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Connected-brane_B:僕と父と世界が始まる場所




 乃木無人なきと——もしくは、アッシュ・グラント。

 それと思しき存在は、記憶の旅で聖霊ロアが云った「記録」を間近に傍観したのであった。それは、断片的な想いの塊でもあったし、連綿と続く生命の唄のようであったし、もしくは造られた物語のようであるのだが、恣意的に実感を伴うと、ああ、これは自分の記憶の断片なのだと、そこはかとなく想いもした。

 だが、実際のところ真実であるのか、その判断はできていない。


 圧縮された時間の奔流は、眼前を流れ行く想いの帯は、どこか他人行儀でもあったし、自分の記憶だと腹落ちするまでには至らなかったと云ってよい。いうなれば、そう理解をした。と、どこか客観的な感覚が付きまとうのだ。

 夢を見た。そう言い換えても良いのかも知れない。


 そして、そんな不安定さへつけこむ白銀の魔女——メリッサ・アーカムと思しき何かは、人の気持ちを弄ぶよう同情を誘う言葉や想いを挿しこむと、どうにかしてアッシュの気持ちを昏倒させようとやっきになった。

 だが、それは記憶の濁流の中心とも外側とのわからない暗闇から響いた、大聖堂の大鐘の声音によって振り払われ、乃木無人はそちらへ目を向けたのだ。

 濁流はそれに最初は流れを強く激しく速くしたが、そのうちに、ゆるくゆるくと全ての感覚をどこまでも伸びていくパン生地のように広げると、アッシュへ次の光景を見せたのだ。


 アッシュは激しい身体の揺れに酔いのようなものを感じたが、開けた光景へ足をつくと、すっかりと気分が落ちつき「ふぅ」と小さくため息をついた。だが、それも束の間、見慣れない光景へ目を丸くし、ぼさぼさの黒髪をガシガシと掻くと「今度はなんだ」と不満の声をあげたのだ。


 眼前に広がったのは、どこまでも広がる鈍色の雲に覆い尽くされた大空と、それを映し出した灰色の海原。水平線なのか地平線なのか。それは雲と交わるとアッシュの世界を、ぐるりと一巻きする暗い線で円環の世界の様相をみせた。

 アッシュは何度か足元を確かめるよう海原を踏みしだいてみる。

 革長靴の裏に感じるのは固く踏み固められた地であるが、どうにもそれは海原なのである。足を踏み鳴らせばパシャパシャと音をたて水飛沫もあげた。足元を覗き込めば、その先は深海のようで藍色から黒へ段々と景色を変えていくのがわかる。でも足裏には確かな地の感触が伝わる。不思議な光景だった。


 アッシュが覗き込んだ海原へ視点を合わせると、そこには鏡像の自分が映し出された——ぼさぼさの黒髪に、変哲のない顔の奥二重の双眸、そこに浮かんだ黒瞳。その結果は勿論のこと承知をしている。だが何か違和感を感じ、視点を海原の底へ向けを霞んでぼやけた像と、あやふやにしてみる。


 アッシュはそれに「これは誰だ?」と頸を傾げた。


 では、アッシュ・グラントとは誰なのか? 

 記憶が混濁し、アッシュはかぶりを激しく振ると、それに想いを馳せることをやめた。このまま思考をつないでいってしまえば、どこかで自分が自分でなくなってしまうのではないか? そんなふうな危機感を覚えたからだ。

 だから、できるだけアッシュはここまでの道程を客観的に整理をするよう、殺風景をゆっくりと歩きまわった。最後に行き着くのはどうしても、自分が何か? ではアッシュとは? と根源的な問いなのだが、その一歩手前で考えを振り返り根源に触れることを避けた。


 そして、フと思い出したのだ。


「早く、あのゲスいのに名前を与えて縛ってください、じゃないとダフロイトを中心にリードランが壊れてしまいますよ?」


 そうだった。

 聖霊ロアに云われ、へ名前を付けろと乱暴にこの記憶の旅へ投げ出されたのだ。いや、あるいは白銀の魔女が仕組んだ旅だったのかもしれないが、それは、今はどうでも良い。アッシュはそう想うと、その何かを探そうと意識を集中した。


 朧げで前後は皆目見当が付かないが、アッシュは危機的状況に置かれていることを胸の片隅に想い出し、その一つは世界の終焉にまつわること、一つは愛する人を——エステルを助けなければならないと、これまでのフワッとした気持ちを固くした。


 そのどちらにも関わる

 そうだ——それを見出さなければならない。



「誰か居ないの?」


 聖霊ロアの云ったを導き想いだそうとした刹那、小さく不安に怯えた少女の声がアッシュの耳へ届いた。どこか遠くに聞こえたようであったし、さもなくば、耳元で囁かれたのかもしれない。そんなあやふやな感覚にハッとしたアッシュは勢いよく振り返ると、そこに小さな赤髪の少女の姿を見つけた。

 少女は不安げに純白のスモッグの裾を両手で握り締め、そわそわとすると腹をさすったり両手で両肩を抱き締めるそぶりをみせ、きょろきょろと辺りを見回した。赤い瞳は何度かアッシュの佇むほうを横切るのだが、眼前の魔導師に気が付く様子はなかった。


「エステル?」

 アッシュは戸惑う表情を隠すことなく小さく儚げな声で云った。

 するとどうだろう、声が少女に届いたのか何度目かのすれ違いのあと、互いの視線は絡み合いお互いを認識したようなのだ。少女はそれに、そばかす顔を驚かせ目をまるくすると戸惑いの表情を見せた。

 アッシュはそれに、ハっとし少女の前へ跪く。

 少しだけ。ほんの少しだけ。少女は跪いたアッシュとの距離を縮める。それを、繰り返すと、とうとう少女の小さな手がアッシュの顔へ届くほどの距離となった。少女は戸惑いを見せたが、思い出す切っ掛けを欲しそうにアッシュの顔へ小さな掌を添わせたり、優しく触ったりをする。その動きは暗闇のなか形を確かめるようであったし、はたまたは、その形が少女の記憶通りであるのかを確かめる、そんな風であった。

 だが——いつまでも少女は終始、不安な表情を浮かべた。

 何度かアッシュは「君はエステルなの?」と訊ねたし、手を取り少女の素性を確かめようともしたのだが、こちらの声は届かないようで、触れることもできなかった。

 耳にした少女の声も、もうアッシュには届いていない。


 だからアッシュは最後に「待っていて。必ず助けにいくから」と、わかりやすく口を大袈裟に動かし、最後は優しく微笑んだ。もし、少女の視覚へこの姿が映っているのであれば、この言葉を伝えることを諦めたくはなかったからだ——それが虚像であろうが、気にすることはない。

 聖霊ロアは世界が崩壊するからと云ったが、それもどうでも良いのだ。エステルと共に在ろうとするのに世界が必要ならば世界も救ってやる——アッシュがアッシュである意味はそれでよかった。



「潔い心意気だな無人! いやアッシュ・グラントか。たいした漢気じゃあないか! それでこそ俺の息子ってもんだ」



 今度は、アッシュが探した大鐘の声音が世界に響いた——雷鳴のようだったし、重厚に何層も重ね合わせた合唱が自分の名を呼んだのだ。

 少女の姿は、それに掻き消されるようアッシュの眼前からフワッと姿を消したものだから、アッシュは半ば憤慨するように振り返る——世界中へ響いた声の居所を知る術はなかったが、少なからず少女が姿を消した先に広がった暗い水平線に、その声の主人の姿はなかったからだ。


 すると、どうだろう。


 いつの間にか——この世界では「間」なんてものがあればの話だが、海原から突き出た岩場が広がり、一人の男が片膝を立て気怠そうに腰をかけ、アッシュを眺めていたのだ。

 男は「悪いな、あれ以上交わると悪ガキの領分に踏みいっちまうからな」と、縁なし眼鏡をクイっと持ち上げ膝を豪快に叩くと、笑い声を挙げた。


 見覚えがあった。


 そうだ——この男は記憶の旅で見た、ノギ・ナキトの父親と同じ顔をしていた。

 アッシュは男が云った「俺の息子」という言葉にひっかかりを覚えると、訝しげに男へ視線を投げた。それは無理もないだろう。今ここに至るまでアッシュは大農園で目覚めた頃からの記憶を繋ぎ止めるのに懸命であったし、魔女なのか何かが刺しこんだ記憶に翻弄をされ自我を保つのがやっとなのだ。それへ「ああ、父さん」と理解を示す余裕はどこにもない。

 それにだ——その男が「父」である保証はどこにもない——。



 困惑をしたアッシュの顔へ男は再び豪快に笑った。

 鈍色の世界へ笑い声が雷鳴のごとく響き渡った。思わず耳を塞ぎたくなるようで、あからさまにアッシュは抗議の表情を浮かべ、鋭く男を睨みつけた。


「すまんすまん。そう怒るなよ無人」

「僕はアッシュ・グラントです」

「ああ、そうだったな。アッシュ。知っているよ、その名前も」

「どこかで?」

「ああ、どうだろうな。会っているけど、それを云うとまたお前に怒られるからな、やめておくよ」

「なんですかそれ……。ところでここは?」


 いずれにせよ、アッシュと同じ黒髪黒瞳の眼鏡の男が何者であろうとも、ここがなんなのかを知る必要はある。そして訊ける相手といえば、岩場の男だけなのだ。


「なんだよ、仕方なしに訊ねようって感じ丸出しじゃないか」

「仕方ないでしょ。本当にそうなのですから」

「そりゃそうだ。賢いなアッシュ」

「揶揄わないでください」


 眼鏡の男がにんまりと云うとアッシュはさらに憮然と返した。

 男はそれに両手を振ると「すまん、すまん」とまた笑ってみせた。今度は静かにだ。すると「そんなところに突っ立っていないで、こっちへ来いよ」と男の隣をバンバンと叩き猫か何かを呼び寄せるようだ。

 アッシュはどこかそれに気を悪くすると「嫌です」と、極々短く云いうと胸に両腕を組んだ。あからさまに憮然とした表情を眼鏡の男へ向けたアッシュは、そうした自分の中に、そこはかとなく、これまでにもそうした事があったのではないかと錯覚——思い出、なにかそんなものを覚えると眉間に皺を寄せた。


「な! お前そんなに嫌がることないだろ……」


 眼鏡の男は寂しそうな顔をし、意気消沈と声を萎めて云った。なぜだろう。アッシュはそれにクスっと笑ってしまうと、次には目を丸くし驚きの表情を浮かべた。眼鏡の男が見せた寂しそうな顔。懐かしい空気、雰囲気。そんなものがアッシュの心へ一点の温もりを感じさせたのだ。


「まあ、仕方ない。良いんだ無人。

 ゆっくり想い出そう。なんせここにはお前の全て、世界の全てが詰まっている。俺達はそれを触ることも変えることさえも許されている。

 神様?

 いいや——くそったれな運命って奴か。なんかそんなのに許されているんだとよ。もっとも俺はもうすぐその力をお前に押し付けなければならないんだが……。

 本当は——こんなものお前に背負わせたくはないんだけどな」



「それは、どういう意味?」

 酷く寂しそうに語った眼鏡の男へ、アッシュは今度は気遣いとも憂懼ゆうくとも思える声音で訊ねた。アッシュ自身がどうというわけではない。心底、眼鏡の男が何を抱え、そんな顔をするのかと胸を痛めたように感じた。


「そうだな。本当は希次まれつぐで終わりにするべきだと思っていたようなんだけどな——聞きたいか?」

「そこまで云っておいて、それを訊くの? それに希次って?」

「ああ、まあそれは気にするな。すぐにわかるさ……」

 眼鏡の男は、どこかで聞き覚えのある名前を口に、そう云うと「ははは」と困った顔でアッシュへもう一度、横へ来いと——今度は優しく岩場を叩いた。


 それにアッシュは「はぁ」とため息をつき、仕方なさそうに、ぼさぼさの髪を掻くと「わかったよ」と眼鏡の男が叩いた近場ではなく、少し離れた場所へ腰をおろした。

 警戒をしたわけではなかった。そこはかとなく覚えた羞恥心という大仰なものなのか、それとも子供が抱いた気恥ずかしさのようなものに、どうも眼鏡の男との距離を詰めるのを、はばかれたというわけだ。

 アッシュはごつごつとした岩場に腰をかけ「それで?」と、どこか恥ずかしそうに云った。眼鏡の男の顔は見なかった。それはやはり同じ理由だった。


 それまで凪いでいた海原はアッシュの心境に合わせたのか、緩やかに岩場に白波をたてゆっくりと、それを繰り返している。不思議と白波の音は聞こえなかったのだが、アッシュがそれを、そうだ——波である——と認識をすると、サササァと袋に詰められた豆が揺れるような軽やかな流れが聞こえてきた。

 アッシュはそれに少しばかり驚き眼鏡の男の顔を見た。


「なんだよ。子供みたいな顔をしやがって」

 男はそう、優しく笑った。

「これは?」

「それだよ」

「なにが」

「俺たち乃木の一族が受け継いできた厄介な代物。

 ここはな無人なきと——ああ、便宜上そう呼んで良いか? アッシュと呼ぶのは、どうも馴れなくてな。それに、俺は頭おかしいわけじゃないかなら? 最初に云っておくぞ。

 それでだ——ここはな世界の始まりの海から産まれた贋作。その中心なんだってよ。おいおい、そんな顔するなって。大丈夫だ狂ってないぜ。まあ、最後まで聞けよ。でだ、俺たちが産まれて死んでいく世界ってのは、その贋作の中に在る。ああ、なんだ、言い方が悪いよな。爺様達の伝承ってややこしいだろ? わかりやすく云えば宇宙だ。ちょっと待て無人なきと。何処いくんだよ。座って聞けよ。それでな、俺たち乃木の一族は世界を観測し終焉を迎えるその時に、また世界を始める役割を——おい、無人なきと、待てって」


 眼鏡の男が語る話に、大きくかぶりを振るったアッシュは、岩場に立つと「そんな与太話、信じるとでも思ったの?」と冷や水を浴びせた。眼鏡の男は堪らず「わかった、わかった」と慌てると「だったら、わかった。ちょっと黒い鳥を想像してみろよ。見知ったのがあるだろ?」と、少々得意げに云うと、眼鏡の位置をクイっとなおした。


 アッシュはそれに「見知ったって……なんでそれを知ってるの?」と目を細めたが、眼鏡の真剣な——いや、得意げな顔になぜか気圧され、仕方なく瞼を閉じ大農園で見た逆さ黒鳥を想い出した。

 瞼を閉じると、そこには幾億の記憶の欠片とでもいうのだろうか、繋ぎ合わせれば何かの意味を持つような夢で見るような虚像、鏡像、なにかそのようなものが所狭しと重なり合い浮かび、いく数億もの線で互いを結び合っていたのだ。

 アッシュは最初、片眉を上げ驚いたのだが、どうだろう少し気を落ち着かせれば、をどうすれば良いのかが手に取るように理解ができた。

 人混みを掻き分けるようにアッシュは記憶の破片を掘り返し——ともすれば、記憶の破片の海を泳ぐ遊泳者のようだ——思い浮かべた黒鳥の姿を求めた。

 すると幾億の破片に結びついた幾億の線は青だったり緑だったりする光の玉を繊条に転がしアッシュの求めるものへと導くと一枚の記憶の破片へ勢いよく飛び込み、強く輝いたのだ。まるで、光の玉が「これがその記憶だ」と知らせているようにだ。

 アッシュはそれを手に取ろうとし、驚いた。

 記憶の破片に顔を近づけると、破片は世界の窓のようで、黒鳥の向こう——黒鳥の腹を視線が通り越し空を仰ぎ見る自分の姿を見たのだ。そして、自分と目があったように思った。

 アッシュは「うわ!」と声を挙げると瞼を開き今もなお、得意げ——いや、したり顔の眼鏡の男の顔をみた。


「い、今のは」

 慌てたアッシュに眼鏡の男は、鈍色の空を指差し「ほら」と、顎を軽く上げた。

 空には気持ちよさそうに翼を広げ旋回をする鴉の姿が在った。

 アッシュは空見上げ、目を細め声を失うと暗に説明をして欲しいと視線で眼鏡の男を促すのだが、どうも眼鏡の男は何かを待っている様子で、にやにやと笑っているのだ。きっと、与太話——男にとっては真実中の真実——に付き合うと約束しろ。と、いうことなのだろう。アッシュは、これにはもう白旗をあげるしか術はなく、にべもなく見せた態度をあらため「わかったよ」と白旗を男へ知らせた。



「なぁ! 驚くだろ? こんなの向こうでやったら、手品どころの話じゃないよな?」


 眼鏡の男は、そう云うと大人気なく両の人差し指を突き出し、ずけずけとアッシュを指してみせたのだ。その大人げの無さたるや——まるで、はしゃぐ子供のようでアッシュはつい笑ってしまったが、気を取り直し「それで?」と、半ば笑いを残し眼鏡を促した。

 すると、気を良くした眼鏡は「ここに呼ぶぜ」と器用に指笛を鳴らすと大空を翔ぶ鴉へ——鴉が理解するのか、甚だ疑わしいが合図を送った。


 そんなことで鴉が来るものかとアッシュは鼻をならしたのだが、どうだろう、鴉はまるでそれを理解したのか数回大きく旋回をすると、錐揉みするように舞い降りて来たのだ。

 鴉は翼を勢いよく広げると錐揉みの勢いを殺し海原すれすれを滑空し、眼鏡の男の傍へふわっと降り立った。そして、ソワソワと良い足場を探したながら、つぶらな黒い硝子玉のような瞳をクリクリとさせ、アッシュを一瞥すると一度大きく翼を羽ばたかせやっと落ち着いた。


「こいつの名前はムニン。無人——ムニンだ。北欧の奴らが創造した被造物だけれども、ここではちょっと役割が違う。それは……まあ良いか」

 眼鏡は優しく鴉の頭を撫でると優しくアッシュへ笑いを向けた。


「良くはないけれど——その鳥は、ああ、鴉か。その子はなんなの? その鴉が見える時は——あ、あれ?」


「だろ。想い出せないよな。もっともまた記憶の破片——お偉い学者達は ‎利己的遺伝子ミームっていったかな。それを繋げば想い出すけどな。今はやめておけよ。苦労するにも順序ってもんがあるんだぜ。知ってたか?」


 したり顔の眼鏡。

 アッシュがそれに冷ややかな視線を落とすと、眼鏡は片手を振り上げ「わかったよ」と苦笑いした。


「まあ難しいことは置いておいて、さっきの続きだ。

 爺様達が云うには、世界ってのは何層にも別れながら流転し存在しているんだってよ。

 それぞれは干渉をしあわない。

 の根っこにあるのは<原初の海>。そこから何らかの可能性を得て飛び出した海の切れっ端、これが<贋作>。

 そうそう、宇宙ってやつだな。これで二層——だが、贋作は可能性の分だけ存在しているってややこしい代物だ。ああ、そうだ生み出されたら非可逆性をはらむから、互いに干渉をしあわない。

 それでだ、三層目は俺達が生きている「星」ってやつだな。厳密には星も生き物で、俺達はその体内に巣食う菌と一緒だ。

 で、四層目。それは俺達だ。四番目の獣。どこかで聞いたことあるだろ? と、危ない危ない、話が逸れちまうところだった——そうやってどんどん階層を掘り下げて分解していくと、どうだろうな。最終的には<原初の海>へ辿りつくんだ。原子や分子の向こう側——素粒子の世界ってやつだ。ってここまでいくと、今のお前じゃ意味がわからんよな。爺様達もわかってなかったけどな。まあ、とにかくだ。世界は何層にも別れ、非可逆だが繰り返す。ってわけだ。

 で、俺たち乃木の一族が偶然に背負わされた役割ってのは——世界が終焉を迎えるべき刻がくれば、<原初の海>へ世界を還しまた始めるって大役だ。意味わからねえよな」


 眼鏡は手振り身振りを交え、所々アッシュの顔色を伺い一気にそこまで喋り通すと、肩を竦め小首を傾げた。


「いや、そんな顔されても、本当に全然わからないのだけれど……」

「そうだよなあ。希次も爺さんに告げられた時は最初は、じじいの頭が狂ったか? って思ったようだぜ。ああ、爺さんってのはお前のお爺ちゃんな」

「ちょっと待って」

「ん?」

「さっきから気になっているのだけど、その、希次ってのはつまり、僕の父さんってことだよね?」

「ああ、そうだ。なんだ友達かと思ったか?」

「そうじゃなくて。それは、あなたの事じゃないの?」

「ああ、そうだな。それに近いな」

「近いって……随分といい加減な……」

「そうだな……いつまでもこうもして居られないからな。

 なあ、無人。いまここに居る俺は、お前の父、乃木希次の記憶を保存したデータ。お前がリードランへ残したテスト用アカウントに残された希次の『情報体』だ——」

「てすとよう? じょうほう? 何を云ってるの?」


 アッシュは眼鏡の言葉が理解できず、酷く不安を覚えると必死の形相で詰め寄り、眼鏡の両肩を鷲掴みに、乱暴に揺すった。眼鏡はそれに目を閉じ、されるがまま身体を揺すったが暫くすると、優しくアッシュの両手を取り優しく「落ち着け無人」と、眼鏡の奥の双眸をへの字にすると目尻へ多くの皺をつくった。



 覗き込んだ眼鏡の黒瞳にアッシュの顔が映った。

 これまでアッシュは自分の顔をまじまじと見たことがなかったように思う。老けているのか、それとも溌剌はつらつと若々しいのか。大農園で目覚めてからこのかた、アッシュ自身の年齢だって気にしたことがなかった。正確には年齢すらもうろ覚えだったと云ってよい。

 だから、映し出された自分の表情があまりにも幼く見えたのに、アッシュは先ほど水面に映った自身の顔を思い返し、驚いたのだ。どれほど無関心であったとしても、差異の在りように違和感を覚え仕方がない——恐らく、眼鏡の男へ心を開くたびに何かが変わってきているのだ。



 眼鏡の男は続けた。


「——どんな因果か知らないが、あの悪ガキは俺の中へ自分の情報を書き込みやがって、とんでもない情報生命体を作りやがった。憤怒だったな確か。あんなのが七匹もいるんだろ? いかれてるよな。まあでも、そのおかげで俺は希次が残した最後の命令を実行できたんだけどな」


「最後の命令って? 父さんは? それに……そうだ、母さんは?」


 母さんは?

 眼鏡の男はその言葉に眉をひそめると、眼鏡をあげ座り直した。


「無人。ひとつ約束をしてくれ。

 何を見ても、何を知っても、お前はお前だ。

 だから死んでもあの娘を助けにいけ。あの娘は、お前がお前の手で見つけ初めて掴んだ幸せだ。いいな。

 お前が全てを思い出せば俺はこの姿を保てなくなる。ああ、そうだ。あの憤怒とかいうのが顔を出す。俺か? 俺は俺で憤怒の中で必死に捥がくとするさ。

 まあ、その結果もお前は良く知っている——大丈夫だ」


 眼鏡の男は、そう云うと、そっとアッシュの頬を両手で包み込んだ。

 暖かく大きな手だった。

 広く大きな手。

 アッシュはそれに顔を委ねるよう、かぶりを軽く傾け瞼を閉じ「なんだよそれ……」と鼻の奥を詰まらせたように零した。何を知ったわけでもない。しかし、眼鏡の男が云った言葉へ何かしらかの確信を得たアッシュは、諦めとも覚悟とも思えた感情に揺さぶられ、いつの間にか力なく両膝を折っていた。



 暫くの静寂が訪れ、アッシュが認識し作り出した白波の音が周囲を満たした。

 どれほどの、寄せては引いての合奏を耳にしたのだろう。気が遠くなるほどだったかも知れないし、たったの数回だったのかも知れない。いま二人が佇む岩場を包む世界には時間の概念は無いのだそうだ。過去と未来がそれぞれの尻尾を喰いあう世界。眼鏡の男が云った繰り返す世界。その中心。そこは全てが産まれ、全てが還る場所。それであれば、白波の音は、波が崩れる様子は、認識でしかない。白波がたてる音であると云う事象の認識だ。


 そんな曖昧で完璧な世界に再び声が響いた。


「さあ。最後の仕事だ」

 眼鏡の男はそう云うと、アッシュの頬から手を離し岩場に胡座をかくと、強く膝を叩いて見せた。そして大きく息を吸い込み、何かしらかの覚悟を決めたようで、両手を膝の上に置くと話を続けた。


「お前がここに来るまでに見て来た記憶。

 あれはお前の記憶じゃない。別の贋作のお前の記憶だ。だから、あそこで見た父親との記憶に母親との記憶はお前のものじゃない。

 贋作同士は干渉をしないとは云ったが、源流はさっき云った通り、すべては<原初の海>へ還るのだから、厳密にはお前の記憶と云える。だから、銀髪娘は必死にお前に刷り込もうとした。

 この先の控えた真実との落差、悲嘆、怒り、そんなものを増幅するためにな。

 なんのため? ああ、そうだ。お前が世界を終わらせようと願うようにだ。まあ、それは置いておいてだ——そうだな。じゃあ、本当の記憶って話だよな。

 まず、俺の今のこの調子は希次そのものだ。な? 全然違うだろ? なんだよ、そんながっかりした顔をするなよ。

 さて——ここからが本番だ。

 そもそもお前に、そんな『本当の記憶』があるのかって話だ——」


「ちょっと待って。なんでそんな話になるの?」


 突飛もない話の区切りにアッシュは戸惑う様子を見せ、再び岩場に立ち、勢いよく腕を横に振るった。

 そんな話は聞きたくない。

 と、アッシュと眼鏡の男の間へ溢れた言葉を乱暴にどけるようにだ。

 散々ぱらとここまで、世界がどうの、大役がどうの、終焉がどうのと大仰な話をしてきたではないか。それを今更——そんな記憶がそもそもあるのか? なんて、振り出しに戻すような話へ、どうして向かうのか。おかしいではないか。それではアッシュは、乃木無人とは何なのだ。

 だがその疑問は——アッシュが恐れた仮定の一つであった。

 エステルに「過去の自分が追いかけてきて全てを奪っていく」そう、心に秘めた恐れを吐露をしたのを覚えている。まったくそうなのだ。何も持たない自分を呑み込んでしまいそうな虚無の影に不安を覚えていた。そして、万が一にも影が自分を呑み過去のアッシュ・グラントを取り戻す結果なのであれば、百歩譲って良しとしよう。だが違うのだ。不安であるのならば拭い去ることもできただろう。しかし、決定的な恐怖とは、その過去のアッシュでさえも虚無であるという可能性だ。


 つまり——アッシュ・グラントとは、乃木無人とは、誰かに造られた虚像なのではないか。という疑念だ。



 アッシュはこれまでの道程に、過去の自身が謳われた英雄譚を幾つも耳にした。シラク村でアドルフは、メリッサの望みはそのものがたりを、記憶を失ったアッシュへ穢れたものがたりとして刷り込むようになぞらえさせたいのではないかと予見した。まるで、それはアッシュを穢すようではないか。

 だが、アドルフはそう云ったが、得心することは勿論なかった。はなはだ違和感だけが残ったのだ。どのものがたりのアッシュ・グラントも、今の自分とは、かけ離れすぎていた。だからだ。

 しかし、行く先々で自分を指し示す記号は<宵闇の鴉>アッシュ・グラントであると、人々は盲目的そう云うのだ。まるで、それが理想であるかのように——それこそ虚像だ。

 そのアッシュ・グラントでさえも人に造られた英雄であり、かつての自分はそれを背負わされたのではないか。いや、違う。背負う自分でさえも人に造られたものなのではないのか。

 そう想えば眼鏡が云った「あの娘は、お前がお前の手で見つけ初めて掴んだ幸せだ」という言葉に納得もいく。



 きと——なき——無人なきと


 いつの間にか、アッシュは両手で顔を覆い尽くし両膝を折り、どうやら気を遠く、考えに耽ってしまっていたようだ。眼鏡の男の声に気がつくとハッと顔を挙げ、随分と心配をした様子の眼鏡の黒瞳と視線を絡ませた。


「無人、大丈夫か?」

「ごめん、大丈夫。それで——」

「良いのか?」

「うん」

「落ち着いて聞いてくれな。

 それに今から話すことについて、俺は、いや、希次は許してくれとは云えないと思っている」

「うん」

「欲をいうならば、母さん——寿子ひさこのことは恨まないでやってくれ」

「わかったから。最初にそんな約束をさせるのはずるいと思わないの?」

「ああ、そうだったな——すまない」

「うん」

「無人。お前、さっき独り言で自分は存在しないんじゃなないのかって云っていたのは覚えているか?」

「ああ——うん。口にしちゃっていたんだね」

「ああ。まず、それは無い。お前は確かに希次と寿子の間に産まれた子だ」

「そっか——よかった……」

「だがな」

「うん」


 眼鏡の男は、そこから先の言葉を続けるのに随分と苦労をしている様子だった。苦虫を潰したような顔をしたかと想えば、空を仰ぎ見ると、かぶりをふるったりと、葛藤する様子が尋常では無い。だが遂に、アッシュの両肩へ手を乗せると口を開いたのだ。





「お前は、母さんに殺され——いや、あれは事故だったんだろうな。だとしてもだ。兎に角、俺はそれを止められなかった……。辛うじてお前の躯は爺さん達のやしろの地下へ保管することで消失は避けられた。だが、お前の脳は——」


 眼鏡の男が語った話は、言葉の道すがらに雷のような衝撃の真実でアッシュを撃つと世界を騒つかせた。

 それに呼応したのか興奮をした鴉が、五月蝿く岩場で翼をバサバサと動かした。


 すると言葉を落とした眼鏡の男は項垂れ——大粒の涙を溢すと、消えいるような声で何かを語ったのだ。

 だが、アッシュは茫然と、その言葉を耳にしたのだが、意味を繋ぎ理解することを避け空を見上げていた。

 眼鏡が云ったこの円環の世界<原初の海の贋作>の中心の騒めきは止むことはなく、段々と様相を変えていく。その兆しは、アッシュが見上げた空、鈍色の雲に現れた。

 雲の狭間から山脈や、溢れんばかりの数の木造の建物——あれはおそらくダフロイト様式の民家だろう。そこには牛や馬に豚、そして、人、ヒト、他人。そんなものが溢れ出てきては、皮を捲られ青い粒子へと姿を変えていくのだ。

 いつの間にかに海原には、空から溢れた生命が積み上げられ、最初は赤く混じりあり青く海原の底へ還っていく。


 嗚呼——もう……。

 アッシュは、がらんとした心の中心へ、そう言葉を投げ入れた。虚な中心へ何もかも捨ててしまっても良いのではないか。だから、最後の言葉を口にしよう。

 そう思った。


 だが——その時だった。

 世界を斬り裂く声が轟いた。


「帰ったらあなたの好きな料理を教えなさい! 私はそれを作ってみたいわ!」






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