大事に大事に穢された小鳥は鳥籠のなかから世界を眺め思った。
世界とはこんなにも醜く歪んでいる。
大義名分さえあれば世界を焼き払い、人を、犬を、猫を、鳥を森を、あらゆる命を負の境界に立たせ突き落とす。
そう目に映った。
だから小鳥は望んだ。
あのひ見た鮮やかな空、太陽、雲、川に湖。水平線。地平線。
風に吹かれた小馬は気持ち良さそうに野を駆け巡り、小川を飛び越え父親の元に帰る。そんな愛でるべき光景。そんな世界に書き換えてしまえば良いのだと。
でも。
そこでも争いは起こる。
しかし、それは身の丈で行われ様式美に則っているとも言えた。
誤解を恐れず云うのであれば、それは命の円環での出来事だ。
美しいとさえ想えた。
円環を壊さんとする世界の争いとはまるで違う。
だからそれを望んだ神の意思に従おう。
小鳥はその世界に居さえすれば、身体を蝕んだ病を忘れ、街角で商人達に値段交渉をし類まれな話術で遂には
それから昼だと云うのに暗い裏通りへ、おっかなびっくりに身体を滑りこませると、ちょっと肩を竦ませコソコソと小走りに馴染みの薬草屋の婆さんのところへ顔を出す。すると、婆さんは「おやブリタ。まだマンドラゴラの根は入ってないよ」と、ぶっきらぼうに云うのだ。
ブリタは銀髪を掻き上げると薬草屋の婆さんに答えた。
「うんうん良いの良いの。今日はね月光草が欲しくてね。まだある?」
「嗚呼、あるさね。どれくらいだい? 一握り?」
「そうねえ。うちの旦那、今度は雪竜王とやり合うって。だから防寒の薬をたくさん持たせないといけないの」
「ヴァノックとかい?」
「ええ——そうなのよ」
「そりゃまた、苦行だねえ。まあいいさ。狩人が狩に出なきゃこっちは商売あがったりだからね。そうさね——」
※
ブリタは、かぶりを振るうといま見た幻想を虚像を振り払う。
その最中、捕まえられたミラが何か叫ぶが、その声は耳には届かなかった。実像と虚像が脳裏にひしめき合いブリタを混乱させているからだ。ブリタは目を見開き眼前の惨劇を映すと小さく言葉を紡いだ。
それは、誰に云うわけでもない虚な言葉だ。
「嗚呼、そうそうあんな感じ。最初はあんな感じだった——私は分からなかったの。小さかったからね。それがどういうことなのかも分からなかった。でもただただ気持ち悪かった」
繰り広げられた惨劇の全てには青い薄い虚像が重なり、別のものを見せた。
その中でも寝転がされた女と、それに跨る
か細く今にも折れてしまいそうな女性——というにはまだ幼い虚像。
それに跨るのは、やはり線は細いが、そうとわかる男性の虚像。男の虚像は幼いそれに覆い被さると、自らの腰を女の股座に押し込むように動き、何度もそうした。女はそれに抵抗もせずただただ、男がそれに飽きるのを待つかのようで、腕は伸ばしきり、両脚は男の脇に力無く抱えられた。
虚像は朧げであったが動きは記号。
ブリタは
実像と虚像の隙間が無くなっていく。
ミラの絶叫が耳の遠くで響いた「ブリタさん!」
そのうちにブリタの鼓膜を揺らす不快な音が響いたような気がする。
それは、ジジジと掠れる音の隙間へ歪な声を縫い込む。
「なんでなんでなんで!」
メリッサ、メリッサ、メリッサ、メリッサ——エヴァ。
その言葉が何度も何度も繰り返された。低く掠れた儚げな男の声で。
ブリタはそれに、かぶりを激しく振った。
その刹那。
黒嵐が吹き荒れ、
「お父さん!」
ミラの声が今度は耳元で大きく響いた。
ブリタの手を振り解き彼女は駆け出した。
それは実像だった。
今ブリタが目の当たりにした光景と音だ。
それが分かると力が抜けていった。
青の虚像はフと消えて無くなり、残されたのは醜い肉塊と、その下敷きとなった哀れな女。そして——アッシュ・グラントの姿だった。
「アッシュ・グラント……」消え入るような声がブリタの口から溢れる。
※
そう。
と、ブリタは自身を納得させるため、その一言を心に落とした。
目を閉じ、深く深く心の奥底へと意識を集中した。
恐らくは——忌々しい吟遊詩人が世界の狭間で全てを語ったのだ。
そしてようやく気が付いた。
自分達が
世界の凪に放り投げられた小石がたてた波紋は、はたして世界を揺らがし始めたのだ。ブリタが目にした薬草屋の婆さんとその光景はブリタが望んだ未来、はたまたは過去。はたまたは別の世界での自分。そして目の当たりにした青い虚像は現在。上もなく下もなく何もかもがブリタの中でも、きっとアッシュの中でも混じりあい始めている。
そう混じり合い始めているのだ。
異なる世界同士の接点があやふやに混じり始めている。
上にある天は名づけられておらず、
下にある地にもまた名がなかった時のこと。
はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。
混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。
水はたがいに混ざり合っており、
野は形がなく、湿った場所も見られなかった。
神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
でも、まだ早い。
アッシュは未だ人のままである。
※
閉じた目をゆっくりと開くと、そこには突如として巻き起こった嵐が吹き荒び、無数の
「余計なことはしないで。大人しくしないのなら消えてちょうだい
そうブリタは続け、降り注ぐ鮮血を今度は全身で受けるよう宙を仰ぎ見ると両手で大袈裟に顔を覆った。
「なんであなたは他人の手で変わってしまうの。なんで私の手で私の思う通りに変わってくれないの。いつもいつも何回も何回も」
覆った手の隙間から見える口が三日月のように歪んだ。
※
東の空が明るみ始める。
帷の裾から滲むよう漏れ出した陽の光が、シラク村を襲った悪夢の痕跡を浮き彫りにする。照らし出された惨状はその輪郭をぼんやりと
生き残った人々は、瓦礫の下、骸の下、瓦礫の影から顔を出し、それを目の当たりにした。村と呼ぶには随分と成熟したシラク村であったが、今となってはその面影はない。
未だに燻る火種は白糸を昇らせ、軽やかに吹き抜ける風は血の匂いを運んだ。
アッシュ・グラントは東の空に目をやると軽くため息をついた。どうやら東門は護られたに違いない。まだ、嬉々とした勝鬨が耳に届いてくる。
「おい大将」と、アッシュの傍に立ったグラドが云った。
「ええ、わかっています」
アッシュはグラドに答えると不安げな顔を向けたエステルとミラの肩に手をかけ「グラドさんと一緒にいてください」と伝え、東から緩やかに流れ込んできた陽の光を追うように歩き出した。
向かった先は腰をおとし蹲ったブリタの元だった。
「ブリタさん、大丈夫ですか?」
ブリタはアッシュの問いに答えなかった。
ただただ無心に「やめて」と小さく連呼した。
優しく膝を折り身をかがめたアッシュは、地面を見つめ大きく目を見開いたブリタの顔を覗き込んだ。しかし、その焦点はアッシュに合うことはなく、ブリタの心はそこには無いようなのだ。
綺麗な銀髪は撒き散らされた
アッシュはブリタの肩に優しく手を置いた。
するとブリタは連呼した言葉を止め、小さくため息をついたのだ。
「ブリタさん?」
アッシュは今ならばとブリタにもう一度声をかける。
ブリタはそれには答えずまた別の言葉を重ねた。それはまるで喉を詰まらせたように息苦しい声で、笑えば小鳥の囀りのようだったブリタの声とはまるで異なった。
低く掠れ血を滲ませるようなのだ。
「なんで」
「ブリタさん?」
「なんで」
「大丈夫ですか?」
アッシュはもう一度ブリタの顔を覗き込み訊ねた。
するとブリタは突然に、ガバっと顔を上げると大きな声を挙げたのだ。
「なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!」
アッシュはそれに驚き、咄嗟にその場を飛び退く。
「なんで! あなたは私を助けてくれなかったの? なんで、あなたは誰かは助けても私を助けてくれないの? 鳥籠の中から救ってはくれないの? 私はいつでもあなたの傍であなたの唄を聴いているというのに、何故あなたは私の傍で私の唄を聴いてくれないの? なんで?」
「ブ、ブリタさん。な、何を云っているのですか?」
ブリタは、アッシュの叫びにスっと激情を引っ込めるとゆらりと立ち上がった。
覚束ない足取りで、ゆっくりとアッシュのもとに歩いてゆく。それにアッシュは無言でかける言葉さえも失い後ずさった。様子をおかしくしたブリタに戦慄を覚えたのもそうだったが、それよりも、ブリタの中で何かが膨らみ今にも破裂してしまうのではないかと感じたのだ。
アッシュは、ゆっくりと狩猟短剣を構えた。
「遊びに」
「え?」
零れ落ちたブリタの言葉にアッシュは訊き返す。
「遊びに連れて行ってくれると、あなたは云ってくれた。それをお父様に伝えたら、酷く怒ったわ。だからその日の夜に——私は穢されたの。私はお母様の代わりになった。それもこれも、あなたが私を助けてくれなかったから」
その時だった。
遠くから蹄鉄が地面をせっかちに鳴らす音が耳に届いた。
それは五月雨に聞こえ近寄ってくると「アッシュ・グラント!」「アッシュさん!」とライラとアドルフの声を乗せ二人の到着を知らせた。
二人はブリタの様子がおかしなことに瞬時と気が付くと、馬から飛び降りアッシュとの間に割って入った。
「ブリタさん!」
「野伏! この子は——」
「わかりません、まだ確証はないです!」
「あなた、一体何を隠しているの!?」
「ちゃんと話します! だから今は!」
青く輝く狼を解放したアッシュは実のところ立つのがやっとといった様子で、ライラとアドルフが割って入ると、足をもつれさせ駆け寄ったエステルに抱えられていた。
目の前の二人が何に切羽詰まり言い合う理由。
それは先ほどアッシュが感じたブリタの中で膨れ上がるような
ブリタの視界には立ちはだかる女剣術士と野伏の姿は入っていないようで、ただただその背後で赤毛に寄りかかるアッシュ・グラントを求め視線が彷徨った。
ふらふらと歩き、時折足を止めるとアッシュを確かめるように視線を彷徨わせる。アドルフはそれに黒鋼の短剣を二振り構え、ライラは鞘に納めた剣の頭に左手を添えた。膨れ上がる得体の知れない力が揺らごうものならば、すぐにでも切り捨てるつもりだ。
鴉が鳴いた。
ゆらりと歩くブリタはそれに足を止め、嗚呼と漏らすと喉の奥で小さく小さく笑い、かぶりをゆっくりと下げた。両の腕もだらりと下げた。陽の光にくすんで輝いた銀髪もそうだった。
あんなにも聡明で見目麗しい容姿であったブリタは今や陽の光の中に佇む、しわくれた細白木のようだった。風が吹けば力なく揺らぎ、少しの力で折れてしまいそうだ。
鴉が大勢鳴いた。
あちこちから大勢の鴉が飛び立った。
どこにそんな数の鴉が居たのだろうか。
朝焼けの空は黒く塗りつぶされた。
鴉に塗りつぶされた。
アドルフはそれを目だけで追いかけ、ライラはスラリと剣を抜き放った。
その時だった。
口を開いたのはブリタだった。
「私はただ静かにその刻が来るまで、あなたの傍であなたの唄を観ていたかった」
その声は鴉の羽ばたく音に掻き消されそうだ。
「なのにあの吟遊詩人はそれを邪魔するように別の唄を詠ったの」
ブリタは再び静かにかぶりをあげると、ゆっくりと両腕をもたげ、ゆっくりと開く。それは緩やかな動きであるにも関わらず大気を揺らしたのか、何やら目には映らない波をたてると、アドルフとライラを左右に吹き飛ばしたのだ。
「そうしたらこの始末」
左右それぞれ、アドルフは家屋の石壁に叩き付けられ、ライラは巨木を薙ぎ倒し、地面に突っ伏した。
エステルはアッシュを庇い後ずさるのだが、緩慢と歩いたブリタは突然の速さでそれに追いつき、赤髪を鷲掴みにしたのだ。
「こんなのに、うつつを抜かしちゃって」
「やめて! 乱暴はしないで!」
得体の知れない力が膨れ上がるなか皆がその呪縛に囚われ動けなかった。その筈だったが、ミラは違った。咄嗟に走り出したミラは前屈みに、まるで豹のようにしなやかに走ると吹き飛ばされたライラが落とした片手半剣を拾い上げ、その勢いでブリタに斬りかかったのだ。
「きゃ!」
ブリタが赤髪を鷲掴みにした手を横に乱暴に振るう。
エステルはそれに悲鳴を挙げると、疾風のように駆けたミラを目がけ投げ飛ばされたのだ。激突をした二人は声を挙げることも叶わず、地面にもんどりうった。
「答えて。なんで私を助けてくれなかったの?」
片膝をつき肩で息をしたアッシュはブリタを見上げたが、その問いに答えることはなかった。できなかったのだ。今にも意識が飛んでしまいそうで、頭が朦朧とし、まるで自分の頭のなかを触られているような、そんな感覚に襲われていたのだ。
痛ッ
静かに凪いだ瞳でアッシュを見下ろしたブリタだったが、答えぬアッシュがそう小さく唸り胸に手をあてると、目を見開き、男勝りに彼を足で押し倒した。それは、ブリタが何かを疑い、確かめるためだ。
ブリタは機敏にアッシュに馬乗りになると「見せて!」と彼の手を払いのけ——チュニックを引き裂いた。
露わになった胸板には、首から下げられた<硝子玉>が鈍く青白く輝いていた。
「そう。あのコソ泥ね」
ブリタは突っ伏したアドルフに一瞥を投げた。
消え入るように云ったブリタは、硝子玉を手に取り再びコロコロと掌で転がしてみる。
相変わらず凪いだ瞳で、感情の起伏のない瞳で、<硝子玉>を眺めたブリタはただただ一つ溜息をついた。
そして硝子玉をアッシュの胸へ返し、色白な両腕を伸ばし両の五指を胸板に沿わせた。
「ブリタさん、何を」と、それに苦々しい声を挙げたのはエステルだった。
苦しむミラを抱え起き上がるが、それ以上どうにもできない赤髪の姫は、ただただその光景を目の当たりにし強く唇を噛む。
ブリタはゆっくりと五指を沿わせアッシュの胸板を登らせると、顎を指で舐め、頬を包み込んだ。色白な顔をゆっくりとアッシュの顔に寄せ、エステルを一瞥する。
「これは、あなたのモノではない。私のモノ。この人が壊れて最後に
アッシュがブリタを除けようと身体を動かす。
それにブリタは「動いちゃ駄目」と甘い声をかけるとアッシュの胸を押さえつける。どこにそのような力があったのか、それは衝撃を伴いアッシュが背をつけた路地を蜘蛛の巣のように割り、落ち窪ませた。
「あのコソ泥と——」
アドルフに冷ややかな視線を送るブリタは囁き次に硝子玉へ指をやると「泥棒猫」と続け囁く。
「嫉妬の裏返り。まったくね——私には縁遠い<人徳>の娘」
さらに独り言のように囁いたブリタは、エステルに抱えられたミラへ視線をやる。
「あなた達の思惑通りで嫌なのだけれども、でもいいわ。ええ、いいわ。それに乗ってあげる。どうであれ、最後は変わらない。それだけは私には
その言葉にミラは目を瞬かせた。
「あなた達は時間を遡ったのではないの。ここはあなた達の
続けた言葉はハッキリとしていた。それはブリタとミラの間の流れるあやふやとした時間に漂った。それにミラは小さく「え?」とだけしか返すことができなかった。
それまで騒がしかった鴉の、我が子を探し歩き回った母親の、恋人の名を叫ぶ男の、何もかもの喧騒が刹那に消えたように思えた。一同は動けぬまま、声も挙げられぬまま、その刹那に息を呑んだ。
ブリタは言葉を終えると微笑み、アッシュを見下ろした。
眼差しは大切なものを愛でるそれのようだったし、憎悪を眺める冷ややかなそれにも想えた。愛と憎しみが背中合わせたようだった。
ブリタは身体をゆらりと動かし腰をずらす。
再び愛おしそうに両の掌でアッシュの頬を包み込む。
そして、静かにアッシュの唇へ、子供のように薄い小ぶりな唇を重ねた。
アッシュの押さえ付けられた身体はやはり動かず、ブリタの小柄さえも除けることができない。
唇に重ねられた乾いた温かさは次第に湿り気を帯びた。
生暖かいものが、かさかさとした唇を掻き分けようとしている。
アッシュがそれに驚き目を見開いたその時だった。
忽然とブリタの姿がその場から消えた。
フと重さから解放されたアッシュは、消えたブリタの破片を集めるように両腕を動かしたが、何も掴むことはなかった。
「メリッサ」アッシュはただ一言そう静寂の時間へ言い放った。
※
あれから五日間。
忽然と姿を消したブリタの捜索が行われたが、彼女の足跡を辿ることは出来なかった。この事態を招いた魔導師レトリックの行方も当然ながら不明で、それについては殆どの事態が収拾した頃にやってきた王都軍へ引き継がれた。
これにライラは「日和見主義はどこにだっているものね」と漏らす。
王都までの旅が思わぬ事態に巻き込まれたアッシュ達一行は、ここでもまた足止めを喰らうことになった。しかしそれは結果的に腹に抱えた異物を吐き出すことが出来たともいえた。
ブリタの存在——<白銀の魔女>である。
突然の失踪前に彼女が見せた力はクレイトンで<白銀の魔女>が見せたものであった。
彼女が<大木様の館>に訪れたあの時から今まで、一行は<白銀の魔女>と寝食を共にし何食わぬ顔で過ごしていたのだ。あまつさえクレイトンにも姿を現すと、アッシュ達を窮地に追い込んだかと思えば気まぐれに姿をくらまし、そしてやはり何食わぬ顔でこの旅に同行をした。
その真意は全くといって良いほど理解ができない。
彼女はただ、アッシュを<壊したい>とだけ云っていた。
そんな彼女の正体がここで明らかになったのは、恐らく良い事なのだ。
このまま王都入りをしたと思うと、一行はゾッとする。
それまでの事情を訊ね概ね理解をしたライラはアドルフに、ブリタの正体を知っていたのか? と詰め寄った。尤もその口調と内容は、魔女であったかどうかということよりも違ったことを問い詰めているようであった。しかし、それがどういったことなのか? それはアッシュもエステルも皆目見当がつかない。
アドルフはそれには「今度、説明をします。ですから今は王都に行かせてください」の一点張りで、ついにはライラも根気負けをし了承した。
それでは王都で会う時に全部説明してちょうだい。そう告げたライラは一行の元を離れたのだった。
案外とあっさりと了承したライラにアドルフは幾許かの不安を覚えはしたが、それはそれとし今は万全な状態で王都へ向かいましょうと云ったのだった。
開かれようとしいている戦端を牽制しあわよくばアークレイリを封殺すること、それに加え世界で暗躍をする始祖を撃退すること。始祖の主が発覚をした今、生半可な状態では事態を悪化させるのだから、万全に万全を重ねておくべきなのである。
※
シラク村の悲劇から六日目の夜。
この時季には珍しく冷たい雨が降った。しとしとと音をたて葉を揺らした雨粒は、枝をつたい、幹を這い下り森の木々の足元に冷たい水溜まりを作った。
シラク村から北西に位置するエズライン湾を見下ろす森には街道が走ってはいるが、悪路も悪路で滅多に人が、馬車が、行き来することはない。シラク村を命からがら逃げ出した魔導師レトリックはそこに身を潜めた。
あまりにも凄惨な光景を目の当たりにしたレトリックは任務を放棄し、首都クルロスへの帰還も出来ないまま途方に暮れたのだ。それに——。
「導師フェルディアが始祖と結託しているなんて……。だとするとマエルにカナリアはどうなったんだ。素直に狩人の申し入れを……いや、そんなうまい話はないでしょうね」
アコウの根が作り出した天然の穴倉に身を潜めたレトリックは蒸し蒸しする暑さに苛まれ、渇きに襲われ、堪らず根元に溜まった雨水を手ですくい口へ運んだ。最初はあまりにも酷い味に、嘔吐してしまうが死ぬよりもマシだと再び口に雨水を運び渇きを癒した。それが本当に癒しなのかどうかが別としてだが。
この数日間、木の根っこを口にし、野兎を捕まえ皮を剥ぎそのまま口にした。
火を起こせば気付かれる可能性があったからだ。これが冬場だったらと思うと、レトリックは身震いをしてしまう。
もう、まともな思考ができないほどに心身を疲弊させたレトリックは雨水を啜り、単調な雨足を耳にすると、気が狂ってしまいそうだった。
なぜこんなに必死に生きなければならないのか。
もう死んでしまっても誰も責めはしない。そんな考えがよぎり、レトリックは街道とは逆に根を抜けエズライン湾を見下ろせる崖にまで歩いてきた。冷たい雨は相変わらず、森の木々を、惨めな魔導師を、それを狙った野犬達を打ちつけた。
北を眺めれば北海の大海原が広がる。
西には属州ロドリア。
かのドルイド達の故郷があり今でも怪しげな儀式を行う。
北には海賊島。
彼らは相変わらず海を自由に航海し、気ままに商船を襲い金品を巻き上げ、女子供を攫うのだ。それを良しとは思わない。勿論だ。しかし、それもまた自然の摂理だと、命の円環の中であると云うのならば、レトリックは一体何を成すのか。
打ち付けた雨音に耳を澄ませ、ぼんやりとレトリックは湾を見下ろした。
背後からは雨音に混じり、腹を空かせた野犬ども声が聞こえてくる。数日前は彼らの仲間を殺め、その肉を喰らった。ああ、そうだな。それこそ円環だ。
レトリックはゆっくりと振り返った。
なんとか命は繋ぎ止めているものの、魔力を絞り出せるほどの体力はもうない。
「魚の餌になるのも、お前らの餌になるのも——そう変わりはないですね。それであればあなた達に喰われる方が円環を成すのであれば、そのほうが美しい……ですかね」
強くなった雨脚の立てる音に言葉を縫い込んだレトリックは、その場に座り込みあぐらをかいた。いっそのこと喉笛を喰いちぎって早いところ命を奪ってくれ——そう心に呟いた。
「マエル。私は良い夫でしたか? カナリア。私は良い父でしたか?」
目深に被ったフードを取り払いレトリックは静かに笑った。
北海から雷鳴が轟いた。もう、野犬はすぐそこにわらわらと集まってきていた。
「今、逝きます。待っていてください」
レトリックは静かに目を閉じた。
もう一度。もう一度。雷鳴が轟いた。
しかし、それは一つは遠方であったが、一つはすぐそこで鳴り響いたように思った。静かに目を開けて見ればどうだろう、目の前には焼けこげた野犬の群れ、いや残骸が雨に打たれ煙をあげていたのだ。
「見つけたわよ魔導師」
冷ややかな声がレトリックにかけられた。
冷たい雨よりも鋭く冷たい。
それに身震いをしたレトリックは、おずおずと顔をあげ、声の主を見た。
野犬の骸の向こうに立った、燻んだ唐草色の上品なドレスに不機嫌な白い顔。普段であれば綺麗に波打ったであろうブロンドは雨に打たれそんな様子は微塵も思わせない。
それは始祖の一人。ミネルバだった。
「ねえ、あなた。あなたのその心から溢れ出る無念に悲壮。それを私に捧げる気はない? あなたは、傲慢と色欲の居場所を知っているのでしょ? 私はあの二人の大体の居場所はわかる。けれども特定はできない。だから私に手を貸しなさい。そうすれば、あなたが抱く陰々滅々とした想いを晴らしてあげる」
「あなたは確か」
「ええ——ミネルバ・ファイヤスターター。強欲の獣よ」
ミネルバは口を三日月に歪ませ云った。
7_Father Figure _ Quit