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7_Father Figure

standing outside a broken phone booth with Money in my hand




 乃木無人が天涯孤独となったのは奇しくも十六の誕生日であった。



 普段から自宅に寄りつかない父親の凶報を知ったのは地上波の緊急速報からだった。夕方には三好葵が家に来ると云っていたから、それとなくテレビをつけたままリビングの掃除をしていると、父の死が突然耳に飛び込んで来たのだった。

 案の定、葵は、黒髪を振り乱し血相を変え乃木家にやってきた。無人はそれに驚くこともなくソファーに身体を深く預け、乃木希次博士の急死を報じた特番を眺めていた。


「親父が死んだって」


 無人は画面を指差し、それだけ口にすると、寄り添うように座った葵と無言のまま、何の感傷を語るわけでもなく、しばらく座しているだけだった。

 その傍では、無人のスマートデバイスが、ブブブと嫌な音を立て続けた。


「無人?」


 葵はスマートデバイスに目を落とし、無人に声をかけたが「親父の会社からだろ。ほっとけばいい」と無人は画面の赤い丸ボタン——正確には、そのアフォーダンスを持ったグラフィックを押下した。それを押せば通話が切れると刷り込まれた心理的機能。人間はそんなものまでデザインに組み込む狡猾な生き物なんだ。と、これは希次の受け売りだ。


『乃木先生が提唱しプロトタイプまで進んだチェンバーズ構想は人類の在り方を変えました。いま、ここで先生を失ったのは世界の損失と云って過言ではない。希次先生、寿子先生も亡き今——この意志を継ぐのは——』


 訳知りなホワイトカラーが画面の向こう側から滔々と父親の偉大さを語っている。人類が、世界が、と、のたまっているのだ。その犠牲については一切、目は向けられない。それは当たり前といえば当たり前のことだが、でも無人にとってそれは腹立たしい。

 その裏には犠牲者が居ますと云って欲しい訳ではない。しかし、そんな風に父や母を語るのであれば、その裏に潜んだ暗部にも目を向けそれでも尚、公衆の面前で語れるというのならば、そうすれば良い。


 画面の向こうのホワイトカラーからは、そんな気概は感じられない。

 ただ、語ることで悦に浸る歪なナルシストだ。





『——意志を継ぐのは、ご子息である乃木な——』





 ガシャン!


 けたたましい音と共に、いけすかないホワイトカラーの顔面が、一瞬黒く淀みヒビが入ると画面が暗転した。無人が腰を浮かせスマートデバイスを画面の向こうの訳知りに投げつけたのだ。


「無人!」


 葵は無人の名を叫ぶと彼を抱きしめ、頭を包み込んだ。

 そのままソファーに身体を預け、無人をなだめるよう彼のボサボサの黒髪を優しく撫でつけた。

 無責任に父親の死を語られ、全ては世界のためだと云われた気がしたのだ。その言葉の全てが自分から両親を奪っていった。無人はそんな歪んだ感情に囚われ心を侵食された。


 リビングに夕日の朱を差し込む硝子窓。

 無人はそこに薄らと写った自分と葵の姿に目をやり静かに涙を流した。

 葵に優しく包み込まれた無人は力なく両腕を垂らし、彼女の胸に顔を埋める。優しくされればされるほどに、歪んだ感情とその姿を重ねていく。


 しかしそれは、直ぐに別の感情へすげかわる。


 硝子窓に——視界へ入ってきたもう一つの影。

 無人はそれに顔を歪め「親父が死ぬことを知っていたんだろ? ——」と、その影へ掠れた声で訊ねていた。

 猫のようなアーモンド型の目、無人にも受け継がれた黒髪はあの頃と変わりなく、フワッと胸元まで綺麗に流れ落ちていた。濃いデニム地のロングスカートに白いシャツ、それにちょっと良い感じのキャンバス地のエプロン。

 それは無人の母だった——いや、乃木寿子に似た何かだった。





 葵は五反田から電車を乗り継ぎ池上線に乗り込むと南の終点、蒲田を目指していた。電車に揺られ、ぼけっと車窓を眺めた葵は、石川台の駅が近くなってくると、無人の父が亡くなった日のことを思い出していたのだ。

 あの後、無人は亡き母の姿を模したプロトタイプのチェンバーズに、思いつく限りの暴言で当たり散らしたから、葵は慌ててチェンバーズの電源を落としたのをハッキリと覚えている。

 緊急切断されたチェンバーズの躯体が動かなくなると、それは葵に重たくのしかかり、家を飛び出す無人を追いかけるのが遅れたのだった。


 いくら人間ではないとはいえ、この躯体を動かしているのは、言葉を理解し感情すらも芽生える可能性のある擬似脳だ。だから、その暴言を聞かせるわけにはいかなかった——その時は純粋にそう思っていたのだ。

 ぼけっと眺めた車窓は、無人と葵が生まれ育った石川台の駅を緩やかに映し出し、そして流して行った。タタンタタンと車内に響く軽やかな音は乗客の談笑の声の合間を縫い合わせ、流れていく景色に懐かしさという彩りを与えていく。


 でもその景色は——。


(ここでもそうだったのかしら。ここでも私達——いいえ……そもそも私は……)

 しばらくすると、列車は旧蓮沼駅跡を傍目に蒲田駅へ三両編成を滑り込ませると、まばらに乗客を吐き出し、行先を五反田に切り替えた。







「それで森山さん、何かわかりました?」

「んにゃ、さっぱりだ。陽菜ちゃんの方はどうよ?」

「本当にこんな仮想世界に手がかりがあるのですかね。私の方も全然ダメです」

「ジョシュア・キールに乃木無人博士、捜査官二名に、その他。全員がこの仮想世界リードランに関わって失踪している。んで、捜査官は脳出血で死亡——何もない訳がないだろうよ」


 六本木で一世紀近くもの時間、六本木交差点を見守ってきた喫茶店アマンドに森山結斗と高木陽菜の姿があった。アマンドの二階から人が行き交う交差点を眺め、森山はカップに注がれたコーヒーを啜り、高木は名物のリングシューを頬張った。彼女は左腕のスマートデバイスからマウントされたホロディスプレイへ視線を落としていた。


「それもそうですね」と、ホロディスプレイのマウントを解除し、高木はスーツに溢れた白い砂糖を払った。森山はそれに「何を他人事みたいに言ってるの」と顔を顰めた。


「いや、全然真剣ですってば」

「そう?」

「ええ、勿論。でもですよ——」

「なになに?」

「なんかこう、森山さんの公私混同に付き合わされている気がしてならないのですよね。だってメニューにソレを出したいって昨日言ってましたもんね?」

 と、高木は、森山のコーヒーの脇の白い粉砂糖以外は空っぽの皿を指差し、目を細めた。


「いや、これは違うって。たまたまだ」

 普段は人懐っこそうな笑顔をする森山の表情が、少々雲行きが悪くなったのを見て高木は「ま、奢ってもらえるから良いんですけどね」と、意地の悪い笑顔を見せた。

「あのね陽菜ちゃん、捜査の基本というのは、状況をしっかり把握しないとってチョーさんも言ってたんですよ。だからね、念には念を入れて——」

「誰ですかチョーさんって」

「刑事コジャック。知らないの?」

「またアレですか、レトロアーカイブにはまっているんですか?」

「お、陽菜ちゃん、ご明察。っと、きたきた」

 それまで戯けた表情をした森山が、窓の外に広がる人混みから一際背の高い男の姿を認めると目を細め表情を一変させた。


「本当に来ましたね」


 高木は身を乗り出して、その男の姿を確認した。

 暑季の強い日差しの中、白いスーツに身を包んだその男は黒い人波をすり抜けるよう横断歩道を渡りきると、サッとアマンドの中に身を滑り込ませた。


「リーンちゃん、西さんに手紙渡してくれたみたいだな」

「リーンちゃん? また、どこの女ですかソレ」

「ん? 違う違う。言ってなかったか。乃木無人博士の分身か——何かだよ」








 蒲田駅西口から出た葵は工学院通りを抜け、呑川沿いにひっそりと佇む雑居ビルの前へやってきていた。


 呑川を挟んで東側は大戦以降、随分と区画整理も進み近代的なマンションが建ち並ぶ清潔感あふれる街並みを見せている。しかし、それに対して西側は工学院生と地元住民による古き良き——が、どの時代を指すかは定かではないが——街並みを保存しようという運動に阻まれ、まだまだ雑居ビルが建ち並ぶ。


 まるで天国と地獄。そんな様相を伺わせた。


「なんでまたこんな所に」


 暑季の強い日差しに目を細めながら葵は、きっと耐震法に抵触するであろう雑居ビルのエントランスへ、ひょいと身を滑り込ませた。

 エントランスといっても建物に入るや否や、すぐに階段が出迎え、その脇には古ぼけた管理人室の小窓が見える。葵がそこに顔を向けると、小窓の奥に頭の禿げ上がった老人の姿が目に入った。きっとこのビルの管理人だ。


 管理人は人影を感じると、部屋の奥に見えるテレビから視線を外し窓の外の葵に目を送った。見慣れなない小綺麗な容姿の女に違和感を覚えたのか、管理人が怪訝な顔をすると葵はそれへ愛想よく、かぶりを下げ満面の笑みで答えたのだ。


 管理人は、葵の笑顔に何故だか顔を赤らめ急いでテレビに視線を戻した。

 葵はそれに軽く眉を上げ続きを待ったのだが、じれったくなってしまい九階へ急いだ。すると右手に巻かれたスマートデバイスが、ブブブと振動を伝えた。


 小さな画面を軽く指の腹で触ると、頭の中で男の声が響いた。


(先生、これから中に入ります。これブリタさんも一緒で良かったんですかね?)

(ええ、良いのよ。なんだか腹の探り合いみたいで嫌でしょうけれど。頑張って。何か変わったことがあったら教えてちょうだい。私もこれから中に入るわ)

(わかりました。先生も気をつけて)

(ありがとう。良い生徒を持てて嬉しいわ)

(茶化さないでくださいよ。こちらはピリピリしていて居心地悪いんですから)

(あら、そうなの?)

(ええ、なんでかブリタさんが突然、ネイティブに怒り出したりして)

(それは大変。あ、ごめんね。もう着いたわ)

(わかりました。それでは後ほど)

(ええ)







 904


 重々しい鉄の扉へ乱暴に貼られたプラスチック樹脂のプレートに、そう数字が印刷されている。長年、紫外線に晒されてきた樹脂はすっかり黄ばんでいて、数字を判読するにも少しの時間を要した。


 葵は何度かプレートを指で触り、ようやく部屋番号を確かめることができた。

 その途中、隣の部屋から静かに出てきた老婆に随分と怪しまれたが、お得意の愛想笑いと「こんにちは」と親しみを込めた挨拶でその場を切り抜ける。きっと親類か恋人かと勘違いをしてくれたはずだ。


(なんか複雑な心境ね)


 そう心中に囁き、葵は古ぼけた鉄扉には似合わない右下のセキュアロックに視線を落とした。何回か右手首のデバイスを触り、そしてセキュアロックに軽く当てると、カチャと乾いた音が小さく聞こえる。颯太が準備し送ってくれていた魔法の電子鍵——所謂、破壊鍵、ハッキングツールが役に立った。


(本当に開いたわよコレ。あの子恐ろしいわね)


 葵はノブに手をかけると、隣の部屋の玄関先で妙に念入りと掃除をする先程の老婆に、かぶりを下げ904号室に足を踏み入れた。







 厚手のカーテンが締め切られている部屋は薄暗い。


 恐らく1LDK程の間取りで一番の採光を得られるのはリビングの二枚の大きな窓なのだろう。そこを厚手のカーテンで締め切っている。だから、隙間からもれる陽の光だけが唯一の光源だった。

 玄関の右横にある扉の向こうがどうなっているかはわからなかったが、取り立ててそれを確認することはせず、葵は「無人ナキト、お邪魔するわよ」と小さく声をかけ一目散にリビングへと向かった。


 薄暗いリビングは殺風景で必要最低限の家具さえも揃っていなそうだ。


 住人の趣味なのか、壁は珪藻土が丁寧に塗られ、規則正しいリズムで塗りの模様が踊っている。床は真っ白な絨毯。人が歩けば、その足跡が残る。だが、そこには人の足跡が見られない。しばらく人が歩いていないのか、それとも毎日几帳面に絨毯の毛並みを揃えているのか。


 そんな十畳ほどの空間のど真ん中に設置された黒い合皮のリクライニングシート。その脇には、膝下ほどの高さの、やはり黒い筐体が三台置かれていた。どれもグググと小さく音を立てながら駆動を続けている。青や緑のLEDが明滅していることからも、そうなのだと確信が持てる。



無人ナキトいるの?」



 葵はそこはかとなく感じる人の気配に、びくびくしながら恐らくこの部屋の主であろう乃木無人の名前を小さく呼びながらシートに近づいた。


「なき——」


 今度は名前を口にしながらシートを覗き込む。

 しかし、名を口にし終える前、葵は右手で口を抑え息を呑んだ。はたして、シートに横たわり目を閉じていたのは、中肉中背、ボサボサの黒髪、きっと瞼を開けばそこには、見知った黒瞳が浮かぶ——乃木無人だと一目瞭然だった。


 顎の下あたりから伸ばされた何本かの細いコード、右側頭部から伸ばされた二本のコード。それは足元の筐体のうちの一台に繋がれている。生命維持用のバイタルコントローラーだ。長い期間、寝たきりになったとしても排泄物の管理もしてもらえる。

 恐らく先ほどの玄関脇の小部屋に介護用チェンバーズがスリープ状態で待機し、それは接続された同一ネットワーク上からの命令に従い無人の世話をするのだろう。

 その司令塔がArkham-metricsと小さく刻まれた筐体、つまり足元に設置された三台だ。これは葵も良く見知ったソリューションだったから、これを利用する理由はすぐに察しがついた。


無人ナキト、こんなところで何やってるのよ。こんな豪勢な装備で世捨て人にでもなったつもり? 皆心配しているわよ。死ぬなら死ぬ、生きるなら生きるでしっかりしなさいよ」

 そう云って葵は苦笑いをすると乃木無人ナキトの胸に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らした。すると、閉じられていたカーテンが、一際高い音をあげ窓から陽の光を取り込んだ。しっかりと陽の光を浴びられるようスマートシールがスケジュールされていたのだ。これも葵はよく知っている。







■ セキュアバイオメトリクスの偽装

□ シェルの改竄かいざん←難しい。外装スキャンを突破できない

□ PODSの改竄かいざん ナキト→アッシュ・グラント

■ ログの収集(ロールバック用・勃興戦争前後)

■ 父と母のログ(調整用) 

■ 大家への根回し

■ 銀行口座の分散

■ ストックオプションの売却(アーカムメトリクス分)

■ 生体関係の調整(三年分程・要メンテナンス)

■ 論文の物理消去

□ ジョシュアのデータ



『テスト用のPODSを回収し忘れ。不味いかもとロア』

『これ以上、ロアとのコンタクトはNG。ログを辿られる。遮断』

『とりあえずアランの時代から遡る』

『アオイドスって誰だ?』

『ジョシュの影響が大きい』

『なんで僕はこんなことをしているんだろう』

『もう俺のことはほっといてくれ』

『僕? 俺? どっちだって良いだろ。あの吟遊詩人』

『6→7(5)』

『ジョシュの手掛かりを掴んだかも知れない。ダフロイトかガライエ、その辺り。少しロールバックしすぎていた』

『誰かがPODSを起動した』

『デバイスが離れなくなってきた。強制再起動に時間がかかりすぎ。WAFもFWもくぐってきた。リバースエンジリニア? 人の脳を?』

『再起動完了。どうも別の場所に移動しているみたいだ』

『セッションが切れない。どうなってるんだ。頭痛』





 陽の光は、部屋の中を浮き彫りにした。

 シートに横たわる無人ナキトでさえ無機質な物体に感じてしまうほど、そこは殺風景だ。だからなのか、葵はシートの直ぐ下に転がった——今時珍しいボールペンと手のひらサイズのノートに気がついたのだ。


 葵はそれを拾い上げ「ごめんね、中を見るわよ」とパラパラとページをめくり、そこに記述された言葉を拾い上げていった。書かれていたのは、何かのTODOリストに、ミミズが這うような字で書き殴られた断片的な言葉。数ページに渡っている。日付はない。



『アオイドスって誰だ?』



 葵はその一文を指でなぞり目をそっと瞑る。「私は私よ」と囁き「何やってるのよ。なんでもかんでも背追い込むのは、どこに居ても一緒なのね」と、止まらぬ嗚咽の隙間に言葉を縫い込んだ。

 さらにページをめくる。

 途中しっかりとした文字で丁寧に書かれたメモや日記のようなものがあったが、それは読み飛ばす。何かに合致する言葉を目にするまで、その手を止めないつもりのように思えた。



『やば。デバイスが離れなくなってきた。強制再起動に時間がかかりすぎ。WAFもFWも掻い潜ってきた。これ、リバースエンジリニア? 人の脳を?』



 そしてこの一文に辿り着くと、堪らず声をあげ泣き崩れたのだ。

 それが彼女にとって何を意味しているのか、それは定かでない。しかし、嗚咽を掻き分け漏れ出る悲痛の声は、きっと大切な何かを失ったのか、それともその前なのかを容易に想像させる。

 泣き止められない葵だったが、震える身体を必死に抑え、無人の右腕をとり手首を確認した。


 右腕に装着された腕時計型のスマートデバイス。

 普通であれば、それはバンドで手首に巻かれ機能を果たすものの筈だ。だが、葵が目にしたスマートデバイスはそうではなかった。


 小さな腕時計の筐体が奇妙に、歪に、悍ましく、有機的に手首と同化をしている。手首から盛り上がった肉からは赤や青の筋が伸ばされ筐体に溶け込み、筐体からも何本かの細いコードのような何かが手首に刺さっているように見えた。


 まるでが手首に埋め込まれているようだった。


 葵の記憶が確かならば、無人ナキトは今年で四十を迎え壮年期に突入するはずだ。しかし今、目の前で眠る彼の若々しい顔からはそんな年輪を感じることはなない。葵は、そんな無人ナキトに「ごめんね。ごめんね」と、ただただ声をかけ、痛々しい無人ナキトの右手を取り、濡れた頬を無人に寄せた。







 陽が傾き始める頃には、無人の部屋を出た葵は、どこに向かうわけでもなく呑川の脇道を、ひた歩いた。かろうじて生きている乃木無人を発見した葵。でもその先は? それを考えようとすると頭の中に靄がかかり、いつものように明快な答えが導き出せない。無人ナキトの姿に衝撃を受け、茫然自失としているのか、はたまたは本当にその先のことを考えていなかったのか、それすらも判断できない。誰かに話を聞いてもらいたい。でも——。


 


 そんな想いに囚われ、さらに頭の中の靄はその濃さを増す。


 気がつけばポツリポツリと雨が降ってきた。

 見上げれば空に帷が降り始め、藍色と灰色と朱が混じり合っている。葵はそれを見て静かに、冷ややかに、優しく笑みを浮かべた。

 右手首に振動が伝わってきた。

 デバイスを見れば、それは白石颯太からの着信だ。

 ああ、そうか。ごめんなさい、まだ独りではなかったのよね。

 葵はそんな風にぼんやりと想い、デバイスの画面をぼけっと眺めた。


 雨が強くなってきた。


 呑み川沿いにポツンと寂しく設置された、だいぶ古びた電話ボックスを見つけた葵は、そこへ駆け込み、着信に応答をしようとするが切れてしまう。


「本当に何をしているんだろう私」


 いまだに撤去されず稼働する電話ボックスがあるのは呑川の西側——それは、やはり古ぼけた街並みだからだろうか。葵は薄らと灯った電話ボックスを見つけると、いよいよ激しく降り出した雨から逃げるよう慌ててそこへ駆け込んだ。

 中はやはり仄暗い。そこはかとないノスタルジーを感じるほどに古めかしかった。

 葵は仄暗さの中で現実から切り離されたような気分を確かめると、それに心地よさを覚えたのか、一つ大きく呼吸を整え硝子の壁に背中を預けスマートデバイスを軽く叩いた。


(ごめんなさい颯太くん、何かあった?)

(いえ、こちらが片付いたので報告をと思いまして。先生の方はどうでした?)

(お疲れ様。ありがとうね。こちらは颯太くんが割り出してくれた通り。ビンゴよ。あ、ちょっと待ってね秘匿回線に——お待たせ。無人ナキトを見つけたわ。予想通りアーカムを辞めた後に隠遁生活みたいなことを始めたようね)

(ジョシュアさんでしたっけ? 彼を見つけるために?)

(日記のようなメモを見つけたの。そんなことも書いてあったけれども、どうだろう。私が知っている筋書きとはだいぶ変わってきているから——何とも云えないわね)

(そうですか——でも、とにかくお疲れ様でした。一歩前進ですね)

(ありがとう。ねえ颯太くん、無人ナキトは本当にそっちの赤毛の娘のことを——)

(エステルさんのことですか?)

(ええ、どう想っているのかしらね。そこが一番大きな違いな気がするの)

(訊いてみますか?)

(いや、いいわよ)

(でも、それがわからないと今後の方針も立てられないんじゃないですか?)

(いつになくグイグイ来るわね颯太くん。どうしちゃったの?)

(さあ? ちょっと待ってくださいね)

(ねえ、ちょっと。颯太くん? 颯太くん?)



 それほど時間をあけず——雨脚が先ほどよりも強くなってきた。

 古ぼけた電話ボックスの中に、ザザザザやパチパチと乱暴な雨の音が鳴り響いた。

 硝子の壁に水のカーテンが流れ落ち、中に佇む乃木葵の姿をぼやかした。

 そして、その姿はゆっくりとゆっくりと下へ沈み、ついには蹲ってしまった。




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