✦✦✦《崩壊した拠点》 ✦✦✦
戦場には、冷たく湿った夜の闇がじわじわと広がっていった。
“影の王”の城――今は、ただ無残な瓦礫だった。
崩れ落ちた石壁、焼け焦げた柱、
そして散乱する影鬼たちの砕けた断片。
力も誇りも、消えた。……静寂だけが、重たく降りていた。
風が冷たく吹き抜けるたび、
血と灰が混じった匂いが漂い、Kの喉を焼き付ける。
Kは膝をつき、冷えた瓦礫に手を伸ばした。
あったのは、砕けた影鬼たちと、誇りの亡骸だけだった。
瓦礫のすべてが語っていた。――ここに、すべてが終わったのだと。
これが……俺の力のすべてか。
指先が、勝手に瓦礫を掻きむしる。
――音だけが、耳に残った。
掴めるものなど、何もない。
ただ、冷たい風が頬を撫でる。
空は、何も答えてはくれなかった。
何かを吐き出すように、Kは喉の奥で呻いた。
指に力が入らない。
ただ砕けた石を擦るだけの、無様な音が耳に残る。
「……なんだよ……これが……?」
呟きは、ただ空気に溶けた。
力を込めるたび、空虚だけが広がった。
Kは、喉をかすかに震わせる。
「……俺は……負けたのか。いや……もう、それすら分からない」
その声すら、風に消えた。
――城も、仲間も、未来もすべて失った。
喪失感が胸の奥に沈む。……逃れられない感覚だけが、静かに広がっていた。
音もなく崩れ落ちていく自分自身の存在。
冷たい夜が、そっと彼を飲み込んでいった。
✦✦✦ 《失われる輪郭》 ✦✦✦
視界がかすむ。
滲んでいるのは涙か。それとも――現実そのものが揺らいでいるのか。
Kにはもう分からなかった。
身体中に広がる鈍い痛み。
それだけが、生きている証だった。
その痛みすら、もう他人事のようだった。
影鬼たちは、俺を見限った。
かつての忠誠はもうない。
あの魔王市場も、俺を拒んだ。
もう誰の記憶にも、俺の名は残らないかもしれない。
Kは、この世界から静かに剥がれ落ちていくような錯覚を覚えた。
Kは震える手をゆっくりと目の前に掲げた。
指先がかすかに震え、熱も感じない。
存在が、霧のように溶け出していく気がした。
「俺は、まだここにいるのか?」
誰も答えない。
風が吹き抜け、瓦礫をわずかに揺らす。
月の光が影を伸ばし、静寂が広がっていた。
俺は、もういない――そんな馬鹿なことが……。
そう思いながらも、Kは否定できなかった。
彼自身の存在が、薄れかけているのだ。
影鬼たちの記憶から、Kの姿が消え去ろうとしている。
瓦礫の隙間から、影鬼たちがゆっくりと姿を現した。
体の一部が欠け、崩れた腕や砕けた角から黒い粒子がこぼれ落ちていく。
Kを見つめる瞳には、もう忠誠の影はなかった。
一体の影鬼が、低く呟く。
「市場はお前を見捨てた……お前は、もはや王ではない」
「お前は……王ではない……」
その言葉が、胸の奥をざらりと裂いた。
否定したい気持ちはあった。
だが、その言葉を覆す力も、声も、彼には残っていなかった。
「……俺は……影鬼の王だ……」
Kの呟きは、虚空へと力なく消えていった。
影鬼たちはKからゆっくりと距離を取る。
市場の評価に呼応するかのように、彼らの忠誠は薄れていた。
その瞳は、冷たく遠いままだった。
「俺は、本当に俺でいられるのか?」
問いすら、夜に呑まれていった。
✦✦✦ 《幻光の中の女》 ✦✦✦
瓦礫の奥に、何かがいる。
Kは顔をしかめ、無意識に拳を握った。
ただの風か? それとも……まだ“敵”が残っているのか?
気配は、確かにある。だが、見えない。
――そのとき、瓦礫の隙間から、微かな光が漏れた。
最初はかすかな輝きだったが、やがて闇を押しのけ、空気すら変えていった。
Kは顔を上げた。
そして、その光の中心に立つ一人の女性を見た。
黒紫のドレスをまとった彼女が、そこにいた。
闇に溶けるような濃紫の髪が静かに揺れ、銀紫の瞳がまっすぐKを貫いた。
白磁の肌が月光を受け、冷たく、淡く輝いている。
彼女がそこにいるだけで、空気の密度が変わった。
「……誰だ……?」
掠れた声が、震えながらも彼女に向けられた。
このような状態でも、抗いがたく惹かれる。
触れたくなるほど、妖艶な美しさ。
Kの理性が、一瞬だけ、揺らいだ。
彼女は静かに微笑んだ。
その笑みには、冷たさと慈悲が混在していた。
だが、その瞳の奥には、微かに隠しきれない想いが滲んでいた。
微笑むエリシアの瞳は、Kを試す冷たさの奥で、別の――もっと深い、個人的な願いを隠していた。
「……なるほど。“王の成れの果て”って、こういうこと。」
声は柔らかかったが、底には何か鋭いものが潜んでいた。
エリシアは一歩、瓦礫を踏みしめて進み出た。
「名乗る必要なんて、ないと思っていたわ。けれど――エリシアよ。影の女王として、あなたに一つだけ問いかける」
ほんのわずか、ためらいが混じった。
それでも、彼女はKをまっすぐ見つめ続けた。
「K。あなたはまだ……望むの?」
その問いは、Kの胸の奥深くに、重く沈んだ。
「……望む……?」
言葉は、風に消えかけた。
Kは目を伏せ、拳を瓦礫に押しつける。
……しばしの沈黙。
そして――その想いが、音になる。
崩れた世界への怒りが、拳に渦巻いていく。
あれほど信じていたのに、なぜ即答できなかったのか。
喉の奥に滞った感情が、ようやくこぼれ落ちた。
Kは一呼吸置き、低く呟いた。
「……この召喚制度を、俺が終わらせる」
セリアの姿が、脳裏をよぎる。
Kは、あの夜のことを思い返していた。
「拾われたんだ……あのとき、俺に“意思”を問うてくれた」
あれから、策略を巡らせ、牙を剥き続けてきた。
世界の歪みを、少しでも動かすために。
「だからこそ、俺が終わらせる。誰にも、二度と奪わせはしない」
その言葉を聞いたエリシアは、満足げに微笑んだ。
そして、そっと手を差し伸べた。
「立ちなさい、K。影の王としての“姿”を、私に見せて。
そんな姿では、誰もあなたを恐れもしないわ。」
その声には、静かな威厳と、確かな温もりが込められていた。
✦✦✦《再起の誓い 》 ✦✦✦
Kはゆっくりと立ち上がった。
足元の瓦礫が崩れる音が小さく響く。
彼はエリシアの瞳を見据え、深く息を吸い込んだ。
「俺は影鬼の王だ。……だが、その力には溺れない。絶対に」
その言葉に、影鬼たちがざわめき始めた。
その輪郭が、少しずつ明瞭に戻り始める。
「市場が俺を拒絶するのなら、歪んだ仕組みごと、根底から書き換えるしかない。
……俺が、変える。奪うだけの世界を」
その声が、夜を裂いた。
「奪うだけのゼグラントの市場――その根を、俺が断ち切る。そして、築く。新しい“王の意思”で」
影鬼たちの視線が、再びKをとらえていた。
そこには、かつての服従ではない――“共に歩む者”としての光があった。
「俺はっ! Kだぁあああああ!」
空気が、振動するようだった。
廃墟が、その名を静かに反響させる。
まるで、世界そのものが――その名を認めたかのように。
絶叫の余韻が、奥底まで染み渡った。
砕けた石が、その名を呟いた気がした。
エリシアは、そっと名を呼んだ。
「……K」
否定する者は、もういなかった。Kの声だけが、夜を貫いていた。
微かな息遣いが胸を満たす。Kは拳をほどき、迷いを背中に置き去りにした。
そして――進んだ。もう、振り返ることはなかった。
瓦礫を踏みしめた瞬間、自分の中にまだ残る怖れに、かすかに歯を食いしばった。
でも、もう振り返らなかった。
瓦礫が崩れる音が、静寂の中に響く。
「……影鬼の王として――」
Kは、沈黙の中に言葉を置いた。
「俺は……まだ終わっていない」
――空は、ただ静かに広がっていた。
言葉はもう、要らなかった。
夜風が一陣、瓦礫をかすかに鳴らした。
Kは足元を見つめ、ひとつ、深く息を吐いた。
踏み出したその一歩が、夜の静寂を破った。
その足音に続くように、影鬼たちもまた、沈黙の中を歩き出す。
――その背後で。
沈黙していた影が、ゆっくりと波打った。
焼け焦げた瓦礫が、微かに震えた。
その隙間から、黒い影がゆっくりと立ち上がる。
灰の舞う空気を裂くように、重く鋭い気配が満ちていく。
影が形を取り、漆黒の騎士が現れた。
その鎧は、夜の闇すら拒むように光を吸い込み、静かに立ち上がる。
鞘に収めた剣を腰に携え、確かな足取りでKの背中へと向かっていく――。
それは、セルバスだった。かつて「理性の象徴」として召喚された、Kの剣。
それは、セルバスだった。
かつて「理性の象徴」として召喚された、Kの剣。
いま、彼は何も語らない。
ただ、その歩みだけで、Kの背を肯定していた。
風が吹き抜ける。
砂と灰が舞う中、セルバスは無言でKの側に立ち、剣の柄にそっと手を添える。
静寂の中、低く、地を這うような声が響いた。
「……俺は剣。K様が歩む限り、何度でも振るわれる」
セルバスは続ける。声は変わらず淡々としていたが、そこには確かな感情の熱がにじんでいた。
「見ていました。……ずっと。影の底から、K様の背中を」
瓦礫の隙間、影の狭間――剣として“まだ振るわれる前”から。
決して声を出さず、ただその歩みに寄り添い続けていた。
K様が立ち止まれば、立ち止まり。進めば、共に進もうと心だけが先に揺れた。
Kは振り返らない。
だが、その言葉だけで――十分だった。
……なら、俺が“剣を振るう理由”を見せてやる。
だが――確かに立ち上がったはずの足は、まだほんの少しだけ震えていた。
その震えを、K自身も気づかぬふりをした。
夜は、まだ静かだった。
セルバスもまた、ただ前を見据える。
二人は言葉を交わさず、夜の中をゆっくりと歩き出す。
瓦礫を踏む足音だけが、確かにそこにあった。
王と剣――語らぬまま、運命を再び握り合った。
【次回予告 by エリシア】
「――王としての価値が消えた? ふふ、それでも……私は“あなた”の側に立つわ」
「
力じゃない、“存在”が影を揺らすの。……それが、あなたの本当の価値よ」
「ねえ、K。忘れないで。
市場が否定しても、私は……あなたを“選び続ける”わ」