宵闇の鴉。
それは人の願望が産み出した英雄の名であった。人々は叶わぬ夢を願い纏めあげると一人の男へそれを被せた。そして願ったのだ。世界を救えと。人々の安寧を築けと。そうして男は血塗られた。数多に語られる男の譚はどれもがそうだった。どこまでも暗く黒く血塗られた。ただの一つの報いもなく、ただ一つの労いもなく、ただの一つの幸もなく。ただただ暗闇に潜む澱みを屠った。
そして男は世界の王であった。
孤独の王が築いた坩堝の世界は男の願いであった。
だから男は全ての災厄を背負ったのだ。
※
——イカロス騎士団修練場
ジーウが放った剣壁。費やされた剣の数は数百に昇った。しかしジーウの体内では万を超える剣が生成され顕現の合図を待っている。
費やされた数百のうち三十ほどは修練場の中央に跪くアッシュ・グラントの背中に突き立てられた。魔力が霧散するまでの間、ぼうっと明滅する緑輝の剣の幾つかはアッシュ・グラントの身体を貫き腹を喰い破った。血溜まりに零れ落ちた臓物へ顔を埋めたアッシュはピクリとも動かなかった。
修練場の観衆は——そのほとんどが騎士や教会の者であった——その光景に絶句し、声の一つも挙げられなかった。エステルとミラを除いては。
これ以上の暴挙を許さないとエステルはジーウの前へ立ちはだかり「誰かアッシュの手当てを! アッシュを助けて」と泣き叫んだ。しかし、それに応える、いや応えられる者は居なかった。ジーウ師団長の号令がなければそれに応ずることは出来ない。そして、そのジーウはただ冷ややかにアッシュを見下ろしている。
ミラは突然に巻き起こった惨たらしい光景に目を覆いかくし「いやだ! いやだ!」とやはり力の限り泣き叫ぶとその場に崩れ落ちた。
ミラの肩を抱き寄せたアドルフも突然の光景に身体を強張らせ、一体何をしているのだと小さく溢しアオイドスへ視線を投げ答えを求める。しかし、アオイドスも絶句し力なく準備された椅子へ身体を預けたままだ。
つまり、この事態が起こることを承知していたのは軍本部だけであったのだ。
ジーウが受けた密命。
<外環の狩人>であるジーウが、何故にそれを受け入れたのか理由はわからない。
カイデルは云った。アッシュ・グラントを野放しには出来ないと。七つの獣、吸血鬼の始祖が一つ<憤怒>。それが人類へ敵対するのならば、牙を剥き出すのならば滅せよと。アッシュ・グラントへ巣食う真意を問い、その答え如何によってはリードランの為、英雄アッシュ・グラントには死んで貰えとジーウへ命じたのだ。
刹那の間を置き、にわかに騒めきだった修練場で魔導師達がアッシュの治療に動こうと準備を始めたのを察したカイデルは天幕から身体を踊りだすと「何人たりとも動くな!」と一喝をした。
「どうして! このままじゃアッシュは本当に死んでしまう!」
エステルはカイデルの言葉に被せるよう言い放った。さもすれば、もう手遅れなのかも知れない。常人であればそうだ。しかし、それでもこれまでも、どんな窮地であろうとアッシュは帰ってきた。エステルの元へ惚けた顔で帰ってきた。だから、今ならまだ間に合う。そう思ったのだ。
「ジーウ!」
次に叫んだのはアオイドスだった。
それにジーウは顔を
大崩壊の際、アッシュの身柄を軍に預けなかったアオイドスの行動へ不信を募らせたカイデルは密かにジーウへその動向を探れと命じると、ジーウはこれに二つ返事で了承をした。ジーウがリードランへ肩入れをする理由。それはリードランへの想いではなく……アオイドスへ寄せる歪んだ忠誠心からだった。アオイドスを苦しめるものの一切を排除する。アオイドスへ手を差し伸べる者は皆一様にジーウの同志であった。その理屈であれば、眼前で跪く魔導師は排除の対象だ。しかし当のアオイドスはそれを望んでいない。それであれば、確かめる必要がある。アッシュ・グラントとその相棒の真意を。
カイデルの密命とジーウの歪んだ矜持は合致しているのだ。
「来る……」
ジーウは呟いた。
格段と禍々しく格別に暗い、魔力と呼ぶには荒々しい神の如き気配。それをジーウは身体を震わせ感じ取った。
暗雲がいつの間にかに空へ姿を現すと風を呼び雷の遠鳴りを伴った。高らかな石壁に囲まれた円形の修練場の外にまで人だかりができていた。今では壁の向こうの騒めきが修練場に届き、一層にその場を呑み込んだ空気の異質さに拍車をかけた。
アッシュは獣のような呻き声を漏らし口を三日月に歪めた。
「アッシュ! お父さん! ダメだよ!」
ミラはアドルフの腕を振り解き周囲に張り巡らされた柵へ手をかけ力の限りに、跪いたアッシュの名を叫んだ。それは必死にアッシュを呼び戻すようであったし、その声音が孕んだ願いの音色はアッシュの魂の扉を叩くようだった。
首から下げられた青や緑に輝く硝子玉をミラは引きちぎろうとした。そしてアオイドスに視線を投げた。それを許して欲しいと懇願するようだったが、しかしアオイドスはそれに、かぶりを横に振った。それにミラは「なんで!」と憤慨し再びアッシュの名を叫び続けた。
そして地の底から——アッシュの口から大鐘の音にも似た声が響き、騒めきを打ち消し再び修練場を静寂に包んだのだ。
「そう叫ぶな<嫉妬>。いや今は<人徳>か。その硝子玉を割るんじゃないぞ。折角……でもないがお前の世界の<憤怒>を封じたのだ。後は任せておけ」
「私の世界の<憤怒>?」
「ああ。そうだ。真相は吟遊詩人が刻をみて話すだろうさ。それは儂の役目じゃない」
ふらりとアッシュは何事も無かったように立ち上がった。
突き立てられた魔力の剣は緑の霧となり宙へ霧散する。アッシュの破られた腹は緑の輝きに包まれると、みるみるうちに癒された。
ジーウの魔力を凌駕する力がアッシュを中心に膨れ上がると、それまで平然とした様子だった者たちは額に冷や汗を浮かべるとその場に座り込んでしまう。もとよりジーウの魔力に当てられていた者は遂には嘔吐しその場で踠き苦しんだ。もはやその場に立つ者は、ジーウ、エステル、アオドス、ミラ、アドルフの四人を残すのみであった。
「さて、これで良いか。露払いもこんなものだろう。後は任せたぞ」
大鐘の声が云った。そして続いてアッシュの口から漏れたのは、儚く今にも壊れてしまいそうな——そう、アッシュの声だった。
「ありがとう、バーナーズ」
「待って!」
誰を呼び止めたのか。ジーウは叫んだ。
その声にアッシュは双眸を細めジーウを鋭く見据えた。アッシュの双眸に浮かぶのは今や赤黒い蛇目。ジーウはそれに身震いをすると言葉を続けた「憤怒の獣! あなたはブリタの——魔女の使徒なの? 答えて!」
「いいや違うな。かつては魔女の獣として産み出されたが儂はこの男の……。ああ、そうだな。この男へ仇なす者の敵。世界の王の守護者」
「せ、世界の王? リードランの王という意味?」
「それは、この男が世界を望み模倣した金型だ」
「では……世界というのは」
「魔導師。浅ましい欲深さは身を滅ぼすぞ。そこまでにしておけ」
暗雲が呼んだ風が吹き荒れた。
もう大鐘の声は聞こえなかった。
ジーウを襲った恐怖にも似た感覚も消え去ると、そこに聞こえたのはアッシュの声であった。実に人間らしく、今や安堵を覚えるほどにその声音は心地よかった。しかし、それも束の間。未だ双眸に赤黒い蛇目を浮かべたアッシュがジーウの視線を絡めとると再び背筋が凍るような感覚に襲われ疑問を抱く。世界の王?
ジーウはその考えに、かぶりを横に大きく振るった。
「ソードフェンサー。続けましょう」
儚げで脆く壊れてしまいそうな声が云った。アッシュが左腕を振るうと身体中から青く輝く繊条が溢れでる。それはすぐさまに巨躯の狼の姿を取った。
「答えは得られた。そんな風な顔をしていますが、僕は納得していません。エステルをミラをこんなにも怯えさせたのは——許しません」
エステルが握り締めた狩猟短剣を優しく受け取ったアッシュは「下がっていて、エステル」と、やはり優しく云った。エステルはおずおずとアッシュの顔を覗き込む。双眸に浮かんだ赤黒い蛇目はアレクシスにミネルバが見せたそれと同じだった。だが、そこに感じるのは、邪悪ではなく、勇猛の静けさ、決意の静寂。そんなものであった。エステルは「うん」と短く云うとミラの元へ向かった。
「魔神……。アドルフが云っていたのはこれね。そう。でも良い機会。そうやって人を見下して神を気取るなら良いわ。神なんてものはただの妄執だって教えてあげる。かかって来なさいアッシュ・グラント。人の意志の恐ろしさを教えてあげる」
赤黒く禍々しく垂れ流されたアッシュの魔力が場を埋めようとする。それを押し返そうとジーウの魔力が反発をする。競り合い、反り合い、食い合う。
そして対峙した二人が両掌を強く合わせたのは、ほぼ同時であった。
暗雲垂れ込む空に突如として姿を現した万を超す緑輝の剣は、その全てが、くるりと回ると切っ先をアッシュへ向けた。
かたやアッシュの傍へ佇んだ繊条の狼は瞬時に姿を万本の線とすると狩猟短剣に吸い込まれ緑と青の輝きを強く放った。
ついに剣の豪雨がアッシュを襲った。
無慈悲に襲いかかる剣は緩急をつけ、まるで順番を待ち解き放たれるように五月雨に降り注いだ。しかしアッシュはその全てを落ち着きを払い躱すと、赤黒の魔力を更に練り上げ拡大をしてゆく。闊歩し全てを否定するように迫り来るアッシュへジーウは戦慄を覚えた。そして云ったのだ「なんなの、なんでこれを見切れるの!」と。答えはなかった。だから遂に眼前にまでやってきたアッシュへ全ての剣を撃ち込んだ。これでは本当に殺してしまうかも知れない。だが、やらなければ自分がやられる。
するとジーウは見たのだ。頸を落とされる少し先の未来を。
その未来とは、嵐のように降り注ぐ全ての剣を叩き落としたアッシュが静かに右腕を振るうと、引き伸ばされた刻の中で優しくジーウの頸へ赤い細い筋がひかれた。次第にずれゆく視界は遂にはアッシュの革の長靴を眼前にした。
それに慌てたジーウはしきりに首元を両掌で何度も何度も触り目を白黒させ「ああ。ああ」と小さく漏らしその場に座り込んだのだった。
「い、今のは」
「警告です。これ以上、姑息な手を使って僕らを利用しようとするなら、その時はあなたの頸を落とす。でも、それは狩人の死ではないのでしょ? だったら四肢も斬り落としたって良い」
「わ、わかったわ。だからアオイドスに辛く当たるのはやめて欲しい。コレは私が独断でやったことだから」
「ええ、それはアオイドスさんを見ればわかります。大丈夫です。でもこれだけは云っておきます。あなた方が何から何を救おうと云っているのかは分かりませんし、分かりたくもありません。過去の僕が何のために世界を旅をしたかは知りません。僕はただただエステルと農園の皆んなと普通に暮らしたいだけです」
「アッシュ・グラント。でもその望みが壁に阻まれても魔女の甘言にのってはいけない。方法は幾らでもある。その為に魔女の脅威を取り払うことには協力をして欲しい。そこは目的が合致しているはず」
「そうですね。分かりました」
※
「おいおい。ありゃ一体何なんだ。オルゴロスをやった刻よりも凄えじゃねぇか。アイザックの野郎、何がアランと似たり寄ったりだ。野郎がイカれたとは訊いてたが……あんなの敵にまわし……ヤベ!」
修練場の石壁に身を隠した暗く黒い盗賊は、鷲鼻をひくつかせると鼻腔をつく匂いを嗅ぎ分けた。それは魔力が再び膨れ上がる匂いだった。そして鋭く狼のような双眸が修練場に立ち尽くすアッシュの視線に気がつくと塔壁に身を隠した。しかし「勘弁してくれ!」と叫ぶと、身軽にひらりと石壁から通りへ飛び降りたのだ。
通りへ着地する寸前で頭上から大きな爆発音が響いた。それはアッシュが放った剣壁の剣であった。<謄写の眼>で完全に模倣をしたアッシュは、それをギャスパル・ランドウォーカーへ放ったのだった。
直上の様子を伺ったギャスパルは、立ち込める煙の中へ人影を認めると「厄介なのに関わっちまったな——」と呟き、次に風が煙を運び去るとそこに姿を露わにしたアッシュへ叫んだのだ。
「悪いなアッシュ・グラント! アランやカミーユのことは恨んじゃいねえんだぜ。だがな、これも仕事だ。お前が軍門に降るなら、アイツらに報告しなきゃならない。コレもそれも、妹を助けて俺のこの糞みてえな身体を何とかするためだ。わかってくれ! じゃあな! クルロスで待ってるぜ!」
※
「バーナーズ」
アッシュはギャスパルの最後の言葉を聞き届けると静かに、白狼を呼んだ。空を見上げればまだ、あの<逆さの黒鳥>が空を旋回している。呼びかけへ呼応するように狩猟短剣から青い繊条がほどかれると、それはやはり狼の姿を成した。
「どうした」
「世界の王……」
「それは、お前の血筋が背負う呪いだ。儂がそれを知ったのはお前が儂を名で縛ったときだった。この世界を覆い尽くす外環の世。そして、この世はお前がお前の望む世界を模倣した仮初の世界。尤も外環でさえ、そうなのだろうがな。だが、お前は……いいや、まだそれを知るには早いのか……」
遠くからエステルがアッシュを呼ぶ声が聞こえた。バーナーズはそれに耳をそば立てると「時間だ」と姿を宙に霧散させ、それ以上は言葉を発さなかった。
※
白の吟遊詩人は項垂れたジーウの傍へ駆け寄り、気付け酒を口に含ませた。そして軽やかに<言の音>を紡ぐとジーウの失われた気力を呼び戻そうとした。
ジーウを気遣うものの、その目は石壁を見上げ、そこに佇むアッシュを眺めた。バーナーズが発した言葉「世界の王」。アオイドスはそれを反芻すると顔を歪め、無意識にシュメールの碑文を口にした。
上にある天は名づけられておらず、
下にある地にもまた名がなかった時のこと。
はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。
混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。
水はたがいに混ざり合っており、
野は形がなく、湿った場所も見られなかった。
神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
「私が居た世界では、結局その謎は解かれなかった。何がアプスーで何がティアマトなのか……。でも……」
「し、師匠?」
気を取り直したジーウは、すっかりいつもの調子に戻っていた。独断でアオイドスを騙すようなことをした。それに気が引けているのだろう。困り顔でアオイドスの顔を見上げたジーウのそれはまるで子供が叱られた時の表情だった。しかし、アオイドスはそれを咎めることもなく「ええ」と短く答えただけだった。
ジーウはそれはそれで、どこか不安を覚え「すみませんでした」と声を震わせた。
アオイドスへの忠誠心とでも云うのか、はたまたは歪んだ想いからなのか自分の起こした行動が、こうも騒ぎを大きくするとは思いもしなかった。想い描いた結末とは、自分がアッシュを圧倒し、アッシュと憤怒にアオイドスへ忠誠を誓わせるというものだ。しかしそれは叶わなかった。圧倒され約束をさせられたのはジーウの方となった。つまり手酷く返り討ちにあったと云う訳だ。
それを知ってか知らずかアオイドスは、ジーウへ優しく微笑み「私の為にありがとうジーウ」と優しく肩を抱いたのだった。
ジーウはそれに頬を赤らめ目を潤ませた。
暗雲はすっかりと姿をどこかへと散らし、アッシュが見た黒鳥は姿を消した。魔力に当てられた人々は次第に気を取り戻し始め、眼前の惨状を片付けるために動き始めた。
カイデル元帥もやはり気を取り戻した。
まだ少し頭がもやもやとするのか、片手で抱えアオイドスへ言葉を投げかけた。
「数日を見て……件の悪鬼の砦、あの男に任せようと思うが良いか?」
アオイドスはそれに小さく、かぶりを振ると「ええ、あの人のことを信じて貰えて嬉しいわ。どのみち通らなければならない道ですからね」とカイデルに笑って見せた。