白狼の王が顕現し我々に天啓を与えた。
南の桃源郷に巣食う堕落した民の血で<人を造りし神>を染め上げ
そしてそれを喰らうのだ。
かくして我々の王は神の門戸を開き、
隠り世を解き放つ。
これより七つ目の月が輝く夜、かの桃源郷で宴を催そう。
——野盗が携えた解放戦線への親書抜粋。
※
満点の夜空に星々が浮かぶ。
雲という雲は切れ端もなく、夜空は澄み渡った。
下に広がるは、見渡す限りの黒々とした草原。黒は兵士たちが流した鮮血。草原は兵士たちの血に染め上げられていたのだ。
星々は凄惨な草原を見下ろし瞬き、その一部始終を観ていた。
転げる骸は無惨で、四肢をまともに繋ぎ合わせたものは殆どない。頸は跳び、腕は切り離され、金属鎧を喰いやぶられ腹から臓物を撒き散らした。そんな骸が殆どだ。
ネリウス・グローハーツ将軍が率いたリードラン解放戦線主力旅団は、たった一人の戦士の手により壊滅をした。
国境の砦を落とす。
それは素早く迅速に行う必要があった。
だからネリウスは自らも撃って出たのだ。しかし死を撒き散らす黒風が吹き荒んだ。剣風が血飛沫を巻き上げ、旅団を削り取った。それは、ネリウスの手でも喰い止めることができなかったのだ。
右脚を跳ばされ左腕をも持っていかれた将軍は、なす術もなく黒の草原に横たわり最後の刻を待った。そう、目の前に立つ黒風が引導を渡すその刻を。
将軍を眼下に見た黒ずくめの男は、軽々と黒鋼の両手剣を肩に担ぎ周囲を見渡す。
どこまでも暗く黒い外套。
頭に被ったフードも暗く黒い。
覗かせた髪も目も黒。全ては暗闇に潜む為のように深く黒い。
男の所作はそんな風体もあってか、悪鬼を思わせた。
「将軍」
男は命の灯火を今にも消さんとするネリウスに呼びかけた。
しかし、もうネリウスには答える力さえも無かった。だから溢れ出る血の泡が流れたことだけが、それに「なんだと」答えるようだった。
「お前のその怒りは私怨か? 見ろよ。お前が掲げた篝火に群がった羽虫の末路を。無惨なもんだぜ。お前はコイツらにどんな希望の灯火を持たせた?」
そう云うと黒の男は顔ぐるりと巡らせた。
——私怨だったか。
そう問われれば、そうだったのかも知れない。
故郷のアークレイリは自分達家族を助けはしてくれなかった。国と国の狭間で揺れ動く猜疑と虚偽。そんなようなものに翻弄され、住まう館ごと家族を焼かれた。忠誠を誓った国は王は、自分達を助けはしなかった。遠く北の蛮族、海賊との戦場で、そのことを知り、騎士は怒り狂ったのだ。
国なんぞ無ければ良いのだと。世界に王は一人で良いと。
しかし、その想いを眼前の男に語る術はもうない。
「聖霊の原でまた会おう」黒い男はそう云うと静かに黒鋼の両手剣を振り下ろした。
※
暗転した視界。
次に見たのは夜空、草、夜空、草。
転げたかぶりは、勢い良く体躯から切り離された。
どういうことなのだろうか——。
息途絶えたのではないのか? それともこれが聖霊の原なのか。だとすれば——随分と気の利かない光景だ。血反吐と骸が彩る草原だなんて洒落にもならない。
しばらくすると、向こうから歩いてくる何かの四肢が見えた。
白い毛並みのそれは細々とした脚だった。
白い脚は眼前で立ち止まると、ハッハッハッと苦しそうに息を漏らし、将軍を見下ろしているようだった。どんな面構えなのかは解らない。しかし、その足の細さに毛並みを見れば、飢えた野犬か何かなのだろう。
『怒りの匂いを辿ってみれば、この半端な胸糞悪い怒りはお前のものだったのだな人間』
頭にしゃがれた声が響いた。
『お、お前は』
未だ途切れぬ息と意識。
将軍はそれを訝しく思ったが、とうとう悪魔にでも憑かれたのだろうと諦めその声に頭の中で返した。
『そうだな。お前の頸を跳ねた輩を捕縛せよと命ぜられた獣だ』
『獣? そうか。それで<宵闇の鴉>は?』
『ほう、あやつは鴉を名乗るか。うむ。もう此処に姿はない。覚えているか? あやつの姿を、沸き立つ血の匂いを』
『嗚呼——』
『今お前が抱く、その心はなんだ』
『もう一度。もう一度、宵闇と対峙し剣を合わせ答えたい。俺のやってきたことがなんだったかを』
『ほう、信念にその怒りの火種をくべるか。ならば良し』
ハッハッハッと漏れる息遣いが耳の側にやってくるのがわかった。
そして訪れたのは、暗闇だった。
それは冷たく熱い不愉快な暗闇だった。
将軍は最後にこんな言葉を耳にしたような気がした。
「お前の怒りを器に借り受けるぞ」
※
満点の夜空に星々が浮かぶ。
雲という雲は切れ端もなく、夜空は澄み渡った。
下に広がるは、見渡す限りの黒々とした草原。黒は兵士たちが流した鮮血。草原は兵士たちの血に染め上げられていたのだ。
星々は凄惨な草原を見下ろし瞬き、その一部始終を観ていた。
そこへ一点。黒く染められた画布に落とされた白色のようなそれは一匹の狼であった。鼻面をあげ、空気を匂い、沸き立つ血の香りを嗅ぎ分けながら歩いた。星々を背負い黒の草原をゆく白狼は、しばらく歩くと一人の男を見つける。何処かからか潮の香りを孕んだ風が吹き、白狼と男を撫でつけて行った。
男は気高き<北方旅団>の末裔、アークレイリの騎士。
今は力無く跪き、折れた剣を傍に啜り泣いている。両手を顔にあて、恥ずかしげもなく嗚咽を漏らした。白狼は静かに男の傍に擦り寄ると、泣きっ面を覗き込み濡れた鼻で顔中の匂いを確かめ始めた。
「狼よ。俺を喰いに来たのか? それならばそれでも良いさ。もう俺には生きる理由がなくなったんだ。どうだ? こんな情けない男でも喰う価値はあるか?」
白狼は何度か鼻をひくつかせ、男の言葉に耳を動かし、そして、うなじに耳の穴とあらゆるところに匂いをさらに嗅ぎ回った。白狼はひとしきりそうすると、幾許か男から離れくるりと身体を回頭すると男に向き直った。まるで人がそうするようにも見えた。
「え?」
男は訝しげな声を挙げた。
白狼が何かを口にしたように思えたのだ。
「遠く離れたこの
男は目を瞬かせた。
その言葉ははっきりと白狼の口から聞こえたのだ。
「な、なんだって? ついに頭がイカれてしまったか?」
「いいや。お前は狂ってはおらぬよ。して、答えは?」
「——したい」
「聞こえぬぞ、騎士。はっきりと口にせよ」
「あんたは悪魔か何かか? であれば力を貸してくれ。俺は全てを壊したい。忠義も忠誠も俺たち家族を護ってはくれなかった。国なんてものがあるから、そんな不確かな枠組みがあるから——争いを産み出し、力なきものはそれに全てを奪われる。だから全て壊したい。こんな悲しみに暮れるのは俺だけで十分だ」
「それも側面よな。だが、良いのか? お前のその望みは、お前やお前以外の者から全てを奪うかもしれぬぞ。お前はお前と同じ境遇の者を産み出すだけかも知れぬ。矛盾しているとは思わないのか。その願いは欺瞞であり詭弁だ」
「そ、それは——」
「素直になれ騎士よ。違うだろう。お前から香り立つ匂いはそう云っておらぬ。怒っているのだろう? 理不尽にでも全てを灰燼に還したい。そう望むのだろう? 憤怒の行き先などというものは、そんなものだ。高潔でもなければ崇高でもない。どうだ騎士よ? 違うか? お前はお前の境遇を呪いそう怒っているのだ。なぜ自分だけなのかと。どこまでも愛は飾りで芯はお前の欲望であろう」
「クソ! 狼風情が知った口を!」
騎士は狼の言葉に激昂すると、剣を片手に立ちあがろうとする。
しかし、それは叶わなかった。
白狼はそれよりも、半拍早く動き騎士に飛びかかり喉笛へ喰らい付いたのだった。
すると白狼はくぐもった声で「名を訊こう」と静かに訊ねた。
騎士は口から溢れ出す鮮血に咳き込みながら「アークレイリ白竜騎士団 ネリウス・グローハーツ」そう答えた。
「そうか。良い名だ。お前の怒りを器に借り受けるぞ」
白狼の声が騎士の耳に届いたかはわからなかった。
そして、騎士の視界は暗転した。
※
「い、今のはなに?」
バーナーズに促され乃木無人の——かも判らない空間から立ち去ろうと背を向けた葵の頭のなか、いやその空間そのものかも知れないが、そこに投影された光景へ彼女は慄き、足を止めたのだ。
葵は黒髪が乱れるのにも構わず勢いよく振り返り、白狼に問いただそうとする。
しかし、それに答えるものは居なかった。
白狼はしょぼくれた狼の背面から首に喰らい付き、しょぼくれた狼はバーナーズの喉笛に喰らい付くと互いの血にまみれ、微動だにしなかった。拮抗した状態はしばらく続き、喰らい付き合う獣は戦慄を孕む唸り声を喉から漏らすだけだった。
互いのかぶりで描かれた円環は得体のしれない何かが溶け合うさまのようで、葵が先ほど目にした陰惨な光景は、なぜだろうか、二頭の狼のそれが見せた幻影なのだろうと直感した。溶け合う二頭の記憶。どれが真でなにが偽であるのか判らない。双方ともに真であり、それを疑うは偽であるのかも知れない。
拮抗を崩したのはバーナーズだった。
左前脚をカクンと軽く落とし体重を乗せると、しょぼくれた狼の身体を投げ飛ばしたのだ。バーナーズの喉笛はそのまま喰いちぎられ鮮血を迸らせた。弧を描き飛ばされた白狼の後を追った赤黒の筋は、それを茫然と眺めた葵をも染め上げる。
「なんなのこれ——バーナーズ!」
「黙っていろ吟遊詩人。もたもたしおって。扉が閉じてしまったではないか」
「え?」
バーナーズの叱咤に葵は目を閉じてみるのだが、云われたとおり狂ったこの純白の空間から出るための接続を掴むことが出来なくなっていた。思惑通りであれば、葵は一糸まとわない姿でこの部屋を出られる筈だったのだ。
「理解したぞ——矮小な狼。お前は魔女の云っておった別の<原初の海>からやってきた泥人形なのだな。お前は、あの騎士をたぶらかし似姿を得た。その後はどうなった。魔女はそこまでは見通してはおらなかったぞ」
葵は目を瞬かせ、バーナーズが問いただす言葉に耳を傾けた。
それはきっとあやふやとした自身の存在に関わることなのだ。
「嗚呼。世界は世界の小箱を起点に交じり合おうとしている。そこの女の願いが呼んだ青海波は、その理りを崩し混じり合うのだよ。して、儂が得た似姿の末路か——」
しょぼくれた狼は、喰いちぎったバーナーズの皮膚を口に垂らし、くぐもった声でそう云うと、それを横に投げ飛ばした。そして、ハッハッハッと変わらず息苦しそうに、かぶりを垂らし言葉を続ける。
「<宵闇の鴉>とそこの女と対峙し、きっちりと頸を跳ねられた。其の後のことは、そこの女が知っての通りだ。お前らが迎え得ない未来。交じり合おうとする未来。それが根源だ」
葵は目を見開いた。
しょぼくれた狼は自分が過ごした時間を知っている。
この狼は全てを知っている。
喰いちぎられた喉笛あたりから血を垂れ流したバーナーズは片目をつむり、静かに葵に顔を向けた。その面持ちは矮小な狼が云った「其の後のこと」を語れと迫っている。
葵は混乱をした。
葵が迎える未来は人類が、人類を狩り尽くす最悪の未来。
であれば、語れる未来とは——。
「だ、大崩壊は起きたの。
そこでネイティブが人間の脳を媒介に現実世界へ侵食できることも観測できた。その実証も得られた。わ、私はそれを観測した——でもそれを観測しては駄目だった。それは手を触れてはならない禁断の箱だった。あの親子に知られてはならない箱だった。だから私は、それをなかったことに——」
バーナーズがそこで咳き込むと、葵は言葉を落とした。
顔をしかめ血反吐を吐くと身体を大袈裟に振るわせたからだ。すると、どうだろうか。それまで満身創痍とでもいうような風体であったバーナーズの身体は綺麗さっぱり、もとの白狼の姿へ戻っていた。しょぼくれ狼に目を向けると、こちらも同じく綺麗さっぱりのしょぼくれさに戻っている。
「なるほどな。混じるとはそう云うことか——一つ訊こうか、狼。お前は大崩壊の後、宵闇の親と邂逅したか?」
珍しくどうにも不安な顔をする葵に一瞥をくれるとバーナーズは、小さく唸るように云った。そして、ゆっくりと四肢を動かし、しょぼくれの周りを歩く。
「戯言を。互いに死してどこで邂逅すると云うのだ——そうか。お前は邂逅しているのだな、神喰らい」
しょぼくれはバーナーズを顔だけで追いかけ、苦しそうにしゃがれた声で云た。
沈黙が流れた。
この二頭が何を話しているのか整理することさえもその沈黙は許さず、葵は頭の中を真っ白にしてしまう。世界が混じり合う? 無人の両親にバーナーズが会っている? そんな事実を葵は知らない。いや、確かにそれは起きていない。少なくとも、自分が知っている世界の中では。
茫然自失といった様子の葵は、ふらふらと歩き出すと二頭の間に割って入り、口をぱくぱくとさせた。
何かを訊きたい。
何かを訊かなければ自分は自分を自分ごと否定してしまいそうで、それはこの場においては死を意味する。
心神喪失。それは自身のバイタルを放棄することに他ならない。
いわば植物人間、生きる肉塊となる。丁度それは、今、あの漆喰の物置部屋に横たわる乃木無人と一緒だ。彼の傍でそうなるのであればそれも一興。そのような邪念までもが、静寂の隙間から滲み出てくる。
葵は、かぶりを強く振るった。
「
「ああ、そうだったな。儂はそれに手を貸した」
「どういうことだ? 魔女の頸を落としただと」
「ええ、そうよ。メリッサは無人に頸を落とされたの。そして世界は最悪の状況を迎えたわ。だから無人は——元に戻さなければと云ったの。一度きりの機会の中に潜んだコンマ幾つかの機会を見つけ出して、
「吟遊詩人、
バーナーズは興奮気味に葵へ詰め寄ると、呆然と口を動かした彼女を鼻面で小突き、答えを急かした。だがしかし、葵はそれに反応するわけでもなく、ただ小突かれたままに身体を揺らし口をつぐんだ。
その時だった——二頭と葵の頭の中に鳴り響く声がした。
「バーナーズ」
それは、アッシュ・グラントの声だった。
アッシュの声と共に純白の空間が歪み始めたかと思うと、上下左右の感覚が一斉に崩れ始め、葵は吐き気を覚える。バーナーズはといえば「あの阿呆。そう軽々と儂を呼び出すなと云ったのに」と苦言を漏らし、葵の首根っこを咥えると「出口まで連れて行く」と短く唸ったのだった。
崩れゆく純白の世界。
しょぼくれた狼は、世界を離れていくバーナーズ達を顔で追いかけ、やはりハッハッハッハッと荒い息を漏らしている。しばらくすると彼は背をむけ崩れゆく中で丸まり、うずくまると、しゃがれた声を漏らした。
「世渡しとはよく云ったものだ。お前達はどう足掻いても世界の摂理を越えて行くことは叶わなかったわけだな。時はそう易々と渡れぬものよ」
そして、しょぼくれは云い切ると再びハッハッハッハッと荒い息を漏らし——
「さらばだ」と目をつむった。
葵はその刹那に、しょぼくれた狼の身体が引き裂かれ鮮血を撒き散らしたのを見た気がした。しかし、それはバーナーズが身体を回頭する最中の隙間の出来事。
確証はなかった。
「余計なことはしないで。大人しくしないのなら消えてちょうだい
別の声がまた、頭に響いた気がした。
しかし、それにはバーナーズは気がついてはいないようだった。