パラパラ漫画をご存知でしょうか?
そうです。今では勿体無く、そんなことはしないでしょうが、「ノート」や「本」の端へ描いた絵を連続でめくり楽しむアレです。それが基本原理です。
ですが、そこに描かれた絵を書き換えることは難しい。この世界には描かれた絵を消す「消しゴム」が存在しないからです。描く事とは生きること。その軌跡。それを消すことはできないのです——。
皆さんには今一度考えてみて欲しいのです。
世界の成り立ちが。在り方が。個々の意志に選ばれ結ばれた事象——その集まりであるとするならば。そうです。似ていますね。それはまるで人間の脳のようであり、原子分子の繋がり、素粒子の繋がり、それを模倣したデータの集まり。ブロックチェーン。一つ一つのデータだけでは意味を成さないが結ばれ繋がりを持つと意味を成す。その意味を必要とする規模が大きければ大きいほど、その塊の規模も大きくなります。と、話がそれましたね。
扱いが「結びつける」ということであれば、少し簡単になったとは思いませんか? そうですね。常に最善を選択し結ぶことができれば良いのです。
ですが、ここで解決ができない問題があります。遡行しようと思うのであれば、それを逆にめくらなければなりません。するとどうでしょう。「ノート」の裏には何も描かれていない。薄らと表に描かれたものが透けて見えるだけですね。そこに何が描かれているのか。それを知る人であれば見当もつくのでしょうが、知らない人が見たのならば、それが何か判別は困難というわけです。
ここで仮説検証しなければならないのは二つ——もっとも思考検証ですが。
そもそも「ノート」を逆にめくれるのか?
もしめくれるのであれば、表に戻る方法はあるのか?
更にここで一つ根本的な疑問が生じます。それでは、その個々の「ノート」は誰が造ったのか? 「ノート」を人が造ることができるのか? 「ノート」と「ノート」を結んだ時、それは「本」として機能をするのか? それは神のみぞ知る。と云ったところでしょうが、その神ですら……と、それは「神学」の先生にお任せしましょうか。
私たちはあくまでも——学者であり技術者であり、生徒なのですから。
ああ、そうそう随分と前に提唱された「エントロピーの減衰」による時間逆行ですが、結局は「悪魔の存在は未だ未知のまま」であることと、付け加え我々生命体はエントロピーの増大を「生活」をすることで「死」という結果にたどり着くまでの時間を稼ぐ、つまり時間を「抑える」行為を自然とおこなっている。と、いうことをお伝えしておきます。
これが「ノート」をめくる行為に類するかは……。
——とある大学の、とある講義の録音より。
※
「ご主人さま! 聞こえていますか?」
「あ、ごめん。大丈夫、聞こえているよ。それでなんだっけ?」
僕はこの殺伐とした空間のなか、ふわりと身体を逆さまにしたまま、まるで晒し者のようで——まずは、この状態をどうにかして欲しいから「ロア、この……逆さなのどうにかならない?」と尋ねたのだ。するとどうだろう。ブロンドを二本に結んだ聖霊ロアは訝しげな顔で「私の名前を?」と逆に訊ね返してくる始末だ。
何か不味いことを訊ねてしまったから、機嫌を悪くしたのだろうか。両手を腰にあて両頬を膨らませているから、当たらず遠からずといったところだろう。
「まあ良いです。早く、あのゲスいのに名前を与えて縛ってください、じゃないとダフロイトを中心にリードランが壊れてしまいますよ? 最悪はウェッジプロセッサからこちらの情報が流れ出てしまうかも知れません。私達は現実世界のことはわかりませんから、その影響がどれほどになるか……」
ロアはそう云って僕のことを凄い剣幕で捲し立てると何かを指差した。彼女が指差した先は殺伐とした灰色の海原、鈍色の雲海、その間を揺蕩う万物の情報。そして寝転がった「僕」と「僕」に喰らいついた得体の知れない蛹のような
「あれは、バーナーズ?」
「はい? 名前が決まってるならさっさとして下さいよ」
「あ、いや。でもアレは...」
「そうですよ。希次さんのPODSをメリッサが引っ張り出して……」
「ポッ……? マレツグ?」
「あー、もう。ややこしく繋がってしまっていますね。まさかとは思いますがミラがウェッジ鉱石のインスタンスを割りましたかね?」
「んー……」
何を云われ、何をそんなに苛々とされているのか皆目見当のつかない僕は少々唸った後に「ごめん、多分そう……」と苦笑いをしてみせた。ロアはと云えば、それに更に苛々としたのか、右の瞳に奇怪な文字を激しく激しく走らせた。なんとなくだったけれども、それは怒っているのだろうと感じて仕方がない。
だからきっと、この逆さの状態を戻してくれる素振りは一向に見せてくれはしないのだろうな。と、半ば諦めていた。
「わかりました。大丈夫です。なんと云っても私、ご主人様の優秀な助手なのでなんとかします。ので、あのキモい奴の中に潜ってパスを繋いで来てください。いいですか? 中で見るものは全部『記録』です。なので混乱をしないように。その中に紛れ込んだ、メリッサが流し込んだ『別の記録』を見つけて、ふんじばって下さいね。希次さんはもう亡くなっているので、ご主人様の記憶を媒介に潜って貰います。いいですね?」
良く無いですよね? なんと云っても訳がわからない。僕はそんな風にロアへやり返そうと思ったのだが、どうやらそれは手遅れだったようだ。「ちょっと……」と云いかけた途端に目の前が暗転し鼻の奥がツンとした。まるで不用心に水の中へ落とされたような、さもなければ大波にのまれグルグルと揉まれた時のような感覚に襲われた。
※
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「この耳の長い人は?」
「それはエルフだね」
「じゃあ、この太っちょのオジさんは?」
「それはドワーフ。それでその横に並んでいる小さな子がホビット。前に読んだ物語にも出てきただろ? お父さんはあのお話が好きなんだ」
視界の暗転から戻ってくれば、僕は革張りのソファーに腰をかけ本を開いていた。
そこは濃茶色のフローリングで設られたリビングで、やはり濃色の木で造られた家財道具がコーディネートされている。家財道具——ディスプレイの置かれたサイドボードや食卓に椅子——は直線的で質素でどこかシュッとした印象も受けるのだけれども暖かい。きっとそれは、選んだ材質の色がそんな印象を与えてくれるのだ。
気がつけば僕はソファーで足をぶらぶらさせ、本を読んでいるようだ。
ようだ。と云うのは、足をぶらぶらとさせた本人の視覚を通じて外を見るが、向かいの椅子で淹れたてのコーヒーを啜る眼鏡の男と実際に話ているのは、足をぶらぶらとさせた本人のようだからだ。
つまり、これは小さな頃の僕の視界を通じ、コーヒーを啜る男の感情を、記憶を、追体験しているようなのだ。
そして僕は続けた——。
「うん。僕も好きだよ。でもね——」
「ん?」
「なんで偉い人達は頑張らないで、あんなに小さな人達を襲ったりもしたんだろう?」
「ああ、
僕の突飛な質問へ、男性は黒髪を軽く掻くと最初は困った顔で答えはじめたが、最後には優しく笑っていた。きっと僕が軽快に「うんうん」と相槌を打っているのに気を良くしたのだろう。その相槌が小さな僕のものなのか、今の僕のなのかは……少々その境界が混じりあっているような気もしたが、兎に角そうだった。
「そうなんだね」
僕はそう云うと、手に持った大きな本——身体の割には大きな——を掲げて表紙をみたり裏表紙をみたりをした。
「ああ、そうさ。タブレットには入っているんだろ?」
「うん。大丈夫——ねえお父さん」
「ん?」
「僕に意地悪する子も、そういうお話の人に似ているね?」
本をソファーに丁寧に置くと僕はそう云った。どうやら、この僕は過日に何か意地悪をされたのだ。きっとそれは同級生からなのか、そこはかとなく感じるのは上級生から生意気だと意地悪をされたのだろう。
これにもまた、男性は困った顔をして答えたが、先ほどのようではなく至って真剣で僕を悟すようにだ。眼鏡をクイっと指で持ち上げ位置を整えた。
「あーなんだ。昨日のことか。そうだね。見かたを変えてごらん。もし無人がその子達よりも強くなろうと思うなら、それは無人のお話だよ。見かたを変えて繋げていくと、また違ったお話になるんだ」
男はもう一度、眼鏡を触り僕の顔色を伺うと軽くかぶりを縦に振ると話を続けた。
「点をつなげていくんだ。いいかい? 強くなるためにはどうすれば良いか? それはお父さんが教えてあげる。でもそれは、ただ強くなるための方法だ。つまり、それが点。弱い人を虐めては駄目だ。これもお父さんが教えたね。これも点だ。その点を結んだ時に、それじゃあ弱い人が虐められているのを見たらどうすれば良いかわかるね? そう。護ってあげなければいけないね。そうだ。そうやって学んだ点を繋ぎ合わせて行けば、無人のお話は段々と形作られていく。もっと云うと、どんな風に繋げて行きたいかを想像するのも良いね。つまり、それは夢だったり目標だ」
そこで、父さんはコーヒーを啜って僕の顔色を再び伺った。
どうも僕は目を点にしているようだ。
それに父さんは「ははは」と笑うと僕の横に腰をかけ、タブレットを開いてみせると画面いっぱいに夜空の星座を映し出した。
「星座ってあるだろ?」
「うん」
「大昔のひとは星を点に例えて、それを線で結んで夜空に沢山の動物を見つけ出して、それに意味を持たせたんだ。それと一緒かな。いろんな点で結ばれた『本当に強い
「ふーん」
「なんだ、興味無さそうだな」
「ううん。でもちょっと難しい」
「そうか」
「そうだよ」
ほんの少しだけ困った顔をした僕に父さんは「そうかそうか、もう少し大きくなったら、またこの話はしよう」と僕の黒髪を撫でつけ大きく笑ってみせ「それで……」と言葉を続けると「
「だったら僕はお父さんが好きなお話の世界がいいなー」
「なんで、また?」
「だって、お父さんみたいな魔法使いなったら強いでしょ?」
「ああ。なるほどね。でもね無人。お父さんは魔法使いじゃないよ。プログラマーだ。それに強くないよ」
「だって、みんなお父さんの云うことを聞くでしょ?」
「それは違うんだ無人。そうすればお父さんが何でもすると分かっているから、そうするんだ」
「そうなんだ」
「ああ、多分そう」
「多分?」
「少なくとも母さんは別だよ」
「そっか」
「ああ——お父さんは強くなんてないんだ」
父さんの最後の言葉は掠れて消えてしまうようだった。
それがこの記憶の旅の転換点だったからなのかはわからない。でもこの言葉を最後に、僕の目の前に展開された像は、引き伸ばされた絵画のように姿を変えると濁流を成し流れ去って行く。濁流は激しく気を緩めれば、すぐにでも呑み込まれてしまいそうであったが、不思議と馴れてくれば、それが何かを認識することができるようにななった。
それは僕を取り巻く様々な事象の繋がりであった。
そして、それは不意にスピードを緩めまた僕に新たな映像を観せた。
※
「行くぞ、
母さんが死去して暫く塞ぎ込んでいた父さんが、ある日そう云って僕を職場に連れて行くようになったのだ。そのきっかけは四十九日が終わる頃に届いた母さんからのビデオレターだった。
父さんはそのビデオレターを見た途端、何かのスイッチが入ったのだ。
決してそれを僕には見せてくれなかったから分からないが、兎に角それを観てからは別人のようになった。
しばらく出勤していなかった会社にはリモートワークを申請をしていて、来る日も来る日も書斎に引き篭もった。場所が厨子の前から書斎に変わっただけかとも思ったが、それは見当違いだった。
父さんは、12pxの英数字で巧みに呪文を画面に書き殴りながら、母さんとの思い出の写真に動画、フォロワーは父さんだけという奇妙なSNSアカウントのテキスト、ありとあらゆる母さんを示すログともいえるデジタルデータを整理しクラウドストレージへ保存していたのだ。
ある日珍しく、父さんの声が書斎から漏れてきたと思うと、それは母さんの実家に電話をしている声で、卒業文集に小中高の成績表、大学の卒業論文——母さんは物理学を専攻していたそうだ——に、大学院の産学連携の実績リポートなどデジタルデータになっていなかったものを取り寄せていたのだ。
これはこれで、別人のようになった——あからさまに、ぶっきらぼうとなった——父さんの交渉術では一悶着あったようで、それ以来向こうから連絡が来る事はなくなった。
それからというもの、父さんは炊事もするようになり、生前に母さんが得意にしていたロールキャベツやエビが沢山入ったパエリア、和食で云えば絶妙な出汁加減の肉じゃがなどを食卓へ並べるようになった。
それまでデリバリーの空箱置き場となった食卓は綺麗に片付けられ、母さんが大事にしていた陶磁の食器が几帳面にセットされる場として復活したのだ。
そんな日々のなか、父さんは毎日着ていた白いキャンバス地のTシャツにナイロンの短パンから、厚手の白いボタンダウンにリラックスフィットのデニムを合わせて出かける用意をした。僕にも着替えるようにいうと、それとは別に数日分の着替えと、その頃は小学校も夏休みだったから、宿題をするためのタブレットとノートパソコンをお気に入りのイーグルクリークのボストンに無造作に突っ込むと「行くぞ、
※
暑い日差しのなか、二人で似たようなモデルの白いスウォッシュを踏み鳴らし、石川台の住宅地域と商業地域を隔てる呑み川を渡った二人は、ちょっとした小坂を登って、一世紀ほど変わりのない三両編成の池上線、石川台駅に到着した。
「お父さん、どこにいくの?」
父さんの腰ほどまでの背しかなかった僕は、ゴツゴツした掌をギュっと握りながら、夏の日差しに、薄暗く映る父さんの顔を見上げていた。
少し不安だったのだ。
電車に乗って行ったことがあるのは、母さんと遠足の準備をするのに行った蒲田くらいのものだったから、五反田方面にいくことはなかった。友達の電車好きの奴らはせっせと山手線を乗り継いで上野に行ったりしているようだが、内気だった僕にはそんな大胆な冒険に出る甲斐性はまったく無かった。近所のスーパーにおやつを買いにいくのがせいぜいだ。
母さんが——。
父さんが券売機で小人切符を買い——この頃ではまだ電子決済の術を僕は持てない年齢だったから仕方がない——僕に手渡しながら云った。
「
「いいの? 迷惑じゃない?」
「迷惑? そんなはずないだろう。葵ちゃんちにも云っておいたよ」父さんが僕の小さな掌をギュッと握り締めた。
夏の日差しの中、赤銅色の線路から立ち昇る熱気がゆらゆらと陽炎を作っている。遠くで鳴く蝉の声が二人の間に流れる無言の時間を埋めた。それは握り締められた掌が言葉少ない父さんの気持ちを伝えるひとときだった。
蝉の声に混じり、カンカンカンと踏切の降りる合図が鳴り響く。
——五反田方面行きが到着します。黄色い線の内側に云々。
鉄道所員独特の伝統的なこぶしまわしでアナウンスがされた。
銀色に鈍く光る車両が滑らかにホームに滑り込んでくる。
ホームの向こうでは蒲田方面の車両を待つ人々が、影の中に佇みで暑季の日差しを避けている。この暑さでもスーツを着込んだホワイトカラーに、季節休暇を謳歌する小学生に、大学生に高校生。
その中に一際目立つ白のワンピースの女性——綺麗な銀髪の——を見つけた僕は、彼女に目を奪われていた。父さんの手を強く握り、その拘束から逃れようとする。しかし、彼女の蒼い瞳から目を離すことが、どうしてもできなかった。
銀色の車両の頭が短いホームに差し掛かり、そして、彼女の姿を掻き消した。
僕の目の前に写し出されたのは、陽炎と池上線の銀の車両だけとなった。
「六本木だ」
「え?」
「六本木まで行くぞ」
「うん」僕は小さく頷き呟いた。
よし——と云った父さんが僕の肩に手を回して乱暴に引き寄せた。
「大丈夫か?」
「うん」
ゆっくりとホームに到着した列車の扉が開くと、中から心地良い冷気が流れ出し、早く中に乗り込みたいという衝動にかられた。暑さから逃れるため。それもあったが、どうしてもあの白の彼女の姿を確かめたかったのだ。
だから車両の扉が開くと、颯爽と乗り込もうとしたが、降りる人が先だと父さんが云って僕の手を引いた。
「そうなの?」
「そうだ。乗り込む人が先に雪崩れ込んだら降りる人とぶつかってしまうだろ?」
「そうだね。分かったよ」
なんだか、そういうのがこの時はすごく新鮮だった。それもあって、僕はそんな父さんの教えをしっかりと聞き、それに従った。
池上線が出発する。
もう、向こうのホームに彼女の姿はなかった。
五反田方面に走り出した池上線は洗足池の谷合に生茂る草花を脇目に通り抜け、長原のトンネルを越え、旗の台、荏原中延、戸越銀座、大崎広小路と短い道程を経て五反田に到着した。
タタンタタンタタンタタンと三両編成が刻むリズムが心地良く、いつの間にか父さんの膝で眠ってしまっていた。
僕は五反田につくと肩を揺らされ目を覚ました。
「もう少し頑張れるか?」
「うん。大丈夫」
自分のバックパックを背負った僕は、父さんの手をギュッと握り五反田の乗り換え改札をくぐって行った。
※
父さんの職場で季節休暇を過ごすことになった僕は、大きな建物の中にある宿泊施設の一室を与えられそこで生活を送った。しかし、ほとんどの時間は父さんの仕事場に赴き仕事へ没頭する父さんの背中を眺めて過ごした。
父さんは僕に何を云うわけでもなく、ただその場に僕を座らせ、予定通りに宿題を済ませたら好きに過ごせと云うだけだ。
だから僕はその日に済ませる宿題を終わらせると父さんの座るアーロンチェアの後ろからディスプレイを覗き込むのが日課となった。
画面には英数字が、お行儀よく並んでおり、三分割されたエディターにはそれぞれ書式の違う——といっても見た感じのニュアンスだったが——言葉が書かれていた。
エディターの横に表示された画面には、青い線で描かれた雲丹のような線図が上を向いたり下を向いたり、ぐるりと回ったりしながら表示されている。そしてその画面の下辺には小さく英語で文字が表示されていた。
——Mistress_Nogi と。
「気になるか?」父さんは、覗き込む僕を見るわけでもなくボソっとそう云った。
「うん」
父さんは頷いた僕を膝に乗せると、ブラウザを開き色々な文献を呼び出しながら、自分の仕事のことを語り始めた——父さんが語ったのは途方もない話だった。
僕が産まれる前に世界を襲ったパンデミック。
それ以降、世界は動乱の時代を迎え遂には人が人を作り変え使役する最悪の兵器が産み出された。その産みの親となった
これを境に世界は大規模な異常気象に見舞われるようになる。
以降、終息を迎えつつあったパンデミックは新たな形で世界を襲い、日本では第二十一波感染拡大期を迎えた。
世界でも、日本でも屋外での労働時間に規制がかかり、且つ密集しての労働が禁止されるようになった。これに大きな打撃を被ったのは、ゼネコン各社にJRT。そしてNIPPOを筆頭とした道路網関連企業各社だった。労働時間の確保もさることながら、従事するアウトソース先の激減、業界のパラダイムシフトによる知的産業への傾倒と出資が相次ぎ、日本の特に交通網整備は慢性的な人手不足が続くようになった。
そこで期待されたのが、AI産業とロボティクス産業だ。
父さんは、この二つの産業を組み合わせ、自身が掲げた超人工知能理論に基づきソリューションパッケージを創り出した。それが、超人工知能を搭載したチェンバーズと運用プログラムだった。所謂、自分で考え学び成長するチェンバーズと、それを各種産業に特化したプログラムで人間がリモートで指示をするというものだ。
例えば、これによりタクシー業界はドライバーは複数台の車両を管理運用し、自宅からドライバーチェンバーズへ運行プログラムで指示をするだけでよくなる。
都合のいい話で——と、父さんが<チェンバーズ>の記事を閉じ、僕を膝から降ろしながら云った。
「人工知能やロボティクス、バイオスキンなんかには大きな予算を割かなかった国が突然、お父さんに声をかけてきたんだ。そして、お金は幾らでも使っていいから<チェンバーズ>で労働力の確保をしろって。国として支援させてくれって」
ちょっと話が難しかったな——父さんはそう云って降ろした僕の頭を乱暴に撫でてから、一冊の本を手渡した。興味があればこれを読んでみなさいと。渡されたのは、書籍ではなくて書籍のようにまとめられた父さんの研究日誌だった。
デジタルネイティブ、それもだいぶ世代を重ねた僕にはこういった紙の媒体は非常に高級品だったから、嬉しくなりパラパラとめくってなかの様子を伺った。
しかし、僕は目をしかめ小さく聞こえないように溜息をついた。
そこにあったのはお世辞にも綺麗とはいえないミミズが這ったような文字達で、拾えるものなら拾ってみろと、ノートのほうぼうに意味を散らかしながら誌面を埋め尽くしていたからだ。
しかし、よくよく見てみると暫く時間が経ってからなのだろうか、そのミミズ達に小さな名札をつけ、意味を拾う手段を丁寧に付け加えた痕跡があった。
きっと僕に読ませるため読みにくい文字を拾い上げて書き直したのだと思う。それは点。僕が点を結べるようにとの配慮だったのだろう。
それからというもの、僕は父さんの背中を見る毎日のなかに、研究日誌を読みすすめる予定を書き加えて暑季を過ごした。それは思ったほど寂しいものではなくて、これまで知らなかった父さんを知る切っ掛けでもあった。僕は書き綴られたプログラムや機械工学の話にも興味があったが、父さんが何を考えていたのかを想像するのが楽しく、ほぼ毎日、父さんにこの日のアレはどうだったのかなどと僕の推測の答え合わせに付き合わせたのだ。
暑い日差しのなか足を伸ばして西郷山公園に父さんを連れ出し、そこで話をしたり、父さんが毎日決まった時間にでかける散歩についていき、アイスキャンディーを二人で食べながら答え合わせをしたりした。
その思い出は、それまでの人生で一番父さんと話をした時間だった。
※
——ジジジジ。
ひぐらしが長い昼の終わりを告げる頃には橙色と藍色のグラデーションに街が溶け込んで夜の帳を迎える。
突然、
なぜだろう。
父親譲りの双眸から涙をこぼしていた。
父さんの職場で目にした画面のことを思い出したのだ。唐突にだ。
あれは——きっと母さんの事を示していたはずだ。
ここに至るまでの記憶の中、父さんの愛情に触れたと思いもしたが、違うのだ。父さんは——母さんも僕に嘘をついていた。
胸の奥が息苦しくなり目眩を覚えた。
——ジジジジ。
不快な雑音と共に、凛とした声が僕の耳に届いた気がした。
名前を呼ばれたようだ。
それにハッとした僕は振り返る。
はたして、そこに佇んだのは駅で見かけた白い彼女だった。
膝下でワンピースの裾を揺らしゆっくりと僕に向かって脚を運ぶ彼女は、とても寂しそうな顔をしていた。
気がつくと僕らは、自宅のリビングへ戻っていた。
女性の声が廊下の向こうから微かに聞こえる。
それは目の前に立つ彼女のものではなく、心の片隅に懐かしさを感じる声であった。
すると、白の彼女はスッと僕の横に立ち身体を寄せ、そして俯き話し始めた。
「あなたが感じた愛情は歪んでいたの。子供を犠牲にしていると分かっていても、あなたのお父様は意思を貫いて理想を現実にするべく進んだの。自分だけの理想、自分だけの探究、世界なんてどうだって良い、ただただそれは自分にだけ向けられた欲求。他人に掠め取られるわけには行かない自尊心。それを守るためだけにあなたを利用したの。だから、あなたに愛情を向ける振りをしたの」
黙って口上を聞く僕に一瞥をくれた彼女は、一拍置いてまた口を開いた。
「私のお父様も、あなたのお父様と一緒。世界の謎を解き明かす。お父様は、ただその一点にのみ心血を注いでいたの。世界情勢なんてどうだってよくて世界を構成する何もかもを知りたい、ただそれだけの為に家族を犠牲にしたの。最初はお母様が犠牲になったわ。次は私。お父様は必要だから私に愛情を注いだけれど、ただ、それはいつしか歪んだものになったの」
それって——僕は恐る恐る彼女へ声をかけた。
「ええ、お母様を失って、愛情に飢えたお父様は私を穢したのよ。毎晩毎晩、それは私の為なのだと云って——」
「え?」
「そうよね、驚くわよね。私はお父様に犯され続けたの。病に伏せ、あまつさえ自分を保つのに幾つものケーブルを脊髄に突き刺さなければいけない娘を、あの男は犯し続けたの」
返す言葉が見つからなかった。
俯き肩を揺らす白い彼女の吐露は、嘘を云っているようには聞こえなかった。声を震わせ、云いたくもない言葉を僕に伝える為、血が滲むほど唇を噛んだ瞬間もあった。
僕は僕の記憶の隙間を埋める為にここへ居る。
しかし、彼女の吐露はいちいち僕の心を抉り、そして彼女が滑り込む隙間を穿った。それを受け止め理解を示せるほど僕に心のゆとりはない。ならばそれを無視するしかなかったのだが、何故か良心の呵責を覚えそれができない。
きっと冷静に聞けば、彼女のそれと僕のそれは似ているということは無いのだ。理屈ではそれは分かっている。でも、それでも理屈とは別のところで感情を揺さぶられ、彼女の言葉に寄り添って同調してしまいそうになる。
「ねえ、
僕はその呼びかけに応えられなかった。
今にも心が壊れてしまいそうで、それに応えてしまえばきっと彼女の前で膝を折る事になる。
「あなたさえ、頷いてくれれば、あなたの境遇だって私の境遇だって変えられる。世界はこんなにも私達に冷たいわ。両親を選んで生まれることもできない私達だったけれど、でも、私達は世界を変えられるの。自分の理想に合わせて」
彼女は巧みに心に擦り寄り、寄り添いながら僕の心を穿ち傷をつけ、しれっと自身の気持ちで傷を埋めるように装うのだ。そして、その傷はいつの間にか僕の膝を折る切れ目となって、そうさせようとするのだ。
そうであるのならば——。
「違うよ」僕は白い彼女の濡れた目をしっかりと捉えてそう云った。
「何が違うの?」
「君が云っていることは、君だけが救われるということではないの? 君が酷い思いをしてきたことも分かるけれど、それでも君だけが救われる望みに僕は頷くことはできないよ」
「あなただって救われるわ」
「いいや、そういうことを言っているんじゃないんだ」
「じゃあ何?」
「僕ら以外の人達はどうなるの? 今、幸せな人生を送っている人達は? これから幸せになろうと頑張っている人達は?」
「それがなんだというの?」
「なんだって?」
「だから、それがなんだと 云っているの。だってそうでしょ? 私は最初からそうだったわけじゃないの。何度も何度も助けを求めたけれども、誰もそれを聞いてくれはしなかった。私に与えられた自由は、鳥籠の中から外を眺めることだけ。お母様が私の目の前で炎に包まれて死んでしまってから、お父様も私も狂ってしまった。だからよ——」
白い彼女は僕の胸に飛び込んで、そして嗚咽を漏らした。
何度も何度も僕の胸を小さな拳で打ち付け、言葉にならない言葉を漏らした。
狂ってしまったの。何もかも。何度も何度もこれの繰り返し。何回やり直してもこれの繰り返しなの。私の人生は何度も土足で蹂躙され、その記憶は可能性の数だけわかってしまう。知りたくもない、思い出したくもない自分の過去も未来も経験してしまう。
だから——。
「お願いだから、あなたの世界に私を連れて行って。もうこんな狂った輪廻の世界から解放して欲しいの」
彼女はそう言葉を終わらせ、力なく膝を折り何をはばかるわけでもなく咽び泣いた。
彼女の冷たい涙を感じる。
僕は彼女の独白に圧倒され、声をかけることさえできなかった。
彼女の云っていることの全てが理解できなかったが、それでも切羽詰まった一人の少女が助けを求めている姿は痛ましく、僕の感情を揺さぶった。
だから僕もゆっくりとその場へ膝を折り、彼女の細い身体を両腕で優しく包み込んだ。どんな言葉をかければ良いのか。彼女が口にしたことの何に理解を示せば彼女は安心するのか。そんなことは分からなかった。
だから僕はただ黙って彼女を包みこむことしかできなかった。
すると再び記憶の濁流が押し寄せ流れ始めたのだ。