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#6−5: 影を背負う王 ――その名はK



✦✦✦ 《戦奴の選択》 ✦✦✦


 Kは瓦礫の尾根に立ち、迫る敵の波を睨んだ。

 戦奴を使えば勝てる。

 だが、それでいいのか?


 俺は、知略で勝ち続けてきた……。

 だが――力だけが通じる場面だって、あるだろう。……どうする。


 Kは拳を握る。

 指先がじんわりと汗ばむ。

 迫る敵軍を前に、砂時計の砂は尽きかけ、残る粒は、あとわずかだった。


「……これが、俺の答えか」


 Kは拳を握った。

 崩れた戦列の向こう、影鬼たちが逃げる。

 ……そして、黒い波が静かに迫ってきた。


 影が揺らめく。

 戦奴を発動すれば――何もかも、変わってしまう。


 だが、本当にそれでいいのか?


 胸の奥で、何かがざらついた。

 影鬼たちの瞳に、濁った恐怖が滲んでいた。


 刹那、風の音に、誰かの声が重なった気がした。


 ――「お前は、“命令”じゃなく“願い”で動く男だったろう?」


 Kの胸が軋んだ。

 声の主は思い出せない。ただ、心の奥に刺さった。


 “戦奴”――思考が、戦いに染まる。


 発動すれば、迷いは消え、論理と殺意だけが残る。

 肉体の制限も外れ、限界を超えた動きが可能になる。

 けれど、それは自由ではない。


 自分の意思で戦うことが、できなくなる。

 Kにとって、それは勝利を選ぶ手札じゃない。

 “勝ち方”を失う危険だった。


 刹那、敵の剣が迫る。

 迷いの余地はなかった。


 Kはゆっくりと動く。

 まるで時間が止まったかのように。

 左手を顔の前にかざし、五指を開く。

 その隙間から、赤い輝きが漏れた。


 一瞬の静寂が、Kを包み込む。


 ……どこかで、風が止まったような錯覚がした。


 そして、低く囁いた。


 Kの目が、じわりと赤く光を放つ。

 その輝きは、迷いを捨てた意志の色――“知”を捨て、“力”だけで戦う者の覚悟だった。

 影よ、命令を受けろ。これが……戦奴。


 Kは、目の奥に力を集めた。

 ……風が、一度だけ止んだ。

 そして――。


「……黙って従え。これは命令だ、戦奴――発動」


 その言葉と共に、すべての音が凍りついた。

 そして世界の呼吸は止まる。




✦✦✦《解放の代償》 ✦✦✦


 Kの体に、異様な感覚が走った。

 肉体が軽くなる。

 ……視界が赤に染まり、鼓動だけが、やけに大きく響いた。


 すべてが、遅い。

 敵の動き、風の揺れ、血の飛沫。


 考える必要などなかった。ただ、殺す。

 それだけが、Kの中に残された命令だった。

 影が地を這い、獣のように敵を狩り始めた。


 バチィッ!


 背後から雷撃の音。


 くっ、読まれていた!


 Kは瞬時に反応し、

 身を捻る。


 だが、肩口をかすめる感覚とともに、

 全身に痺れが走った。


 敵の武器が近い。

 Kは躊躇なく手を伸ばし、

 影を絡ませると、

 そのまま敵を宙に放り投げる。


 Kは敵兵に触れず、ただ影だけを床へ這わせた。

 影が足元を裂き、敵兵がバランスを崩して崩れ落ちる。

 Kは近づかずに一歩退いた。

 “殲滅”ではない……見せつけているだけだ。これは、本当に“俺”の戦いか?


 その赤を見て、ふと、昔の誰かの笑顔を思い出しそうになった。


 Kは、一瞬だけ立ち止まった。

 視界の端に、崩れた瓦礫と、かつての戦場で泣いていた誰かの顔がちらつく。


 ――なぜ、俺はまだ戦っている?


 血の臭いと、静かな風の音が耳に残った。


 その一撃は、「拳」などではなかった。


 Kが拳を振るうより先に、風が爆ぜた。

 空気が裂ける音。三人の体が、何の前触れもなく崩れた。

 叫びすら、出せなかった。


「ッ……が、ぁ……!」


 呻き声が漏れた時には、すでに三人の肉体に風穴が開き、列は崩れていた。


「理性も、魂も、殺し尽くした先に……これが“力”の理ってやつか……!」


 列の後方で、うっとりとした声が漏れた。

 陶酔したような眼でKを見つめる兵士。その瞳は、崇拝にも似た狂気に濁っていた。


「一撃で……あんな……!」


 ――観測映像に映るKは、もはや“兵器”そのものだった。

 しかし、その暴走に、戦場はどこか静かに、沈黙していた。

 誰も止めようとは思わない。ただ、抗いようのない力に、全員が従っている――そんな異様な絵だった。


 画面越しにセリアは目を細め、わずかに息を吐いた。


「……壊れかけの王様、まだ踏みとどまってるのね」


 セリアはモニター越しにKの姿を見つめながら、胸の奥に微かな痛みを感じた。

 かつての彼との記憶が、心の片隅で揺れていた。


 だがその声には、苛立ちでも侮蔑でもなく、どこか“安堵”の響きが混じっていた。


 その頃、戦場では誰もすぐには動けなかった。


 周囲の兵士たちは、抗いようのない沈黙に飲まれていた。まるで自分の鼓動すら忘れたかのように――。

 ただ、Kの周囲に沈黙だけが積もっていった。


 Kはその沈黙を、風の中で静かに受け止めていた。

 目を閉じていれば、ここが“戦場”であることさえ忘れられる気がした。


 ……一瞬だけ。


 その幻想は、狂気の声によって破られた。


 「美しい……この破壊……これが、“力”の理だ……!」


 列の後方で、うっとりとした声が漏れた。

 狂気を滲ませた兵士が、陶酔したような眼でKを見つめていた。


「お前はまだ迷っているな。俺たちはもう、痛みも意思も捨てたぞ――勝つためにな」


 その声には、何の躊躇もなかった。感情さえ捨てた者の声だった。



 ただ、そこに「爆発のような圧」が走ったことだけが記憶に残る。


 Kは、呼吸している自覚すらなかった。

 ただ、“殲滅”という命令だけが、身体を突き動かしていた。


 影の糸が収縮し、敵兵の悲鳴が響いた。


 ――静寂が、一瞬だけ戻った。


 影は、Kの命令に即応していた。

 しかし、その一瞬、影はKの意志を待たずに動いた。

 まるで、独自の判断で敵を狩るかのように。

 Kはその異変に気づき、眉をひそめた。


 すぐに次の殺戮が始まった。

 Kの視線も、思考も、迷いなく敵へと向いていた。


 ……けれど、その影の動きには、ほんの一拍、どこか曖昧な“間”があった。


 敵兵が回り込む。Kは気づかない。


 冷静であろうとする脳が、焼けた回路のように応じない――思考が、追いつかない。


 視界には敵しかいない――戦奴の代償だった。

 かつて磨いてきた戦術も、すべて影の奥に沈んでいく。


 陰に潜んだ弓兵の気配すら、意識に入ってこない。


 しかし――次の瞬間、Kの動きが鈍った。


 影が重い?


 槍兵が踏み込む。突きが来る。

 Kは右足を引いた。

 敵の視界から――消えるはず、だった。


 揺れる影に、Kの体が微かに引きずられた。


 何だ、この違和感は?


 ザッ!


 Kは咄嗟にしゃがみ込み、背後を裂く刃の軌跡を感じる。

 服が裂け、微かな熱が肌を焦がした。


「……!」


 Kは即座に間合いを取る。

 敵兵がこちらを睨んでいた。


 奴は手を開閉しながら、眉をひそめる。


「魔力じゃねえ……これは、呪いだろ……? あんなの、魔族でも出せるもんかよ……!」


 ――その報告は、すでに後方司令部にも伝わっていた。


「……現地部隊からの報告では、“影”が自律している可能性があると」


「まさか……戦術ではない? あれは……」


「確認は取れていませんが、数名が“夢を見た”と言っています。戦術による認識阻害の域を超えている、と」


「……これは、兵器じゃない。“神話”だ」


 通信越しのやりとりに、常識が崩れていく感覚が滲んでいた。


 背後から別の声が飛ぶ。


「……異常だ。エネルギー干渉値が通常の倍以上……制御できていないのか?」


 報告を聞いた前線の兵士たちは、ざわついた。

 冷徹で機械的な報告のはずが、なぜか――どこか湿った余韻を残していた。


 その言葉は、通信越しに全て監視していたセリアにも届いていた。


《反応値、上昇傾向継続。感情波動は抑制状態。

……悪くないわね。今の彼なら、“より深く”まで引き出せる》


 その言葉のあと、Kはわずかに空を仰いだ。焦げた風のにおい。誰かの断末魔が、遠くで消えていく。


 まだ、終わらないのか……。


 Kは、一瞬だけ、己の鼓動を確かめるように胸に手をあてた。


 敵兵の動きが、ふと止まった。


 そのわずかな間に、己の内に渦巻く“ズレ”を押し込めるように奥歯を噛みしめた。

 Kは唇の内側をそっと噛んだ。

 敵の分析が耳に届いている。

 だが、Kは思った――これは自分が制御している。影も、力も、まだ――自分の手の中にある。

 そう、信じたかった。


 ……だが、その敵兵は、もう二度と動かなかった。

 Kの影が、命令よりも速く、彼を沈黙させていた。




✦✦✦ 《影の沈黙》 ✦✦✦


 影が、応じない……いや、違う。どこか……引かれている?

 指先に、かすかな痺れ。

 影は、まるで、誰かに引かれるように――わずかに、歪んでいた。

 ……影の奥で、誰かが笑ったような気がした。


 ほんの一瞬、誰かに操られているような――そんな抵抗を感じた。


「囲め! こいつの力はまだ完全じゃない!」


 敵兵の怒号が響く。


 ……けれど。Kの意識は、別の、もっと暗い深みに、沈みかけていた。


 影が……独りで動こうとしている? 俺の意志じゃない……?


 戦場の喧騒の中、ふと影の奥から何かの気配を感じる。


 ほんの一瞬、微かな声――それは、錯覚か、それとも……?


「……命令を、受けろ」


 それは、Kの声ではなかった。

 影の奥から、誰かが、Kに命じていた。

 かつて、自分が影に命じた言葉を、今度は自分が逆に、囁きかけられる。

 影とK――どちらが主人か、わからない。


 だが、そのかすかな違和感も、敵の猛攻に呑み込まれた。


「ぎゃあああ!」


 影に囚われた兵士が恐怖の叫びを上げる。その顔を見て、Kはわずかに目を伏せた。


 あれが……“俺の力”の結果か?


 セリアの声が響くより前に、Kの中で何かが止まった。次の動きが、わずかに遅れた。


「……こんな勝ち方を、俺は望んでたのか?」


 Kには、異変の輪郭すら掴めなかった。



✦✦✦ 《影の断罪》 ✦✦✦


 ……叫びが止んだ。

 倒れた兵士の目は開いたまま、恐怖とも恍惚ともつかない表情を浮かべていた。

 その唇が、震えていた。


「……やめてくれ、もう……“夢の中”は……」


 影は、彼にとって“夢”だったのか、“地獄”だったのか――誰にも分からなかった。

 一人の槍兵は、仲間に裏切られる光景を、まるで現実のように見た。


「やめろ! 俺を殺すな!」


 錯乱した彼は、自ら剣を喉元に突き立てた。

 恐怖と苦痛に歪んだ顔で、彼は息絶えた。


 別の兵士は、影の中で得体の知れない快楽に溺れていた。


「気持ちいい……影に溶ける感覚が……これが終わりなら……悪くない」


 その顔には、もはや理性の影すらなかった。


 戦場は、恐怖と快楽の悲鳴に飲み込まれ、

 秩序は静かに溶けていった。


 敵軍の指揮官が、最後の一撃を放とうと前に進み出る。


「お前は、ただの市場の敗者にすぎん!」


 指揮官は、咆哮と共に、炎を纏った巨大な火球を放った。

 焦げた風が、押し寄せる。

 炎は、周囲すべてを、根こそぎ飲み込もうとしていた。


 だが、Kは微動だにしなかった。


「もう、止まれないだろ……なら、見せてみろよ。お前の力を」


 彼が静かに呟いた瞬間――。

 Kの足元から湧き上がった影が火球を包み込み、炎はあっという間に消え失せた。


 指揮官の顔には、絶望が浮かんでいた。


「市場の奴隷よ。これが、お前たちの行き着く先だ……!」


 哀れな奴隷ども……これが、お前らの、行き着く……果て、だ。


 「お前は“名前”にすがっている……くだらんな。俺はその名すら捨てた。無名こそ、完全な戦士だ」


 指揮官の声には、誇りすら宿っていた。名を捨てた己の姿を、“完成”と呼ぶ者の声だった。


 その様子を遠隔観測していたセリアは、唇の端をほんのわずかに持ち上げた。


 「……その名前、“K”なんて。空白の器にしか見えないのよ」


 セリアはKを観察対象として冷徹に見つめながらも、かつて“届かなかった誰か”の幻影を重ねていた。

 声に乗ったのは、皮肉ではなく、どこか満たされない静けさだった。


「呼んでも呼びかけた気がしない――それが、少しだけ寂しいの」


 Kの影が、指揮官を呑み込む。


 Kの意志が影に命じた覚えのない動きがあった。


 セリアは観測越しに、そのズレに気づいた。


 ……また壊れたふりをしてる。ほんと、面倒な男。

 思わず端末の映像に指を添えて、息を吐いた。


 ふと、その言葉の端に、ほんのわずかな優しさが混じった気がした。


「捨てきれないのね、その名を。……ふふ、甘さが残ってる」


 遠くの誰かの言葉が、風に乗って届いたかのように―― 。

 Kはふと、自分の動きにわずかな違和感を覚えた。


 今の動きは、自分のものじゃない――Kは、かすかな疑念に立ち止まりかけた。


 一瞬だけ、影の奥から別の“何か”の視線を感じた気がした。

 それは、彼の命令には従っていない――いや、命令すら必要としない存在。


 影鬼たちの動きに、Kはわずかな異変を感じた。

 制御の枠から外れている。それは、まるで――独自の意志を持っているかのようだった。


「クク……ようやく近づいたな、“影の胎内”へ。お前が純粋な闇に還るその時を、私はずっと……待っていた」


 あの陶酔に満ちた声が、また聞こえた。さっきの狂信者か――いや、影を通して、どこかから見ている?


 Kは、動く影にほんの一瞬、嫌悪に近い感情を抱いた。

 ……なのに、同時に安堵もあった。

 自分が壊れても、何かが“代わりに動く”。そんな逃げ道に、どこかで縋っていた自分がいた。

 ――俺は、壊れる準備を……していた?


 ……その様子を、観測塔の端末越しにセリアが見ていた。


 かつての彼なら、あの一歩は踏み込めなかった。


「よかった……ちゃんと“壊れてきた”。でも、まだよ、K。あなたはもっと綺麗に壊れる」


 呟きには喜びとも、哀しみともつかぬ感情が滲んでいた。


 セリアはそっと目を細めた。


 あなたが壊れていく音が、いちばん安心するの。

 ちゃんと私の形に戻ってくれるって、信じられるから。


 セリアはモニターに映る赤い瞳を見つめ、微笑んだ。

 愛情と支配、その境界はとうに消えていた。


 その最後の瞬間、彼の叫びは戦場全体に響き渡ったが、

 それすらも影に掻き消され、静寂が訪れる。



✦✦✦ 《静寂の代償》 ✦✦✦


 Kは、その場に膝をついた。

 全身を襲う鈍い痛みと、頭の奥で響く耳鳴りが、彼の意識を曇らせる。

 勝利の実感もなく、ただ、荒い息を吐いた。


 黒い粒子が剥がれ落ち、戦奴の力は、静かに消えた。

 その瞬間、胸の奥で、冷たく重い痛みが鈍く鳴った。


「……これが、代償か」


 Kは呟いた。

 声はかすれ、魂の抜け殻のようだった。


 勝ったはずだった。

 だが、あの影の奥に――。

 あのとき捨てたはずの、俺自身の声が、微かに残っていた気がした。

 何を失ったのか……それすら、もう、俺には分からなかった。


 Kは戦場を見渡した。

 そこに残っていたのは、影でも人でもなく、静かに吹く風だけだった。


 ――遥か遠く、かつての市場。


 瓦礫の影に身を隠しながら、ひとりの少年が空を見上げていた。

 あの空の向こうで、また誰かが戦っているのだと知っていた。

 だが彼は、英雄の名前も、怪物の名も呼ばなかった。


 ただ、帰ってこなかった人のことを、ぼんやり思い出していた。

 言葉にならないまま、唇が動く。


 「また……戦ってるのか」


 誰に向けた言葉でもない。ただ、風に消えていく。


 ……K。


 意味はなかったはずだ。

 虚無、それだけが居場所だった。

 それでも、手を伸ばす自分がいた。

 それでも――。

 名が“鍵”になるなら――この空白も、

 開かれるべき扉の前に置かれた、

 始まりなのかもしれない。


 ……そう、“K”が鍵になるのなら。

 空白だった自分が、誰かの扉を開ける存在になれるのなら――。

 その名にも、意味が宿るだろう。


 ただの影の一部が、かつての名残にすがっていただけではないのか。

 彼は、ただ目を閉じた。

 どちらの意志で、次の呼吸を待ったのか――それすら、もう、分からなかった。


 “K”という空白の名が、誰かに応える鍵となるのなら。

 次に名を呼ばれた時、自分がまた違う何かであれるように。


 名を呼ばれたとき、自分が“誰か”でいられるように。

 Kは、まだ空白の名に意味を探していた。





 【次回予告 by セリア】


 (……壊れていく君を見るたび、私は安堵してしまうの。

 いけないわね、これじゃまるで、手放したくないみたいじゃない)


「――王の終わりって、こんなに静かなものなのね。瓦礫の上でひとり、名前すら消えそうになって……それでも、まだ何かを望むなんて」


次回王の終焉、意思の始まり、『それでも立ち上がる、理由』。

“支配される世界を壊す”って言うけれど……壊したあとの責任、ちゃんと持てるのかしら、K?」


「セリアの小言? いいわ。

“崩れる王座”の上に立ち直るのは、覚悟のある者だけ。

……忘れないで。“影の王”でいたいなら、あなたの影が見てるのは、いつだって“あなただけ”じゃないのよ」

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