目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

焔を宿す器①





 ジーウ魔導師師団長の暴挙から三ヶ月。

 フリンフロン王国はアークレイリ軍元帥アルベリク・シュナウトス・フォン・ベーンの動向を探るべく多くの野伏を送り込む傍ら、魔導師アッシュ・グラント、魔術師ミラ・グラント、世界へ秘匿するべき二名の術者キャスターを王国軍へ組み込んだ。

 ジーウの暴挙はカイデルの思惑とは別に一定の効果を軍にもたらした。

 それは、アッシュ・グラントへの畏怖であった。

 一度はジーウの剣壁に膝を折ったアッシュ。はらわたを抉り出され絶命へ至る傷を負ったはずであったが、魔神の如き魔力を放出するとジーウを圧倒した。果たしてアッシュは手を下す事なくジーウの膝を折り返したのだ。そう、神の前へ膝を折らせるようジーウを屈服させたのだった。

 この話には翼も角も付け加えられ市井しせいへ流布された。ただの白馬に翼がつき天馬と呼ばれ、ただの白馬に角が生え一角幻馬ユニコーンだと云われるように、アッシュは軍神だと囁かれ、その子であるミラもきっと途方もない力を有しているに違いないと噂されたのだ。

 カイデルは<憤怒>の思惑を辛くも知ることが叶い、あまつさえを王国に迎えたのだから想像以上の成果を挙げたこととなる。


 アッシュとミラはフリンフロン国王ヨハン・ゲオルク・フリンフロンとの謁見を済ませると、ジーウ魔導師団兵舎へ部屋が割り当てられた。ここでもアッシュはミラとは別の部屋を希望すると、ミラは先に割り当てられたアオイドスの部屋に住まうこととなった。先日の<黒鋼亭>での一件以来アッシュとアオイドスはすっかりとその分別を受け入れ、わだかまりはないように思えた。

 少なくともアドルフはそのように感じるとアオイドスへの気遣いの在り方が変わり、それはアオイドスとミラをついにするものへ自然と変化していったのだ。すると自然とアオイドスとミラ、アドルフ。アッシュとエステルといった繋がりが色濃くなった。<黒鋼亭>のケニーの言葉を借りるのならば「在るところに在るように収まった」と、云ったところだ。

 ジーウはそれにあまり納得はいっていない様子ではあった。少なからずアッシュへ一矢報いたような様子を見せはしたが、しかしやはりアッシュを見る顔はいつだって憮然としている。依然としてジーウの暴挙の理由というものは明るみに晒されることはなく、その真意はこの三ヶ月間もきっとその先もソードフェンサーの胸の内に留まるのだろう。



「大丈夫ですか? まだ寝ていないと」

 アッシュ・グラントは額に汗を滲ませ、自分の寝台へ寝転がるエステルを心配そうに見下ろした。

 軍への組み込みが決まると、それからはジーウの指揮下で訓練を受けることとなったアッシュとミラ。それは訓練を受けると云うよりも所属する隊の隊員との組手、所謂、百人組手と呼ばれた実戦形式の修練に参加をするものであった。体力の有り余るミラは魔導師の中たった一人の魔術師であるにも関わらず、隊員を相手し今日に至るまで無敗。本の蟲の汚名を返上した。かたやアッシュは<大崩壊>以来、大幅な体力の低下に見舞われていることもあり、なかなかに厳しい立ち回りをすることとなった。しかし、それでもミラと同じく今日に至るまで辛勝もあったが無敗。軍神の二つ名はそのまま肩にのせている。

 そして今日も、アッシュは訓練を終えると、大使館へ姿を見せる期日まではアッシュと共に生活を送るエステルの様子を伺いに部屋へ戻ってきたのだ。

 それと云うのも、ここ数日間エステルは体調を崩し微熱に苦しめられていたのだ。食事をすれば場合によっては嘔吐をしてまったが、どうも酸味のある果実は口にできるようでそういったもので、すべからく体力を維持すると云った具合だ。疲れやすく常に眠気に襲われているようでもあり、アッシュは軍医にエステルの症状を診てもらったのだが、それでも原因は不明だった。

 そんな状態であるのにも関わらずエステルが大使館へ向かう日は明日へと迫った。アッシュは無理をしないで欲しいと懇願したのだが、エステルはそれに「少し休めば大丈夫だから、アッシュはアッシュの役目を果たして」と云ったのだ。

 その「少し」とはいったいどれほどの時間を指しているのか。アッシュはその「少し」とはエステルが十分に体調が回復するまでの時間であって欲しいと願うが、どうにも赤髪の姫はそのようなつもりは微塵もないようなのだ。


「大丈夫だから。アッシュは心配しすぎよ」

「いや、でも今朝はお腹も痛いって……」

「アッシュだってお腹が痛くなることあるでしょ? それにいちいち私が心配をする? しないでしょ。だから大丈夫。明日はちゃんと向こうへ帰る手続きをするからね。そんな顔をしないで。どうせ直ぐに帰ってくるのだから。ね?」

 そこはかとなく眉間に皺を寄せたアッシュの頬へ掌をあてたエステルは、そう云うと優しく微笑んだ。まるでそれは母親が子供を諭すようだった。それにアッシュは「はい」と暖かく優しくあてられたエステルの手に自分の手をあてると、少しのあいだ瞼を閉じた。


 その翌日。

 すっかりと調子を戻した様子のエステルであったが、多少足元をフラフラとさせた。しかし問題ないとアドルフと共にアークレイリ大使館へと足を運んだのだ。それにやはり心配そうな面持ちを見せ、いつまでも見送ったアッシュであったが、ジーウに訓練へ戻れと半ば叱責されるように修練場へ戻った。


 この日は王都フロン中央が大騒ぎとなった。

 勿論、その中核はエステル・アムネリス・フォン・ベーンの生存に纏わるものだ。

 軍元帥とはいえ貴族の娘の生存がここまで大きく世を騒がせるのであるから、ベーン家の影響力は計り知れない。エステル・アムネリス・フォン・ベーンの生存を確認。その報はフリンフロン王都フロンでも直ぐ様に話題となり各国の大使が面会を求めた。特にブレイナット公国とフォーセット王国は早急にと申し入れをしたのだが、エステルはこの翌日には王都エイヤへ出発すると面会を拒否したのだった。


 エステル失踪当時、アークレイリ本国では国葬まで執り行われようとしたが、アルベリクがなぜかそれを拒み中止となった。まるでこの日がやってくることを知っていたのではないだろうか? しかし本国ではことましやかにエステルの死去は広まり、しばらくのあいだアークレイリ王都エイヤは重い空気に包まれていたのだ。そしてそれはいつしか真実であると受け入れられるようになると、アルベリクが手配をしたエステル捜索の任が取り下げたことにより、真実味を帯びた。それであるから、エステルの帰還は蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、アークレイリ大使は本国への早馬を早々に走らせた。

 エステルが王都へ帰還をすると。




 アイネやカミルは元気だろうか?

 アッシュが気にかけた子供達の様子に想いを馳せたエステルは、すっかりと秋の肌寒さが混じった風に赤髪をたなびかせ馬を走らせた。後ろには護衛の兵士達が追走するが、そんなものにはお構いなく先頭を走った。今となっては何かあれば一番頼りになるのは、これまでの旅で経験を積んだエステルの技量だ。大使館でぬくぬくとやってきた輩に負ける気はしない。

 少しでも余裕があるのならば、クレイトンに立ち寄り農園へ顔を出そうかとも考えたのだが、それはよしておいた。つい先程、何か胸騒ぎを感じたエステルは斥候を走らせていた。戻った斥候の話によると、街道に真新しい蹄の跡が二頭分確認できたというのだ。それはさして問題ではない。問題なのは、その蹄の主人の一人が黒ずくめの魔導師らしき男であること、もう一人はブロンドで唐草色のローブの女であるとのことだった。しかし、それは崖上から遠くに見ただけであったから、確証は得られていない。

 エステルはその報告を受けると隊の脚をとめ少しばかりの休憩をとった。

 その騎影に思い当たる節もあり思案をするためだった。

 よく見れば、エステルは、そばかす顔を幾分か紅潮させていた。そこはかなとなく身体に熱を帯び始めたのかもしれない。


「エステル様、失礼します!」

 エステルの護衛と身の回りの世話をするために付き従ったアガット・アズポートが、女性にしては短く纏められた赤茶髪を整えながら木の幹にもたれかかったエステルのもとへやってきた。

「アガット。どうしたの?」

「ご報告が——えっと……南に人影が……」

「人影? 馬ではなくて?」

「はい。純白の外套に身を包んだ恐らく女です。頭巾を深く被っているので顔は見えないのですが……」

「でも、それ自体は珍しくも……」

「それが尋常ではない速さで我が隊に迫ってきてるんです。望遠鏡で確認をしたの——」


 そろそろクレイトンを横に見る頃合いとなると街道脇にはアークレイリで目にする常緑樹がチラホラと顔を見せる。それに混じり懸命に我が種の版図を維持しようとする広葉樹は、この時期になるとからきし力を損なう。葉は紅くなりはじめ、その中でも不甲斐ない葉はといえば、早速地上にむけてヒラヒラと身体を踊らせた。

 アガットの言葉の途中で地面を鈍器で殴ったような鈍い音がすると、宙をひらりとした半紅葉がエステルの目の前で姿を止めた。エステルは寒気を感じた。おそるおそるアガットへ目をむける。そして目にしたのだ。

 鮮血を噴き上げたアガットの身体。

 まるでゴロりと音を立てるように身体を離れたアガットの頭部。

 それらは、エステルの目の前で姿を止めた葉のように宙で全ての動きを止めていた。世界は灰色に。音は掠れ遠くで引き伸ばされた残響となった。そして、そこで唯一の実態を伴ったのはエステルとアガットの傍に立った白ずくめの女であった。


「エステル。あなただったのね」

「ブリタ……さん」

 慌てて周りを見回してみれば、エステルを護るための兵士たちは全て頸を落とされ、街道に転がった。何故これに気がつかなかったのだろうか。気がつくもなにも、たった今、この光景に全てが入れ替わったのではないかとさえ思えた。まるで紙芝居が場面を変えるようにだ。

 血溜まりが描かれ命あるものは全てブリタの手で頸を落とされたのだ。

「何を想ったのか……強欲の娘が半ネイティブを追うというから、つけてみれば……。随分な偶然。どう? その後は元気なの? アッシュも元気?」

「ちょっと待って、ブリタさん。この状況で——なんの話をしているの?」

「ああ。ごめんなさい。もう素性を隠す必要もないし後はこの世界がちゃんと外環へ向かってくれればそれでよいの。だからね、邪魔なものは徹底的に排除しようって。あ。もしかして彼らは大切な友人だった?」

「そうでなかったとしても……」

「酷い?」

「酷くないとでも想っているの?」

「私からアッシュを奪ったあなたが酷さを語るの?」

「奪った……。そんなつもりは……。それにそれとこれとは……」

 突然の出来事に極度の緊張を覚えたエステルはそこまでは気を張ったのだが、ついに込み上げてくる嘔吐感に耐えられなくなり言葉の途中で口を押さえた。シラク村以来、惨劇を目にすることはなかった。だからこの惨劇が伴う、あらゆる正の感情を押さえつけ、踏みにじり、蹂躙をする負の感情のことを忘れていた。心を縛り身体を強張らせるそれは心情の鉄鎖だ。エステルは身体を動かすことはおろか、込み上げる嘔吐に争うだけで精一杯となった。



 頭巾を取り払い白銀の長髪を露わにしたブリタは冷ややかにエステルを見下ろした。嘔吐し自分を見ることすら叶わない愚かな赤髪の姫。自分から大切な人を奪った女。この世界ではその役回りは、この赤髪が担った。白の吟遊詩人ではない。

 優しくその場にしゃがみブリタはエステルの背中をさすってやった。

 それは気遣ってのことではない。

 直接肌に触れるためだ。

 背中をさすり衣服を切り裂くと身体を動かすことのできないエステルを背後から抱きしめるようにした。ブリタは背中の切れ目から両手を突っ込むと、白磁のような白さの両手をエステルの双丘へ回し、か細い指でその形を確かめた。何度か揉みしだくと次は腹部に両手を下ろした。何度も何度も腹部から下腹部の間に指を沿わせる。その間もエステルは何度かやってくる嘔吐感に争うのだが、身体はいうことをきかなくブリタの奇行に身を任せるしかなかった。

 そしてブリタは小さくエステルの耳元で吐息を吐くように云ったのだ。

「おめでとうエステル。アオイドスの世界でアオイドスは、とある病気だったの。だからミラを娘のように想いアッシュと生涯を終えようとした。でもね、それはできなかった。アッシュが世界を救えと云ったから。滑稽よね。自分で壊して自分で救えって。随分と身勝手なこと云ったものよね」

「ブリタ……それの何が……」

「あはは。もうエステルもなりふり構っていられないよね。呼び捨ててくれていいわ——ほら、痛いでしょ? こんなところまで忠実に再現——いいえ、もう命そのものね。あの人の云う通り。あっちでは壊してこっちでは創って……私のことなんか眼中にない……」

 ブリタは片手をエステルの胸へ沿わせると、乱暴に撫で回した。エステルはそれに「痛い」と小さく声を荒げ、真横に見えるブリタの顔を睨みつけた。

「もう……やめて」

「駄目。許さない。どう? アッシュに抱かれ快楽に溺れた感想は。天にも昇る気持ちだった? 私はその頃、薄汚い父親に抱かれていたのよ。母親の代替品にされた。私の病気のことなんかお構いなし。鳥籠から逃げ出せないことを知っているから、あの下衆は私になんでもしたの。その時あなたは、私の大切な人と夜を過ごした。そうね。私にとっては数日でもあなたにとっては……随分と長い時間を幸せにすごしたのでしょ?」

「……ブリタ。何を云っているの? あなたのお父さん?——アッシュに何をさせるつもりなの?」

 気味悪く。そう。ほとほとに気色悪く腹部をさするブリタを傍目にエステルは云った。理解の及ばない話だった。しかしその語気に練り込まれたものはエステルの心を抉り、理解を求めるられるわけではなく、感情を直接に穿たれたような気がしたのだ。

 うろ暗く爛れた想いを心に穿たれたのだ。胸騒ぎというには荒々しく激しい感情の濁流がエステルを襲った。それは何もかもを壊してやるというブリタのそれだった。

「そうね。世界に絶望し世界を塗り替えようと想ってもらうため、アオイドスの命は見逃して来たけれども、その役目はどうやらあなた達でよいみたい。むしろそちらの方が確実のようね」

「達……?」

「ええ。云ったでしょ。おめでとうエステル。あなたとお腹の子供は世界を変えるための鍵になるの。これは偉業よエステル。これまで繰り返してきた世界にはなかった結末。ああ……やっと自由になれるのかも知れないと思うと、嬉しくなっちゃう」


 ブリタは最後にそう囁くと、小さくエステルの耳を噛んだ。

 もう一度「痛」と声を漏らした赤髪の姫の耳からは、細い赤い筋が流れ落ちた。するとどうだろう。それまで止まったように思えた刻が突然に流れだしたのだ。

 アガットの身体から噴き上げた鮮血が、刻の流れの復活と共に宙へ血の雨を降らせ、ゴトんと赤茶髪の頭部が地面に転がった。

 血の雨に塗られた半紅葉は重たさを得ると、ストンと落ち血溜まりに揺蕩う。

 血の雨に打たれたエステルとブリタ。

 背中から赤髪を抱いた白銀の魔女は、それに小さく笑い顔を背中に埋めると更に高らかに笑った。狂気の音色。エステルはそれを耳の奥に聞きながら、どこか遠くに意識をもっていかれるように項垂れたのだった。


 空はいつの間にかに茜色に染まり、冷たい空気が肌寒い秋夜の帷をひこうとしていた。

 二人は茜色と藍色の混じる空の下でしばらくのあいだ動くことはなかった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?