美術室。日の過ぎるのが早い夏の暮れ。
りんごといちご。わたしの財布を持ってジュースを二缶買ってきたらしい四十内さんは、開口一番に閉口させてくれる。開いた口が塞がったわけではないのが憎らしい。
ケント紙を引っ掻いていた鉛筆の芯もポキリと飛んだ。
「また随分だね、四十内さん」
さる名家のお嬢様。純一無雑の優等生。そんな令嬢の真相はわたしだけが知っている。
わたしの応えも待たず、四十内さんは隣の席から椅子を拝借。わたしの目の前に腰掛けると、バーカウンターでするようにりんごジュースの缶をこちらの机へいざらせる。
ガタン。ゴロゴロ。
……まぁ実際のカウンターでも背の高いグラスだと上手くできないらしい。学校の机で、アルミ缶だとなおさらだろう。
缶の背に刻まれた『よくふってからお飲みください』をしてやったのよ、くらいの顔をしている。美人というのはかくも雄弁だ。
実は四十内さんはいちごがお好き。自分の分だけ買ってくればいいのに……とは思わない。わたし、りんごジュースが好きだから。
「私、四十内かいなが議長で、緩利沙咲さんが議員ね。いい? 」
疑問符こそついているが、言外の圧に押し出されてあまり機能していない。
実は、四十内さんは結構押しが強い。
図書館への入荷依頼を紐で綴じて連日送りつけたことは、今でも図書委員会の中で悪夢の三日間として語られている。本人曰く『受理の通達も不受理の通達もなかったから届いているか不安だった』とか。だからといって、反応の鈍いエンターキーを連打する要領で手書き二十枚を送られても困るだろうに。
閑話休題。
とにかく、こうなった四十内さんが一歩も退かない──わりと崖端歩きはしている四十内さんなのだけれど──意地を張ったらテコでも動かないのはよく知っている。
とはいえ、こちらも部活動をしたい。3Bの鉛筆の芯は折れてもわたしは折れないぞ。それとなく断ってみよう。
「四十内さん、わたし今構図考えたりしてるからさ。持ち前のユニークさを発揮できるコンディションじゃないんだ。ほら、舌もよく回らないし、
四十内さんはハッと目を見開いて、どぎまぎ。それだけで言い出したこちらが申し訳なくなるから顔の良い人は卑怯だ。
「えっ、乗り気じゃないの? 下書きすら終えていない緩利さんに、せめて話だけでも色っぽいのを、と慮ったのに」
「色をつけるなら勝手に使われたジュース代にお願いしたいんだけど……」
むしろ早く絵に色をのせたいから下書きをしているんだけど。
「でも髀肉の嘆は緩利さんにピッタリね。髀肉で嘆って感じだけれど!」
「それ以上言うと四十内さんでも
髀肉の嘆。平穏な世の武人が馬に乗ることが少なくなり、
パコン。プルタブが乾いた音を立てて、いちごの甘ったるい匂いが漂う。わたしの請求と恫喝には応えず、こくこくと実に可愛らしく喉を鳴らしてる。
実は四十内さん、意外とケチだ。お金持ちはお金を貯めるのが得意なんだから、まぁ、らしいといえばらしいのかな。質素倹約出来てえらいえらい。
意欲をすっかり恋愛談義に掠め取られてしまったようで、ペンは止まってしまった。
よくよく考えれば四十内さんに乱入された時点で創作活動なんて絵空事なわけだ。それならばいっそ、開き直って議論に花を咲かせよう。
「でも、なんでまた恋愛についてのお話がしたくなったの? 不純異性交遊って校則では禁止じゃないの?」
途端、高笑い。三段階に変速して笑う人をアニメ以外で初めて見た。笑い疲れたような四十内は目元を拭う。
「はぁ、ふふ。不純異性交友って書くと凄く
「思春期だからと言って許されると思うなよ」
口語で伝わりづらいボケをされるとツッコミに困る。SNSなどの文語でもやめて欲しいが。
「四十内さんが遊んでないことはわかったよ。口に出してわかりづらい言葉遊びはやめてね」
「口に出して……?」
口より先に手が出た。やはり四十内さん、頭の出来も違うようでスパァンといい音がなる。その中にはロクでもないのが詰まっているのだろう。
「不純異性交友なんてしないわ。興味もないし。けど、恋愛については別よ」
脱線した話をなかったことにしたかのようなパワープレイ。三秒前は男子中学生の霊でも取り憑いていたのだろうか。
「ほら、恋と愛って言葉があるじゃない? 混同されがちな言葉、なんて評されるけれど、そもそも違いはあるのか気になったものだから……」
その先は言葉にならなかったのか、四十内さんは甘いため息を吐く。きっと、いちごジュースのせいだけではなさそうだ。
「なんとも青春めいた議題だね……」
花も卒倒しそうなほど純な悩みだ。"恋してる自分"を飾りたいが為の浅いものじゃなく、いや、下手をするともっと薄っぺらな疑問なんだろう。
しみじみと眺めていると、四十内さんが気持ちむくれて白い目で睨めつけていた。
「あら、そんな大人ぶってる緩利さんの恋愛観はどうなのかしら」
「恋愛なんて、した覚えがないからわからないかな。どっちの言葉も好きってことなんだろうけどね」
愛の少ない生涯を送って来た。
わたしは自他共に認めるスレた女の子だったので、その手の話には疎い。少女向けの恋愛漫画を開けば、やり取りが焦れったくて登場人物たちが恋に落ちる前にわたしが脱落したし、毎年夏が来ると公開される紋切り型の映画は好まなかった(どころか見分けがつかず辟易した)。
これらの経験もひとえに知ろうとした結果であり、決して食わず嫌いではない。
嫌々、不承不承ながらもそれなりに勉強はしていたのだと声を大にして叫びたい。つまり、わたしは考証する愛の理論家にして胡乱な愛の実践家だったのだ。
そんな恋愛のセミプロとでも評すべきわたしの発した"好き"という言葉が、四十内さんの琴線にかかったようだ。椅子の後ろ脚が浮くほどグイと前に乗り出してきた。顔が近い。
「好き。曖昧な表現ね、もう少し詳しく教えていただける?」
身を乗り出すような、それこそ実りある話でもないし、こんな乙女チックな花柄の風呂敷はあんまり広げたいものではないんだけど。
通話中に片手間でするようにペン先を遊ばせる。電話コードの螺旋もどきが増設されていく。マウスのポインタがぐるぐるを描くのと同じく、言葉が出るまでのローディングだ。
数世帯分の電話コードを書き終えたあたりで、言いたいことの輪郭が言葉になってきた。
「……んー無理じゃないかな。好き嫌いって、感情の中で最小のものじゃない? 指針っていうか」
「……
意図の端々を疑るように、四十内さんの目が細くなる。
「うん。えーと……。たとえば、お金持ちが居たとするでしょ? 」
口にしてから目の前に居るのも"お金持ち"だと気づいた。四十内さん、とても寛容なので多少無礼を働いても許されるだろう。
「なかなか現金な喩えを持ち出すのね。そういう緩利さんは初めて見るわ」
知らず卑しさが滲み出てしまったのは気恥ずかしさがある。相手が相手なだけに堪えるというか……。今後、四十内さんの前でのはガメツさを発揮するのはよそう。今回のジュースも奢りということにしよう。
それはともかく。
「好きだったなら、その豊かさはその人の能力の高さを示すし、資産になる。けど、嫌いなら欲深い風にしか見えない」
四十内さん、顎に手を当ててしばし沈黙。お嬢様に金銭の話は例に取り上げても伝わりにくかっただろうか?
「そのお金持ちが好きか嫌いかで見え方が変わる。裕福だから嫌いっていう論法は無いってこと? 」
「うん。袈裟が嫌いだから坊主が憎いって人は居ないと思うんだよね」
ことわざの通り、坊主が憎いから袈裟すら憎くなるって人のほうが筋道だっている気がする。
結局、嫌いな人が何をしても鼻につくし、好きな人が何かしたら心配になる。つまりそういうことで、
「……そう」
四十内さんの返事はなんだか素っ気ない。肩透かしになってしまっただろうか。
「四十内さんはどう? 好きって言われたらどんなこと思いつく? 恋愛についてとか」
三点リーダが偶数個並んで、一拍。
「カンゲキ? 」
「……
「恋愛は隙ありってことよ」
「一理ありそうだけども! 」
「恋愛はスケアリー」
「それは新しい! 」
恐ろしげな恋愛観を言い捨てた四十内さんは、いちご缶を一気に傾け喉を鳴らす。飲み干したのか、置かれた缶からは軽い音が響いた。
実は四十内さん、誤魔化しかたが下手。嘘がつけないのか、痛い腹を探られると途端に喋らなくなる。
大方、自分で話を切り出したはいいが、返す刀で自分の腹まで斬りかねないと気づいたのだろう。そう解釈していい。
いくら四十内さんとて聞くだけ聞いて自分は話さずなんて、そんなひどいズルは見逃せない。少しだけ追撃。
「四十内さんの恋愛観、聞いてみたいんどけどなー」
今、苦悶の表情を浮かべている四十内さんは義理堅い。乙女として秘めておきたい心と返礼義務とを秤にかけているのだろうけど、きっとこちらに転がる。
「た、たしかにこのままでは
「モズカンジョウ?」
字面がわからず百舌だというのにオウム返し。
「お金を出し合う時に上手いこと払わずにいい思いをすることよ」
百舌ってそんな賢い鳥だったのか。早贄をしたはいいけど、どこに刺したか忘れているたわけだと思っていた。非常食を買い溜めては食べすぎてしまうわたしの仲間ではなかったらしい。
百舌の裏切りにあっていると、チャイムが鳴る。放課後も部活や勉強で残る生徒への活動時間の終了の合図だ。