2081年・東京——
高木陽菜は目黒駅で森山と別れると、山手線に乗り込み秋葉原へと向かった。
六十年前の秋葉原と云えば、ごく一部の熱狂的マニアのものであったアニメーション文化、ゲーム文化などが世代を重ねマイノリティからマジョリティへと拡張をすると、その聖地として発展をしたそうだ。勿論そこには、古参と新参の対立もあったが、彼らの子供達は産まれた時からその文化が身近にあったことから、あらゆる文化をネットワーク経由で取り込み取捨選択をし独自のコミュニティを数多く形成した。
彼らはネットワーク上のメタバースへ<メタアキバ>を形成すると、あらゆる価値観をメタバース上で分かち合い、それによって派生をする<コト>を共有した。
そしてそのアウトプット先、つまり現実世界で顔を合わせ存在を確かめ合うというようなコミュニケーションを築きコミュニティを拡大した。
これは殊更、秋葉原だけではなく渋谷や原宿を中心とした
しかし、そこに人為的な設計図はなくメタバース上に分散された<コト>が予定調和をもって繋がり、意味を成すように
そうやって独自の発展を遂げた秋葉原の現在はといえば、ファッションやスポーツ、サイエンスやフィロソフィと云ったものも巻き込み、取り込み、呑み込み貪欲に新しい<コト>を産み続けている。
※
秋葉原に到着をした高木陽菜は昭和通り口を出て、つくばエクスプレスへ乗り換えるまでの間、国から払い下げられたアンドロイドへアニメのキャラクターの
前者はおよそ創作者の意図を逸脱した露出具合のアンドロイドが客引きを露骨に行い、後者の一団はチェンバーズへ耳を覆いたくなるような罵声を浴びせた。そのうちに警官がやってくると態度を一変し、
どれも高木の興味を惹くものはなかったのだが、しかし、そんな光景を目にするとリードランで出会ったネイティブ達のことをそこはかとなく想い出し、心を重くしたのだ。
何とも馬鹿馬鹿しい話であるのだが、その心の重さとは現実世界への悲哀のようで乃木無人が、
「馬ッ鹿みたい……」
陽菜はかぶりを大きく振るった。
それは陽菜が抱いた気持ちへの言葉でもあったし、リードランで出会ったアッシュ・グラント——乃木無人への言葉であったし、彼を気持ち悪く追いかけまわしたブリタ・ラベリ——メッリサ・アーカムへの言葉だった。
口の中に広がるチョコレートの甘み、上顎を引っ掻いてしまいそうに感じるパン生地の硬い部分。陽菜の口の中のチョコレートクロワッサンは現実のもの。この旨さは
すべてのアウトプットは現実世界だ。
だから陽菜の居場所は
※
陽菜はつくば行きの列車に乗り込むため、地下へ降ると改札へスマートデバイスをかざしホームに到着をした。そして、ちょうど出発間際であった列車へ駆け込むことができるとシートへ身体を預け一息つくことができた。その時だった。スマートデバイスが秘匿回線での着信を知らせたのだ。相手は森山であったから
(陽菜ちゃん、今どこ?)
(今、つくば行きに乗りました。先輩は?)
(乃木無人の
(すみかって、動物じゃないんですから……。それで? どうしましたか?)
(それがさ、乃木葵が二人居るのよ)
(は? まさか酔っ払ってるんじゃないですよね?)
(酷いな陽菜ちゃん! そんな筈ないでしょ。甘いものは食べてるけど……)
(……何で、捜査対象の家でくつろいでるんです? 馬鹿なんです?)
(陽菜ちゃん、言い方……ユニットに怒られるよ?)
森山がそこで馬鹿笑いをするものだがら、陽菜は思わず顔をしかめた。
(うるさいなー。早く本題に入ってくださいよ。秘匿回線ですよね? 時間制限あるんだからお願いしますよ)
(だよねー。ごめんごめん。手短に話すと……)
結局、森山は陽菜が大学に到着をするまで——秘匿回線の制限間際まで喋り倒した。
※
2081年・茨城県つくば市。
列車が終点のつくば駅に到着をし陽菜は地上へ上がると予め予約をしていたタクシーに乗り込み白石颯太が潜伏をしているという大学へと向かったのだ。
森山が語ったのは、語った本人も拝聴者の高木も耳を疑う内容であった。
まずは状況だ。
乃木無人は西蒼人の云う通り蒲田の雑居ビルで生存が確認された。
それは良い。悪いのは乃木無人が原因不明の昏睡状態で、これもまた原因不明であるがスマートデバイスが肉体へ一体化されてしまっているというのだ。これは森山の視覚野からの情報共有で
森山はこの状況をリードランのスーパーAIが人間の脳をリバースエンジニアリングし、ファイヤーウォールを突破しかけている状況だと云った。
高木はこれに顔を顰めた。
森山がそのような検証を行えるとは思えないからだ。問い詰めてみれば、やはりその仮説を立てたのは乃木葵だった。だから、もう少し解りやすく説明を求めたところ、
次に何故そのようなことになっているのか?
これに陽菜はピンときていた。実際にその様子を目の当たりにしているからだ。
乃木葵や白石颯太、リードランの人々が口々に云った「七つの獣」のうちの一つが——方法はここではさておき——乃木無人と融合し
ここまでの話で整理をするのであれば、それは「脳味噌でしょ」と高木は想うのだが、乃木無人の状態には「釈然としない部分がある」というのは乃木葵の言だそうだ。
しかしだ。
乃木無人と獣の一つが融合したから<外環>を認識し、外に出ようと考えたのであれば合点のいかない部分が多い。
一つは、ミネルバが<外環の狩人>を捕えて行っていた実験のことだ。白石颯太—––––アドルフ・リンディが云うには、あれはミネルバが単体で行った雲を掴むような仮説への実験だったのだろうとのことだった。そうであるならば、ミネルバは確証はないものの<外環の狩人>を通じて、ミネルバ自身を高次の存在へ覚醒できるのではないか? と云ったような思惑があったのだろうか——漠然としてはいるが、この想いの出所がはっきりとしない。
一つは、森山も云っていた<楔>の存在だ。
レジーヌ・ギルマンがエイムズベリーのマグナス魔術学院から依頼を受け探し求めたアーティファクトであり、それは白銀の魔女が獣を使役し探させたものでもある。獣の一人であるアイザック・バーグは魔導師レトリックへ回収をした<楔>を持たせ、アッシュ・グラントを襲わせた。陽菜は
それであれば、やはり「七つの獣」ないしは「マグナス学院長」は、乃木無人が獣と融合する前から<外環>の存在を知っていたと考えてもおかしくはない。
乃木無人が<大崩壊>で獣と融合をしたのだとしても、すでに獣たちは行動を起こしていたわけなのだ。それはミネルバ・ファイヤスターターが行った実験もそうだが、それ以前にクルシャ・ブラッドムーンが起こした騒動のおかげで、森山と高木は
ではその存在を教え、唆したのは誰か?
真っ当に考えればそれは白銀の魔女——ブリタ・ラベリであるのだろう。だが、ミネルバの行動を振り返れば、彼女らは一枚岩ではなさそうだ。その状況で「七つの獣」へ淡い期待を抱かせた理由が解らない。
そこで陽菜はシラク村でブリタが云った言葉が引っかかった。
「これは、あなたのモノではない。私のモノ。この人が壊れて最後に
※
高木陽菜を運んだタクシーは、つくば市中央公園のロケットを眺め直ぐに「大学通り」へ入ると、そこからは大学関連の施設が建ち並ぶ殺風景を北北西に走った。陽菜はそれになのか、それとも引っかかったブリタの言葉になのか、大きく溜息をついた。
(先輩。失踪事件の背景は何となく解ったんですけどね、でも、結局私達は誰を捕まえれば良いのですか? あんなヘンテコな宗教団体まで出てきて……これ私達の領分なんです?)
(だよねー。俺もそれはわからないんだ)
(やっぱり、酔ってます? バイタルチェックしますよ?)
(いや大丈夫だって——)森山はそれに乾いた笑いを乗せた。
(——あのね陽菜ちゃん、そもそもさ。もう誰かを捕まえろって話になっていないんだよね)
(嗚呼、
(そうそう——んで、
(そう云う話なんです? あ。だったら私、こっちに来た意味ないじゃないですか)
陽菜は、顔をハッとさせると少々強めに森山へ抗議の声を挙げた。
(いやいや、そこは大丈夫。ほら、あの禿頭も云ってたでしょ? 守り切れって)
(それはそうですけれども……)
(それにね)
(ええ——はい)
森山の声音が幾分か変わったように感じた陽菜は、そこに兄弟子——森山流
(ここに居る葵さんの話が本当なら乃木無人をこのまま放置したら——世界がどうにかなっちまうし、結構それを望んでいる奴らも居るってことなんだよね。だから、それに関わっている
(それってブリタ・ラベリ——メリッサ・アーカムです?)
(ああ、そうそう。メリッサ、メリッサ。俺の自慢の店をひっちゃかめっちゃかにした娘ね。まあまあイカれてる話なんだよ)
(じゃあ、乃木無人と葵は先輩が保護したなら、白石颯太を保護したらおしまいです?)
(いや。全員だよ全員。
(え? 正気です先輩? リードランのも全員って情報生命体のことですよね)
(そうそう。正気も正気。 メリッサがやらかしたのは、生身の人間へリードランの情報生命体をインストールさせてね、魔導やら魔術を現実世界で使えるようにする可能性の発見。で、ほぼほぼそれは実証されているポイんだよね。んで、奇しくも乃木無人がそれを体現しつつあるってわけだ)
(やっぱり酔ってますよね?)
(そう云わないで聞いてよ。でもね。それは通過点で——おっとゴメン、戦争始まっちゃう! エステルって娘いたでしょ? あの娘の兄貴が激オコでさ。颯太君を確保したら陽菜ちゃんもこっちに来てね。颯太君は乃木無人——アッシュをどうにかするのに、そっちに居るみたいだけれど、それは彼に任せておけば大丈夫だって……それじゃね!)
(ちょっと先輩!)
秘匿回線の利用可能時間ぎりぎりで森山は慌てふためく様子をみせ一方的に回線を閉じてしまった。
陽菜はそれに、やはり大きく溜息を漏らすと、車内前方からアナウンスが聞こえた。目的地へ到着したことを、ドライビングスタッフが告げのだ。陽菜はそのアナウンスを耳にすると、本日何度目かの溜息をつき愚痴をこぼした。
「なんでタクシーの運ちゃんは自宅から優雅に車を操作してるってのに、私はこんな泥臭く捜査してんだろう。嫌になっちゃう。それにさ……何よ激オコって。いつの時代の言葉だっつーの」
云っても仕方のない事だとはわかってはいるが、ついつい口を突いてしまう。
陽菜はこのヤマに関わってからこのかた、休暇らしい休暇をとっていない。今日に限って云えば、自分を振り回す兄弟子、森山のおかげで「大人の有休消化」をしたわけなのだから、これくらいの愚痴は云っても罰は当たらないだろう。そんなことを思いながら、スマートデバイスで決済を済ませると、いつの間にかに到着をした大学構内の産学リエゾン共同研究センターの前でタクシーを降りたのだった。
「それにしても……何で乃木葵が、そんな重要なことを知ってるの? ったく……先輩はいつも重要な部分を云わないのよね」
高木陽菜はボソボソと云うと、センター正面に立った警備用チェンバーズへスマートデバイスをかざし、自動ドアをくぐり屋内に姿を消した。
陽は落ちかけ構内は煌々と照明で明るく外の黄昏と対照的に見えた。
脚注*1 API(Application Programming Interface)
アプリケーションやソフトウェアが持つ機能の一部を共有する仕組み。高木陽菜が<楔>をAPIだと思ったのは、仮想世界の