揺れ、血の飛沫。
考える必要などなかった。ただ、殺す。
それだけが、Kの中に残された命令だった。
影が地を這い、獣のように敵を狩り始めた。
バチィッ!
背後から雷撃の音。
くっ、読まれていた!
Kは瞬時に反応し、
身を捻る。
だが、肩口をかすめる感覚とともに、
全身に痺れが走った。
敵の武器が近い。
Kは躊躇なく手を伸ばし、
影を絡ませると、
そのまま敵を宙に放り投げる。
Kは敵兵に触れず、ただ影だけを床へ這わせた。
影が足元を裂き、敵兵がバランスを崩して崩れ落ちる。
Kは近づかずに一歩退いた。
“殲滅”ではない……見せつけているだけだ。これは、本当に“俺”の戦いか?
その赤を見て、ふと、昔の誰かの笑顔を思い出しそうになった。
Kは、一瞬だけ立ち止まった。
視界の端に、崩れた瓦礫と、かつての戦場で泣いていた誰かの顔がちらつく。
――なぜ、俺はまだ戦っている?
血の臭いと、静かな風の音が耳に残った。
その一撃は、「拳」などではなかった。
Kが拳を振るうより先に、風が爆ぜた。
空気が裂ける音。三人の体が、何の前触れもなく崩れた。
叫びすら、出せなかった。
「ッ……が、ぁ……!」
呻き声が漏れた時には、すでに三人の肉体に風穴が開き、列は崩れていた。
「理性も、魂も、殺し尽くした先に……これが“力”の理ってやつか……!」
列の後方で、うっとりとした声が漏れた。
陶酔したような眼でKを見つめる兵士。その瞳は、崇拝にも似た狂気に濁っていた。
「一撃で……あんな……!」
――観測映像に映るKは、もはや“兵器”そのものだった。
しかし、その暴走に、戦場はどこか静かに、沈黙していた。
誰も止めようとは思わない。ただ、抗いようのない力に、全員が従っている――そんな異様な絵だった。
画面越しにセリアは目を細め、わずかに息を吐いた。
「……壊れかけの王様、まだ踏みとどまってるのね」
セリアはモニター越しにKの姿を見つめながら、胸の奥に微かな痛みを感じた。
かつての彼との記憶が、心の片隅で揺れていた。
だがその声には、苛立ちでも侮蔑でもなく、どこか“安堵”の響きが混じっていた。
その頃、戦場では誰もすぐには動けなかった。
周囲の兵士たちは、抗いようのない沈黙に飲まれていた。まるで自分の鼓動すら忘れたかのように――。
ただ、Kの周囲に沈黙だけが積もっていった。
Kはその沈黙を、風の中で静かに受け止めていた。
目を閉じていれば、ここが“戦場”であることさえ忘れられる気がした。
……一瞬だけ。
その幻想は、狂気の声によって破られた。
「美しい……この破壊……これが、“力”の理だ……!」
列の後方で、うっとりとした声が漏れた。
狂気を滲ませた兵士が、陶酔したような眼でKを見つめていた。
「お前はまだ迷っているな。俺たちはもう、痛みも意思も捨てたぞ――勝つためにな」
その声には、何の躊躇もなかった。感情さえ捨てた者の声だった。
ただ、そこに「爆発のような圧」が走ったことだけが記憶に残る。
Kは、呼吸している自覚すらなかった。
ただ、“殲滅”という命令だけが、身体を突き動かしていた。
影の糸が収縮し、敵兵の悲鳴が響いた。
――静寂が、一瞬だけ戻った。
影は、Kの命令に即応していた。
しかし、その一瞬、影はKの意志を待たずに動いた。
まるで、独自の判断で敵を狩るかのように。
Kはその異変に気づき、眉をひそめた。
すぐに次の殺戮が始まった。
Kの視線も、思考も、迷いなく敵へと向いていた。
……けれど、その影の動きには、ほんの一拍、どこか曖昧な“間”があった。
敵兵が回り込む。Kは気づかない。
冷静であろうとする脳が、焼けた回路のように応じない――思考が、追いつかない。
視界には敵しかいない――戦奴の代償だった。
かつて磨いてきた戦術も、すべて影の奥に沈んでいく。
陰に潜んだ弓兵の気配すら、意識に入ってこない。
しかし――次の瞬間、Kの動きが鈍った。
影が重い?
槍兵が踏み込む。突きが来る。
Kは右足を引いた。
敵の視界から――消えるはず、だった。
揺れる影に、Kの体が微かに引きずられた。
何だ、この違和感は?
ザッ!
Kは咄嗟にしゃがみ込み、背後を裂く刃の軌跡を感じる。
服が裂け、微かな熱が肌を焦がした。
「……!」
Kは即座に間合いを取る。
敵兵がこちらを睨んでいた。
奴は手を開閉しながら、眉をひそめる。
「魔力じゃねえ……これは、呪いだろ……? あんなの、魔族でも出せるもんかよ……!」
――その報告は、すでに後方司令部にも伝わっていた。
「……現地部隊からの報告では、“影”が自律している可能性があると」
「まさか……戦術ではない? あれは……」
「確認は取れていませんが、数名が“夢を見た”と言っています。戦術による認識阻害の域を超えている、と」
「……これは、兵器じゃない。“神話”だ」
通信越しのやりとりに、常識が崩れていく感覚が滲んでいた。
背後から別の声が飛ぶ。
「……異常だ。エネルギー干渉値が通常の倍以上……制御できていないのか?」
報告を聞いた前線の兵士たちは、ざわついた。
冷徹で機械的な報告のはずが、なぜか――どこか湿った余韻を残していた。
その言葉は、通信越しに全て監視していたセリアにも届いていた。
《反応値、上昇傾向継続。感情波動は抑制状態。
……悪くないわね。今の彼なら、“より深く”まで引き出せる》
その言葉のあと、Kはわずかに空を仰いだ。焦げた風のにおい。誰かの断末魔が、遠くで消えていく。
まだ、終わらないのか……。
Kは、一瞬だけ、己の鼓動を確かめるように胸に手をあてた。
敵兵の動きが、ふと止まった。
そのわずかな間に、己の内に渦巻く“ズレ”を押し込めるように奥歯を噛みしめた。
Kは唇の内側をそっと噛んだ。
敵の分析が耳に届いている。
だが、Kは思った――これは自分が制御している。影も、力も、まだ――自分の手の中にある。
そう、信じたかった。
……だが、その敵兵は、もう二度と動かなかった。
Kの影が、命令よりも速く、彼を沈黙させていた。
✦✦✦ 《影の沈黙》 ✦✦✦
影が、応じない……いや、違う。どこか……引かれている?
指先に、かすかな痺れ。
影は、まるで、誰かに引かれるように――わずかに、歪んでいた。
……影の奥で、誰かが笑ったような気がした。
ほんの一瞬、誰かに操られているような――そんな抵抗を感じた。
「囲め! こいつの力はまだ完全じゃない!」
敵兵の怒号が響く。
……けれど。Kの意識は、別の、もっと暗い深みに、沈みかけていた。
影が……独りで動こうとしている? 俺の意志じゃない……?
戦場の喧騒の中、ふと影の奥から何かの気配を感じる。
ほんの一瞬、微かな声――それは、錯覚か、それとも……?
「……命令を、受けろ」
それは、Kの声ではなかった。
影の奥から、誰かが、Kに命じていた。
かつて、自分が影に命じた言葉を、今度は自分が逆に、囁きかけられる。
影とK――どちらが主人か、わからない。
だが、そのかすかな違和感も、敵の猛攻に呑み込まれた。
「ぎゃあああ!」
影に囚われた兵士が恐怖の叫びを上げる。その顔を見て、Kはわずかに目を伏せた。
あれが……“俺の力”の結果か?
セリアの声が響くより前に、Kの中で何かが止まった。次の動きが、わずかに遅れた。
「……こんな勝ち方を、俺は望んでたのか?」
Kには、異変の輪郭すら掴めなかった。
✦✦✦ 《影の断罪》 ✦✦✦
……叫びが止んだ。
倒れた兵士の目は開いたまま、恐怖とも恍惚ともつかない表情を浮かべていた。
その唇が、震えていた。
「……やめてくれ、もう……“夢の中”は……」
影は、彼にとって“夢”だったのか、“地獄”だったのか――誰にも分からなかった。
一人の槍兵は、仲間に裏切られる光景を、まるで現実のように見た。
「やめろ! 俺を殺すな!」
錯乱した彼は、自ら剣を喉元に突き立てた。
恐怖と苦痛に歪んだ顔で、彼は息絶えた。
別の兵士は、影の中で得体の知れない快楽に溺れていた。
「気持ちいい……影に溶ける感覚が……これが終わりなら……悪くない」
その顔には、もはや理性の影すらなかった。
戦場は、恐怖と快楽の悲鳴に飲み込まれ、
秩序は静かに溶けていった。
敵軍の指揮官が、最後の一撃を放とうと前に進み出る。
「お前は、ただの市場の敗者にすぎん!」
指揮官は、咆哮と共に、炎を纏った巨大な火球を放った。
焦げた風が、押し寄せる。
炎は、周囲すべてを、根こそぎ飲み込もうとしていた。
だが、Kは微動だにしなかった。
「もう、止まれないだろ……なら、見せてみろよ。お前の力を」
彼が静かに呟いた瞬間――。
Kの足元から湧き上がった影が火球を包み込み、炎はあっという間に消え失せた。
指揮官の顔には、絶望が浮かんでいた。
「市場の奴隷よ。これが、お前たちの行き着く先だ……!」
哀れな奴隷ども……これが、お前らの、行き着く……果て、だ。
「お前は“名前”にすがっている……くだらんな。俺はその名すら捨てた。無名こそ、完全な戦士だ」
指揮官の声には、誇りすら宿っていた。名を捨てた己の姿を、“完成”と呼ぶ者の声だった。
その様子を遠隔観測していたセリアは、唇の端をほんのわずかに持ち上げた。
「……その名前、“K”なんて。空白の器にしか見えないのよ」
セリアはKを観察対象として冷徹に見つめながらも、かつて“届かなかった誰か”の幻影を重ねていた。
声に乗ったのは、皮肉ではなく、どこか満たされない静けさだった。
「呼んでも呼びかけた気がしない――それが、少しだけ寂しいの」
Kの影が、指揮官を呑み込む。
Kの意志が影に命じた覚えのない動きがあった。
セリアは観測越しに、そのズレに気づいた。
……また壊れたふりをしてる。ほんと、面倒な男。
思わず端末の映像に指を添えて、息を吐いた。
ふと、その言葉の端に、ほんのわずかな優しさが混じった気がした。
「捨てきれないのね、その名を。……ふふ、甘さが残ってる」
遠くの誰かの言葉が、風に乗って届いたかのように―― 。
Kはふと、自分の動きにわずかな違和感を覚えた。
今の動きは、自分のものじゃない――Kは、かすかな疑念に立ち止まりかけた。
一瞬だけ、影の奥から別の“何か”の視線を感じた気がした。
それは、彼の命令には従っていない――いや、命令すら必要としない存在。
影鬼たちの動きに、Kはわずかな異変を感じた。
制御の枠から外れている。それは、まるで――独自の意志を持っているかのようだった。
「クク……ようやく近づいたな、“影の胎内”へ。お前が純粋な闇に還るその時を、私はずっと……待っていた」
あの陶酔に満ちた声が、また聞こえた。さっきの狂信者か――いや、影を通して、どこかから見ている?
Kは、動く影にほんの一瞬、嫌悪に近い感情を抱いた。
……なのに、同時に安堵もあった。
自分が壊れても、何かが“代わりに動く”。そんな逃げ道に、どこかで縋っていた自分がいた。
――俺は、壊れる準備を……していた?
……その様子を、観測塔の端末越しにセリアが見ていた。
かつての彼なら、あの一歩は踏み込めなかった。
「よかった……ちゃんと“壊れてきた”。でも、まだよ、K。あなたはもっと綺麗に壊れる」
呟きには喜びとも、哀しみともつかぬ感情が滲んでいた。
セリアはそっと目を細めた。
あなたが壊れていく音が、いちばん安心するの。
ちゃんと私の形に戻ってくれるって、信じられるから。
セリアはモニターに映る赤い瞳を見つめ、微笑んだ。
愛情と支配、その境界はとうに消えていた。
その最後の瞬間、彼の叫びは戦場全体に響き渡ったが、
それすらも影に掻き消され、静寂が訪れる。
✦✦✦ 《静寂の代償》 ✦✦✦
Kは、その場に膝をついた。
全身を襲う鈍い痛みと、頭の奥で響く耳鳴りが、彼の意識を曇らせる。
勝利の実感もなく、ただ、荒い息を吐いた。
黒い粒子が剥がれ落ち、戦奴の力は、静かに消えた。
その瞬間、胸の奥で、冷たく重い痛みが鈍く鳴った。
「……これが、代償か」
Kは呟いた。
声はかすれ、魂の抜け殻のようだった。
勝ったはずだった。
だが、あの影の奥に――。
あのとき捨てたはずの、俺自身の声が、微かに残っていた気がした。
何を失ったのか……それすら、もう、俺には分からなかった。
Kは戦場を見渡した。
そこに残っていたのは、影でも人でもなく、静かに吹く風だけだった。
――遥か遠く、かつての市場。
瓦礫の影に身を隠しながら、ひとりの少年が空を見上げていた。
あの空の向こうで、また誰かが戦っているのだと知っていた。
だが彼は、英雄の名前も、怪物の名も呼ばなかった。
ただ、帰ってこなかった人のことを、ぼんやり思い出していた。
言葉にならないまま、唇が動く。
「また……戦ってるのか」
誰に向けた言葉でもない。ただ、風に消えていく。
……K。
意味はなかったはずだ。
虚無、それだけが居場所だった。
それでも、手を伸ばす自分がいた。
それでも――。
名が“鍵”になるなら――この空白も、
開かれるべき扉の前に置かれた、
始まりなのかもしれない。
……そう、“K”が鍵になるのなら。
空白だった自分が、誰かの扉を開ける存在になれるのなら――。
その名にも、意味が宿るだろう。
ただの影の一部が、かつての名残にすがっていただけではないのか。
彼は、ただ目を閉じた。
どちらの意志で、次の呼吸を待ったのか――それすら、もう、分からなかった。
“K”という空白の名が、誰かに応える鍵となるのなら。
次に名を呼ばれた時、自分がまた違う何かであれるように。
名を呼ばれたとき、自分が“誰か”でいられるように。
Kは、まだ空白の名に意味を探していた。
【次回予告 by セリア】
(……壊れていく君を見るたび、私は安堵してしまうの。
いけないわね、これじゃまるで、手放したくないみたいじゃない)
「――王の終わりって、こんなに静かなものなのね。瓦礫の上でひとり、名前すら消えそうになって……それでも、まだ何かを望むなんて」
「
“支配される世界を壊す”って言うけれど……壊したあとの責任、ちゃんと持てるのかしら、K?」
「セリアの小言? いいわ。
“崩れる王座”の上に立ち直るのは、覚悟のある者だけ。
……忘れないで。“影の王”でいたいなら、あなたの影が見てるのは、いつだって“あなただけ”じゃないのよ」