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Killing Me Softly⑤





「アレクシス!」

 アッシュ・グラントの絶叫が大空洞に響いた。

 人が発せる声量であるとはとても思えない絶叫であった。

 空気を揺らしミラとアレクシスの心をも揺らしたそれは闘神の叫びなのではないかと錯覚するほどだ。


 絶叫の残響をそのまま、アッシュは身体を右に捻り腰の狩猟短剣を稲妻の速さで投擲をすると、片脚を叩き術式を展開し自身の身体を弾きだした。その場から瞬時に姿を消したアッシュは神速の矢のように飛翔をすると、投擲された短剣に追いついたのだ。

 狩猟短剣は速度に合わせ切っ先へ岩をも穿つ破壊力をのせている。アッシュはそれに自身を弾き出した突破力を上乗せし、威力を乗算する算段であった。あわよくば、アレクシスを薙ぎ倒し——もしくは貫き——そのまま背後の祭壇へ躍り出ようと考えたというわけだ。

 だから一点の曇りも迷いもなく赤の吸血鬼の胸元を狙った。

 阻めるものならば、阻んでみろ。そう胸中に云った。


 アレクシスは、それに微笑んだ。

 だがしかし、鬼の形相で飛び込んでくる魔導師に満足をしたわけではない。アレクシスはわかっているのだ。どれほどアッシュが本気になろうとも天地がひっくり返ろうとも、それは戯言なのだと。だから思ったのだ。さあ、力の差を知り絶望しなさいと。その思いの全ては両手を広げアッシュを迎え入れようとすることで、露わにした。

 そうだ。その微笑みは嘲笑だ。


「アッシュ・グラント! 来なさい! ガライエで私にお預けをさせたを今ここで返しななさい! 私はまだあたなにないわよ!」


 アレクシスは我慢ならず——まだ想い人を真っ当に助けられると思い上がる魔導師へ、いささかの腹立たしさを覚え、挑発をした。だが、その叫びはどうだろう、幾許かの期待も感じられる。それでなければ、借りを返せなどとは叫ばなかっただろう。


 鈍い音がした。

 アレクシスは、双眸を見開き口をだらしなく大きく開くと口角から牙を剥き出した。蛇目はキュッと絞られると次には、だらっと赤黒の硝子玉のようになった。

 アッシュの狩猟短剣がアレクシスの豊満な胸に突き立てられたのだ。

 鮮血が噴き出し二人を赤黒く染め上げた。



 アレクシスは突き立てられた短剣ごとアッシュを抱きしめた。

 魔導師の決死の突撃は、いとも簡単に受け止められアッシュはアレクシスの抱擁から抜け出せない。突き立てた短剣は両拳ごと二人の間に挟まれ、今もなお抱擁に合わせアレクシスの身体へ沈んでいくのがわかった。生暖かい鮮血が両拳を濡らすのが生々しく伝わってくる。

 アッシュはもがいた。

 このまま短剣を抜き出しアレクシスの頸を狙おうとするのだが、まったくをもって歯が立たない。力の差は歴然としていた。何度も何度も胸中にバーナーズの名を叫んだが、それすらも虚しく、自身がなすこと全てがそうであるように、何の答えもなかった。



 赤の吸血鬼は茫然に唖然に愕然に意気消沈をするアッシュの横顔をを嬉しそうに眺め思ったのだ。自分の胸の中で踠き苦しむこの男が絶望する様は美しいと。自分を窮地にまで追い込んだ男が今や——それこそ手も足も出ずに、ただ踠き続ける。無様で——美しい。これが生きるということなのだろうか。それであるならば——私はそれを喰らいつくそうと。そう思ったのだ。

 だが、そう想い何度も何度もアッシュの首筋に喰らいつこうと衝動に駆られたが、ガライエの時のことを思い出すと踏みとどまった。また、あの時のようにアッシュの血にあてられ不甲斐ない想いをするのはもう懲り懲りだ。


 それに——目的はそれではない。


「嗚呼、アッシュ・グラント見えるかしら? 私を見る必要はないの。どう? 祭壇でまぐわう二人は美しいでしょ? あれこそが愉悦。あれこそが歓喜。あれこそが美よ」



 最初は赤や青、緑に輝く祭壇に目を眩ませ目を細めた。

 輝きの中、蠢く影は確かに二つ。一方は下になり一方は上になった。目を眩ませた輝きの中で二つはしばらくは影のままであったが、目を細め輝きに馴れた頃にアッシュの目には、それがエスエルとメリッサであることがわかった。


 形相激しく目を見開いた。

 四肢を激しく動かした。

 アッシュは兎にも角にも、抱擁から逃れようとした。


 目に飛び込んだのは、白磁の肌を露わにした——全裸の白銀髪のメリッサに、やはり全裸の赤毛のエステルだ——どういうわけか、目を瞑りぴくりとも動く気配がない。

 上質な絹布に覆われた祭壇と思しき台へ寝かされたエステルに跨ったメリッサは血色の良いエステルの肌へ、うっとりと視線を落とし——全身を舐め回すようにだ——か細い指で、頬から胸、胸から腹へとゆっくりと軌跡を描くと「良い質問ね……」などと、恍惚と口を動かした。


 アッシュは喉が切れるほどに叫んだ。エステルの名をだ。

 四肢を激しく動かした。

 しかし力の差を埋めることは、やはりできなかった。

 こんなにも無力だったのだ。何を偉そうに——<黒鋼亭>での一悶着が頭をよぎると、啖呵を切った自分の姿を憎々し思った。そしてエステルに語った、過去の自分への恐怖、憎悪、不安。あれではまるで母親の影に隠れ怯えるだけの子供ではないか。

 無力だ——アッシュはそう胸中へ云った。

 だがしかし——失うわけにはいかない。自分の為ではなく——。



「アレクシス離せ!」

 次第に内臓が潰され始めたのか、口の中に血の味を感じたアッシュであったが、朦朧とする意識のなか、エステルの身体が以前よりもふっくらとしているのに気がついたのだ。メリッサの白磁の指が下腹部から腹へ胸へと動く間の軌跡に不自然な隆起を見せ、胸の双丘へ到達をした。

 あれは……。

 アッシュの眼前にパッと火花が散ったように感じた。

 だから、何かに気がつくとアッシュは更に声を荒げ赤の吸血鬼の名を叫び離すように云ったのだ。


 「無理よ。赤髪の姫の意識はここにはない」

 「エステル! エステル! 目を覚ましてください!」


 アッシュの無様な叫びにアレクシスはいよいよ顔を恍惚とさせると、赤い舌でアッシュの首をゆっくりと舐め上げ、もう一度「無理よ」と今度は魔導師の耳元で囁いた。


※ 


 メリッサは遂に、エステルの慎ましい双丘を包み込み、何度かその感触を愉しむ様子をみせた。

 そして最後には優しく首に手を回し、エステルの唇へ唇を重ねると、しなだれるようにエステルと優しく身体を重ねる——うっとりとしたメリッサは「さあ、手を繋いで行きましょう……」と、甘い吐息を漏らすよと両掌を合わせ五指を絡ませた。



「メリッサ! メリッサ! メリッサ!」


 アッシュは白銀の魔女の名前を叫ぶと、とうとう鮮やかな血の味が口に広がるのがわかった。確かに、口角から赤い筋を慣れ流しアレクシスの右肩を濡らしている。あまりもの拘束の強さに次第と内臓が破裂を始めたのだ。鮮血を盛大に吐き出さないでいるのは、アッシュは咄嗟に魔力を練ると体内へ駆け巡らせ内から抵抗を試みているからだ。冷静さを失いつつあるとはいえ、その判断ができるのは身体に染みついた教訓からなのか、はたまたは過去のアッシュ・グラントの記憶なのか。

 何れにせよ、その無意識の抵抗になのか——また別の理由なのかアレクシスは、いささか焦ったさを感じ、不快感を顔に露わにした。


「そんなに、その女が大切な……違うわね——そう、くだらない理由ね」


 アレクシスはアッシュが必死に踠き抗う理由をエステルとは別——とも云えないが——のことに見出すと、心底呆れたように吐き捨て、階段下で硬直をしたミラへ一瞥くれ、そしてアッシュの苦悶の顔に戻した。



 ミラはその光景に一歩も動けないでいた。

 魔術を撃ち込めばアッシュへ直撃をするからだ。

 そして、シラク村で見せた術式を展開するには——あれは隙が大きすぎる。だからと云ってアレクシスの横を駆け抜け、その奥で穢される——おそらくエステルだろう——者を助けられるのかと云えば、きっと横切る際に胴を斬り裂かれお仕舞いだ。百の手を考えようが、それを千にしようが無駄なのだ。そんなにもあの吸血鬼に隙はない。だから今は、相棒が圧殺されぬよう<魔力の殻>を連続で展開をすることしか出来なかった。



 アッシュは心中で叫んだ。

 バーナーズの名を何度も何度もだ。

 幾ら深層へ意識を潜らせようが白狼の姿を見出すことはなかった。

 ただただ、渦巻く黒々と赤々としたうねりがそこにあるだけで、それはきっとアッシュの憤怒の念であり、もっとうろ暗い想いの濁流なのだ。それは路地裏でハーゼに追い詰められ、気を失い、覗いたあの深淵と一緒であった。

 濁流はどこまでも大きくうねり、形造る渦はゆっくりと動いた。だが、それは観測する位置の違い。近寄ればその激流に飲み込まれそうになる。

 呑まれてしまえば、もうエステルの名を叫ぶことも叶わない。ミラ一人を地下深く、獣の狩場へ置き去りにしてしまうこととなる。


 身体は金剛。

 心は刃。

 戦敗は己が信念を弱さが蝕む刻。

 ならば何処までも研ぎ澄ませよ心刃しんじんを。


 アッシュは呑まれぬよう心を研ぎ澄まし、渦の一糸々々を掻い潜ると遂に中央でを見出した。それがバーナーズであるのか、どうか。そこまで確実なではないが、アッシュはしかし、望みに賭け叫んだ。


 バーナーズ! バーナーズ! バーナーズ!

 アッシュは、アッシュ自身が与えた憤怒の名を叫んだ。

 だがしかし、そのは答える様子はなかった。


「あの女を助けたいのなら、云うことを聞きなさい」

 替わりに返ってきたのは、心底と不快な艶かしさをしたアレクシスの声であった。



 ※



 アッシュは身体を投げ飛ばされたのがわかった。

 祭壇へ設けられた白石の階段へ何度も何度も身体を打ちつけ、ミラに激突をするとようやく動きを止めた。鮮血を吐き出し頭を振ると、下敷きになってしまったミラに手を伸ばし「大丈夫、ミラ?」と呆然とした魔術師を引き起こした。

 だが、それも束の間、祭壇から駆け降りたアレクシスは、ようやく立ち上がったアッシュの鳩尾みぞおちへ渾身の一撃を放つと、こと更にアッシュを嘲るよう高笑いを挙げ、吹き飛ばされたアッシュとミラを追撃した。

 祭壇から更に遠ざかるよう——吹き飛ばされた二人は、なす術もなく青や緑に輝く岩場の上を転がり、石柱へ激突すると石粉を噴き上げボロのように力無く倒れた——ミラは機転をきかせ魔力を放出し、最後の激突では幾分か衝撃を和らげるのに成功をしたのだが、それでも脅威的な破壊力の前では無力だったと云ってよかった。

 この力の差はなんなの——ミラは片目をつむり、アレクシスをキッと睨みつけ「怪力色惚け婆なんて、はやらないよ……」などと強がってみせたが、とうとうもう片方の瞼も閉じてしまった。



 二人は満身創痍と身体を岩場に投げ出した。

 突然の猛攻に二人は手も足もでなかった。不意打ち。そうでなかったとしたら、二人は色欲の獣に太刀打ちができたのかと訊かれても、答えは否だ。

 それほどの力の差があったのだ。狩人であればこの差は埋まったのか? 

 外環の狩人とはそんなにも特別なのか。

 アッシュは不甲斐なさに唇を噛み切ってしまうことも忘れ歯を喰いしばった。わかっている。悔恨に自傷しようが、神はやってこない。全ては己が力の無さが招いた結果だということを。

 今では遠く離れた祭壇から歪に伸びた影が、メリッサが身体をもたげたことを知らせると、アッシュは背筋に寒気を覚え後ろ髪がピリピリとした。


 もうこれまでか。


 黒の魔導師は一度はゆらりと立ち上がったのだが、膝を折り緑や青の閃光がはしる岩肌へ両手を着くと大きく咳き込み大量に吐血をした。先ほどまで練り上げた魔力で内臓という内臓を保ったが限界がきた。修復は間に合わなく、恐らくは胃袋くらいは破裂をしたのであろう。喉を伝って出てくるものは血だけではなかった。

 生きているのが不思議なくらいである——もはや、アッシュ自身の力では無いようにも感じてしまう。もしそうであるならば、あと少し、あと少し力を貸してくれ。あの祭壇へ飛び込みメリッサを引き剥がすだけで良い。その力を——。アッシュは、農園からの記憶のなかで初めて何かに祈った。

 それが例え悪魔であっても良い。

 なんでも良い。

 幾らでも望むものをくれてやる。

 そう祈った。

「バーナーズ! バーナーズ! 力を貸してくれ! 僕の全てを持っていってくれ! だからだから……」



 アッシュは再び激しく吐血したが、ゆらりと立ち上がり、ゆらりと狩猟短剣を構えた。すでに短剣は魔導の加護を失い緑輝は煙たってはいない。そこへ魔力を注ぎ込むことも、ましてや武技幻装を纏わせることも叶わない。今のアッシュは紙切れよりも破れやすいだろう——だが、最後には刺し違えても良い。岩場に立つことを許した命の欠片でさえも火に焚べ魔力を振り絞る。その覚悟はできた——きっとエステルはそれを喜ばない。当たり前だ。ことある毎にエステルはアッシュへ自分のことを考えろと子供を諭すように云ったのだ。

 ああ、でもそれは守れそうにもない。

 そうだ——自分のことだけを考えようと毎回誓うが、その誓いは守られたことが無い。



 ふらりと、ぬらりと最後の力で立ち上がったアッシュをアレクシスは冷ややかに見下ろした。

 アッシュは短剣を構えたが、首は垂れ上半身を起こしておくのがやっとの様子でアレクシスに延髄を露わにしている。断頭台の死刑囚よろしくだ。赤の始祖はそこへ何度もエストックを突き刺しやろうと思うのだが、そうはしない。彼女もまた何かに縋るようで、なすべき事なのか叶えたい望みなのかがあるのだろう。

 アレクシスはだからなのか、声を細く云った——。


「宵闇の——いいえ、魔導師アッシュ・グラント。今のあなたでは私達に太刀打ちなんて出来やしない。まったくをもって美しくないわ。だって私達は、あなたの分身を基に魔女に造られた存在なのだそうよ——あの姑息なアイザックは魔女からそう聞いていると云っていたわ。だとするならば、不完全なあなたが私に勝てる道理は——」


 色欲の言葉の最中に金属が激しく火花を散らす激音が響いた。

 ほんの少しだ。

 呆れるよう、まばたきをすればこのザマだ。情なのか私欲をなのかを手負いの犬が、またぞろ牙を弱々しく始祖の頸を狙ったのだ。



 アッシュは持ちうる魔力を全て開放し狩猟短剣に流し込むとアレクシスの頸を狙い飛びかかったのだ。放出される魔力に翻弄されながらも身体を右に左に旋回し何度も何度も斬撃を撃ち込んだ。だが、いつの間にかに黒鋼の細身剣エストックを手にしたアレクシスは、その全てを撃ち落とした。

 そして最後の一撃をアレクシスは切っ先を下げアッシュの身体をかがめさせると、その刹那に手の甲で魔導師の頬を強く打ち据えた。


「力量も計れず、怯えた野良犬のように噛みついてきたところで——私の頸をとれるとでも思ったの? まったく美しくないわね。クレイトンで出会った魔術師の方がまだマシだったわよ、アッシュ・グラント。そうね——傲慢が云った『刻の歪み』は本当のようね。憤怒を呼び出せないのでしょ? あの身勝手な野良犬。主人の命を反故にして、とんでもない飼い犬……反吐がでるわ」



 頬と顎の間を強打されたアッシュは脳震盪を起こしたようすで、立ち上がれず吐血とも吐瀉物ともわからないものを吐き出し膝を丸め横たわった。

 ぼんやりとアレクシスの声を耳にしながら、向こうにミラが横たわるのがわかった。だが、どうすることも出来ない。もう立ち上がる力は身体中を探してもどこにも残ってはいなかった。


「ミラ……エステル……」アッシュは力なく二人の名を口した。そのうちに、遠くから岩場を踏みしだきゆっくりと歩く乾いた音が聞こえてきた。きっとアレクシスのものだろう。その音はアッシュの眼前で止まると、アレクシスの黒皮の長靴を見せた。


「ふん。こうなると無様なものね。私を愉しませた宵闇はどこへ行ったのかしら」

 色欲はそう云うと嘲笑しアッシュの顔面を長靴の底で捉え何度も揺さぶってみせた。


「ガライエでも、こんな風だったわね。皮肉ね。メリッサが云っていたわ。あなたが、あの時に倒れたのはアオイドスがあの娘を起こしたからだって。あの娘だって私達と同じ。あなたの分身を基に造られた存在。だから目覚める際にあなたに少なからず影響したのだそうよ。あら、そんな顔で見ないでくれる——」


 言葉なくアレクシスを鋭く睨んだアッシュ。

 アレクシスはそれに虫唾が走り「——不快だわ」エストックの切っ先をアッシュの腹へ突き立てたのだ。


「ぐああああ!」——アッシュの絶叫が大空洞に響わたった。きっとそれだけはメリッサの耳にも届いただろう。


 激痛が身体中を駆け巡るなかアッシュは、その内に意識をぼんやりとした。

 結局、この局面にバーナーズは応じることはなかった。心中に垣間見たうねりの中心で蹲ったは果たしてバーナーズだったのだろうか? ぼんやりとだが、何かもう一つの存在もあったように想った。だが、もうそんなことはどうでも良かった。腹に突き立てられた細身の黒鋼が抜かれると鮮血が溢れ出したのがわかった。何かに濡れるのを背中で感じるのだが、襲いくる寒気はまったくそれを暖かさだとは感じさせない。


 視界が更にぼやけた。

 そして、その白々とした視界の向こうで黒いものが蠢いた。きっとあれは、ミラが気付き起き上がったのだ。


「ミラ……逃げて……くれ」





「あ……アッシュ!」

 腹に黒鋼を突き立てられたアッシュがミラに何かを云ったように思えたが、その声は酷く儚く、酷く小さかった。

 だから何度も「なに!?」と今まさに両瞼を閉じたアッシュに届くよう声を張り上げたが、それは難しかった。ミラは愕然とし、何故気を失ったのだと自分を責めた。なんでもできるのではなかったのか。グラドにもアイシャにも、自分はもう子供ではないと、あんなに云ったのにだ。何故。何故——涙が溢れ、零れ頬へ涙痕を造った。


 ミラは泣きながら立ち上がると、魔術師の杖を——エストックを振り抜きアッシュの血を払ったアレクシスがゆっくりと歩いてくる姿へ突き出した。それは無謀な賭けであった。だが先程の無様な硬直よりも幾分かましだ。考え、手を止め、足を止めた先程よりはよっぽど、わたしの脳は働いている。ミラは、なりふり構わず魔力を練り出しながら術式の展開を始めた。

 すると、突き出した腕から顔に至るまで、青い繊条が浮かび上がった。

 足元から魔力が溢れ出ると、それは半円球に膨れ上がり幾つもの術式を浮かべ、やはりそこから青い繊条を伸ばしミラの身体——身体に浮かび上がった青い繊条へ接続をしたのだ。


 アレクシスは、それに目を見開いた。

 驚きでも、畏怖でもない。「ああ……そうね」と呆れたようにそうしたのだ。

 そして小さく笑うと云ったのだ。


「アッシュ・グラントを助け、あの赤髪の女を救う方法があるわ。嫉妬の小娘。どう? 思わず虫唾が走ってアッシュ・グラントを半殺しにしてしまったから、あなたへ頼みたいのだけれども」


 その言葉のどこに真実があるのだろうか?

 ミラはそれに「騙されないよ」と云うのだが、どう足掻いたところでアレクシスを屠ることも、逃れることも不可能だ。だが、ミラが構築した魔力の半円球を掻い潜ったアレクシスの表情が、どこか神妙に見えたミラは——だからというわけではないが「どうすれば良いの、おばさん?」と杖を下ろし魔力を霧散させた。


「お、おばさん? ……良いこと嫉妬の娘。ここから先は言葉に気を付けることね。いくら同族だと云っても容赦しないわよ」

 アレクシスは苛立ちを露わにエストックをミラに向け突き出したのだが、それ以上はなかった。ミラはそれに、恐らく色欲の獣にも、のっぴきならない事情があるのだろうと想像をした。


「わかったよ」ミラは素直に云った。きっとアレクシスがこの先、口にすることは真実だろう。でなければ、ミラは今頃エストックで串刺しにされている。


「良い子ね。賢い子は好きよ」

「ども……お……それで、どうすれば良いの?」


 アレクシスは遠く離れた祭壇を一瞥し、もう一度ミラへ赤黒の蛇目を向け目を細めた。

「時間がないわ。やることは簡単よ。あなたの持つ異世界の硝子玉を割りなさい」

「それはダメ! アオイドスが絶対に割っては駄目だって」

「つべこべ云わずに割りなさい! 時間がないのよ」

「なんで?」

「アイザックが云っていたわ。あの爺は知識をひけらかすときは嘘を云わない。その硝子玉へ封じられた記憶は別世界の断片だけれども、この世界と背中合わせのもの。だから多少の歪みが起こるけれども、それは聖霊達が世界のありように合わせ修正をする。そしてアッシュ・グラントは世界を造った王。そこに歪みは生じない。それであの男は本来の力を、過去に封じた自分の力も取り戻す。もっともあの爺は、その硝子玉の模造品を狩人から造り出そうとしていたから——話の半分は私の予測だけれども。それに、あなたも少なからず記憶を取り戻すはずよ」


 ミラは最後の言葉に心を揺さぶられた。

 アオイドスのことだ。

 聖霊ロアはアオイドスが母であるかどうかも確かめるのも自分の役割だと云った。それであれば……世界に理を与えるのも——ミラの選択でこの世界を変える事となるのか? 今その選択を迫られているのだろうか? 少女にこの選択はあまりにも重すぎた。

 だが——アオイドスはあの日ミラに云ったのだ。

 自分が想うままに生きなさいと。


「わかったよ」

 ミラは外套に手を滑り込ませローブの中に隠した硝子玉を取り出し頷いた。

 取り出した硝子玉は激しく青や緑に輝くと、中で無数の繊条を蠢かせバチバチと音を立てた。

 それにミラは小さな悲鳴を挙げたのだが、意を決したのか表情を引き締めると「割るよ!」と強く硝子玉を岩場へ叩きつけたのだ。するとどうだろう。ほんの一瞬だった。あたりがパッと輝くと——ミラの瞳から輝きが消えパタリと倒れてしまったのだ。アレクシスは、それに駆け寄るとミラが倒れ切る寸前に抱きかかえ、ゆっくりと寝かせてやった。


「これで……私の魔女は……」

 アレクシシはそこで言葉を落とした——背後に気配を感じたのだ。


「これで? どうなると云うのアレクシス?」

 気配の主人は——白銀の魔女、メリッサであった。

 ゆっくりとアレクシスは——恐る恐ると振り返り、メリッサの姿を目にした。

 今ではすっかりと純白の外套を着込んだメリッサがそこへ静かに佇んでいるのがわかった。

 冷ややかな瞳。

 凍りついたような表情。

 それがアレクシスに向けられたものであった。


「メ、メリッサ——儀式は……」

「失敗よ。惚けないで。早くしないとお父様が来てしまうというのに。どうしてこんなことをしたの?」

「そ、それは……」

「ほら、聖霊もやってくる……あれは私の云うことをきかない悪い子なのよ。知っているでしょ?」


 メリッサは頭上へ広がる暗闇へ目を向けた。

 暗闇の天井の向こうから祭壇を下る赤黒の繊条は地に交わると青や緑の繊条へ姿を変え岩場を這い回る。まるで、その事象は命を削り魔力を練り上げ魔術の青、魔導の緑へ錬成をする過程のように見える。ああ、にべもなく云えば世界は生きており人間はそれを喰らい尽くすように魔力を得るのだとメリッサは思う。それは一方通行の搾取。循環を円環を謳う魔術師ども魔導師どもは、お世辞にも体現をするようには思えない——湧き出るものは必ず枯渇するのだ。


 しばらくそうしたメリッサはゆっくりと、かぶりを戻すとアレクシスへ冷ややかな笑いを向け——平手でアレクシスの右頬を打ち据えた。

 色欲の獣は苦痛の声を挙げることもなく俯きその場へ跪くと「ごめんなさいメリッサ」と小さく口にしたのだが、どこかそれは満ち足りているようでメリッサの耳には不愉快に届いた。だからメリッサは片眉を吊り上げもう一度アレクシスを——今度は左頬を打ち据え「我儘な子」と呆れ口調に罵った。


 白銀の魔女は、アレクシスとその傍らに寝転がったミラを一瞥すると「痛ッ!」と頭を抱え「急がないと……」と足速に今度は向こうで血の海に横たわったアッシュの元へ駆け寄った。メリッサは白の外套が赤黒く染まることも気にせず跪くと、アッシュの外套と着込んだ装備を引き裂き顕になった胸へ掌をあてがった。


「もう失敗はさせない——全てを見せてあげる。少し早いけれどね」


 メリッサはそう云うと、あてがった掌が少しばかり汗ばんだのに気がついた。

 緊張をしている——それがわかった。

 だがしかし、躊躇する暇はどうも残されているようには思えない。メリッサはそう心に言いきかせると、静かに目を瞑った。





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