「導師ジーウ。あれがアッシュ……グラントなのですか?」
「やーねー。イカロスさん、どうみたってアッシュさんでしょ? すり鉢の底で素っ裸の——あらやだ失礼。彼の姿を一緒に見たでしょ?」
「ええ。まあそうなのですが。魔導師だとは聞いていませんよ?」
「でもね。ただの魔導師じゃないのよ?」
「師団長のような優れた魔導師は他には居ないのでは?」
「あらやだ。イカロスさん、何が欲しいの?」
「何も要りませんよ」
イカロス・ウェールズ・グフはどの戦場でも鎖帷子に青のサーコートと決めている。板金鎧は動きにくい。あれは見栄を張りたい輩の装備だと嘯く。騎士団長の威厳をと周りの騎士たちは由緒正しき板金鎧を薦めるが聞く耳を持たない。尤も何故だかイカロスはジーウ師団長の言葉には耳を傾けるのだが、そのジーウも特にイカロスの装備については何も云わない。
なので、今朝方突然にジーウに呼び出されアッシュ・グラントと模擬戦をしてくれと云われ、その場にあっても装備はいつもの通りだ。ただアッシュとの模擬戦を怪訝に思いジーウへその理由を訊ねてみると、どうだろう、アッシュがジーウとアオイドスの推薦で魔導師団へ所属するのだと云う。イカロスはそれに、これもまた何故だか憮然とすると「手加減できませんからね」と釘を刺したのだ。つまり、不機嫌なのである。
王都フロン中央に位置するイカロス騎士団の拠点。イカロスは今、その修練場にて魔導師と対峙した。横には唐草色の外套に身を包んだ麗しき魔導師ジーウが、何故かにこやかと佇んでいる。
周囲ではざわざわと他の騎士達に軍のお歴々が騎士と魔導師へ注目をした。
「ええー。何か欲しいものを云っていいのよ。あ、でもねイカロスさん」
「ええ」
「私のことを欲しいと云ってもそれはダメよ」
「……云いませんよ」
「ええー。残念」
ジーウは悪戯に微笑みそう云うと、いつもは朗らかな表情をピリっとした。イカロスと対峙した魔導師の気配に変化を感じたからだ。魔導師の傍へ立った赤髪の魔導師は、何やら話をいくつか交わすと後ろへ下がった。
「さてとー。それでは始めましょうかねー」
ジーウの口調はあくまでも悠長だ。でも表情は違う。いざとなれば自分が前に出張らなければならない。そんなことも想定しているからだ。
昨晩遅く、フリンフロン軍元帥カイデルからの召集をうけたジーウはアオイドスを連れ立って本部へ出頭をした。言い渡されたのは「魔導師アッシュ・グラント」の運用試験の実施だった。つまり、腕試しをしろと云うことだ。
王都までの旅路での経緯。
それは軍本部ではにわかに信じられない内容ばかりであった。しかしアッシュが携えたシラク村からの親書、そこに記された内容は軍閥貴族ターヴィ・グラハム伯爵が保証をすると明言したことからカイデルはアオイドスが提案をしたアッシュの軍へ組み込みを改めて了承をした。カイデル曰く、そんな怪物をフリンフロンで野放しにはできん。と云うことのようだ。
「よろしくお願いします」
長旅ですっかりボロボロになった黒の外套をエステルへ手渡したアッシュは、対峙したイカロスへ一礼をした。そして狩猟短剣を構え腰を落とす。左腕はだらりと垂らした。
ジーウは魔導強化をしないアッシュに目を細めたが、背後に控えた魔術師へ合図を送るとアッシュとイカロスへ<魔力の殻>を施させた。
「お互い全力で。殻が割れたらそこまで。追撃はなし。わかりましたかー?」
イカロスはスラリと片手剣を抜き放ち背負ったヒーターシールドを構えると「承知」と短く答える。かたやアッシュは無言でかぶりを縦に振るとイカロスとの導線を少々ズラシたのだ。
「はーい。それでは……はじめ!」ジーウの掛け声が修練場に響いた。
二人は互いに間合いを取り横へ横へと足を擦らせた。盾を構えたイカロスは肩に片手剣を担ぎアッシュの出方を待った。この騎士団長はその風体からは想像もできない破天荒ぶりを見せる。騎士の魂であろう剣をそのように扱うのはフリンフロンではイカロスぐらいのものだ。
「アッシュ・グラント。かかってこないのか?」
「……」アッシュはそれに眉をひそめるだけだった。
「すかしやがって。宵闇の鴉。英雄なんだろ? 俺のことなんか一捻りだろ」
「それは僕の知らない僕です」
「そうかい。なら魔導師。お得意の強化は要らないのか?」
「イカロスさんは、強化しないでしょ?」
それにイカロスは切れ長の双眸を見開き「舐めやがって」と吐き捨てた。
最初に動いたのはイカロスだった。一気に直線でアッシュとの距離を詰める。アッシュは横に踏み込みイカロスの盾とは反対側に位置をとった。剣の薙ぎ払いを弾き懐へ飛び込む算段なのであろうとイカロスは考えた。
「単細胞かよ!」
最後のひと踏みで右脚を軸に身体を大きく右へ捻ったイカロスは事もあろうに、剣の薙ぎ払いではなく盾でアッシュの身体ごとを吹き飛ばそうと左腕を振り抜いた。
通り一辺倒の騎士ではない。アドルフにネリス、リリーといった手練れの野伏とはまた違った経験の厚み。アッシュはイカロスへそんなものを感じた。
それであればと、顔を歪め意表をついた盾での強撃を左手でいなすと身体を右へ開きイカロスの背面を狙う。型通りの戦いを続けてはすぐに喰われてしまう。アッシュがイカロスに感じたのはそういった経験の差であった。
そしてそれは、まさにその通りであった。
右へ開き身体を旋回したアッシュが次に見たものは、盾の後を追いかけたイカロスの白刃だった。盾の強撃は誘い。本命は剣での薙ぎ払いだ。
「魔導師! 本気出さないと終わっちまうぞ!」
イカロスの挑発へ「チッ!」と舌打ちをしたアッシュはイカロスへ背を向けた格好のまま一歩後ろに下がると右肘を上げる。それはイカロスの右籠手を直撃すると白刃の軌跡を大きく変えた。
騎士の右脇がガラ空きになる。
アッシュが一言二言を短く何かを云うと左拳が仄かに緑の光を纏う。それは魔導の光。イカロスが放った「本気を出せ」の発破へアッシュはそれで応えた。輝く左の掌底をガラ空きの右脇へ叩き込む。
イカロスの鎖帷子が打撃音とともに軋み身体は吹き飛ばされた。
「そう……こなくっちゃっな魔導師」
すぐさまに態勢を立て直したイカロスは構え直すと再びアッシュに向かい走り込む。
本来であれば長剣と短剣、その相性は最悪だ。そして相手は盾持ち。間合いを潰したとしても致命傷を撃ち込むのは難しい。しかしアッシュはこの瞬間に至るまでの撃ち合いの中で閃き、それは混然たる自身の業であるかのように長剣との闘いかたを確立した。そうなのだ。それが模倣者の目。見抜き一切合切を我が物にする<謄写の眼>だった。
数秒先の動きが視界に描かれ、そこを塗り潰すようにイカロスが動いてくる。
走り込み真正面から剣を斬り結ぶ騎士の撃ち込みは神速であった。しかし、それは描かれた線をゆっくりと塗り潰すようにしかアッシュの目には映らなかった。
全てを短剣で受け流す。イカロスの誘いも何もかもが手に取るようだった。誘いに飛び込むはずであった短剣の受け弾きを狙う動作は空振りに終わる。思わずイカロスはそれに舌打ちをした。
アッシュは凪のような黒瞳でイカロスを見据えた。
「本気を出さないと終わってしまいますよ」
アッシュは静かに云った。そして狩猟短剣を腰裏の鞘へ戻し徒手空拳で構え直す。修練場がにわかに騒めきエステルは「ちょっと何考えてるの!」と叱咤を飛ばした。
「大丈夫。短剣の間合いは逆に不利。盾ごと吹き飛ばす」
身体は真横。左肩を前。輝く拳は開かれた。右腕は腰に回され反転の動きに備える。
「やりにくいな。武技幻装にあんな使い方があるのかよ。腕は武具だってか」
イカロスは笑いながらアッシュへ毒付いた。
「一節にあります——身体は金剛。心は刃。戦敗は己が信念を弱さが蝕む刻。ならば何処までも研ぎ澄ませよ
アッシュは左手刀で軽く動かしイカロスを挑発した。
「なるほどな。
そういうとイカロスは盾を放り出すとサーコートを脱ぎ捨てた。これにさらに修練場が騒めくと、お歴々に混じったカイデルが身を乗り出し「イカロス!」と叫ぶ。イカロスはそれに一瞥をくれただけで何も云わなかった。そして鎖帷子に手をかけ、それすらも脱ぎ捨てると身軽なチュニック姿となる。
「アッシュ・グラント。悪かったな。俺も本気を出すぜ」
「お願いします」
二人が大地を蹴り出したのは同時であった。
鞘から瞬時に剣を抜き放ったイカロスは、薙ぎ払う訳ではなく刺突を繰り出し自分の間合いを確保する。対するアッシュは剣の腹へ右甲を軽くあて流れに任せ一瞬で身体をねじ込むと手刀で繰り出す。イカロスはそれに、やはり自身の刀身を巻き込み左手で押し返し旋回をするとアッシュの腰を目掛け一閃を振り抜いた。
間合いを制する闘いはそこから極々わずかな時間であったが、手数にして二十を数える攻防を繰り返した。拮抗した時間であった。
しかし決着の刻は無情にやってきた。
アッシュへ誘われ袈裟斬で撃ち下ろしたイカロスの脇へ、するりと魔導師の腕が滑り込む。下方に向かった力はその腕に支点を奪われ自身の切っ先を力点に身体を宙に浮かせてしまう。
アッシュは瞬時に生まれた空虚でイカロスのチュニックを掴み強烈に大地へ叩きつけたのだ。最後は騎士——いや、この誇り高き戦士の
大きく耐久度を超え砕け散った<魔力の殻>は、その役割を果たしたものの幾分かの衝撃をイカロスへ伝えていた。
その証拠にイカロスは白目を剥いて気絶をしたのだった。
修練場の騒めきが頂点へ達した。
騎士団長が魔導師に敗れた。この数年の間、無差別での実戦訓練ではほぼ無敗。唯一背中に土をつけられた相手は、魔導師ジーウだけであったのだ。そのイカロスが敗北を喫したのだ。これにカイデルは「まさか」と乗り出していた身体を力なく椅子に落とした。
「とんでもないのを連れてきたな。吟遊詩人」
「ええ。でも彼はあれでも全力ではありません。恐らく一割も力を出していない」
「そうなのか?」
「はい。でも全力を出してしまえば……それこそ災害級。始祖と並ぶ力を発揮します。ですから彼には
「そうか……で……この後はどうするのだ」
カイデルの傍らで試合の様子を眺めたアオイドスは満面の笑みを浮かべた。
「次は彼が負けます」
「アッシュがか?」
「はい。力はあっても使い方を知らないとただの……」
「ああ?」
「木偶の棒です」
「そうか! あれを木偶の棒とな! 確かに砦を吹き飛ばされても困るからな!」
カイデルの豪快な笑い声が修練場へ響き渡った。
※
「あーおーいーどーすー! 居るー?」
ジーウ・ベックマンが<黒鋼亭>へアオイドスを訪ねてきたのは昨晩の事だ。外から眺めれば魔力の光が輝いているのが分かったから、声はかけどノックもせずに扉を開けたのだ。ガタガタ! と音を立てた部屋の中の二人。アオイドスとアドルフは顔を幾許か紅潮させ、よそよそしく寝台で背を向け合っていた。衣服は
「ちょっとジーウ。ノックくらいしなさいよ!」
ごもっともな苦情だ。アオイドスは顔を赤らめ飄々としたジーウへ枕を投げつけた。それをパシリと受け取ったジーウは首をかしげ、何度かアオイドスと背を向けたアドルフを眺めると「あああ!」と顔をパッと明るくしたのだ。
「禁断の愛! ねー! アドルフ君ついに? ついに? こっちでしないであっちですれば良いのにー」
「あ、いや。これは……」
「もー。ごめんなさいねー。出直すよー」
「いやいやいや! ジーウさん、大丈夫です。王国軍から何か?」
アドルフの慌てぶりに我へかえった吟遊詩人はそこはかとなく衣服の乱れたのに気がつくと慌てそれを直し「カイデル元帥から?」と、そろそろ落ち着いた面持ちでジーウへ訊ねた。
「そうなのよー。それでね、今から出頭。アオイドスも連れてきてくれって!」
「そう。わかったわ。アッシュは連れて行かなくて大丈夫?」
「ええ、大丈夫。明日ね彼の運用試験をしたいって。その段取りの話だと思う」
「急な話ね」
「そうなのー。最初はイカロスさんと対戦してもらってー。それで負けちゃったら他の魔導師団へ編入。勝ったら私と勝負するのー。たのしみー!」
「え? なんでまたジーウと?」
「ん? 急な話の内容ってのがね……」
※
「はーい。イカロスさんの負けー。アッシュさんつよーい!」
ジーウはそう云うとアッシュへ駆け寄り右腕を高らかと挙げさせた。修練場をより一層の騒めきが駆け抜けた。軍のお歴々。中でも各派教会関係者は、幻装のみを利用したアッシュへ「あれのどこが魔導師か」と落胆の声を挙げた。各騎士団からは、鬼神の如きイカロスの背に土をつけた魔導師へ「規格外だ」と賞賛の声が挙がった。
ジーウは騒めきの一つ一つを鼓膜に拾い、どこか冷たく微笑む。衆目に晒されたアッシュの能力の一部。これに誰が喰い付き誰が反発するのか。大義はあれど、それだけでは立ち行かない。どんな世界でも人間が集まれば主義主張がぶつかり合うものだ。そして、アッシュの存在は、ただそれだけで良い燃料な訳である。対局を迎えるまでには内部を掃除する必要がある。
ジーウは目を細め周囲を見渡す。
大体は飲み込めた。
「な!」声を挙げたのは当然エステルであった。
足早に修練場のど真ん中へ躍り出たエステルは、むんずとアッシュの腕をひっぱり「回復なら私がやります!」と語気を荒げた。
「あらー。 ごめんなさーい。 そうね。そうだったわねー。可愛いお姫様がいらしたものね! でも回復は急いでね。次は私と闘ってもらわないければいけないからー」
ジーウはおっとりとそう云うと、笑いながらカイデル元帥が座る天幕へ向かっていってしまった。アッシュはそれに「え? ジーウさんと闘うって云ってた?」とエステルに訊ねたのだが、エステルはそれに「知らない」とそっぽをむいた。
鼻の下のばしちゃって。エステルはジーウの華奢だが凹凸のハッキリとした容姿と自分を見比べると、後ろをトボトボと歩いてついてくるアッシュの脛を軽く蹴り上げた。
※
「ジーウ。あなたねえ……」
艶かしく歩いたかどうかがさておき。天幕へ戻ったジーウを迎えたアオイドスは第一声で、喰えない魔導師へ苦言をと思ったのだが、あまりもの清々しい笑顔に閉口した。
確かに昨晩は軍本部への道すがら、これまでのことを語った。と、いうよりも散々ぱら愚痴を溢したと云ってもよい。何故かアオイドスを「師匠」と仰ぐジーウは、それに「まあー。良かったんじゃないですかー」とアッシュとの関係がハッキリとしたこと、突然のアドルフの求愛について云ったのだ。それに付け加え「あんな唐変木のことはもう忘れましょう」といつになく強い口調だった。
尤もそんなことを云われても「それではもう忘れました」とは行かずということも解っているジーウは「師匠の仇を討ってくるんで見てて下さい!」と息込んでいたのだ。
それは別の目的もあるのだろう。アッシュを圧倒する姿を衆目へ晒すことで、反発する分子を牽制する意味もきっとある。だとしても、アオイドスは心のどこかでジーウの配慮へ感謝をしたのだ。
そう。自分は一人じゃなかったのだと実感したのだ。
自分の気持ちはどうであれ、アドルフへも感謝をした。あの器用貧乏の野伏も自分へ気持ちを露わにしてくれた。
アオイドスはこれまでの不安定さが嘘のように晴れ晴れとした。そしてやることは決まったと、心の奥底で呟いたのだ。視線の先にはアドルフと並んで修練場を見るミラの姿があった。ミラがアオイドスの視線に気がつき手を振っている。
アオイドスはそれに笑顔で手を振って答えた。
「師匠ー。 あの唐変木、お姫様に蹴られてましたよー!」
「わかっていると思うれども、敵はアッシュではないからね?」アオイドスは苦笑した。
「ええ。そこは大丈夫です。メリッサの密偵も紛れ込んでいるみたいなので、ちゃんと
ジーウは静かに、冷ややかに、鋭くそう云った。