「ほほう。やっと見つけたぞ逃亡者。お前の血筋は本来であれば世界に在ってはならないもの。聖霊に処分されるべき存在だ。しかしだ。聖域からふらふらと出歩き、一丁前に人と混じるものだから当たり前のように複製品が在ると云うわけだ。嗚呼、そう睨んでくれるな下賤め。儂はお前と同類だが、真っ当に魔女の祝福を受けておるが故に——同類の中でも最強だ。間違えてくれるなよ。かたやお前は、色欲が元型としたものだ。故に何も持たないし、その名も空虚で存在は揺らいでおる——ああ、そうだ。最弱だ」
その像は女——人狼の最後の記憶だった。
満月が煌々と光を落とした寒い日の夜だった。
そこは石造の質素な寝室であったが、家財道具はそれと均衡を保つように温もりのある濃茶色の物が揃えられ寒々しさよりも、暖かな印象が特徴的だ。
部屋の中央にある寝台もやはりそうで暖かな寝息を包みこんでいた。
女は一人で眠るには広すぎる寝台で寝息を立てていた。
女は、厚手の毛布を何枚か重ねていたが、突然の刺すような寒さに目を覚ますと枕元にそれが突っ立っているのを見たのだ。
純白の外套に、目深に被った同じ色のフード。
そこから突き出た顎は随分と皺が刻まれている。白外套は同じように皺が刻まれた両手の五指を胸の前で合わせ、忙しなく動かしながら女を見下ろしていたのだ。
女は不気味な侵入者に悲鳴を挙げたのだが、絶叫は女の住まう館に響くことはなく、ただただ虚しく水面に口を突き出した魚のように空気を喰うだけだった。
顔を青褪めた女は次に、白外套を睨みつけ身体を起こそうとするのだが、それも叶わなかった。
見えざる手に強く胸を押されているようで、息苦しささえ覚えた。
楽しげに——恐らく楽しげに見下ろした白外套は、カサカサとした不気味な笑いを漏らすと「おうおう。無様だな」と、やはりカサカサと云い、言葉を忙しなく続けた。
「さて、続きだ。そうとは云え、この時代にもお前の役割はある。そう遠くもない、お前の血筋が担った器の役は、儂ら魔女の獣の一つであったが、お前には違うものを担って貰う。そして、あの刻と同じく……嗚呼、あれで色欲は『男は臭い』と毛嫌いするようになったな。いや、なに。こちらの話だ。気にするな。お前が役割を果たしさえしてくれれば、儂の思惑とおりに事は流れ出す。そこでお前は、お役御免と云うわけだ」
白外套は最後にもう一度、乾いた声で今度は高らかに嗤うと、のそのそと寝台に這い上り女の上に跨った。女はそれに激しく頸を振り、四肢でどうにか白外套を押しのけようとするのだが徒労に終わった。
次第に白外套の顔が女に近づくと、女は目を見開きとうとう頸を振ることさえも諦めたのだ。それはまるで蛇に睨まれた鼠のように固まったようにも見えた。
フードの中に覗いた白外套の素顔がそうさせたのだ。
影に落ちた暗闇、落ち窪んだ眼窩。
眼窩に浮かんだ赤黒い蛇目に睨まれると恐怖の深淵から心の臓を触れられるようで、女は身体を強張らせたのだ。硬直は女の意思を汲み取ることはない。
「魔女はこのことをなんと云っておったかな……ああ、そうだ。これも何かの
白外套は身体を強張らせた女の鼻頭へ、皺々の鼻頭が当たりそうになるほど顔を寄せ、そう云うと下卑た笑いを浮かべ、掌で女の眼を覆い隠したのだ。
※
次に始まる人狼——女の記憶は粘り気のある暗闇のなか目を覚まし、渇き、求め駆け出したところからだった。妄執にかられ狂おしく血を分けた息子の血を求め暗がりから地上を目指したのだ。それが一体、何の想いであったかは、もはや女にはどうでも良かった。
そうやって地上に躍り出た人狼は、アラグルに頸を跳ねられ夜空と血みどろの脚元を何度も目にする最中、その像を繰り返し観ると「そうか、自分は命を落としたのだ。これで出所の知れぬ妄執から解放されるのか」と、人狼はどこか安堵したのだ。だが、どうだろう。安堵を乱暴に上書く想いがあった。
無骨な戦士である夫と、その背中を追いかけた息子の姿が目に浮かび、ふわふわとすると心を騒つかせ安堵へ不安を塗りたくった。
二人を残して逝ってしまうことへの不安だったのか。
しかし、その想いはつい先ほど忘れたばかりではなかったのか。
人狼は混乱をした。
思考の海に溺れた。
考えても考えても先の見えない結末。
だが、そこはかとなく理解をした想い。そんなものに塗れ最後には鼻腔に夢の匂いを感じると再び意識が遠のいた——次に気が付くと、そこは再び粘り気のある暗闇の真っ只中であった。薄ら白く身体を浮かび上がらせた二人の戦士が二人の漆黒——魔導師と魔術師——と対峙する姿がそこにはあった。
宙を漂った人狼——もはや、揺蕩いはかなく世界に溶け合う意識は、二人の戦士を観るのだが、付いて離れない夢の匂いが別の像を、二人の戦士に重ねて観せるのだ。意識はそれに混乱をしたのだが、どうだろう、対峙した魔導師——黒髪黒瞳、どこまでも暗い黒の外套に身を包んだ男に目をやると、あらゆるものが立ち所に紐付き納得したのだ。
「魔導師——あなたさえ居なければ……」
「魔導師——お前が来てしまったから……」
「魔導師——お前が、お前であろうとしたから……」
「アッシュ。お前さえ居なければ……」
「アッシュ。あんたが居なければ……」
その言葉は人狼の言葉であったし、二人の戦士の声の言葉であったし、二つの虚像の言葉であった。
これで最期——この後にも
※
「ミラ……動ける?」
「うん……でも、なんだろう……気持ち悪いね」
塗れる量に限りはあるし、それは何でも良い訳ではない。魂の器が似ているモノ同士でなければななるまいよ——いつの間にかに束縛が解かれたことに気がついたアッシュは、暗がりに姿を消したアイザックの言葉を反芻すると、ミラの横に並んだ。先ほどまで言葉を交わしたルーベルトが沈黙のなか、静かに盾と剣を構え直すと真正面に立ちはだかったからだ。
ミラが云った気持ち悪さ。
それはアイザックの姿と入れ替わるように聞こえてきた乾いた足音と共にやってきたことはアッシュにもわかっていたから、ミラの横へ並ぶとジリジリと後方へ間合いをとったのだ。
「身体が重いよ、アッシュ」
「僕もだ——魔力の濃さが……いや、違うか——なんだろうこれ」
「魔力酔い?」
「それにしては頭はハッキリしている」
「そうだね……。ん? ねえアッシュ。あれは……」
ミラが言葉を落とし、小振りな杖で指した先。
そこに——ルーベルトの背後から、溶け出すように姿を現した者があったのだ。姿を現したのはルーベルトと同じ白靄の鎧姿。盾は持たず両手剣を肩に担いでいた。白靄の素顔は掴みどころがなく、想像をすればそれは髑髏のようにも見えた。それはルーベルトも同じだった。不確かで掴みどころがなく、だがしかし凍てつく存在感は周囲を寒々しく、凍らせるのだ。
「父上——」やっとルーベルトが声を発した。かぶりを軽く下げ、恭しく背後から現れた塚人を父上と呼んだ。
「ヘルナンデス中将?」
その名を呼んだのはアッシュだった。
アッシュは顔をしかめた。
ミラも同じだった。新たな鎧姿を目にすると二人の身体を未だ束縛するような倦怠感が増したようなのだ。
「嫌だよアッシュ、この感じ……ああ、あれ? この感じどこかで……」
ミラは得体の知れない倦怠感にどこか身に覚えがあるような口振りで云うと頭を抱え込んだのだが、答えは得られなかった。
アッシュは、それに「ミラ、後ろへ」と、小さな相棒を背に一歩を踏み出した。
靄の鎧姿は、それと同じくしてジジジジと乾いた音をたて靄を揺らした。揺らぎとはいうが決してそれは揺蕩う交わりではなく、どこか直線的な線が無数に身体を真横に走り像をズラすようなのだ——奇妙な揺らぎであった。
サタナキア砦の地下深く。
冥界へ続くのではないかと疑いたくなるほど螺旋階段を降りた先に横たわった背の高い横穴。それはどこまで、そうであるのか、ねっとりと暗くカビ臭い。唯一の光源はアッシュが放った魔力の光玉であったが、それが灯す光は黒よりも暗い闇へ喰われてしまい、おおよそ役に立っているとは云い難かった。
それだから、アッシュとミラに立ちはだかった塚人が露わにする奇妙な身体の——白靄の揺らぎは、いっそうと気味の悪さを引き立てたのだ。ミラは塚人が振り撒く露骨な不気味さに、小さくかぶりを軽く振り「アッシュ……これ、どうなっちゃってるの?」と幼い声を震わせる。アッシュはそれにただただ落ち着きを払う素振りで「わからない……でも気を付けて」と云うのがやっとだった。
対した塚人は極めてゆっくりと、確かめるように今では音もなくアッシュ達との間合いを詰め始めた。
ルーベルトは剣と盾を構え、それが父と呼んだ——ヘルナンデスは両手剣を相変わらず肩に担ぎ、そうであった。
そのはずだった。
アッシュは何度も左の甲で目を擦った。
ミラもそうした。
何やら塚人が段々と更に酷く朧げに見えたように思えたのだ。いっそうとジジジジと奇怪な音は横穴に響くと、それに合わせ塚人の姿を揺らがせた横線が上下水平にひっきりなしと動いたのだ。それを凝視してしまっては視覚は曇り硝子を通して世界を見ているようになてしまったし、何よりも三半規管を駄目にしてしまいそうだ。
そして二人は、何度か目を擦り、そこに見たものに固唾を飲んだのだ。
「よお、アッシュ・グラント。久しぶりだな……」
「アッシュ。ギャスは一緒じゃないの? その
一人は男であった。
アッシュの黒髪よりも短く刈り込まれたそれに、精悍な顔つき。そこに浮かんだ双眸は抜かりなく鋭く、やはりアッシュと同じ黒瞳はアッシュの視線を捉えて離さなかった。
男は黒の外套を羽織っているがアッシュとは対照的で前を開けると漆黒の鎧を露わにした——恐らく、男が担いだ両手剣、鎧、左手の鱗籠手、その全てが黒鋼だろうと想像できる。
一人は女であった。
見事なブロンドは乱暴に麻の紐で頭の上で結かれていた。小さな顔に在るクリっとした双眸の飴色の瞳は、そこはかとなく小動物を思わせたが、しかし女の隣に立つ黒の戦士と同様に鋭さを剥き出している。その視線はミラに向けられたが、女はフンと鼻を鳴らすだけだった。
女は外套に身を包むことはなく、豊かな胸を強調した黒鋼の中鎧に厚手のゆったりとしたトラウザー、皮の長靴と云った身体を動かすことに主眼を置いた出立ちであった。そして女は片手剣を左腰に刺し、右手を柄へ軽く乗せている。これならば、いつでもアッシュ達を一閃で薙ぎ払うことができる。
「痛ッ……なんだこれ……塚人はどこに」
アッシュは二人を見るや否や激しい頭痛に襲われると、頭を抱え前屈みながらミラを庇うように更に後退をした。
「アッシュ。アッシュ……」
「ミラ……逃げるんだ」
「え?」
「アラグルさん達に合流するんだ」
「何を云ってるの? ねえ、あれは何なの?」
アッシュは所々に呻き声を漏らし、背中越しのミラにそう云うのだが、ミラにはその真意が理解できなく混乱をすると「ねえ、あれは何なの?」ともう一度アッシュに訊ねた。その合間も必死にミラを行かせようとするアッシュの左手をミラは、何度も叩き「ねえ!」と一喝をするように叫んだ。
「随分と小さな連れだな、グラント。ギャスはどうした? お前は祝賀会の夜に、俺たちを見捨ててギャスと逃げ出したろ? その後はどうなった。それにルゥは?」
「アラン、まだルゥのことを云ってるの?」
「仕方なないだろ、カミーユ。記憶が曖昧なんだ」
アランと呼ばれた男は黒鋼の両手剣を肩で弾ませ、頭痛に苦しむアッシュへ言葉を向けたのだが、返ってくるくることのない答えに苛立ちを覚えたのか、何度目かの弾みに合わせ切っ先をアッシュに向けると「聞いてるのか、グラント」と皺のある声で凄んで見せたのだ。
アッシュはそれに答えなかった。正確には答えられなかったのだ。
激しい頭痛に耐えかね、とうとう片膝を地につけたアッシュは口をだらしなく開き、肩で息をしたのだ。ミラはそれに驚くと「どうしたのアッシュ!」と慌て、咄嗟にアッシュの前へひらりと踊りでた。そして小振りな魔術師の杖を突き出しアランへ向けたのだ。
「ちょっと! アッシュに何したの、おっさん! それにそれに……塚人は、どこ行っちゃったの? ——」
得体の知れない畏怖とも抜き身の恐怖ともわからない場の空気に必死に争うミラは、どうにか心を奮い立たせアランとカミーユと呼ばれた女に剣幕を振るった。それにアランは嘲笑うように顔を歪め肩をすくませカミーユへ、お前が答えろと云わんばかりの態度をとったのだ。ミラはとうとう黒瞳を少なからず濡らすが「——答えて!」と、ぐいっと杖をアランの顔をめがけ突き出した。
「おー怖っ! 女の剣幕に子供も大人もないな。それになんだ、塚人ってなんのことだ? グラントがそんなに苦しんでるのは……こっちが訊きてえくらいだぜ。そいつは、どうしちまったんだ。あれか、アイザックの野郎がまたなんかちょっかい出したのか?」
突き出された杖の先に身体を仰け反らせた黒の戦士は、そう云うと「カミーユ、何とかしてくれ」と相変わらず嘲笑を言葉の端に含め、とぼけた顔をしてみせた——眉をへの字に吊り上げ、アランの薄い唇もそれに倣っていた。
「アラン、いい加減にしな——小さな子を揶揄うんじゃないよ」
呆れ顔で云ったカミーユは申し訳なさそうな顔をミラへ向けたのだが、その背後で蹲ったアッシュがゆらりと立ち上がるのに気が付くと「アッシュ?」と名を呼び、そしてスラリと剣を抜き放ったのだ。
ミラはそれに、ハッとすると思わず近寄り過ぎてしまった立ち位置に気が付き、後ろへ飛び退いた。背中に何かが当たった——アッシュの身体にぶつかったのが分かると、ミラは首を仰け反らせアッシュの顔を見上げ、様子を確かめた。
「ミラ、ダメだよ。敵の前で頸を曝け出しては危ない」
肩で息をしたアッシュは苦しげな顔をしたが、それでもミラをこれ以上不安にさせまいと笑顔を作り、小さな魔術師の黒髪に手を乗せた。
「ん? 敵だと? どういうことだグラント」
アランはそれに鋭く答えた——語気はまるで心を斬り裂く刃のようだった。
アッシュは真っ向からそれを受け流したが、いくら大人ぶったとしても、幼いミラにとってそれは鋭すぎると云ってよかった。
ミラは言葉の凶刃を感じると、咄嗟にアッシュの背後に周り壁となってくれた魔導師——アッシュの外套をギュッと掴んだ。
「ギャスパルはここには居ない」
「何でだ、一緒に逃げ出しただろ」
「額縁の中に描けるモノの数は限られる——そういうことか……」
「あ? なに云ってるんだグラント」
「あなた達は、僕の過去の影だ——ギャスパルは云っていましたよ。僕はかつての仲間だって。ただし——それは百年以上前の話だって」
「ん? 百年だと? おい、埒が明かねえなグラント。俺たちはお前に落とし前をつけさせるのに、随分と探したが百年は盛り過ぎだぜ」
「探した? それになんの落とし前を、ですか?」
アッシュを襲った強烈な頭痛は幾許か引いてきたように思えた。それに耐え忍ぶ合間、常に心の奥底で赤黒い異物——バーナーズの存在を垣間見たように思うのだが、何故だかあの白狼はアッシュを呼ぼうとはしなかった。だからなのか、頭痛は次第に治っていったように思った。
それにアッシュは冷静さを取り戻すと、何かに気が付き今度はアランに訊ねたのだ。アランはそれに当たり前に答えようとしたのだが、何故か言葉が口を突いてこないのに気持ち悪さを覚え、カミーユを見るのだが女戦士もアッシュの問いかけに、口をぱくぱくとさせるだけだったのだ。
「ああ……探したんだぜ……さが……」
「ちょっと待ってアラン……。何かおかしいよ。だって、あたし達クルロスの王城で祝賀会に出て……アラン、あんたは……」
カミーユが声を震わせ云ったその時だった——横穴を埋め尽くした暗闇の奥底から甲高い金属音が鳴り響いた。それはアイザックが去り際に鳴らした音と同じであった。
金属音は背の高い横穴に、イインイインと残響を残した。まるでそれは暗闇に伸ばされた亡霊の断末魔のようで、不快で胸糞の悪くなるものだったからアッシュは顔をしかめ、ミラは耳を塞いだ。
そしてアランとカミーユは––––苦しみ始めたのだ。
アッシュはその様を目にするや否や、素早く<言の音>を紡ぎ自身とミラの身体能力を強化をすると、次に指を噛み切り狩猟短剣へ言葉を書き殴った。
「アッシュ?」ミラはそれに不安の色を浮かべアッシュの名を呼んだ。
「あれは……人じゃない。英雄の亡霊だ––––もう、アラグルさん達に合流する時間はない……ここで斃すよ!」アッシュはそう云うとミラへ、かぶりを軽くふり「援護をお願い」と駆け出したのだった。
ミラは短く「わかった!」と杖を構えアッシュの背後から、器用に距離をとりながら続くのだが、胸元に違和感を感じたのか外套に手を突っ込み顔を曇らせた。
だが、今はアッシュの援護に徹しなければならない。気を取り直し、杖を振るうと自分とアッシュへ<魔力の殻>を展開すると、<魔力の矢>の連続射撃の準備をした。