アッシュ・グラント達と別れたアラグルとエルフの戦士達は砦の外壁を、音もなく駆けると中庭がにわかに騒がしくなるのに気が付いた。アラグルは猫のように身体を低く、外壁の内側へ張り付き様子を伺った。
正門へ集結をした塚人の軍隊は未だ薄ら気味悪く佇み、出撃の号令を待っている。しかし、その後ろ、つまり本丸側——要するに中庭だ——では、十数名の男女が縛られ、固められ、座らされた。
双眸を布で巻かれ囚われた人々は中庭の様子を見ることができない。しかし特徴的な形をした耳は塞がれてはいなかったから、周囲の音を拾うことはできるようだ。それが良いのか悪いのかと云われれば、恐らく後者であろう。視界を伴わない音というものは得てして、視覚よりも想像力を刺激する。淫靡な娼館の寝具の上だろうと、恐怖に満たされた砦の中庭も変わりはない。それが快楽なのか恐怖なのか。どちらの愉悦であるのかという違いなだけだ。そう。それだけだ。誰かが仕組んだそれは、ただそれだけのためにそこに在った。
「アラグル様……」
アラグルが太々しい雄猫なのであれば、シルダリエルはそれを宥める雌猫なのだろう。中庭の様子に拳を振るわせたアラグルの肩へそっと手を添えたシルダリエルは、業火の君の名をやはり優しく呼んだ。
「シルダリエル。奴らには原初の業火を浴びてもらわなくてはならないな。塚人風情が我ら始まりの種を愚弄しおって」
「御意に。しかし……」
「嗚呼、わかっている。とはいえ、我々は永きに渡る放浪で力を失った。我々が賜った焔の権能はもう……な。待て——様子がおかしいぞ」
アラグルは目を細め中庭を鋭く注視した。
アラグルの言葉の通り、中庭で囚われのエルフを監視した塚人が慌ただしく動き始めたのだ。靄を纏ったようなその姿は、動いていなければ身体を透かし向こう側が見えてしまいそうに感じるのだが、動き出した途端にそれは、きゅっと色を固め実態を得るようなのだ。そして今、まさに塚人は実態を得ると腰に刺された剣を抜き放ち、身の丈の半分もある盾を構えた。剣も盾もやはり、冷たく白く淡く輪郭をぼやかし輝いている。
「亡者どもめ!」
「お待ちください!」
消え入るようだったが鋭く喉を掻きむしるような声を挙げたアラグルをシルダリエルは強く押し留めた。
「業火の君よ、あれは!」
「おうとも。あれはヴルコラク……。月光の敵。狂った血の狼。エルフと醜き人の亜種——」
アラグルは目を丸くした。
ヴルコラク——エルフ族がリードランを去る前のことだ。
世界の王がリードランへ降り立ち放たれた人族が、世界を、森を、大地を蹂躙すると始まりの種の呪術師達は大規模な儀式を執り行った。
ドワーフ達は人の脚へ石の呪いを与えた。
すると人族の馬よりも早く駆けた脚は重石を科せられたように重鈍となった。
セイレーンは疲れを知らない人族へ渇きの呪いを与えた。
すると人は腹を空かせ喉を渇かすようになると、昼夜問わず動き回った人族は、朝昼晩に空腹と渇きを癒さなければ力を振るえなくなる。
エルフ達はドワーフとセイレーンが施した呪いに、侮蔑の声を挙げた。なぜ人族を滅ぼす呪いを与えないのかと。
ドワーフ達は云った。円環に営む我らがそれを放てば、いつしかその呪いは還ってくると。セイレーンの女王達は云った。これが世界の神の意思であるのならば我々が支払うべき代償は我らの命運ではないと。受け入れ調和を築くべきであると。
刻のエルフ王はその言葉に憤慨すると、ある部族を呼び出すと人族へ滅びの呪いを与えることを命じた。血を呪い末端に至るまでも根絶せよと命じたのだ。
そして、それは実行に移された。それは惨たらしい儀式であった。後にも先にも同様な儀式を見聞きした覚えはアラグルにはない。
これは王族にのみ伝えられた史実であり門外不出。王の血筋にあったアラグルはそれを語ろうとはしなかった。だからシルダリエルとその部下達はその内容を知らない。だがしかし、眼下に姿をぬらりと現した女のヴルコラクは、呪いの部族が執り行った儀式の代償であろうことを直感した。
それは——人のような背格好にある顔の口と鼻は犬のように突き出され犬歯を剥き出している。その口角から垂らされた涎がぬらりと糸をひき、いつまでも地面を濡らした。目は醜く黄色く爛々とさせ、汚く燻んだ黄色の長髪から覗く耳はエルフのそれよりも少しばかり短い。
そして犬のように四肢を大地につくと、膨よかな胸はだらしなく唐草色のボロのドレスの中で垂れ下がり、それが女であることを教えた。
「——しかしあれは……。人の成れの果てのようだな」
アラグルは声を
切れ長で端正な目を細め、怪訝な表情を見せると「ふむ」と一言漏らし「いずれにせよ同胞の危機であるのは変わりないな。シルダリエル。皆のもの——我々が相手どるは悪鬼の王共と……あの人狼だ——」
※
「——アッシュ・グラント。この錫杖はお前の使い魔が護った代物だ。覚えておるか? 世界の焔の代替品だ。もっとも——」
そう云うとアイザック・バーグは宙に留めた塚人を壁へ投げつけ続けた。塚人は音もなく壁へ叩きつけられると靄の身体は裏返り、力無く暗がりへ崩れ落ちた。
「——力は限定されるが、この世界に備わった万物の設計図を覗き見ることができる——ふむ。それでどうだ? お前は本当に憤怒に記憶を喰われたのか?」
純白の外套に身を包んだアイザックは、その無垢な色合いとは裏腹の随分としゃがれ掠れた声で小さく笑うと、頭巾から覗かせた口を三日月に歪めてみせた。
初撃をまんまと弾かれたアッシュは、難なく壁に投げつけられた塚人——ルーベルトを一瞥し、そしてアイザックに視線を戻すと、それに答えることはなく「僕のことを——知っているのですか?」と、再び狩猟短剣を逆手に構えた。
「世界の王とて阿呆というわけか。なあ、魔導師。儂が訊ねているのだ。それに答えよ——」
「なんなのこの爺さん。性格悪いな」
侮蔑の声を挙げたのはアッシュの傍で小さな魔術師の杖を構えたミラだった。ここに来るまでに自慢の黒髪は頭の上に結いつけ邪魔にならないように整えていたから、額が露わとなり、爛々とした
「そう睨んでくれるな<嫉妬>。お前は我が主の嫉妬を内包したが、それが裏返ったのだよな? それがなんだ。こうも話相手を取られるくらいでも嫉妬をするものなのか? それは裏返る前の名残か?」
「は? ばっかじゃないの。賢そうに喋れば王様みたいに偉くなれると思ってるの? それならグラド叔父さんの方がよっぽど偉く見えるよ! お酒飲んでなければ……だけど」
「グラド——ふむ。——鍛冶屋のグラドか。なるほど、あの酒樽の方が偉そうに見えると云うのか。だとすれば、お前も阿呆へ成り下がったと云うわけだな。儂以外はやはり皆、阿呆ということだな」
取り留めもない、アッシュ達とアイザックの会話の間にルーベルトは身体をもたげ立ち上がると、何処からともなく靄に包まれた身の丈程の盾を取り出した。そして、三人から少し距離を置き構えると様子を伺った。
そして、アイザックの嘲笑めいた煽り文句へ反応したのはアッシュだった。眼前の魔導師がグラドの名を口にし、さも知り合いのように語ったからだ。ミラもそれに「なッ」と声を小さく漏らし、いっそう鋭くアイザックを睨みつけた。
「なんでグラドさんのことを知っている?」アッシュは鋭く云った。
「儂は智慧の梟ゆえ、人の尻の穴の皺でも数えてやるだろうさ。まあ、もっとも儂のこの崇高な力を下賤に扱おうとする輩は、すべからく儂の前では肉の塊となっているからな。そんな望みは聞いた事がないがな」
するとアイザックはカラカラと小さく笑い咳払いをすると続けた。
「——さて。これ以上、阿呆と言葉を重ねても……ルーベルト、それ以上、近づくな穢らわしい——」
アイザックは右からジリジリと間合いを詰め始めた塚人に手を挙げると、まるで縛り付けるように拳を握る。すると、ルーベルトは途端に身体をこわばらせ——つまり靄を透かし——その場で動けなくなった。アイザックは次に左に握った金の錫杖を眼前の黒髪二人へ向けると更に続けた。
「——ああ、先の話の続きだ。アッシュ・グラントよ、お前の記憶が有ろうと無かろうと……まあ良い。憤怒も陰でこそこそと蛆虫のように儂の
満面の——恐ろしく歪んだ——笑みを浮かべた白の魔導師は錫杖で地面を強く突いてみせると云ったのだ。
「世界に存在し得るモノの数には限りがある。それは刻と場合にもよるが——そうだな……額縁の中に描けるモノの数は限られる。それはわかるな? ……そこでだ。儂は高明な画家でもある。額縁の中のモノを変えた方が絵画の価値が上がると思えば、躊躇なくそうする。わかるな猿ども。そうだ。今こそその刻だ。塗れる量に限りはあるし、それは何でも良い訳ではない。魂の器が似ているモノ同士でなければななるまいよ——」
アイザック・バーグは乾きの端々に粘り気を含んだ不快な笑い声を挙げた。
ねっとりとした暗闇にその声は吸い込まれていくようだった。
アッシュとミラまでもが、いつの間にかに身体の自由を奪われるとアイザックは踵を返し亡霊のように音もなく暗闇の中へ姿を溶かしていったのだ。いや、さもすれば、それは暗闇が質量を与えられ空間を呑み込んだのかも知れない。そんな違和感を二人は感じていた。
不快な乾いた笑い声がすっかり尻窄むとアイザックの姿は闇に溶けてなくなった。その代わりやってきたのは、ルーベルトの苦悶の声と——暗闇の向こうからやってきた乾いた足音であった。
※
渇く。
狂おしい程に渇く。
女の
そんな不快な世界の何処かからか狂おしく渇きを誘う匂いがするからだ。それは
「ぁンデス……ぉめんなぁい……」
その言葉は——はたして言葉なのかもわからない。
口から漏れた音を最後に女は——視線の先で肩を寄せ合った匂いの源泉、つまりエルフ達を喰らうことを決めた。口をだらしなく開くと、腐臭のする涎が垂れ流れる。それも今では気にもならない。
そして——身体をもたげ反らせる。瞬時に弓形に身体を極限までしならせる。
女の筋肉という筋肉は、女の皮と肉は、どこまでも身体をしならせることを許したが、そこに溜まりに溜まった反発力はとうとう限界を向かえ、不気味にゆらりと佇んだ忌まわしい体躯を稲妻のように、その場から射出した。
唐草色のボロのドレスが悲鳴をあげた。それは宙を切り裂く鋭い音。
次の瞬間——緑の狂風は、肩を寄せ合ったエルフ達の中から一人を偶然に選び出し迫った。そして、かぶりを体躯から奪い取った。
身を寄せ合ったエルフ達。それを監視した塚人。どちらもこの一瞬の出来事に反応ができなかった——いや、違うのかも知れない。噴き上がった鮮血の噴水が生者の肩を濡らしたこと。不死の王達のまなこが鮮血の水柱を目の当たりにしたこと。それが、その出来事が起きたことを確定したばかりなのだから、反応をするという挙動は、瞬間の選択肢にはなかったのだろう。
兎に角——
※
エルフの戦士達は着地までの間に白刃を放ち、地に足が着くのと同時にそれぞれの役割を果たそうと風のように駆け出した。しかし、緑の雷のように撃たれた
「塚人! この薄汚い飼い犬を放ったのは貴様らか? だというならば、我が名が示す業火にて貴様らを焼き払う! 覚悟せよ! シルダリエル、背中は任せたぞ!」
眉間へ深く皺を寄せたアラグルは、未だ戦士の来訪に我関せずな
「業火の君へ続け!」
幾許か頬を赤らめたシルダリエルはアラグルと背を合わせ、後方の戦士達へ鬨の声をあげると弓を握った右拳を振り上げた。そして駆け出した戦士達の数名に捕縛された同胞の解放を指示すると「我が君!」と、ゆっくりと歩き出したアラグルへ肩を並べ周囲へ視線を投げた。
※
シルダリエルは永き年月に渡り業火の主人に仕えてきたが、息の詰まるような戦場を共にするのはこれが初めてだった。アラグル——その名が示す「業火」は種の中では忌み嫌われる部類のものだ。何故に王がその名を与え聖域たる黄金樹の森を護らせたのか。それを今、真の意味で知り得た気がした。
シルダリエルは、静かに迫り来る塚人達へ矢を射掛け牽制をし、その間にアラグルの様子を伺った。
アラグルは静かだが心を沸き立たせる音色で言葉を紡いでいた。
双眸で
もっともシルダリエルが、周囲から何を云われようともアラグルに仕えることを辞めなかったのは、そのアラグルの特異を野蛮だと忌み嫌う、または王の末席を簒奪する力だと断じ、排除することを目論む輩を知っていたからではある。
※
「人狼。言葉は未だ貴様の鼓膜に届いているか?」
アラグルは周囲へ焔の祝福を配り尚も、自身は白刃を振いとうとう、同胞のかぶりを貪り喰らう
どうやら捕縛された同胞は戦士達の手により解放され支援に回ったようだった。だからアラグルはもう、眼前の
惨めに同胞のかぶりを喰らう、かつて女であった
「この獣め……。我が怒りの焔を感じても、それを意に介することもなきか……」
静かにアラグルは白刃を振り上げた。
シルダリエルはそれに気がつき、矢をつがえ
※
目が合った。そんな気がした。
かつて人間の女であった人狼は口に咥えた、エルフのかぶりを手に取り喰らいつこうとした。口の中へ広がる鮮血の味が衝動を昂らせ、早く早くと心を揺さぶる。しかし、それと同じくして頭の中へ流れ込む異物に衝動は躊躇いをみせた。
手にしたかぶりに浮かぶ黄金色の瞳の瞳孔は開かれ、それは何も映し出してはいない筈であった。だが、いや、だからなのか。人狼は黄金の瞳にぽっかりとあいた、うろぐらい穴へ焦点があってしまうと、そこに蠢く幻想を観たのだ。そこには男が女を愛し子を授かるまでの甘美で暖かい幻想が揺蕩い、衝動をなだめた。どこかで感じたことのある光景。その番はエルフであったし人間であった。折り重なる幻想が何度も何度も繰り返えされると、最後にはどこからともなく黒く翼を濡らした鳥が舞い降り、エルフなのか人間なのかの番と子供の頸を無惨に斬り落としたのだ。
次にやってきたのは——憎しみだった。狂おしく愛おしい憎悪。それは白かったし、白銀であったかも知れないし、はたまたは女であったかも知れないし、翁の姿であったかも知れない。
そしてそれは云ったのだ。
「愛は幻想だ。意志を持ち個を有するのであれば、それはどこまでも己が利を満たす幻想だ。ならば、そんなものは喰らってしまえ。そしてお前の血肉とすれば、それは永遠となるだろう。だが、それを簒奪する者はどこにでも居る。であれば、そんなものは壊してしまえ。あの宵闇の鴉がそうしたように」
幻想の言葉が終わると、気が付けば人狼はエルフのかぶりに喰らいつき脳漿を啜り涙を流した。
「人狼。言葉は未だ貴様の鼓膜に届いているか?」
男の言葉が聞こえた。
随分と暑苦しく気取った怒気をあらわにした声だった。それは不愉快だった。
喰らったかぶりの主の記憶が、人狼の獣性の片隅に居合わせた少しばかりの理性と混じりあうと、それはかつての女のものではなくなり、新たな価値観、感情を産み出したようだったのだ。
だからこそ、自分へ声をかけ白刃を振るい挙げた男を不愉快に思った。
そして——その傍で矢を向けた女。そこから溢れんばかりの敬愛の気配は、それに気がついただけで反吐を吐きかけてやりたくなった。
※
シルダリエルは幼い頃からの付き合いだった。
元は二人の姉——アラグリアンにアンダリエルへ仕えていたのだが、アラグルが成人の儀式を終え森の外周を護る任を云い渡されると、それに付き従ったのだ。アラグルは帰らぬわけではないと、最初はそれを拒んだが、根気負けをし承諾をした。
それ以来、二人は故郷の森の外周へ拠点を築きながら森の守護者の任を遂行した。拠点が十を超える頃にはアラグリアンの推薦で派遣された戦士達をそこへ住まわせ、あらゆる外敵を討ち取る体制を整えたのだった。そして、その拠点——森の砦が二十を超える頃になると、随分と時間にも気持ちにも余裕ができるようになった。
すると二人は任務を遂行する傍ら、互いを深く知り合う時間も得られたのだ。それからの二人は周囲から見れば夫婦のような仲にも見えたし、親友であるようにも見えた。そう——本人達も気が付かないうち、二人の間で育まれたものがあったのだ。
アラグルは、なかなかその育まれたものの名を見つけることはできなかった。恐らくシルダリエルもそうだったのだろう。
だが、それがなんという名であるのか、今ならわかる。
「シルダリエル! シルダリエル!」
アラグルの絶叫が響いた。
周囲で塚人を相手どるエルフ達もそれを耳にすると、アラグルとシルダリエルに目を向け、絶句した。
人狼はアラグルが白刃を振りかぶったその瞬間に、矢をつがえたシルダリエルに飛びかかると、細く白い首へ喰らいついたのだ。シルダリエルが放った矢は人狼の左目を射抜いたが、それでも強靭な瞬発力を殺すことは叶わなく、アラグルが愛したエルフは口から鮮血を垂れ流し、身体を痙攣させたのだった。
明らかな動揺がエルフ達の間に広がると、それまでアラグルの祝福で鬼神の如き闘いを見せた戦士達は、だいぶ数を減らした塚人の攻勢に押され始めたのであった。
次々と塚人に惨たらしく斬り伏せられていくエルフの戦士達。
人狼に腕の中で身体を痙攣させるシルダリエルの姿。
アラグルの頭の中は真っ白になった。
そして、次には頭の中で何かが弾け飛んだ。