ライラ・リンパルは困っていた。
当然のことながら目前の四つ首の蛇に苦戦を強いられているのである。彼女の体躯を遥かに超えた、激しく襲いくる大蛇をいなすのに精一杯なのだ。それでも何度か好機を見出し刃を突き立てるが、これがまた岩盤のような肌を貫くのが難しい。
それならばと、方々に走る肌の亀裂を目がけ太刀を斬り込む。
しかし、それも決定打にかける一撃を積み重ねるだけとなってしまう。
「なんなのよこれ——ちょっとロア!手伝いなさいよ!」
ライラはロアに声を張り上げた。
ロアは遠く離れた家屋の屋根にたたずみ、どうやらこの激闘を傍観してるようなのだ。ロアは自身に危害が及ばない限り介入ができないといい、その場を離れている。だったら
粗方、住民も逃げ出せたようだ。
であれば、ここは魔術なり魔導なりで派手に立ち回ることもできるのだろうが、残念ながらライラはその術を持ち合わせていなかった。だから尚更、ロアを巻き込むようには誘導できない。
「魔術ってのをもう少し頑張っておけばよかった・・わっ!」
四つ首のかぶりの一つが勢いよく焔をなびかせライラを丸呑みにしようと突進する。彼女はひらりとそれを躱し大蛇の眉間に刃を突き立て、素早く引き抜いた。
「うわあ、これじゃ、ジリ貧じゃない。あのこ本当に手伝わない気ね」
※
アッシュ・グラントは少女と、その保護者との邂逅もそこそこに馬を走らせた。それを追いかける、アドルフ、ブリタ、エステル、そしてグラドとミラはアッシュに置いていかれないよう、懸命に馬を走らせる。
アッシュは気難しい顔で言葉を発しない。
それは、少女のことを考えていたからだ。今は先ずは四つ首討伐に専念しなければいけない。だが、アッシュを「お父さん」と呼んだ少女に応えてやれなかったからなのか、彼女はどこか寂しそうな顔をしている。アッシュはそれが気がかりなのだ。
このままでは、四つ首との闘いに差し支えてしまう。
だからアッシュは馬を保護者の横につけ、この気の良い酒樽にもう一度話を聞いてもらうことにした。
「——あの——」
家屋の合間を縫いながら疾駆する馬を器用に御しながらアッシュは男に声をかけるのだが、終ぞ名前を聞くのを忘れており言葉に詰まった。それに男——グラドは「グラドだ。あっちはミラ。ミラ・グラント」
グラドの方は馬を御するのに精一杯なのか、余裕さえみせるアッシュとは正反対に顔が険しい。一介の鍛治師がここまで馬を操れるのであれば、それはそれで驚きではあるのだが。
アッシュはグラドの視線の先の少女——ミラ・グラントに視線を投げ、またグラドに戻すとかぶりを軽く下げた。
「グラドさん、あまり時間もないので手短に。この先は危険です。僕たちでも、どうなるかわかりません。ですので——」
「わかってるよ。避難しろってんだろ」
「ええ、お願いできませんか。できれば村から離れてください」
西の空に響く轟音、家屋の壁に反響する馬が駆け抜ける音。そしてまた轟音。
少しの間を置いてグラドは険しい顔をアッシュに向けた。それは馬を御する難しさ、轟音そういったものへの嫌悪ではなく少女の不憫さを思ってのものなのだろう。
「アッシュ・グラント」
「はい——」
「一つ約束をしてくれ。
あいつ——ミラはお前に会うためだけに、キーンを出たんだ。
だからこれが終わったら話だけでもいい、聞いてやってくれないか」
「勿論です」
アッシュはそう云うと、笑みを浮かべかぶりを軽く下げた。
なんだこの爽やかさは。グラドは自分とは全く正反対のアッシュの佇まいに幾分か面食らったのか困った顔をすると「分かったぜ」と、気を取り直すよう胸を仰け反らせ、「それじゃ、後でな」と拳を突き出す。
アッシュはそれに「後ほど」と軽く答え拳を合わせた。
「死ぬなよ」
グラドの最後の言葉にはアッシュは答えはしなかった。が、グラドと視線を絡ませアッシュは馬を先行した。
後方ではミラが「なんで私も行く!」と連呼をする声が響くが、グラドはそれをなだめ四人の隊列から緩やかに離れていく。丁度一行が広場を抜けると、グラドとミラは進路を北に外し村を見下ろす岩場の方へと駆けていく。
「よかったのですか?」
馬を寄せたアドルフはアッシュに訊ねた。
アッシュは眼前に燃え広がる惨状を目の当たりにし双眸を鋭く細め「はい。守り切る自信も——ね」と、爽やかさにおいてはアッシュよりも一枚上手の野伏に苦笑を見せ、そう答えた。
そして馬のかぶりが向かう方へ目をむけ、想像を絶する怪物——世界蛇の姿を認める。それは今まさに身体を仰け反らせ、赤黒い繊条を身にまとい——眼下で迎え撃つ一人の戦士に業火を浴びせようとするところだった。
※
世界蛇はゆっくりと首をもたげ仰け反らせる。
喉元を紅く輝かせる時には、その皮膚が大きく膨らみ岩盤のような皮膚の亀裂からシューシューと黒煙を噴出する。周囲には吐き気を催すほどに硫黄の臭気を撒き散らし、炎を吐き出す前兆を見せた。
ライラはこの闘いの中、何度かそれを目の当たりにしている。
だからその前兆を察知すると瓦礫に身を隠すのだが、周囲を瞬時に見渡すがもう身を隠せる瓦礫がないことに気がついた。
先ほどまでロアが佇んだ家屋も今では粉々に粉砕され、彼女の姿もなかった。
薄情なものだな。ライラは心中蔑む思いを吐露するが、仕方なしとばかりに仁王立ちになり片手半剣を八の字に振り回し始めた。剣風を巻き起こし、その速度を次第に早めていく。
世界蛇の喉元四つは、はち切れそうなほど膨らみ黒煙を一層色濃く立ち昇らせた。更に首を仰け反らせ、瞬く間に全身を赤黒く輝かせると赤黒い閃光を身に纏わせる。その姿は翼があれば天空の神を喰らおうとした暗黒龍のようだなと、ライラはどこか他人事にように思い、なぜだか笑いをこぼしていた。
「なんだっけ。黙示録の竜だっけ? でもあれは七つ首だったわね。じゃあ——三つ足りないから、なんとかなる——か!」
何がどのように大丈夫で、なんとかなるという打算をしたのか。
実際のところ当の本人もよく分かっていなかったが、とにかく最後には気合を入れ切っ先の重さを器用に振り回し最大速度で剣を八の字に振った。
炎に煽られた空気もあったのだろうが、剣風に乗算された風は足元で煙を巻き上げ風の防壁をライラの前に作り出していた。
※
「エステル!あいつの喉元を!ブリタさん、障壁をお願いします!」
エステルとブリタに鋭く指示を出すと、アッシュはアドルフと視線を瞬時に絡ませ、魔導で強化された馬の脚力を最高速度に維持し突入していく。エステルの放った魔力の矢が四本同時に弧を描きながら世界蛇の——今にもはち切れそうな喉元を直撃した。
世界蛇はこれに堪らず身体を大きく震わせた。
身悶え、苦しむと急激に膨れ上がった喉の皮膚が大きな破裂音と共に弾け飛んだのだ。それぞれの蛇のかぶりは、下を向いたり天を仰ぎ思い思いに苦悶の叫びを轟かせる。
弾け飛んだ喉から漏れでた溶岩が方々に飛散すると、大木は瞬時に燃え上がり、川の水は蒸発し、岩肌は赤々と溶けてしまう。
ライラは突然のその光景に目を丸くし「うわ」と小さく声を漏らす。
蛇の首が弾け飛んだこと、そして、今自分が剣風だけでなんとかしようとしていたものの破滅的な威力を目の当たりにし、ゾッとしたのだった。
「大丈夫ですか!?」
アッシュは瞬時にライラと世界蛇との間に割って入り、馬を回頭させ、声を掛ける。そして、のたうちまわる蛇の動向から目を逸らすことなく、戦士の答えをまった。
かたやアドルフの方はそのまま最大速力で駆け抜けた。大蛇の尻尾の方へと一目散に向かっていったのだ。バタンバタンと尾を上下させる合間をアドルフは器用にすり抜け巨躯の向こうに姿を消した。
「あなた——達は?いずれにせよ助かったよ!ん?ネイティブ?」
「ああ、ええ。そうです。僕と赤髪の彼女はそうです」とアッシュ。
「赤髪?」とライラは後から追いつた二人の女性に目をやると、なるほどと小さく漏らし「ありがとう、私はライラ・リンパル。あなた達は?」と、のたうち回る世界蛇に視線を戻した。
「アッシュ・グラント」馬から勢いよく飛び降りたアッシュは答え、狩猟短剣を構えた。エステルとブリタも馬から降りると、「エステル・アムネリス・フォン・ベーン」「ブリタ・ラベリ」と手短にそれぞれが名乗った。
ブリタはそのまま腰を屈めると両掌を大地にあて、術式を展開する。
青く輝く円環に展開式が刻まれると瞬時に四人の周囲へ青く輝く半円の壁を創り出す。エステルは<言の音>を紡ぎ、女剣術士の背に触れる。
「アッシュ・グラント?あなたがそうなの?」
ライラはエステルに「ありがとう」と声をかけ、そして訝しげな顔をアッシュに向ける。アッシュは横目にそれを感じると「ええ、本当はあなたと一緒で<外環の狩人>だったようなのですがね」と、少々困った顔で答えていた。
「そう。それにエステルにブリタさんね。なんだか——まあ、とにかく助かったわ。さっきまで聖霊ロアが居たのだけれどね。雲隠れしちゃって困っていたのよね」
「聖霊が?」
「ええ、それに強欲の獣。あなた——
まさか。と漏らすアッシュの顔に、豪快に笑ってみせたライラは「いずれにしても、この蛇をどうにかしないと。で、手伝ってくれるってことで良いのよね?」と、片手半剣を正眼に構えた。
「勿論です。少し時間をください」
※
アドルフは大蛇が波うたせる身体の合間をすり抜けると、馬から飛び降り大蛇の身体に乗り移った。アチチと声を漏らしたこの器用な野伏は身体をうまく制御し、大蛇の背中を駆け昇っていく。
足元を注意深く観察しながら、且つ素早く駆け昇るアドルフは岩盤のような皮膚の下に脈打つ黒い影を求めた。それは断片的に思い出したのか<謄写の眼>の能力なのかはわからないが、アッシュがボソと口にした世界蛇の心臓——核なのだそうだ。それを砕けば世界蛇は実態を保てなくなると。
アドルフは「わかりました」と、どちらにせよ屠る方法の予測もないまま、がむしゃらに闘うよりはマシだと、この特攻役を買って出たのだ。
喉元を破られた世界蛇は酷く上下左右に身体を揺さぶらせている。
その悪路を駆け昇り、ついには村の全貌が見渡せそうなほどになると、眼下でアッシュが蛇のかぶりを牽制し、いなし、斬りつける姿を見ることができた。
そしてアドルフはそこで明らかに闘いの激音とは違う、規則的な鼓動を耳にする。
はたと、足を止め身体を投げ出されないよう突き出した蛇の肌の突起に掴まり足元に視線を落とした。
紅く露出をした
そしてアドルフはそれを目前に呟いた。
「でもねアッシュさん——これ、どうやって砕けと?」
※
怒り狂った蛇のかぶりが、それこそ四方八方からアッシュとライラを目がけ、バクンバクン顎を鳴らす。その度に二人は時には背中を合わせ、時には身体を入れ替え互いに襲いくるかぶりを斬りつける。
エステルは大蛇の首元、比較的に皮膚の薄いであろう箇所へ執拗に魔力の矢を撃ち込み続けた。いつの頃からなのか、この旅に出てからの試練を掻い潜るほどに成長をしたエステルは<言の音>を紡ぎながらも、矢を放てるほどにまで手練れ、一行の大事な戦力となっていた。本人にとってそれは誇らしくもあり、憧れの姿へ一歩一歩、歩み寄れていると実感し心を鼓舞するのだ。憧れの姿。それは勿論、かつてのアッシュ・グラントの姿だ。
しかし——
その高揚感は時に目を眩ませてしまう。
ブリタの障壁を喰い破り迫り来るかぶりを、前衛の二人がいなし、エステルが魔力の矢を撃ち込む。ブリタが再び障壁を張る。そのうちにアドルフがアッシュが云った核を見つけるまでの辛抱だ。きっとうまくいく。そして自分もうまくやれている。
その時エステルは背後に違和感を感じたのだった。
※
「あれが人の闘いなのですか?」
相変わらず、その身に被害が及ばぬよううまく移動を続けながら、世界蛇と戦士達の闘いを盗み見をしたレトリック。ライラに合流を果たした四人の戦士が加わってからの激闘に口をあんぐりさせると、どうやらこれは自分の範疇ではないとばかりに言葉を漏らしていた。
加勢した一行の黒髪の男は「アッシュ・グラント」だと確かに、そう名乗った。
あの黒髪が目的の男だ。
レトリックは思いの限り、持ち得る智慧の限りを尽くし思考を巡らせた。
蛇を屠ってからでは、自身に与えられた任務は遂行が難しい。いや、可能性は全くないと云っていい。それであれば、どうするのか。銀髪の女は先ほどから周囲を警戒し——ともすればこちらの存在に気が付いているかもしれない。障壁をはり続けるのに精一杯の様子ではあるが、とにかく隙がない。
前衛の二人は恐らく、いや、きっと、いや、絶対的に自分では相手にするのは無理なのだ。頼りのパナヨティスはご覧の通りだ。
孤立無援で遂行するには無理がある——しかし、必ず、何事にも隙は生じる。
レトリックの目は聡かった。
赤髪の女は魔力の矢を撃ち込み<言の音>を紡ぎ続けている。
そばかす面は段々と紅潮し、弓を構える腕が次第に大ぶりになってきた。疲労が溜まってきているのだ。<外環の狩人>ならばいざ知らず、レトリックと同じ種なのであれば、この長時間を耐え切れるはずもない。
レトリックは目を細め、次に大蛇の頭上を見上げた。
先ほど駆け抜けた野伏は、先ほどから大蛇の背に取りつき段々と頭へ頭へと昇っているようだ。あれが降りてきてしまえば、この好機はもう訪れない。
与えられた——無理矢理にだったが——兵卒を全て失い、
それならば——レトリックは懐に手を滑り込ませ、そして物陰からぐるっと大きく、一行の背を取るように素早く駆け出した。
※
「きゃ!」
鋭い悲鳴がブリタの鼓膜を揺らした。
咄嗟に横に視線を滑らせると、矢を撃ち続けたエステルの背後に黒装束に黒の外套を羽織った男の姿をみた。男はエステルを羽交締めにすると、ジリジリと後退をしていく。
「アッシュさん!」
ブリタは咄嗟に声を挙げ、この緊急事態を知らせた。
アッシュはその声に驚き、大蛇のかぶりを斬りつけ様に振り返る。ライラは足を止めたアッシュに襲い掛かるかぶりを斬りつけ、その様子を脇目に捉えた。
「アッシュ・グラント!足を止めたらやられるわ!」
「わかっています!」
「だったら、前を向きなさい!」
「しかし!」
完璧に組み立てられた模型というものは、何か一つでも部品を失うことで崩れ去る。文字通り崩れ去ることもあれば、完璧さを失うということもある。それは、その完璧さ故にだ。そして今、その部品は無慈悲に取り除かれた。絶妙な均衡で保たれた戦いは前者の通り崩れ去ったのだ。
声を張り上げ油断をしたブリタは、ライラがいなした大蛇のかぶりの導線に巻き込まれ吹き飛ばされた。
世界蛇の背中に核を見出したアドルフは今まさに黒鋼の刃を突き立てようと武技幻装を纏わせ振りかぶった矢先だった。エステルを羽交締めにした黒装束に気がつくと「エステルさん!」と思わず声を挙げてしまい気を緩めてしまう。
そして、打ち震えた大蛇の身体から投げ出され大地に背中を強打し、もんどり打った。
アッシュは無謀にも飛び出そうとした矢先に、ブリタが張った障壁を喰い破った大蛇の下顎に押し潰される格好となり、腹部を強打した。
瞬時に肺を圧迫されたアッシュは呼吸ができなくなったが、喰われまいと身体を横に転がし、大蛇の顎を避けた。
ライラは瞬時に総崩れとなったことを悟り、苦しみもがくアッシュに駆け寄り首根っこを掴む。アッシュを抱え込んだライラは、四つ首が同時に動くのを見ると左右に身体を動かし、前に転がった。
四つの大蛇の顎はそれぞれがライラを目がけ突進をした。
しかし、左右に振られた顎達は最終的には一点を目がけ同時に振り下ろされ、見事に宙で大きな音をたて激突をする。
前に転げたライラは、その先でもんどり打った野伏の方へと駆け寄る。
「男でしょ!しっかりしなさいよね!」
ライラはこの一連の動きの中に、それまで自分達が知り得なかった射線を感じていた。それは意識外からの射線。いや、無邪気な射線とでもいうのだろうか。
そしてライラは、苦しみもがく男二人の首根っこを引っ掴み、その射線から逃れた。