つまり外環とは神の御座。
狩人は世界のあらましを書物を眺めるように見下ろすのだ。
流れる時に前後はなく常に等しく平らなのである。
だから狩人は結果へ至る過程を嗜み愉しむのだ。
しかしどうだろう。
狩人の英雄。宵闇の鴉は違った。
鴉は我々に対等を求めた。
しかし我々は鴉の権能ゆえ助けを求め多くを望んだ。
鴉はそれに憤慨し姿を消した。
世界は再び混沌とする。
鴉の敵は名もなき運命の子と妻をさらい外環を求めた。
しかしどうだろう。
獣の女王。白銀の魔女は他のことを望んでいたようなのだ。
——世界図録 創世の章 第二十節より抜粋。
「先生。元気を出してください」
「ありがとうアドルフ君。でも流石にもう疲れちゃったな」
「そうですよね……。ねえ、先生」
「どうしたの?」
「怒らないで聞いてくださいね」
「ええ」
「もう諦めませんか?」
「何を?」
「アッシュさんのこと」
「それは駄目。ダフロイトでも云ったでしょ? これがアッシュの願いだって」
「それは覚えています。でも違うのでしょ?」
「何が違うっていうの!?」
「この世界でアッシュさんは、それを望んでいるわけではない」
「そうだけど……でもこのまま放置してしまうと……」
「世界が新人類に支配されてしまう? でしたっけ?」
「ええ。私が居た世界と同じ足跡を辿るのであれば——」
「それだってもう解らないですよね」
「そんなことを云ったら、世界を渡ったあの子と私はどうなっちゃうの? それだって予想外。私達は時間を遡ったと思っていたのよ。もう元の世界に戻れない。私の知っているアッシュはここには居ない——」
「だったら! ——」
<黒鋼亭>の二階と三階は御多分に洩れず宿を営んでいる。
この時期の王都は勿論賑わってはいるのだが、月を跨いで行われる建国祭もあり普段よりも宿泊客が少ない。と、いうのもその建国祭は王都ではなくセントバで行われるのだ。多くの旅人も商人もそちらへ向かう。だから、三階の廊下にまで響いた声は、三階を貸切状態のアドルフとアオイドスのものだとすぐにわかる。
数刻前。アドルフはアッシュとエステル、ミラを連れ<黒鋼亭>へやってきたのだ。
※
「ねえミラ」
「なーにエステル?」
「アオイドスさんと会えるの楽しみ?」
「嬉しいけれど——アイシャにも会いたい! アオイドスって話すときは笑ってくれるのだけど、話していない時は凄く寂しそうな顔をするの。私、それが凄く——」
「凄く?」
「悪いことしちゃったのかなって思っちゃう」
「でも怒っているわけじゃないんでしょ?」
「うん。いつも優しい!」
「そっか。なら大丈夫。気にする必要ないよ」
そばかす顔に満面の笑みを浮かべたエステルは柔らかく触り心地の良いミラの黒髪を、大きくわしゃわしゃと撫で回した。
いつだって不安に押し潰されてしまいそう。そんな印象をミラへ抱いていた。話を断片的には聞いている。アドルフからもその一片を聞かされている。それは少女に背負い切れるものなのだろうか? ゆえにエステルは明るく振る舞うミラの姿がどうしても痛々しく映ってしまう。良き姉のように振る舞おうと思いもしたが、どうやらその大役を演じ切るのは難しそうだった。だからついつい、大袈裟に振る舞ってしまう。
「ちょ! エステル! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃう!」
ミラは目をドングリのように見開きエステルに口を膨らませた。
シラク村で初めて会った時のエステル。見たくもないもの見ているような視線。ミラはそれが怖かった。歓迎されない視線。必要ないと云いたげな視線。それは胸を抉るようだった。わけもわからず夢に誘われやってきた死地。そこでは誰にも歓迎されず小さなミラは、胸を押し潰されそうだったのだ。
でも今は違う。心を通わせ事情がどうであれエステルは自分を認めてくれた。そうミラは感じると、それまで閉ざした感情をあけっぴろげるようになった。
口を膨らませ地団駄を踏むミラ。それに笑い声を挙げるエステル。
アドルフが合流するまでの間、アッシュはその光景を街の噴水に腰をかけ見守った。アオイドスとの会談を終えた後、エステルはアークレイリ大使館へ出向き、いよいよ本国に帰ってしまう。アドルフはその手筈を整えに行っている。覚悟はしていたが、暫くの別れを考えるとアッシュは胸の奥を締め付けられるようだった。
フと空を見上げた。
雲は相変わらず、もくもくとして丸々とした天空の城を思わせた。
そこを横切る黒い点を見つけた。アッシュはそれに「あ」と声を漏らすと、それは果たして<大木様の館>で見かけたあの黒い鳥であることを思い出した。
そして横に座る誰かの気配を感じた。
「アッシュ・グラントだな。こっちを向くな」
それは掠れた声だった。
人の心を鷲掴みにするような重く掠れた声。それはアッシュに身体を寄せると脇腹に何かを突き立てた。チュニックを軽く突き通り皮膚に感じた鋭さは、それが刃物であるとわかった。アッシュは横目に声の主をみた。堀の深い面立ちに鷲鼻。黒髪は全て上げられ後ろに流している。そしてその男は黒の外套に身体をすっぽり隠している。
アッシュは男を見ると頭の奥に刺すような痛みを感じた。幾許か顔を歪め「そうです」と小さく答えた。男の声は咄嗟の嘘をきっと見抜くだろうと想像させた。それほどに隙がない。だから素直に答えたのだ。
「そう構えるなよ魔導師。ああ、今
「僕に何の用ですか?」
「あれから色々とあってな。助けて欲しいんだ」
「あれから? 何のことですか?」
「そうか。アイザックの野郎が云ってたのは本当なんだな。本当にお前、記憶がないのか?」
遠くでミラが黄色い声を張り上げエステルから逃げ回っている。どうやらエステルの胸について何か物申したようで「小さい、小さいうるさいわよ!」と周囲の目はお構いなしとエステルが叫んでいるのだ。アドルフからは大使館との手筈が整うまでは目立たないでくれと頼まれていることをすっかり忘れている。
意外と必死な形相で逃げ回るミラはアッシュの視線に気がつくと、手を振って「アッシュ助けて!」と笑うが、とうとうエステルに捕まった。
アッシュはそれに笑顔で手を振って返すが、こぼした言葉はそれとは裏腹だ。
「本当です。記憶をなくしています。あなたは誰ですか? 昔の僕を知っているのですか?」
「なるほどな。まあ良いか。俺はギャスパル。ギャスパル・ランドウォーカーだ。かつてのお前のお仲間ってわけだ。でもまあその頃の事は胸糞悪くなるから思い出さないほうが賢明だ。百年? もっと前か。そんな昔のことは普通でも覚えちゃいないよな。それでどうだ? 俺の頼みを聞いてくれるか? ああそうだそうだ。アイネって娘は随分と賢い子で、肝っ玉も座っている。それにカミルってレッドウッドの子は随分と警戒心の強い慎重な魔術師だ。ありゃ将来有望だな」
「お前!」
「おっと。違うな違うぜアッシュ・グラント。主導権は俺が握っているんだ態度がおかしいぜ魔導師。間違えるなよ。間違えたらお前の女も、あの娘も射抜かれるぜ。周りを良く見てみろ」
ギャスパルと名乗った男の言葉に声を荒げたアッシュだが、そう云われると、ゆっくりと辺りを見回した。するとどうだろう。街のあちこちに見える物見櫓や塔。あらゆる高台に射手の姿が見えたのだ。それらは悪びれる様子もなく姿を露わにした。恐らくそれは、警告。いつでも狙い射抜けるという警告だ。
腰を軽く挙げたアッシュは、それを目視すると静かに腰を下ろした。
「よし。相変わらず物分かりが良くて助かるぜ。あれはな一撃必中の魔弾だ。おかしな真似をすればズドンだ。なあに助けてくれと云っても、そう大した事じゃねえ——クルロスで付き合って欲しい所があるんだ。王城には俺一人では行けないからな。お前の助けが必要なんだ。と——野伏か。相性が悪りいな」
エステルに捕縛されたミラはキャーキャーと声を挙げ足をジタバタとさせた。
そこへ駆け寄った人影があった。革の軽装にくすんだ黄緑色のマントをしたアドルフだ。何やら二人に話をしているようなのだが、それどころではないとミラとエステルは懸命に話すアドルフを横目に戯れ合うのをやめない。アドルフが話す内容は恐らく大使館のことだ。エステルは意図的にその話を遠ざけたかったのだろう。ミラに寂しい思いをさせないためだ。
困り果てた気の利かない野伏は辺りを見回し、アッシュを見つけた。
そして怪訝に目を細め、次には鋭く短剣に手をかけたのだ。アッシュの傍へ座る男と目があった。あの目は堅気の目ではない。これには気の利く野伏は瞬時にそれを見抜いた。
「おお怖ええ。追跡者ってのはあんなに殺気を垂れ流すもんかよ? 怖ええ怖ええ。それじゃあな魔導師。約束を忘れんなよ。俺達はいつでもお前のお仲間を狙えるんだ。それを忘れんな」
ギャスパルはその殺気を真正面から受け止めアドルフを一瞥した。刹那のやり取り。下手をすれば横の魔導師の命はない。そう鋭く睨みつけた。
エステルとミラの黄色い声を背負ったアドルフは歩みをとめ背後を確かめた。
その頃にはエステルはミラを抱きしめ同じくギャスパルへ視線を投げ、口をつぐんだ。胸の中から「どうしたのエステル?」とミラの小さな声が聞こえる。
「大丈夫。何でもない」
エステルは懸命にミラの視界を遮った。
「良いねえ。皆様物分かりが良くて非常に良いね」
ギャスパルはそう云い残すと、黒々としたフードを目深に被り踵を返した。
※
「それで、その男は本当にギャスパルと名乗ったのね?」
「はい、確かに。かつての僕の仲間だとも……」
「そう——」
アオイドスは長旅ですっかり疲れたミラが横になった長椅子へ腰をかけ、柔らかい髪を撫でていた。テーブルを挟んで向かい側に座ったのは、アッシュ、アドルフ、エステルの三人だ。ギャスパルの一件からすぐさまに<黒鋼亭>へ向かった一行はアオイドスと合流をしたのだ。
ホールにアオイドスの姿を見つけたミラは最初、恥ずかしさを覚えたのかエステルの後ろへ隠れ、なかなか吟遊詩人の元へ行かなかったのだ。エステルはそれに「ほら、ミラ」と背中を押し助け舟を出すと、ようやくアオイドスの胸に飛び込んだのだった。
そして大声で泣いた。
これまでの旅の苦しさ、辛さ、グラドとの別れ、何よりもアッシュとの関係といった、小さな胸を締め付けたものから解放されたのだろう。それは一時の解放だったかも知れない。でも、今のミラにはそれで十分だったのだ。心の底から、つかえを吐き出し楽になりたかった。それが出来るのはアイシャの胸の中かアオイドスの胸の中だけだ。それはアッシュでも、エステルでもない。
ひとしきり大泣きをしたミラはすっかり寝息を立てた。
「——ギャスパルはなんと?」
「クルロスの王城へ付き合えと」
「女王アガサとの謁見ということかしら。いいえ、そこに行く理由ができるということ?」
「魔都クルロス……。女王アガサ……鳥籠の主ですよね?」
何やら思い当たる節があるようで、アドルフは顔を歪めると身を乗り出した。
「ええ、そうね。でも今はその事は忘れましょう」
「待ってくださいアオイドスさん! 忘れろってどういう……」
声を荒げたのはアッシュだった。自分がクルロスへ行かなければエステルとミラの命が危ない。それを忘れろとは到底看過できなかったのだ。
「そのままの意味よ。今はアークレイリの侵攻を喰い止める。始祖達を撃破する。それだけに集中をしなければならないのよ。そのどちらにもあなたが必要。わかる?」
「そんな……」
「先生、そんな云い方をしなくても」
「アドルフ君は黙ってて——いいアッシュ? 今のあなたに云っても解らないでしょうけれど、これはあなたが始めた闘いなの。メリッサにも会ったのでしょ? あの子をどうにかしないと世界は滅んでしまう。この世界で闘っても今のあなたでは勝ち目はない。だったら勝てるよう周りを切り崩さなければならないの。あの子が予測した未来に乗っているだけでは駄目なのよ」
アドルフは解っていた。女王アガサ。それはかつてアッシュが屠った六員環の一人<北の海の女王>に酷似する。そしてギャスパルの雇い主はアイザックだ。それであれば、この件は白銀の魔女の手引きだと思って間違いない。かつてアオイドスが謳った愛憎譚<六員環——宵闇の鴉と北の海の女王>を上書くつもりなのだ。
メリッサは云った。アッシュが壊れ望む事を欲していると。そのときアッシュが何を望むというのだろうか。
「そんな事を云われても、分かりませんよ! 僕が始めた闘い? 記憶をなくす前に何をしたのかは知りません。思い出せないのですから。世界が滅びる? それはなんの話ですか? それに——」
アッシュはそこで言葉を落とした。云ってはならない一言を吐いてしまいそうになったからだ。それはあまりにも酷く身勝手で今となっては自分勝手な一言だ。
アッシュのその様子にアオイドスは眉を
「アドルフ君。申し訳ないのだけれど、三階に部屋をとってあるからミラを連れて行ってもらえるかしら? 鍵はケニーから受け取って」
あまりにも鋭い眼光だった。アドルフはそれにぐうの音もでず「わかりました」とミラを抱きかかえ部屋へと向かったのだ。
「どう云うつもり? 何を云おうとしたの?」
アオイドスの視線がアッシュを捉えた。
「僕には愛している人がいます——エステルの命は護らなければならない」
「そう。それで?」
「それで?」
「ええ。ミラはどうだって良いと?」
「ミラは関係ないでしょ」
「おおありよ。あなたがクルロスへ行くのならば、私達は全力でアークレイリを止めなければならない。そこにはミラも連れて行かなければならない。あの子の力は見たのでしょ? あれだけやればミラは当然、始祖達に狙われるわ」
「それじゃミラは囮みたいでは……」
「
農園を出立する際にアドルフが伝えたフリンフロンの方針。それはアッシュを軍に組み入れ積極的に立ち回ることで始祖を誘き寄せると云うものだった。同時にエステルは虎視眈々と侵攻を目論むアークレイリ軍元帥アルベリクの足元をすくうべく国へ一時的に戻らなければならない。
アオイドスはクルロスへ行くと云うのならばミラを囮にすると云ったのだ。しかしエステルの命は助かる。ギャスパルの言葉が本当であるのならばだが、危険を犯してまでアッシュに接触をはかったのだ、十中八九エステルの命は保証されるはずだ。
嫌な沈黙が流れた。
アオイドスは苛立ちを隠そうともせず、テーブルへ小刻みに指を鳴らし顔を背けた。
アッシュは吟遊詩人の言葉に絶句し返す言葉を失うと、暫くの間口を閉じた。しかし意を決したのか椅子に座り直すとテーブルに置かれた木杯をあおり果実水を一気に喉へ流し込んだ。
「アオイドスさん」
「なに?」
「ミラは……」
「気になるの? お父さんと呼ばれて情が移った!? だったら教えてあげる——あの子は——」
それまでは静観をしたエステル。
赤髪の姫は先程からアオイドスの様子がおかしいことに気が付いていた。落ち着きのある何でも見透かしたような黒瞳。まるで凪のような瞳。農園で命を救われたときに見せたそれは、今はどこにもない。
アドルフからミラの正体は朧げながらは聞いていた。しかし今のアッシュにそれを伝えては駄目だと直感したのだ。それであれば自分はクルロスに行くと、アッシュは云うだろう。でもそれでは駄目なのだ。ミラがアッシュと照れ臭そうに話す姿。<言の音>を学ぶ姿。それがうまく行かなく頬を膨らませアッシュへ文句を云う姿。それらがエステルの中で崩れてなくなってしまう。
そう思った矢先だった。
エステルは無意識に立ち上がりテーブルを打ちつけたのだ。
「いい加減にしてください! 冷静になってください。アオイドスさん、私の知っているあなたはそんな人じゃないはずです」
「何よ急に——」
「ネイティブは引っ込んでろと云いたいのですか?」
「そんなことは……」
「アッシュ。あなたも冷静になって。私は大丈夫だから。アッシュは予定通り軍にいって成すべきことを成して。私もそうする」
アッシュが愛していると口にした。それだけで十分だった。満ち足りていた。だけれども、それに浸り寄りかかっては駄目だ。それではあの日の夜のようにアッシュへ寄りかかり望む次の言葉を待つだけとなる。それではアッシュへ借りを返したとは云えない。同じ目線で愛を伝えたい。だからエステルは失うことに怯えるようなアッシュを律したのだ。私は大丈夫だと。