凪いだ海。
水平線は混じり合い写し合う。
境界線は朧げで。
いつの間にかに色を同じくした。
優しく壊れないよう触れ合った。
指先が触れた肌。それは愛おしくて狂おしくて。
それでもやっぱり壊れないように触れ合った。
いつまでも優しく、いつまでも激しく。
境界線は朧げに私たちは結ばれ———。
世界図録 崩壊の章 三十三節——補足 赤髪の姫の手記より抜粋。
※
結局のところアオイドスはエステルの啖呵に腹をたてると「明日の朝までにどうするか決めなさい」と自室に戻ってしまったのだ。アッシュはそれに憮然と「わかりました」と低く答えただけで吟遊詩人を見送ることもしなかった。
アッシュは心の奥底にわだかまる気持ちを抱えていた。それはこの旅が始まる前から抱えていた<外環の狩人>への疑念。いや、アオイドスとアドルフへのそれと云ってよい。
農園を出てからのアッシュは随分と変わった。
エステルが過ごした農園での二年間は、まるで夢のような時間であった。目覚めたアッシュは何も覚えてはいなかったけれども愛しい不器用さはそのままで、目線を同じく幸せを分かち合っていたように思う。形はなんだって良かったのだ。頼り頼られ変哲のない生活の中に幸せを求めた。
血は繋がってはいないが農園の子供たちは掛け替えのない家族だ。彼ら彼女らの成長も幸せの一つであった。二年という時間は彼らを逞しく育ててくれた。それにエステルもアッシュも喜びを噛み締めていたのだ。
だが、農園を出ると世界の命運とやらを背負わされたアッシュは闘いを重ねる毎に擦り減っていっていたように思う。それは突如と見せる鬼神の姿が故なのかもしれないが、もっと奥底、アッシュの根底が削れていくような儚さをエステルは感じていた。
「アッシュ」
「はい」
「大丈夫?」
「……」
「明日。ちゃんとアオイドスさん達と話をしましょう。ミラのことも——」
「怖いんです」アッシュはエステルの言葉へ言葉を重ねた。
「え?」
「わからないんです——農園で目覚めた時からずっと」
「記憶のこと?」
「僕自身のことです」
「それは——」
「エステル。記憶を失う前の僕を知っているのですよね?」
「ええ」
「一緒ですか?」
「え?」
「その頃の僕と今の僕は一緒ですか?」
「……」
「そうですよね——違いますよね。でもこれが僕なのです」
「ええ。分かってる。私は今のあなたが大切」
<黒鋼亭>の外が騒がしくなってきた。
随分と時間が経ったのだ。そろそろ陽は傾き始め帷を降ろす頃のようだ。ケニーがテーブルに置かれた角灯へ火を入れて回っている。幸にもアッシュとエステルはホールの片隅に陣取っていたから万が一、大勢の酒客達が雪崩こんできても安心だ。邪魔にはならないだろう。ケニーはだからなのか時間を知らせるわけでもなくアッシュ達のテーブルにも火を入れると静かにカウンターへ姿を消した。
アッシュはエステルの言葉に顔をあげエステルを一瞥すると、そっと微笑み言葉を静かに続けた。
「僕もエステルが大切です。それに——しっかり者のカミル。お転婆のアイネ。真面目が過ぎるセレシア。仲良しのポーリンとステラ。泣き虫のクレモンは最後まで泣いてましたね。トマが一生懸命慰めてました。リリーさんにトルステンさん、元気ですかね——」
エステルはそれに静かに、かぶりを振るとアッシュの言葉を待った。
「皆んな僕の大切な人です。何もなかった僕に、ありったけの愛を与えてくれました。最初、僕はそれが何だか分からなかったんです。でもそれが愛だと教えてくれたのは、エステルあなたです」
「アッシュ。あなたは私に生きるための強さと、その先にある優しさを教えてくれた。それに……さっき愛していると云ってくれたでしょ? 一番欲しかったものをあなたは与えてくれたわ」
気恥ずかしくなるほどに名前を呼び、壊れないよう大切に気持ちを確かめ合う。でもエステルはまだそれを儚げで壊れてしまうのではないかと思ってしまう。アッシュの声はいつになく儚げで壊れそうなのだ。
「エステル。でもね——それが奪われてしまいそうだと感じるんです。僕の知らない過去の僕が嫉妬に狂って僕を追いかけてきている。そんな風に感じるのです。今の僕から何もかも奪っていってしまうのではないかって。メリッサもギャスパルもアオイドスさんにミラ、アドルフも皆んな僕の過去の影なのです。僕にとってはそうなのです。ええ、わかっているんです。アオイドスさんもミラもアドルフもそうではないと。でもやっぱり彼らは過去に敷かれた未来への轍を追いかけて僕をそこに引き込もうとしている……」
「アッシュ……」
「だから怖いんです。何もかもを失ってしまうのではないかって。奪われた先にはきっと今の僕は居ないのです。過去の僕がそこには居るのではないかって。今の僕は死んでなくなってしまうって……」
アッシュの吐露。
エステルは雷に打たれるような衝撃を感じた。考えもしなかった。以前のアッシュと今のアッシュは当然同一人物だ。だがしかし、それはアッシュの姿を、記号を知っているからだ。客観的にそれを知っているからだ。
だが、アッシュの中では違った。別人なのだ。過去の自分と今の自分は別物だ。アッシュはそれを過去が追いかけてくると云った。追いかけてきて
想像もできない。自分が自分でなくなる。消えてなくなるなどと云うことが想像できるものだろうか。アッシュはまさに今、それと直面し怯えている。だから残されたかけがえのないものに縋ったのだ。アッシュは自身の力を過信し全てを背負おうとしていたのではない。自分が無くならないよう必死にもがき苦しんでいたのだ。過去に奪われないよう。力に飲み込まれないよう。ただ自分がアッシュであることを奪われないように。
エステルに農園の子供達。それは皆アッシュの数少ない拠り所だったのだ。
それなら——。
「アッシュ」
「はい」
エステルは優しくアッシュの手を取ると何も云わずに椅子から立たせた。
アッシュはそれに逆らわなかった。逆らう理由もない。だから黙って手を引かれるがまま、ホールの先にある宿への階段をエステルと上がっていった。きっと話が長くなるだろうと、時間を気にしたのだとアッシュは思った。
※
宿の二階にアッシュとエステル、ミラの部屋がそれぞれ準備されている。アオイドスとアドルフは三階だ。尤もアドルフはアッシュとエステルは同じ部屋で良いのではないかと思っていたが、そこはアオイドスの手前、別の部屋をとってある。だから今、三階の廊下へ響いたアドルフの声はかろうじて階下の三人の耳には届いていない。
アオイドスが泊まる部屋にも角灯が用意されている。だがアオイドスはそれを貧乏くさいと云うと魔術の光を掲げ部屋を照らしたのだ。これはどこに行ってもそうだった。
魔術の光は蝋燭の火よりも白く明るい。<黒鋼亭>ではそんなことはないのだが、外へ漏れ出る白光に驚く人々もままいる。なんで街路灯が部屋で光っているのだと確かめに来ることもあった。
だが今はそういった邪魔者はいない。ホールから聞こえてくる喧騒とその合間を縫ったウードの音色と吟遊詩人の声だけが二人の耳に届いている。
「だったら——何だって云うの? 私の何を知っているというの」
アドルフはもうアッシュのことは諦めろと云った。
あのアッシュはアオイドスの知るアッシュではないと自分でも理解をしているが気持ちはそうもいかない。立ち行かない。でも。だからと云って諦めてしまってはミラも報われない。だと云うのに野伏は、いや、年端も行かない学生は自分から生きる理由を取り上げようとする。だからアオイドスは冷ややかに云ったのだ。
「大声だして、すみません。ところで先生……酷い顔してますよ」
「何を急に……」
アオイドスは目を丸くした。
そんなにそうなのかを確かめる仕草もしたが手元に鏡はない。
ベッドから腰をあげ化粧台に置かれた鏡を覗き込んだ。確かに酷い顔をしていた。端正で色白な顔は青ざめているようであったし、目尻は疲れを滲ませていた。リードランへシンクロする際、生体情報はリアルタイムに反映される。それはシェルの造形を変えていても外面エレメントはシェルに反映される。だからリードランの外で横たわる乃木葵は相当に疲弊をしている云うことだ。
話題を逸らしアオイドスを気遣ったアドルフはやはり優しい笑顔を浮かべ、鏡越しにアオイドスを見つめた。
この青年はいつだってそうだった。遠くから見守るようで、見透かしているよう。
いつだって主役にはならない。主役になることを拒んでいるかのようでもあった。そしてこうやって今もアオイドスを見透かすのだ。
教授と学生。そんな関係性はまるで関係なくだ。
「外で他にも何かありました?」
「察しが良すぎるのは——ときには嫌味ね。ないわけがないでしょ」
「酷いですね。傷つくなー」
「また、そうやって……」
飄々と鏡の向こうで頭に手を組むアドルフに目をやった。疲れているのか、どうも会話の調子を握られている。でもなぜだろう、今はそれが心地よかった。喉につかえ外へ出ることのできない言葉をするりと引き出してくれるようで、今はそれに身を寄せていたいのかも知れない。
「それで、どうしたのですか?」
「ええ——」
アオイドスが語ったのは無人の手記に女性の名前を見つけたこと。その女性の名は「
森山という男は突然に無人のマンションを訪ねてきたそうだ。森山は、彼に応対をしたチェンバーズをそうだと見抜くと、いや最初から知っていたようで「本当に奥さんにそっくりだねー。君は生垣さんのこと知っているの?」と訊ねたそうだ。
チェンバーズはそれに「何のことですか?」と終始とぼけたそうだ。尤も男は、それをそうだと受け入れ矢継ぎ早に
「女性ものの靴が二足ねえ。まいっか。そうそう俺は
アドルフはそれに「なるほど」と小さく漏らすと椅子を片足に身体を揺らした。そして二度三度と揺らすと「こっちの世界のアッシュさんは結婚されていたのですね」と消えいるように云った。その声は随分と沈んでているように聞こえた。
アオイドスはそれに「ええ」と答えるだけであった。
少しの間をあけ、続けアドルフが云ったのは、こちらではシラク村の災厄の際に刑事らしき女性が関わったことだった。そしてメリッサと対峙し、彼女について根掘り葉掘りと訊ねられたとも。
「そう。その刑事のことも、シラク村にいた女性のことも私は知らなかった。もう全く別物。でも大局は同じ。何してるんだろうこんなところで。誰のため? ううん、何の為? ここに居るのかな……。やってくる未来は私の未来じゃないってのに何やってるんだろう本当……。ねえアドルフ君。私何なんだろう?」
鏡越しに二人の視線が静かに絡みあった。
アドルフはダフロイトでは吟遊詩人の強い意志に気圧された。だからもう何も云わないと心に決めていたのだ。幾ら云ってもアオイドスは諦めないだろうと。でも今は違う。誰になんと云われようとも云うならば今なのではないか。もう一度。アオイドスが野伏を揶揄う時に見せるしがらみのない笑顔を、この先も傍で命尽きるその時まで眺めていたいのならば。
「狡いのはわかっています……」
アオイドスは背中に暖かさを感じた。大きく広い暖かさ。包み込むような暖かさ。これまで突き刺されてきた冷たい視線は随分とアオイドスの身体を冷たくしていた。感じた熱は、それを暖め溶かすようなアドルフの体温だった。
アドルフはいつの間にかに涙を流したアオイドスを後ろから抱きしめた。もう見てられなかったのだ。この世界で気が付き運命が割り当てた役割を演じる彼女の姿を。それに傷つく彼女の姿を。そして愛の行方が途絶え言葉を失ったアオイドスが虚な顔をするのが堪らなく嫌だったのだ。
アオイドス、乃木葵との出会いは大学二年の頃であった。入学をした頃に彼女の存在を知っていたかといわれると非常に朧げだった。しかし、とある日の深夜。
真っ暗な廊下にボケっと突っ立った彼女に酷く驚いたアドルフ、白石颯太は叫び声を挙げるほどだった。葵はそれに覚醒したのか急に周囲を見回し、身体のあちこちを触ると「成功したのかしら」と云ったのだ。それに合わせ颯太の記憶は不思議と乃木葵の存在を明確にし、彼女が人工知能技師であると認識したのだ。そして葵は颯太を見つけると「あなた、白石颯太君よね?」と訊ね、そのまま気を失ってしまった。
それから数日後、颯太は乃木葵から耳を疑うような話を聞かされるが、所々付合する現実的な話に興味を持ち彼女の云う「世界を救う計画」を手伝ったのだ。颯太を取り巻く環境、特に大学での出来事について葵は予知をするように云い当て計画は順調に進んだ。
その最中、颯太は葵の魅力に次第に惹かれると、彼女が口にする乃木無人博士の存在に違和感を感じるようになった。なぜこの時点で夫婦ではなかったのか? どうも不自然なのであった。葵が語った想像を絶する
それを喰い止めるため葵は、その原因となった自身の夫。乃木無人を
「ちょっとアドルフ君……」
「僕じゃ役不足ですかね。僕じゃ先生の理由になれませんか?」
「ちょっと……何を……」
※
「アッシュ。よく聞いて」
アッシュの手を引いたエステルは自室にアッシュを招き入れると寝台に座らせ、自分は木製の椅子に腰をかけた。
「このことを聞くのが嫌だと思うのだけれど、でも聞いて欲しいの。いい? 最初にあなたと出会った時は本当に最悪の時だった。そこであなたに救われて、そのまま逃げ出してしまおうとも考えたの。でもそれは出来なかった。あなたは拾わなくても良い命を拾って私を逃してくれた。その時のあなたの目は随分と寂しそうな目をしていたの。だから、あなたから受けた恩に報いようと思ったの」
アッシュはそれに顔を苦々しくすると俯いてしまった。エステルはそれに優しく包み込むように両手を取ると続けた。
「私ね。その時からアッシュに想いを寄せていたの。でも違うの。それは多分、身勝手な憧れとか羨望とか何かそんなものだったのだと思う。だから私ね、あなたがネリウス将軍に斃された時、こう思ったの。こんな気持ち抱かなければ良かったって」
アッシュはその言葉に顔をあげ目を丸くした。
「今は勿論違うわよ? そんな筈ないでしょ」エステルはそれに優しく笑って見せた。
「そうね。云ってみればその時は、その寄せた想いは私のためだけの想いだったの。罪悪感もあったわ。私が余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったって。でも、あなたが帰ってきてくれて農園で過ごした時間で段々と変わっていったの。想いの在り方がね。帰ってきたアッシュはどこか頼りないのだけれど、不器用なのだけれど、優しかった。何が? って云われると上手く答えられないのだけれど。でもそれが良かったの。それに今のアッシュなら一緒に歩いていけるって。私も何かアッシュに与えてあげられるかもしれないって」
「エステル……」
いつの間にか黒瞳を濡らしたアッシュの手を取りながらエステルは寝台へ腰を移した。
「だから多分、今がその時。大丈夫。私も農園の皆んなも大丈夫。一人で背負い込まないで。リリーさんもトルステンさんも居るでしょ? それにネリスさんも。皆んなを信じましょう。私も大丈夫。この旅で随分と鍛えられたもの。だから安心して」
次第に階下の喧騒が大きく聞こえ始めた。吟遊詩人のウードの音色の端々が掠れて聞こえてくるようだ。二人は暫くの沈黙のなか手を取り合い見つめあった。言葉にすることがまるで野暮ったいとでも云うのか二人は無言のまま視線の中にお互いの気持ちを求め合った。
「エステル……ありがとう」
「何が?」
「分からないのだけれど……何だか吹っ切れた気がする」
「なら良かった」
「うん」
エステルは満面の笑みを浮かべた。それまでのアッシュの口ぶりは、どこか時折に他人行儀で他を寄せ付けない壁を感じることがあった。でも今は違った。そんなものは、もうそこにはなく、ただただ素直な気持ちだけが発露するようでエステルはそれが嬉しかったのだ。一緒に歩いていける。分かち合える。それを噛み締められたように想った。
そう想うとエステルは自然とアッシュの首へ腕を回し身体を寄せていた。アッシュはそれに驚くと幾許か身体をずらし「え、エステル?」と上擦った声を挙げた。
「それにね」
「ああ、うん」
「私がアッシュにあげられるものは、もう一つあるの」
「な、なにを——?」
「あの魔女——メリッサは失敬にもあなたの唇を奪ったけれども……」
下のホールから聞こえてきた喧騒が忽然と消えたように感じた。ドドドドと心臓の音がアッシュの鼓膜を揺らしたからだ。二人は何を申し合わせたわけでもなく瞼を閉じ、最初は恐る恐る、次第に確かめ合うように唇を重ねた。首に回した腕をほどき、そのまま二人は固く抱きしめ合った。お互いを求めるように。