乃木
乃木
隣人の老婆は例の通り、来客の気配、つまり廊下側の部屋の曇りガラスに人影を見つけると、せっせと玄関先の掃除を始める。それに葵は魔法の笑顔を振りまき「おはようございます」と丁寧にかぶりを下げた。
老婆は「おはようございます。今日も暑いね。ご主人は具合を悪くされているの?」なんて、葵が手にぶら下げたドラッグストアの袋に目を落とし、心配を装った好奇心で探りをいれる。
「そうなんですよ。でもねお母さん、この袋は看病に疲れちゃってね。私のなんです」
葵は手にしたドラッグストアの袋を掲げた。
葵はそう云うと分かりやすく肩を揉みほぐす仕草をしてみせた。それに老婆は「あらあら、気をつけないとね。あ、そうそう、肉じゃが」と途中まで口にすると「ちょっと待ってね」とそそくさと部屋に戻っていった。
葵はそれに「ん?」と小首を傾げた。
すると数分もしないうちに、彼女はつっかけをズリズリとさせながら戻ってきた。
半透明の容器を手にしていた。老婆はそれをおもむろに葵に差し出すと「肉じゃがね、作りすぎちゃって。レンジあるでしょ?温めて食べて」と云ったのだ。
「あら、ありがとうございます。ご馳走になっちゃっていいの?」
「ええ勿論よ。ついつい癖で旦那の、あ、うちのね旦那の分まで作っちゃうのよ」
「あ、それじゃこれだと貰いすぎちゃう——」
「いいのよいいのよ」
「ご主人の分は? 大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、うちのは先月ね先立って」老婆は寂しそうに笑った。
葵はそれに「そうだったのですね——ごめんなさい」と差し出された半透明の容器に目を落とすともう一度「ごめんなさい」と呟いた。
「あらやだ」老婆はそれに目を丸くし「そんなつもりは無かったのよ! 云ってなかったものね、ごめんなさい」と葵の手をとり「お宅のご主人にも生前、本当に良くしてもらったからね——」と、ぶんぶんと揺らす。
葵は老婆の温もりを感じると顔を上げた。
彼女の目尻に刻まれた皺が緩やかに弧を描いている。優しい目だ。無人は彼女の家族のために何をしたのか。それは分からなかったけれども、きっと、隣人の様子を見て肉じゃがをお裾分けしたくなるほどには、心を通わせたのだろう。
それでも突然姿を表した葵になぜ不信感を抱かないのか。
そこはかとなく心に引っ掛かりはあったが、でも、彼女の気遣いは本心なのだろう。葵はそう想った。そして「ありがとうございます」と、にこりと老婆に微笑んだ。老婆は容器を葵に手渡すと「奥さんも身体に気をつけないとね。ご主人によろしくね」と手をひらひらさせ、部屋に戻っていった。
※
葵は良き隣人に礼を云い、部屋に入るとキッチンに立った。
手にした半透明の容器を開け食器棚から取り出した皿へ肉じゃがを移しラップをすると電子レンジにかける。
「肉じゃがを温めて」と口にした。
そして緑のボタンを押下すると、レンジ内に緑の走査線が縦横無尽に走り、ものの数秒で「チン」と温めの終わりを告げる。
葵はそれを聞き届け緑のボタンの横に並ぶ橙色のボタンを押下し「10分保温して」と告げた。すると、レンジのガラス扉の右端に数字と文字列が浮かぶ。
keep warm 保温 保持温暖 보온 00:10:00
「Control panel、Setting、Display、Language、Japanese」
おもむろに葵は英単語を半拍づつ離し口にすると、ガラス扉の表示が変化する。
保温時間 残9分30秒。
※
相変わらず薄暗い部屋だった。
葵はリビングで横たわる無人の様子を確認し、あたりを見回した。
掃除は行き届いている。空気も澱んでいる様子はない。まるで先ほどまで誰かが居たのではないかと感じた。それに葵は目を細め「んん」と咳払いをすると、無人の横に腰をおろした。
やはり、相変わらずスマートデバイスは右手首に食いこんでいる。だが、昨日から酷くなっている様子はなかった。無人の表情も変わりない。
「バイタルモニターを見せて」
無人が横たわるシートの脇にあったコンソールへ触れた葵がそう云うと、何枚かのホロディスプレイが宙にマウントされる。そこには数々の数値や英単語が並び、恐らく無人の身体の様子を指し示しているのだ。葵はそれを眺めると「大丈夫そうね」と呟き「ありがとう、閉じて」と告げる。
葵は軽くため息をつくと、キッチンに戻りレンジから皿を取り出した。
そして、食器棚からグラスを取り出し水を注ぐと肉じゃがを口に運び、なにやら思いに耽った。あの老婆は何故、突然姿を表した葵に違和感もなく話しかけたのだろう。昨日はぎこちなかったが、今日は全く違う。まるで、今まで何回も葵の姿をここで目にしているかのよう——そういえば、管理人もそうだった。何度も葵のことは見ていて——なんで顔を赤くしていたのかは、さておき——だから、呼び止めなかった? 不審には思わなかった?
葵の脳裏に老婆の声が思い浮かぶ(あ、そうそう、肉じゃが)。
葵は昨晩は近くのビジネスホテルに宿をとり、そこで寝ている。だから昨晩、彼女と会うことはない。
「それとも——」
葵は小さく呟くとキッチンを出て、玄関に続く廊下に立った。その先にはもう一部屋ある。葵はそこに介護用チェンバーズが待機していると考えていたが、でも、それはまだ確かめていない。
「まさかね」
まだスマートシールは厚手のカーテンを開けていない。
廊下は薄暗く、玄関までが遠く感じられた。
葵の頭によぎった可能性。それを確かめる気にはまだならなかった。
ガタ! ガタ!
葵の耳に物音が飛び込んだのは、廊下の先をみつめ固唾を呑んだそのときだった。葵は慌ててリビングに駆け込むと無人の傍に座り込む。無人の表情に変わりはないが、マウントされたホロディスプレイには右腕をクローズアップした線画が表示され手首に異常が起きていることを示していた。
無人の右手が微かに震えているのがわかる。しかし、それは恐ろしく不自然で生理現象のそれではなく、なにか別の力によるものだと直ぐにわかった。葵はすぐさま、無人の右腕を手に取ると、手首を確かめる。
するとどうだろう——。
スマートデバイスから伸ばされた極細の管、手首から這い出た赤黒い血管にも似た管。それらは僅にだが、はっきりと蠢き互いを求め合い絡まり、融合部分を広げていく。嗚呼——葵はその様子を口を押さえ、ただただ凝視することしか出来なかった。
無人のバイタルグラフが分かりやすく上下する。
そこへ幾つも表示された警告のメッセージ。その中には脳の異常を示すもの、心肺の異常を示すもの、異物の侵食を感知したものが読み取れた。
玄関先から扉の開く音が、微かに聞こえた。
恐らく、無人のバイタル異常を受けたチェンバーズが稼働したのだ。
薄暗い廊下へ人影が見える。
葵は固唾を呑んだ。
葵のスマートデバイスがブルブルと震え颯太からの連絡を知らせた。
視線を廊下から外すことはなく、葵はスマートデバイスに触れ颯太からの通話を繋いだ。
(先生! 大変です、アッシュさんが!)
「生体情報確認、適合者なし、近似値から判定。
颯太の声が頭に響くのと、目の前に立ったチェンバーズが言葉を発するのは、ほぼ同時だった。
「な、なんで——」
葵は声を辿り、ゆっくりと視線をあげると絶句した。
端整に整えられた黒髪は腰のあたりで切り揃えられ、ほんの少しだけ毛先がふわっとしている。背はそこまで高くはないが、黒色のスカートの腰の位置から想像するに、スラッと脚が長い。脛のあたりまでスカートの丈はあるからハッキリとはわからないが、きっとそうだ。ペールトーンの青が印象的なふわっとしたカットソーから覗く手は白く綺麗で指もしなやかだ。
そのチェンバーズは——。
「——私なの」
葵は目の前のチェンバーズを見上げ茫然とした。
颯太が呼ぶ声が頭に響き続けるのだが、それに応答することができない。今、目の前にしているものは、それほどに葵を混乱させた。
鏡に映った自分。似姿。言い方はなんでもよかった。
目の前に立ったのは乃木寿子を模倣したそれではなく、自分と瓜二つのチェンバーズだった。