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狂った狐②




「叔父さん! あそこ!」


 ミラ・グラントはそう叫ぶと手綱を握り直した。

 馬の腹を優しくしっかりと挟み込み、早駆けの合図を送ると、栗毛の愛馬は主人の合図にひと鳴きし、勢いよく駆け出した。


 ミラは前屈みになり夏空のもと、ぐんぐんと街道を南に駆けていく。

 耳元で、轟々と音を立てる風は、フードを取り払い、ご自慢の黒髪を後方にさらっていった。グラドは「おい! 危ねえから先に行くんじゃねーよ!」と珍しく素面なのか、血相を変えミラの後を追う。


「うはぁ。こりゃ酷えな。鎌鼬かまいたちでも通ったのかこりゃ」

「どうどう」と、いななく黒毛を落ち着かせながらグラドは街道に広がる惨状へ毒付いた。ミラが「あそこ!」と云った先には、見るも無惨な——野盗の一団の惨殺現場が広がり、あちこちに血溜まりの跡を残していたのだ。


 ざっと見て三十ほど。

 それだけの男や女の躯が、かぶりを飛ばされ、腕をちょん切られ、胴を真っ二つに割られ転がっている。正確な人数が解らないのは、そんな惨たらしい理由からだ。


「で、ミラ?」

「何、叔父さん?」

「お前、これを見たかったのか!?」

「え? 違うよ、私そんな悪趣味じゃないよ!」


 ミラはグラドの素っ頓狂な質問に目を丸くし、両手をひらひらと揺らした。

 グラドは時折、こんな調子で斜め上なのか下なのか、とにかく想像も予想もしないようなことを口にするから、ミラはその度、答えに困ってしまう。でも今回は二割ほど的を得ていたのか「この人達は埋めてあげないとね。とは思ってたよ」と、悲しげな目をすると馬を降りたのだ。


「いいのか、先を急がなくて?」と、グラドも馬を降りて、背伸びをした。

「うん。これを見過ごしたらお父さんに怒られちゃうよ」と、ミラは黒髪を掻き上げながら下に転がる累々の躯一つ一つに目をやったのだ。

「そか。それはそれで良いさ。んで、なんでだよ」

「ん?」

「ここに急いだ理由だぜ」

「うん、この人達ね、きっとお父さんに斬られた野盗だよ」

「なんだって?」

「だーかーらー。お父さん達が、この野盗をやっつけたんだよ。って」

「いや、そりゃわかったよ。分からねぇが、わかったぜ。で、なんでそれがお前に分かるんだよって訊いてんだ」

「え? なんて?」


 辺りをのそのそと歩き回りながら様子を伺うグラドに目を向け、ミラは笑いながら訊き返した。躯の状態を観察しながら、どのような状況で殺られたのかを探るグラドが、ミラの言葉を上の空——ではないにしても、そうも『わかった、分からねぇ』を適当に連呼したのに、ミラは思わず可笑しくなってしまったのだ。


 それに気が付いたグラドは、はたと顔を上げミラの目を捉えると「で、どうなんだよ」と、片手を大袈裟に振って見せた。


「うん、ここら辺一帯にね魔力の残滓が漂っているんだけれども、それがね、きっとお父さん達と——後は知らない人のものだけど。だからね、ここで魔力をなぞってあげると、どっちに向かったか分かるかなって。西に向かえば、ちゃんとシラク村に向かったってことだから」


「なんだ、そんなことができるのか! 凄いなミラ。でもよ、なんでお前がアッシュの魔力ってのを知っているんだ?」

「んー。なんとなく?」

「なんだ、ハッタリか!?」と、グラドが大声で笑うと「違うよ、失礼ね!」とミラは顔を真っ赤にした。そして、フンと鼻を鳴らしながら「これを見て驚いたら、金貨一枚ね」と、ミラは何かを口ずさみ右手を一文字に軽やかに振り抜いた。


 するとどうだろ。


 青い粒子や、へんてこな記号のような青い象形が手の動きに纏わり付き、離れていくと一帯を薄青い霧で包んだのだ。


「おいおいおい、何をするんだよ。全部焼いちまうのか? お陀仏した奴らを埋めるんじゃねぇのかよ」

「馬鹿、焼かないわよ!」とミラは、クスクスと笑い「まあ、見ててよ」とグラドに片目を瞑って見せた。


 青い粒子が次第に半円を描き、フワッと空に向かい膨らんでいく。惨状を包み込んだ半球は、しばらく青々した壁面を騒つかせていたのだが、段々と下から上に登る水流のような様子に落ち着いた。


「な、なんだこりゃ」

 グラドはコレには面喰らい、骸の一つに蹴躓きながらミラの傍へ小走りで駆け寄った。突然と自分の視界が、世界が、薄青に染まったのだから慌てるのも無理はない。

 ミラはそんな酒樽の様子に小さく笑うと「後で金貨ね」と走り寄ってきたグラドに投げかけ「ほら見えてきた」と、目の前を指差した。


 見えてきた——と、いうのは非常に的を得ていた。指先の行方を追えば、視線上に何人分かの薄青い影と、幾つかの馬に馬車の影がゆらりと姿を現したのだ。其れらは最初、薄青の薄皮を被った人形のようだったが、しばらくすれば、すっかり肌は肌色、黒は黒といった具合に落ち着く。音もなく動き始める頃にはすっかり現実なのか虚像なのか見分けがつかなくなった。


 虚像の男の一人が、ボサボサの髪を揺らしながら何かを叫んでいるようだが声は響かない。すると、青い半球の壁からワラワラと薄青の姿をした騎馬が二十騎ほどが飛び出し、叫んだ男に向かって疾駆する。其れらもやはり、しばらくすると彩りが落ち着く。よく見れば、今、そこに転がる斬り落とされた、かぶりと同じ顔をした者がいる。いや、


 飛び出してきたのが野盗。

 迎え討つ四人がアッシュ・グラント達だった。


 赤毛の女——エステルはゆっくりと野盗に向かい歩きながら、魔力の弓に三本の矢をつがい、それを放つ。矢は見事に野盗の馬の眉間を打ち抜き、前のめりに崩れ落ちる。他の馬上から転げ落ちる野盗は掲げた剣を手放し受け身を取ろうとするのだが、エステルの背後から躍り出た黒髪の男——アッシュがそれに素早く駆け寄り頸を斬り落とした。

 斬り落とされた、かぶりが胴から離れると、それは直ちに青い線となり、今そこに転がるへ線を重ねた。


 不思議な光景だった。

 アッシュ達に倒されていく野盗達は命を失ったかと思えば、青い線となり主人の元に帰って行くようなのだ。そんな光景の只中のグラドは、最初は迫ってくる野盗の虚像に「あぶね!」と肩を大きく竦ませるのだが、それは激突することなく擦り抜けていく。


「凄いなこりゃ! 幻想の中にいるみてえだな!」

「そうでしょ、そうでしょ」

「そうか、お前これであれか、アイボルトが娼館にしけこんだ時、居場所を嫁さんに告げ口したんだろ!?」

「あー、そんなことあったっけ?」

「惚けんなよ、あの時は俺まで酷え目に会ったからな、よく覚えてるぜ!」とグラドは豪快に笑うと「それでミラ、アッシュは、この黒髪か?」


 グラドは、たった今、自分の目の前で野盗の女魔術師の胸ぐらに短剣を突き刺したアッシュを指差した。アッシュの虚像は、崩れ落ちる魔術師の胸に足をかけ蹴り押し短剣を引き抜く。それにグラドは「ひゃー、血も涙もねえなこりゃ」と両手を振り上げた。


「うん、それがお父さん」と、ミラは、そこはかとなく嬉しそうに恍惚と答えた。

「んじゃ、これは?」と、グラドは次にアッシュと背中合わせになったエステルを指差して、「随分と息があってるじゃあねえか」と下卑た顔をした。

「知らない、そんな人」と、ミラはそっぽを向く。

「そうか、知らねえのか。まあ良いか。あれも知らないのか?」と、今度は片手剣で野盗と渡り合う銀髪の女——ブリタ・ラベリを指差した。

「あ、どうだろう。どこかで見た気がするのだけれど。思い出せないや」と、ミラは怪訝な顔でそれに答えた。ミラは、何かを思い出そうとしているようだが、グラドはそれには構わず「あの茶髪も知らないか」と最後に、野盗をバッタバッタと薙ぎ倒していくアドルフを指差した。


「うん、あの人も初めてみるね」とミラは答えたのだが、どことなく上の空のようだ。グラドに云われてから、どうもブリタの顔をじっとみて何かを思い出そうとしているようだった。


「んー。やっぱり思い出せない」

「まあ、良いじゃねえか、シラクに行きゃわかるだろ」





 暫く剣戟の幻想の中でこの場に何が起きたのかを鑑賞した二人は、とうとう、結局、結句壊滅した野盗の残骸に青い線が戻っていったの見届けた。

 そして、その場を急いで立ち去る——追撃の一団から逃げるように、アッシュ達と馬車の虚像が青い壁の向こう——西へ消えて行くと「ヨシ! アイツら、シラクに居るな」とグラドは手を叩き次にミラの背中をバンバンと叩いた。



「ちょっと痛いよ叔父さん!」とミラは片目を瞑り笑いながら、苦情を口にした。

 しかし、その苦情には何も答えなかったグラドは、何故だかどことなく寂しそうな顔をすると「ヨシ、躯を弔ってやるんだろ? ちゃっちゃとやっちまおうぜ」と、ミラから視線を外した。



 そうか、そうだよね。

 早く終わらせてアイシャさんのもとに帰りたいよね。


 そうか、もうその時か。なんだかな。

 子供を取られちまう気分だな。酒がいくらあっても足りないぜ、なぁアイシャ。








 片手半剣。


 所謂バスタードソードは通常、片手で運用されるが、頭蓋を叩き割る、鎖骨を砕き胸まで斬り込む、脚を刎ねると云った一撃必殺を放つ場合において握りを両手で扱う。柄頭を左掌に軽く乗るよう握るのがライラの好む型だ。振り抜くにせよ、薙ぎ払うにせよ、最後の一息は柄を梃子を手前に押すように力を加える。


 ライラの先輩。

 つまり、ショーン・モロウはいつも、それをやめろとライラを叱る。いや注意をする。いや優しく提案をする。刀身が直ぐにボロボロになるからだそうだ。そうするのであれば早く黒鋼に変えろとも云う。

 しかしだ、ライラはそうはしない。

 黒鋼の刃には、どうも若気の至りを感じてしまうからだそうだ。存在、在り方、何かそのようなものを主張してやまない黒の刃には浪漫を感じないそうだ。刃は白刃。それに限ると。




 フォッ! フォッ! ブォン! と空気を切り裂く刃が軌跡に音を乗せた。


 ライラ・リンパルが描いた白刃の軌跡。それは右袈裟から切先に勢いを乗せるよう弧を描き振り下ろし、続けて遠心力に逆らわず剣を振り上げる。そして勢いに乗った切先が行きたい方向へ、逆らうことなく素直に加速させ撃ち下ろす。

 必殺必中の一撃を迎え撃つミネルバ・ファイヤスターターは、随分と意図的な欠伸を見せながら軽やかに左腕を振り抜き、蒼白い魔力の刃で弾きかえす。

 それをライラは予測しており、弾かれた勢いを利用した。

 にじった左足を後ろに下げ右足を軸に身体を捻り回転させる。刃は水平。右手首を立て脇を締め、最短距離でミネルバの脇腹を襲う。切先は残念ながら肉を喰い千切りはしなかったが、脇腹の皮は裂いた。ライラの神速の刃は、速さ故に切り裂く大気に陽炎を纏わせる。ミネルバはそれに錯覚を覚え切先の距離感を見誤った。


「乱暴な豚ね!」

「うっさい色惚け婆! よりにもよって、男ばっかり攫うから追いかけるコッチは大変なのよ!」

「あなた、そんなんじゃあ男を知らないのでしょ!?」

 激情を煽りたいからなのか、それとも自分とは正反対の、活力漲る美しさのライラに嫉妬をしているのか、とにかく暴言を浴びせ今度は右手に握った魔力の刃で襲い掛かる。


「な! え? こんな時に訊くこと? 馬鹿なの!?」

 それに目を丸くしたライラは、少々面食らうのだが——図星だったかどうかはさておき、歯を喰いしばると、髪が振り乱れるのも気にせず右に左に、上から下から撃ち込みをかける。白刃が流れた先で飛び散る青い粒子は、ミネルバの魔力の刃がライラの刃を受けるごとに砕け散った痕跡なのだが、それはまるで刹那的に咲く青い小花のようにも見えた。







「いやはや、これは凄い——まるで桔梗の華が咲き乱れているようですね。そうは思いませんか?」


 レトリックは、真っ二つになってしまったパナヨティスの骸の傍で、通りのあちこちに場を移しながら激しく撃ち合うライラとミネルバを呆然と眺めた。あちこちで華開く魔力の痕跡と、その茎たらんとする白刃の軌跡に見惚れている。


 パナヨティス以外の僧兵は、彼のように

 つまり、レトリックのその問いには誰も答えはしない。しかし、その替わりでなはいが「集めろ」と黒装束の一人は云うと、残りの二人はパナヨティスの真っ二つになった骸と頸から離れたかぶりを拾い集めたのだ。


(本当、気味が悪い)——レトリックは心中そう呟くと「埋葬するのですか?」と黒装束に訊ねた。


「魂が霧散する前に縫合する」

 縫合とは何かの比喩かとも思った。しかしどうやら、それは本気のようで僧兵達はパナヨティスの身体を繋ぎ合わせるように地面に並べ、黒装束の一人が骸の胸に手を当て、スーと息を吸い込む。


「最後の務めだパナヨティス」

 黒装束が紡ぐ<言の音>が鳴り響く剣戟の音の隙間を縫って不気味に響き渡る。

 躯が最初は朧げと緑色に輝く。しかしそれは次第に燻んだ緑となり、赤や黒の輝きも沸き立たせた。

 混沌とした輝きがパナヨティスの躯を覆った。

 そして、混沌の輝きは、うねり、猛り、狂い、パナヨティスの口を押し開け、そこへ流れ込んでいく。


「それは——」

「そうだ。禁呪<回帰の法>。パナヨティスは鬼神戦神であるからな」

 レトリックはそれに「導師がそれを?」と訊ねるが、黒装束はそれ以上、何も口にしなかった。

(いわんこっちゃない。だからこの人達は私の死神だなんて思っちゃうわけですよ。だってそれは魔力災害の時の——)レトリックは嫌な予感を感じ後ずさった。


 回帰の法。


 人が人の意志で触れられる領域の先。生命の起源を人の身体に呼び込む下法。力は裏返り魂はめくり還る。名も無き神の源流は器を求め負を垂れ流し人を喰らう。それさえも耐えうる神人は人の世に立ち、人神へ流転する。現人神あらひとがみは理を超え海原を跨ぎ世界を渡る。


 あの頓痴気、アイザック・バーグが我が導師に吹聴したのだ。


「導師よそれには対価が必要じゃ。命の門を開くに命の鍵が必要とは道理じゃろうて。ならばそれを引き出せば良い。ただし神の命の対価とは神のみが支払えるものじゃろ? ゆめゆめ忘れぬことじゃ。人の命を幾ら重ねようが、それは人の命。わかるな? それと、提言を一つ。聖霊はことごとくに狡猾で抜け目ないからな、導師が奴らに捕縛され起源へ還されないよう気をつけなされ」


 アイザックの渇いた笑い声がレトリックの頭の中で繰り返された。


 レトリックは向こうで華開く剣戟と黒装束の怪しげな呪法へ交互に目をやり「喰えない老人ですよ、あのおきなは」と呟くと、もう二、三歩後ろに後ずさる。


 トン。


 と、四歩目を後ずさるレトリックは背中に何かが当たったのを感じる。

 それに苦笑いをすると「こうも簡単に背中を取られるとは——どなたですか?」と、両手をゆっくりと挙げ、さらにゆっくりと振り返った。


「それはそうですよ。今ここに現れたばかりなのですから」


 レトリックの声に応えたのは、女の声だった。

 そこに居たのは、青く染め上げられたローブに純白の外套。随分と大きなフードを被った聖霊ロアであった。


「あれが今回の特異点ですね」

「え? 今、なんと?」

「こちらの話です。気にしないでください」


 ロアはそう云うと、大きすぎるフードを払い除け二股に分けられ結われたブロンドを露わにし双眸の金瞳を大きく見開くと言葉を続けた。


「でもあれは<世界の卵>ではありませんね。そうですか、こっちの子供達が試行錯誤したのですね。ええ、そうです。ジョシュアさんの時もそうですが、何かこう色々と仕組まれているようで気持ちが悪いです。そんな、無茶を云わないでください。私の監視下にないバックエンド側へ仕込まれるとお手上げです。ええ、はい、ご主人様は向こうでイチャイチャしてますよ。ご愁傷様です。あっ——」


 ロアはぶつぶつとそのように口にすると、それを呆けて眺めるレトリックに気がつき手を口に当てた。そして「ごめんなさい、気にしないでください」と、ころころと笑いそう云ったのだった。

 それにレトリックはかぶりを横に何度も振り、目を見開くと「まさか、あなたは聖霊族で?」と訊ねるのだが、ロアはそれには応えず更に独り言を重ねた。



「上にある天は名づけられておらず、

 下にある地にもまた名がなかった時のこと。

 はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。

 混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。

 水はたがいに混ざり合っており、

 野は形がなく、湿った場所も見られなかった。

 神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。」



「メリッサがこの碑文から導き出した可能性とは二つあるのだと推測します。その一つはこのリードランつまりブリタアルゴリズム上でシミュレートしようとしているのだと。もっともそれは、ご存知ですよね? もう一つは、ええ、そうです。それがメリッサの謂う<世界の因子>です。でも、それとクロフォード博士が躍起になっている<侵食イロージョン>とは全く逆の話に思えます。あ、すみません、こちらの特異点を閉じるので失礼します」


 そう云ってロアは、フーと息を深く吐くと再びレトリックに目を合わせ「魔導師レトリック。あなたの同胞はどのようにしてあの、処理ビヘイビアとアセットを呼び出したのですか?」と訊ねた。それにレトリックは目を瞬かせると「しょ、しょりびへい?」と最後の方は、魚のように口をパクパクさせる。



「あ、そうでした。失礼しました。お待ちください文脈セットを切り替えます。はい、カチャリと、お待たせしました。そうそう、どうやってあの術を知り得たのですか? と、ごめんなさい、それは後で教えてください。今は、ちょっと逃げておいてください」


 純白の外套から、もぞもぞとか細い腕をちょこんと出したロアは、そう云うとレトリック庇うように素早く前に一歩飛び出したのだ。その刹那。レトリックの顔の間近で、青い閃光が弾け、お世辞にも上品とはいえない、女のがなり声が聞こえた。


「聖霊ロア! まだあなたの出番じゃないわよ!」


 それはミネルバの怒声だった。魔力の刃を振るいレトリックごとロアを横薙ぎに斬り裂こうと、地を這うように跳び込んできたところをロアが<魔力の障壁>で防いだ。


 その真横では黒装束が最後の紡ぎを終え、かつてパナヨティスであった骸の破片が赤黒い煙に包まれ——宙へ浮かび打ち震えている。

 弾かれたミネルバは、それに追撃をかけたライラの一撃をいなし、そこから距離を取るように後ろに飛び退いた。


「いいわね! いいわね! 混沌よ! 気の遠くなるほどの時間を揺蕩ってきたのだけれども、こんなにも高揚する混沌は初めて! ああ、気持ちがいいものね、いってしてしまいそう。男どもの怨嗟の声の次に高揚する興奮ね。ライラ・リンパル。そうでしょ?」


 ミネルバは上半身を前のめりに、頬を両手で包み込むと口をあんぐりと開き打ち震える声を挙げた。口角から垂涎を垂れ流し、蛇目をギロリと剥き出す。蛇目がギョロギョロと気味悪く動き回り、ライラを捉え、ロアを捉え、レトリックを捉え———。



 ミネルバが最後に蛇目で捉えたのは、宙に浮かんだ肉塊が打ち震え、血反吐を撒き散らし、そして——シュッと音を立てて消えてなくなる所だった。


「何よあれ」と、イカれた蛇目を震わせ肉塊が消え去った宙を凝視したミネルバは舌舐めずりをする。


 刹那の沈黙が、一同が会する街通りに空白の時間を作った。

 ロアはその沈黙の中、何を思ったのか呑気に空を見上げる。


 夏の空は地上に繰り広げられた混沌とは無関係にいつだって穏やかだった。

 積雲は山のようだったし、微かに吹く風は生ぬるい湿気た空気を孕んでいた。

 そう、それはまさに完璧な夏の空だ。


 ロアはそこに奇妙な黒い点を見つけた。

 が大きく旋回をしていたのだ。




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