ジーウ・ベックマンが天蓋から颯爽と姿を現すと、それに気が付いた配下の魔導師が慌てふためく様子で駆け寄り云ったのだ。イカロス騎士団が先行しサタナキア砦へ進軍を開始したと。魔導師曰く、ジーウの休息中に野伏アドルフ・リンディがやって来ると、サタナキアに火の手があがったら、出陣をしてくれと要請があったそうなのだ。それにジーウは「あらー、そうなのねー」と惚けた調子で答えたのだが表情は至って鋭く、報告をした魔導師はそれに、顔を青くし「は、はい」とそれ以上言葉を重ねることはなかった。
ジーウは確かに夜空を朱くしたサタナキアへ目をやると「本当だ。真っ赤ね」と独り言を溢し「私たちも出るわよ」とオーリブ色をした魔導師のローブの上へ漆黒の外套を羽織ると馬を呼んだ。
その時だった。
指笛に呼ばれ駆け寄った馬が悲鳴をあげるよう嘶き膝を折ると口角から泡を吹き出したのだ。
それを目の当たりにしたジーウも傍でかしこまった魔導師も同じように、ガクっと唐突に膝を折り地面へ身体を投げ出した。
顔を動かすのもやっとのジーウだったが、なんとか視線を横に向ければ、やはり同じく遠くに見えた魔導師達や従者達が同じように地へ這いつくばり声も挙げられないでいた。
まるでそれは見えざる巨壁が天から舞い降り陣を押し潰そうとしているようだ。
ジーウはそれに「早すぎる……」となんとか自由を得ようと声を振り絞ったのだが、身体はいっこうに押し潰されてしまいそうで、気を緩めてしまえば口から臓物を吐き出してしまうのではないかとさえ思った。
実際、さほど魔力を練り込めない従者達の中には押し潰された瞬間に、激しく吐血する者も、目玉を眼窩から溢し絶命する者まで居たのだ。
突飛もなくやってきた地獄絵図だ。
無論、魔力とは縁遠い軍馬達も同じで、この力に抗えなかった者どもは等しく血の池を造り凄惨な光景を、あたかもその場がそうであったように必然と突然と俄然と紙芝居が次の場面へ移り変わるように見せたのだ。
(ミラちゃんが張った障壁……こんなに簡単に破られるって……なんなのよ……)
ジーウは飛んでしまいそうな意識のなか胸中に吐露をするが、諦めることはなく師団の損耗を防ぐべく、自身の魔力を練り始め宙へ滲ませた。それはアッシュと対峙した様相を彷彿させた。次第に半円状に拡大をする魔力の波は、這いつくばった魔導師達から重圧を取り払った。
ジーウの魔力にあてられ激しく嘔吐するものも多数いたが、血反吐に臓物、目玉を飛び出し無様に死を迎えるよりマシでしょ? とジーウはやはり胸中呟き、仰向けになると肩で大きく息をしたのだった。
しかし、これを持続しなければならない。それは随分と骨の折れることだった。だからジーウは大声で「みなさーん! 近くに集まってー」と叫んだ。効果範囲を狭くすればするほど、ジーウの負担は軽減される。きっとこの状況は長くは続かない筈だと剣壁は踏んでいたが、それでもこの後のことを考えると——。
「最悪、魔神と闘うってなったら流石に難しいわよ——」と、乾いた笑いを溢した。そして、ジーウの眼前に広がった
ジーウはこの後、イカロスと合流するべく陣を放棄し砦へと急いだのだった。
※
サタナキア砦——地下大空洞前横穴。
ジーウが天蓋へ姿を戻す少し前。
アッシュとミラ。二人の
<言の音>に身体強化されたアッシュの体捌きは神の動きと云ってよかった。
同時に放たれた白と黒の一閃を、左の白を短剣で、右の黒を左掌底へ集中した魔力の壁でいなしたアッシュは、白と黒の刃を叩き落とす。型も何もないただただ素早い狂った刃を向けた女戦士——黒鋼の男はカミーユと呼んだ——は、アッシュの狩猟短剣に絡め取られると思わず切っ先を下に向けた。
ギャリギャリギャリと悲鳴を上げた刀身同士が火花を上げた。
アッシュが流し込んだ魔力——仄かな緑色の飛沫とカミーユの刀身から躍り出た白紅の飛沫が互いに混じり合うと、アッシュの背後からそれを鋭く見たミラは目を見開き思わず見惚れてしまっていた。
右肩が下がり、黒鋼の男——カミーユはアランと呼んだ——へ背中を向けたアッシュ。アランは一歩を力強く踏み込み右上段——アッシュの頸を狙い回し蹴りを放つが、アッシュはそのまま短剣を振り抜き身体を旋回すると、左後ろ回し蹴りでアランの一蹴を弾いたのだった。
一瞬は永遠で、永遠とは一瞬。その場に重なる永遠が何枚も織り重ねられ、画を描き出し、動きを産み出し、時を刻むのだ。世界とはまるで一瞬一瞬の塊であり瞬きの数だけ世界の片鱗が存在するようだ。
見惚れたミラは、それを理屈ではなく、言葉ではなく、所為を悟ったわけでもなく、心で感じた。
「すっごい」それが、ミラの感じた全てであった。
その後も繰り広げられた神域の闘い茫然と目を奪われたミラはそれに気がつくと自分の頬を叩き「この!」と気合の言葉を挙げた。そして魔術師の杖を指揮棒のように振るい、カミーユを目がけ蒼の閃光を幾重にも放ったのだ。これに面食らったカミーユは「子供の出る幕じゃない!」と、全ての閃光を叩き落し腰帯から短剣をミラへ鋭く投擲する。
「ミラ!」
アッシュはそれを脇目に見ると小さな魔術師の名を叫び左脚を叩くと魔術を展開した。
それは本来であれば罠——敵を弾き飛ばす——として利用をされる術式。だがアッシュは自身を瞬間的に移動するための手段として利用をする。それは、大農園でアドルフとの組み手で次第に呼び起こされた経験、いや記憶なのか<謄写の眼>が教えてくれた知恵であった。
自身の体躯をミラを目がけ弾き飛ばしたアッシュは身体を旋回し最短距離で投擲された短剣を叩き落とすと「その子供に随分と必死ですね」とカミーユへ不敵に笑い「ミラは『子供』じゃなくて、相棒です」と、再び左右から襲い来る二人を相手取った。
「グラント! 随分と腑抜けたことを云うようになったな! お前はいつだって見透かしたような目でしか語らなかったくせに、今はどうだ! そんな子供を『相棒』だって云うのか?」
激しい攻防は再びアッシュを中心に繰り広げられた。
アランが放った言葉は火花の中でゆっくりと鼓膜を震わせた。永遠の中に埋もれた言葉が耳を突く。それはまるで言葉という音ではなく魂を不躾に撫で付ける
「あんたがルゥを拒むようなことをしなければ、あんな事にはならなかったんだ! なんで逃げたんだい!」
今度はカミーユが叫んだ。
その音もやはりアッシュの心を撫で付けた。心のもっと奥。魂の御座の向こう。土足で踏み入ることを許されない暗がりが横たわる幕の裏。触られたくはないものを、やはり不躾に触られたようでアッシュは顔を歪めた。
剣戟の火花。拳と拳、脚と脚、体躯と体躯が鳴らす闘いの心拍。
そして言葉。
その全てがゆっくりとゆっくりと、アッシュの頸を締め上げるようだった。
「云ってることが、わかりませんよ!」
アッシュは云った。だが、それは嘘でもあったように思える。二人の戦士と刃を重ねる度に、拳を重ねる度に心の刃が火花を散らす。その中、火花の中に浮かんだのは、いつか何処かで彼らと出会い、共に闘い、そして——唄が聞こえた。
迫り来る満月が照らしたのは戦士の背中だった。
荒んだ心を狂おしく照らしだす月光は色濃く落とされた影に命を吹き込んだ。
それは、しゃがれた声で戦士に訊ねる。
貴様の手は血塗られた。世界はその手を赦さないだろう。
ならば貴様は、なんとする。
貴様の手を塗った血反吐は貴様にそう望んだ有象無象の希望の影。
虚像に、鏡像に、狂像だ。
ならば貴様は、なんとする。
真は偽に裏返り、偽は神を為し人を喰らう。
それは世界に華開く人の欺瞞であろう。
だから世は荒むのだ。
観よ。
貴様が踏みしだく幾千も幾万もの死屍累々を。流された血を。
まるで闇夜に咲き乱れた
「アッシュ! 避けて!」
ミラの絶叫がアッシュの心を上書いた。
あわやアランが放った鋭い一撃がアッシュの頸を捕らえようとした。
アッシュはミラの絶叫に我へ帰ると、懐に潜り斬り上げたカミーユの一撃に左肩を貫かれたのだが、そのままグイっと身体をかがめ鮮血を噴き上げた。しかし、それに間合いを詰められたカミーユは剣を抜くことが叶わずアッシュに胸ぐらを掴まれると——アランの放った一閃の軌道に身体を引き上げられた。
アランの鋭い一撃はカミーユの顔面を捕え、そして顔半分を斬り飛ばした。
「グラント! お前!」アランは絶叫した。
アッシュは無心であったのか、それには答えなかった。
だが、ゆらりとカミーユの体躯を投げ捨てると「血なんか出ないじゃないか——僕は狂ってなんかいない」と、力無く溢したのだ。
アランはそれに「いいや、お前は狂っているぜ。現にどうだ、仲間をぶっ殺したところで、なんとも想わないのだろ? それで十分だ」と云うと、顔を刎ねられたカミーユに視線を落とした。
カミーユの身体はまるで糸の切れた舞台人形のようであったし、どうも中身が無いようにも思えた。その証拠に、かがんでカミーユの身体を抱き上げたアランは、なんの苦も無くそうしたし、女戦士の四肢はふわりと、だらんとした。そして女戦士の身体はいつの間にかに、白靄の騎士——塚人の姿へ戻ると、霧散したのだった。
アランはアッシュを見上げた。
アッシュの左肩にはまだ剣が突き立てられたままだった。
鮮血が刀身をつたい柄から零れ落ちていた。
「ほら。やっぱり塚人だったじゃないですか。一体あなた達は何を僕にさせたいのですか? 僕の過去は何を求められたのですか——あれ……血が……」
自身の血がつくった血溜まりに足を濡らすとアッシュは頭を抱えた。
「俺はお前のおかげで英雄としてクルロスの王城に迎えられた」
「英雄? そんなくだらないもの……のために……」
様子がおかしくなったアッシュに気がついたミラは、魔力の矢を放つすんでで杖をひっこめると、慌てた様子でアッシュに駆け寄った。これまでにもアッシュが茫然とし、心ここにあらずといった様子をみせると、ミラには理解の及ばない独り言を口にすることがあった。決まってその時はミラは背筋に冷ややかなものを感じ、アッシュの魔力の波が奇怪な紋様を描くのを感じていた。今のアッシュは、これまでの些細なものではなく酷くその症状を見せている。ミラはだから咄嗟に駆け寄ったのだ。
アッシュの外套をミラが引っ張った。
「アッシュ。駄目だよ。言葉に惑わされたら駄目だよ。この人は現実の人じゃない。見たでしょ? 白くなって消えちゃったんだよ? 亡霊だよ」
ミラはかがんで動こうとしないアランへ魔術師の杖を突きつけ云った。アランはそれに鼻を鳴らし「つくづく俺は子供に縁がないな」とため息をつくと、黒鋼を手にし、ゆらりと立ち上がった。
「さあ、グラント。最期の死合いだ。誰が何をお前に求めているのかなんて俺達には関係ない。お前はいつだって、そうやって何かを抱えるように振る舞ったな。でもな——俺達には
アランはどこか悟ったように静かに皺のある声で云うと黒鋼を構え「手出しするなよ。今度は危ねえからな」ミラへ目配せをした。どうだろう。ミラはアランの瞳の奥に得体のしれない気迫を感じると、一歩二歩と下がり固唾を飲んだ。
アッシュは相変わらず頭を抱えたのだが、一気に左肩の剣を引き抜き投げ捨て「ああ、
ミラは「え? アッシュ?」とアッシュの言葉に小さく声を挙げた。まるで、その答えはアランと呼ばれた戦士を知っている風であったからだ。そして、声音に孕んだどこか親密さを垣間見る音にミラは不安を覚え、もう一度アッシュの外套を引っ張ろうと近寄ったのだが、それは今や修練場で見せた膨大な魔力を練り始めたアッシュの手に阻まれた。
膨れ上がる魔力。
ミラ自身もアッシュと匹敵するほどのそれを有している筈であったが、目の当たりにした魔力は無尽蔵に膨れあがり、とうとう横穴を揺らし始めると小さな魔術師に膝を折らせたのだった。
「グラント。最後に一つ教えてくれ。なんでお前は英雄になることを拒んだ」
「そんなものは幻想だからだよ。僕は僕を認めてくれる一握りだけで良かったんだ。英雄? 世界の王? そんなものは人が人に被せた記号だ。都合のよい呼び方だ。だからだ——力なんて必要ない……ああ、僕は何を……」
「とんだ独りよがりだな、グラント。力を持ったものが背負う使命ってものがあるんじゃないのか? お前が云っている甘っちょろい云い訳は、持たないものを侮辱しているとは思わなかったのか」
「わからない……」
「そうか。まあ、俺も結局は……な」
アランは最後に小さく言葉を口にした。
言葉の余韻はどこか悲しげで、後悔に満ちていた。
だからなのか、自身への嘲笑とも思えた笑みを溢し黒鋼の両手剣を上段に構えアッシュと視線を交えた。
ミラには二人の間に横たわる影が何であるのかを知る由もない。
片膝をつき、膨れ上がるアッシュの魔力に必死に抗い気力をたもった。ミラにはそれが精一杯で思考に一切の余裕はなかった。しかしどうだろう……胸の辺りに刺すような熱を感じると、この二人の因縁の一端を垣間見たように感じた。それは——。
「じゃあな、アッシュ——」
アランの両手剣が振り下ろされた。
黒々とした縦一文字で刃の軌跡が描かれた。
横穴に満たされたアッシュの魔力の力場を斬り裂くようにゴオゥ! と剣風が鳴き叫び軌跡の跡を追いかけた。
それと同時であった。
緑輝の軌跡が黒風に交わると、それを分断し魔力の力場に渦を巻き起こした——。
アッシュはアランの一撃を、身体を半歩外にズラし黒鋼の腹を切り裂いた。
力の行き場をなくしたアランの両腕は虚しくアッシュが居たはずのうつろな空間へ振るわれると、身体を前のめりにした。
アッシュは黒鋼を狩猟短剣——魔力の刃で切り裂く勢いのまま旋回し「じゃあな、アラン・フォスター……宵闇の」と前のめりになったアランの頸を叩き落とした。