「
放課後の教室。いくら日が落ちかけているとはいえ、カーテンを閉めなければ目に優しくない。目が弱いわたしは、もちろんちゃんと閉めていた。
わたしの目つきが鋭くなったのは、決して西陽のせいではなかった。いつも通り
紙面を走るシャーペンが迷走を始める。超のつく優等生のノートを写すだけの簡単な作業だというのに。提出期限こそ今日中である課題だが、そこまでの難敵ではなかったはずなのに。
対照的に、隣にかけた四十内さんはいつものように澄まし顔だった。
今回の四十内会議の"オタクについて"という議題がわたしの心をにわかに波立たせる。朝露の落ちた湖面のように、静かな波紋だ。だが、わかる。この波紋が前触れであり、のちに津波がやってくると。
よからぬ
ここまでが、だいたい二秒の出来ごと。死に瀕した際の走馬灯はこうやって使うのだ。
「えぇと、今度は何にハマったのかな? 四十内さん」
努めていつも通りのトーンで伺う。胸中の不安を気取られないように。手も止めずに動かし続ける。ミミズの踊ったような字ではあるが、そこまで目ざとくないだろう。
ノートに釘付けの伏し目がちなまま、横目で覗くと四十内さんは暇そうだ。わたしの写経を待つのも手持ち無沙汰なのか、クルクルと器用にペン回しを──していない。
指先で遊ばせていたペンが教壇のほうへ吹っ飛んでいった。しかもわたしのペンだ。
ちゃんと拾ってね、とお願いすると渋りながらも向かってくれた。なぜ人のペンをぶっ飛ばしておいて、仕方ないなという表情だったのかは考えない。
「ネットの有識者曰く、オタクはアニメ漫画よりも、昨今は冷笑と炎上に群がるばかりと聞いてるわ」
四十内さんがペン吹き飛ばしに用いたシャーペンを拾い上げながら、そんなことを言う。
その有識者とは縁か手を切ったほうがいいような気がする。そう感じたわたしも腹を切りたい。
「いつからオタクは萌えないゴミになったのかを考えたいわ」
カッカッとチョークが快音を鳴らす。黒板に『萌えない/萌える』と書かれた。ゴミの分別か、そうでなければ『あるなしクイズ』でもやるつもりなのだろうか。
「いやいや、不燃ゴミ扱いは可哀想でしょ」
熱狂的なオタクだってまだ燻っているだろうに。不燃ゴミのほうだって、人の役にたっていたのにオタクと同列なのは不服だろう。
「でも萌えてるオタクを久しく見ていないわ。燃え尽きたのかしら」
萌えカスとなったオタク。果たして真っ白な灰というほど綺麗に燃えていたのだろうか。どうにも不完全燃焼が否めない。
変な想像を振り払う。いつも通りのテンポでキャッチボールを続けるんだ。捕球して、すぐ返す。考えろ、なぜ萌え豚──もとい萌えオタク──を見なくなったのか。
「うーん、今は萌えより推しなんじゃないかな。推し活とか推し事とかさ」
時代は四十内萌えから四十内推しに。
四十内推し、なんだろう。いちごを捧げたりするのだろうか。推しのマークは間違いなくいちごだろうけど。
劇中のローマ人が着るようなパルラを着た四十内さん、祭壇に捧げ物として山盛りのいちごを供える。とても絵になる。
無駄話はさておいて。そろそろ頭を思考から会話へスイッチさせなければ。
「どこかで見た意見だと、萌えっていう自己本位から、推すっていう他者を尊ぶものに変わったらしいよ」
この意見は萌えを軽んじてるようであまり好きではないが、それは私見なので無視。
「何か遷移の歴史、契機みたいなものはあったのかしら」
黒板に『雄/押忍/推す』と刻まれる。微妙に意味が通りそうでかけ離れている。反対語は雌/召すあたりだろうか。寵愛的な意味では
「そこまではわからないけど。でも推しってアイドルとかの文化だった気はするんだよね」
ノリが誰それ担当とかの概念に近いというか。元はアニメの中でも、歌やライブと併せたアイドル系のコンテンツくらいしかない概念だと思う。
もしかすると、女性向けの作品に多い概念だったのかもしれない。昨今は売れ行きの偏りも相まって、グッズもそちらのほうが台頭しているらしいし、それに伴って母数として増えてきた感じだろうか。
いかにも女性向けって感じで用意されたコンテンツ、嫌いでないがわたしはハマれていないので推測になってしまうけど。
四十内さんはチョークを置いた。
なぜか、怪訝な目つきでこちらを見遣る。射竦められるような視線がチクチクと刺さる。
「ところで緩利さん。今回はいつもより口数が多い気がするのだけど」
「気のせいだよ。自分なんて全然オタクじゃないよ」
声がうわずった。目つきが一層
「本当? オタクは皆そう言うわよ」
「いや、わたしがオタクっていうのもアレだよ。分不相応というか、ちょっと漫画とアニメ見てるだけだしさ」
「否定から入ってるところで更にポイント獲得してるわね」
四十内さんはくるりと後ろを向き、にこやかな棒人間を描いたかと思えば、顔に緩利と書き足した。
「小賢しい罠を……!」
いや、否定から入るというだけでオタク扱いを受ける謂れはないはずだけども。
いや、これも否定から入ってるからダメなのか。人知れずマイナス二点。
「じゃあ、どんな人ならオタクたり得るの? 別に、私は緩利さんがオタクでも構わないけれど」
オタクである定義。イラストのフリー素材のようなチェクの服にバンダナとメガネなんてのは少しルッキズムがすぎる。
ここは話の矛先をオタク定義から滑らせて、わたしは一般人だということを声高に説くべきじゃないだろうか。
「んー……。わたしが思うオタクってもっと詳しい人なんだよね。だからわたしは違うかなって」
「アニメを観るのだって配信サイトで見てて、リアタイ視聴はほぼしてない。そのクールで話題になった有名どころだけ抑えてて、網羅してるわけでもない。そもそもが数年前からの継続タイトル多めだしね。前のシリーズでどこまでやったかわからなくて、復習がてら同じアニメばっかり流してるよ。ネットで話題にあがる作品も、一応はマイリス入れておくけど、ほぼ見ないかな」
「ゲームもスマホゲーを何個か掛け持ちでデイリーをこなすだけだし。やり込みみたいな熱量は下がってるかな。あ、シリーズものの大型タイトルが新作を出したらやるけどさ。なんだか電源をつけるって行為も気怠くて、PCでプレイするほうが多いかな。横に動画サイトとかながら見で置けるし」
「あー配信とかライブもそれなりだなー。前までは箱全部アーカイブで二窓三窓しながら余裕だったけど、今は一人二人見るばかりで。個人勢みたいな人も追えなくなった。リアイベなんか普段の配信よりずっとリアル寄りにいるはずなのに、ついていけなくてライブイベントがゲーム配信より遠くに感じるよ」
「ラノベはもう何年も読んでないかなー。お気に入りの作者の続刊は買ってはいるんだけど、積まれるばかりで読めてないや。月に一冊くらいの間隔で増えていくから、場所もあんましバカにならないのがつらい」
「………………そう。予想以上ね」
四十内さんはそっとチョークを置いた。黒板の緩利にオタクとルビが振られていた。
──失敗した?
わずかに開いていた窓から抜ける風が柔らかい。今そんなに優しく頬を撫でられると、涙がこぼれそうだ。
世界の優しさと己の愚かさに涙を堪えつつも、なんとか振り絞る。
「オタクも結構いいヤツだよ。案外話せばわかるかもだよ」
「安心して。
嫌いな人にはノート貸さないもの、と四十内さん。でも今
「それに、私だって人並みに触れてきたつもりよ。この話し方だってホラ、ヒットした後の粗製濫造系ラノベヒロインみたいじゃない?」
「そんな悲しき
結局『なのだけれど』と言いがちなヒロインは何匹目のドジョウまでいたのだろう。一時期の無駄に血生臭い魔法少女モノにも言えるが、もはや一つのジャンルになりつつあった。
「でもホントかなぁ? 四十内さんってば、無理してない?」
オタクの萌え論を語るなんて、逆に格調高い。巷で交わされるサブカル論のように、わたしの頭上で飛び交う天上の話題なのではないか? わたしの中のボブも訝しんでいる。
「どうやら、思い知らせる必要があるようね」
言うなり、チョークを取る。拳の指の間に挟めるように三本も。そして握り拳のまま殴りつけるように黒板に書いていく。ミュータントのヒーローを思いだした。
……これは思いがけない癖者かもしれないぞ。簡単に脱がぬよう、兜の緒を締め直した。