——サタナキア大空洞。
相変わらず重たい暗闇がねっとりと虚な空間を埋める大空洞。
岩場には青や緑の繊条が走り、煌々と、居座る祭壇からそびえた幾重もの壁には、真っ赤な繊条——まるで血のような——が降り青と緑に合流をする。どうにもそこは何かの腹の中なのか、はたまたは悪魔の子宮の中なのか。幻想的——と、云うにはほとほと不気味な空間なのである。
少し離れた所へ寝転んだミラが見える岩場で、やはり寝転んだアッシュ・グラント。その傍で膝を折りアッシュの剥き出しの胸へ色白の手をあてたメリッサ。
それを、傍で見守ったアレクシスが思うに、白銀の魔女がそうしたのは、ほんの少し前の話だ。時間にすると瞼を数回、瞬かせるだけの間だ。それであるにも関わらず、メリッサは随分と不機嫌な声で「失敗しちゃった」と云ったのだ。
一体何に失敗をしたのか。アレクシスには皆目見当がつかなかった。いけすかない白外套の魔導師——傲慢のアイザックも、よっぽど不可解な行動をとるが、あの翁を産み出した魔女も相当だ。つまり、理解に苦しむということだ。
それもそうだ。
アイザックはミラの持った硝子玉をここで割ることができれば「お前の望むアッシュ・グラントが帰ってくるだろう」とアレクシスに耳打ちをした。それを告げることは、あからさまにメリッサを裏切るような行為であるはずだ。しかし、それすらも見通しているはずである白銀の魔女は、今は祭壇で眠る赤髪の姫にご執心であったのだ。まるでアイザックのそれは、路傍の石でもあるように気に留める必要もなかったのか。だがしかし、白銀の魔女は、結果的には焦りを見せ、いまこうしてアレクシスの前で悔しさに下唇を噛んでいるのだ。
「メリッサ——大丈夫なの?」アレクシスは、すっかり返り血で汚れたドレスの裾を揺らしメリッサの傍らに腰を落とすと魔女の顔を覗き込む。
「——駄目だったの」
メリッサは、寄ってきたアレクシスの赤黒い瞳へ視線を絡ませ、寂しそうに云った。
「一体何が——」
アレクシスは今にも溜息が漏れ出しそうなメリッサの顔を覗きこみ訊ねた。魔女はそれに力なく笑うと云った。
「今まで、あなた達に話したことはないのだけれど——聞いても理解ができないかも知れないし、ただただ疑念が取って変わるだけだと思ったから。でも、聞いてくれる?」
「勿論よメリッサ」
子供のように不安げな表情を隠そうともしなかった白銀の魔女は、アレクシスの答えに満足をしたのか、表情を明るくし「さっきはごめんなさい」と色欲の頬を優しく撫で話を続けた。
子供が得た、とびっきりの話を母親へ得意げに話す。どこかそんな風だったメリッサと目線を合わせアレクシスは恍惚と彼女の話へ耳を傾けた。だが、それは束の間であった。メリッサが語った話は到底理解を示せるような簡単な話ではなかったし歪みきっていた。だからアレクシスは次第に表情を曇らせ最後には慄き、そして不満を露わにしたのだ。
※
「アレクシス——時間はそれほど残されていない。だから手短に話すわね……。
いい、アレクシス。多くの賢者と呼ばれたペテン師は——そうね、アイザックもそれにあたるわ——世界の外にはもう一つの世界があると考えた。それは正解。私たち<外環の狩人>はそこからやってくるの。このリードランの地へ。でも私たちは神ではない。ええ——人神……それに近いのかもしれない。ここではね。でもね、その外環ですらも、このリードランと同じく、ただ世界の法則を違えた世界であることに変わりはない。だから私達はリードランから出てしまえば只の人。でも——」
そこで言葉を区切ったメリッサは、未だ瞼を開かないアッシュ・グラントへ視線を落とし露わになった胸板を白指でなぞった。
アレクシスは白指の軌跡を追いかけ、メリッサの言葉を待った。赤黒の蛇目は白指の切先に視点を合わせたり、魔女の手の甲に合わせたりと、忙しく縦の瞳孔を閉じたり開いたりを繰り返した。
「——アッシュは違うの。この人——いいえ、この人の血脈は外環の世界を創る存在。身体に世界の全てを持ち合わせ、気紛れに世界を終わらせる。そしてまた創り出す。いいえ、そんな崇高な目的はないわ。子供が
次にメリッサはアッシュの傍に転がった小石や少し大きめの石を拾い集めると、それを積み上げ掌を青く輝かせた。
ほんの少しの暗さと明るさが綺麗な線を描いた魔女の銀髪は、青の輝きに照らされると光の波を毛先へ向かわせた。アクレシスは、それに目を細め見惚れたのだが、輝きが終わる頃にアッシュの傍へ姿を顕した灰色の小さな城を目にし、訝しげな表情をみせたのだ。
その城は、どの国の城でもなく、ただただ無骨な灰色の積み木の集まりのようで、所々に丸みを帯びた屋根をもった低い建物も混じっていた。窓と思しきものは、積み木のあちこちに規則正しく穿たれ、そこからは白い外套のようなものを着込んだ人間が歩き回っている様子がみえた。
これが城といえるのであれば、そうなのだろうがアレクシスは到底そうとは思えず、灰色の墓標のなかに人が蠢く狂った光景に映った。
その表情をいつの間にかに冷たく見たメリッサは鼻を鳴らし、乱暴にその城を壊すと再び話を続けた。
「——だから、私はアッシュに幸せな世界を知ってもらおうとしたの」
「幸せな世界?」
「そう。この世界は違うのよ?
この世界はアッシュを心底苦しめる世界だし、私にとってもそう。ああ。でもどこの世界でも私は鳥籠の中で苦しい想いをするの。可哀想でしょ?
だって、それが『運命』なんて、見たこともない神様が私に与えた役目——でも、いいの。アッシュが私との約束を守ってくれる世界がやってきたら、それで良いのだから」
「ねえ、メリッサ。その口振りだと世界は幾つもあって、どこの世界にも、あなたが居るように聞こえるのだけれど」アレクシスは更に怪訝を深めた。
「ええ、その通りよ。でもね。根源を一緒にするだけ。この世界の私もあなたも唯一無二なの。それが困ったものでね——」
砕けた石へ再び手をかざしたメリッサは「ふふ」と小さく笑うと、困った風なアレクシスの顔へ悪戯に視線をなげ、掌を青く輝かせ、さっと砕けた石の上を撫でるよう水平に動かした。するとどうだろう。小さな石の破片は、くるくると螺旋を描くと二手に分かれ、宙で二つの小さな球体へと姿を集積したのだ。一つは青く輝き、一つは緑に輝くと、またもや魔女の銀髪を神秘的に輝かせ、フワフワと浮き沈みする。
「これは?」
「私達が世界と呼ぶ場所——中を覗いてみて」メリッサは愛くるしい笑顔でアレクシスを促した。色欲の始祖は、先ほどから怪訝な表情を浮かべたが、その愛くるしさに顔を赤らめると云われた通りに、最初は青い球体を覗き込んだ。
中に見えたのは、無限に広がる暗闇に蠢く無数の光球であった。光球は身を寄せ合い渦を巻くものもあれば、たった一つで燦然と輝くものもある。不思議な光景だ。
「その中の光の球のなかの一つが私達の世界。信じられる? それと同じようなものが緑の中にもあるの。見ての通り青と緑は繋がっていないでしょ? でも産まれたのは同じ石屑の中から。ほらみて——」
メリッサはそう得意げに言うと、二つの光球を軽く指で弾いて見せた。
光球はふるふると身体を揺らすと、等しく赤い線を伸ばしゆらゆらとアッシュの胸元に先端を降ろしたのだ。
「——これは、あまり正確な表現ではないのだけれど。
こうやって二つの世界は——本当はもっとあるのだけれどね、根源を一緒にしている。難しい云い方をすれば、私達は
アレクシスはそれにかぶりを横に大きく振るった。
理解ができない——それであれば
「——それでね、私は神様から世界の分だけ——
メリッサは先程まで見せた笑顔を曇らせた。
そして白の五指でアッシュの顔を柔らかくゆっくりと撫でて話を続ける。
「——世界を創造するときの——造るときの設計図とするためにね」
メリッサはそこで大きく溜息をつくと「でも、それだと結果は同じ」と消え入るように云った。
果たして魔女の云う結果とは、世界の安寧や人の幸せなどといった偽善に満ちたものではないのだろう。アレクシスはそう思うと、はたと顔をしかめた。であれば、魔女の求める結果とは、どこまでも独善的で身勝手で……。いや、そう歪んだのかもしれない。無垢であるが故に触れるものに型を合わせ個を歪ませた。
獣であろうとなかろうと、意思を、欲を持つものなのであれば、そうやって生じた歪みは二律背反のなかへ独善を産み出すのかもしれない。色欲が色欲であるために純潔を貫く場合、嘘を吐くことを常とするものが「私は嘘つき」ですと云う場合。それは嘘ではなく真実なのだ。それに似ている。
だから恐る恐るアレクシスは訊いたのだ「結果ってなに?」と。
「云ったでしょ? アッシュが私との約束を守ってくれる世界。
どの世界でもアッシュは私との約束を守らなかったわ。でも、この世界は今までのどの世界とも違う筋書きで動いている。何もかも、あの別の世界からやってきた吟遊詩人のおかげ。あの女が<楔>の中へ——勘違いからだけれどね、別の使い道を見出したから。もしかしたら、それは凄く凄く小さな小石ほどの出来事だったのかも知れない。でもね、勢いよく凪に放り込んだから世界は変わった」
たったそれだけのことで——と、口を呆然と開き、魔女の猫目をぼんやりと見つめたアレクシスであったが、突然と鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えた——実際にそうであったのではなく、とある想いに行き着き酷く胸を騒つかせたからだ。
メリッサの目的がたったそれだけであるのならば、アッシュに絶望を与え、追い込み、何もかもを無へ還す必要はないはずだ。もっと他にやりようがある。約束を守らせるだけなのであればだ。
ここまでの話であれば、そのために世界をやり直させたいと魔女は云っている。だが、では、そのやり直した後の世界とは、どこの話をしているのだろうか。
アレクシスの知覚の限界は、このリードランを超えることはない。だから、愚考を口にするのであれば、魔女の目的の達成とは外環、つまり、魔女の世界をやり直せば正解だと云ってよいはず。失敗をしたのだとしても——やはりこれも愚考だが、成功するまで繰り返せば良いのだ。わざわざリードランである必要はない。
戸惑いを見せたアレクシス。それに気が付いたメリッサは「アレクシスはやっぱり、勘が良いのね。一人で聖域からふらふらと出歩いてしまうくらいに豪胆だし……凄く魅力的」と、ころころと表情を変えた魔女だったが、再び愛くるしく笑ってみせ続けた。
「私ね。この世界が好きなの。
愛していると云っていいわ。だって——私はここでは自由。いくら動いたって血塗れになることはないわ。アッシュが私との約束を守るにはね——私の身体が弱々していたら、できないから。それにこんな穢れた身体を抱いてもらいたくないの。だから、アッシュには外環の全てに絶望をしてもらって、外環を捨ててもらう必要がある」
「それじゃあ——あなたが求めている世界って」
「そう、この世界。ちょっとした仕組みよ。
アッシュは記憶を無くしていたから——自ら封じたのだけれど、そこへ彼が幸せに興じていた世界——彼が私の頸を斬り落とした世界。
つまり吟遊詩人の世界、その断片を観せて——擦り込んで、この世界との落差に絶望をしてくれれば——。
後はこの世界をアッシュが
ふふふ。そんな顔をしないで。大丈夫。それが、少しだけだけれど、成功した世界もあった。そこでも私は薬師で、アッシュはヴァノックに負けてしまったけれど——あら、時間ね。お父様が来ちゃった。うわ。気持ち悪い……私の足を舐め上げている……。ねえ、アレクシス。赤毛の姫を連れて、クルロスのアガサの所へ向かってもらえる? 私もあとで向かうわ。錫杖でこの続きを行うから……」
長く続いた魔女の言葉は最後には心底困ったような、慄いたような様子で顔を歪めアレクシスへそう頼むことで終わりを告げた。だが、アレクシスは魔女が口にした答えに満足はいっていない。だから少々不機嫌に「ええ」と短く答えただけだった。
あなたの望むその世界に私はいるの?
それに——それでは、メリッサ。あなたは、この
アレクシスが抱く小さくも最大の不満と疑念はそれだった。
※
「んー……」
ミラ・グラントは吟遊詩人が割っては駄目だと云った硝子玉を砕くと、気を失い、今は右頬にぬらりと冷たい岩場を感じ寝転がっていた。
次第に戻ってきた意識のなか、青や緑の繊条が大空洞の祭壇から外にむかったり、はたまたは祭壇へむかったりと忙しなく蠢くのを瞼の裏で感じると、パッと瞼を開き慌てて身体を起こした。酷く身体が重い。催眠術か何か精神へ作用する術から醒めたような気怠さだった。頭はハッキリとしているのに身体は云うことを聞かない。
ミラは、そうであったが黒髪を激しく振り乱しかぶりを振るった。すぐに想い出したアッシュ・グラントの存在——姿を見つけるためにだ。そして、そこまで離れてはいないが、岩場をくだった先に寝転がったアッシュを見つけ、重たい身体に鞭を打ち急いで駆け寄った。
「アッシュ! アッシュ!」
駆け寄りアッシュの顔を上から覗き込んだミラは、最初両手で口を押さえ悲鳴をあげそうになったが、それは堪え必死にアッシュの頬を叩いて名前を呼び続けた。
覗き込みミラの黒瞳にうつったのは顔面蒼白となったアッシュの顔。血の気はなく、まるで蝋人形のような頬の色は、まるで土塊のようでこれを生きているというのであれば、きっとそれはメルクルスの生臭坊主が産み出した屍喰らいの類だ。
「ちょっと、嘘でしょ? 起きて! ねえアッシュ!」
必死になり周囲への警戒を忘れていたミラであったが、アッシュの頬を叩き声をかける最中に、自分達をここまで追い込んだ脅威を想い出すと抜け目ない視線を巡らせた。だが大空洞に在ったのはミラとアッシュだけ。それ意外の気配はなかった——そう、祭壇で裸体を晒したエステルの姿もなかったのだ。これにミラは瞼を閉じ、唇を強く噛むと「エステル……」と小さく零した。
恐らく命を失っていることはない。それは確証に近い。
ミラは硝子玉を割ることで、この世界と自分の世界の差分を知り、この先で起こりうる可能性を見てきたのだ。そこには確かにエステルの姿があった。だがしかし、別の世界の記憶を孕んだ、この世界がどのように収斂するのか。それはわからない。だから、これは可能性でしかなかったが、メリッサがアッシュへ絶望を与えるのだと云うのであれば、命を奪う機会は
ミラは頭に浮かんだ不吉な想いを、かぶりを強く振り払い除けた。
そしてもう一度「アッシュ! 起きて!」と、盛大な平手打ちをアッシュの左頬に見舞ったのだ。次には顔をパッと明るくし嬉々と「アッシュ!」と横たわった魔導師が肌を剥き出した胸へ飛び込んだ。アッシュが瞼をうっすらと開き「ミラ……」と小さな相棒の名を呼んだからだ。
※
アッシュは何度か目を瞬かせ、優しくミラの肩を押しながら身体をもたげ、ゆっくりとした調子——まるで新調した武具の馴染みを確かめるかのように、ゆらりと立ちあがり、ぐるりと周囲を見回した。ミラ以外の気配は無い。それはミラが感じた通りだ。しかし、それとは別の理由でなのか「アッシュ?」と名を呼ばれるまで魔導師は、その動作をやめなかった。
名を呼ばれた魔導師は声がした足元へ視線を落とした。
アッシュの瞳は赤黒く輝いていた。
魔女の獣であるはずのミラが、象徴的なその瞳を顕現しないのは、それは<嫉妬の獣>の性質を反転させ、ミラが制御した結果だと理解をしている。いや、硝子玉の向こうで、レジーヌ・ギルマンはそう語ったのだ。自分が産み出された世界に白の吟遊詩人は存在しなかった。ミラを娘だと愛情を注いでくれたのは、白の魔術師だった。
では、いまアッシュが宿した瞳が表すものとは、獣に支配された証跡なのだろうか。だが、それは違ったと云ってよい。確かにアッシュはミラの名を最初は小さく呼び、そしてもう一度「大丈夫かミラ」と小さな大魔導師の黒髪を撫でたからだ。
それに嬉々と破顔一笑するミラであったが、その反面、違和感を感じるとおずおずとアッシュを見上げた。赤黒の蛇目が見下ろし、小さく微笑んでいる。それはアッシュ・グラントその人だ。
ミラはそこへ何故だか疑いは持たなかったのだが、感じる違和感とは、おそらく心の底に感じたアッシュの心の形にだったのだと思う。随分と感傷に身を預けた想いであったが、ミラにとってはそれで良かった。何故なら、アッシュの物云いはミラがキーンの暖かい寝床で見た夢のなかのアッシュと同じだったからだ。
「ミラ、すまないな。とんだことに巻き込んでしまって」
「あー、うん。ねえ……」
「どうした?」
「記憶を取り戻したの?」
「そうだといいな」
「なにそれ」ミラはクスクスと笑って見せた。アッシュはそれに鼻を鳴らすと「何がおかしいんだ」とぶっきらぼうに云ってみせた。
「いやだって、ほら、全然口調も雰囲気も違うから。でも、私が夢に見たお父さんは、そんな感じだったよ。だから、こっちの方が好き。目は黒だったけどね」
ミラは、悪戯に笑い、人差し指と中指で双眸を指した。
「ん? 俺の瞳の色、変わっているのか?」
「赤黒の蛇目。獣と一緒」
「そうか」
「——それだけ? 感想それだけ?」
「不満か?」
「いや、そうじゃなくて。理由を教えてよ」
「バーナーズに俺の半分をくれてやったからかも知れないな——詳しいことは後で説明する」
「ちょっとそれって——ああ、でも、うん。わかったよ。それでどうするの?」
「ありったけの魔力を練ってくれ。俺の力を全部取り戻す」
「私が何かすれば良いの?」
「違う。俺の魔力に押し潰されないようにだ。エステルを助けに行くぞ」
「それは勿論だけど。ねえ、何があったの?」
「だからそれを後で説明すると云っている」
「あーはいはい。わかりましたッ」
つっけんどんに云われたミラであったが、それがどこか懐かしく——嬉しいというわけではななかったが、片手をひらひらさせ「ん」とアッシュへ立たせろと暗に云うと、アッシュは「なあ、ミラ」と、ミラの手を取り、どこが遠慮がちな無骨さで小さな魔導師の名を呼んだ。
ミラはそれに「なに?」と気に留める様子もなく答え、アッシュを促した。
「わかっていると思うが、俺はお前の——」
「大丈夫だって。わかってるよ。だって、私がアオイドスの言いつけを破って硝子玉を割ったんだもの。ちょっと悲しいけれど……もうお父さん会えないんだもんね。なんか変な感じ、アッシュは目の前にいるのにね……」
ミラはそう云うと俯いた。
アッシュはミラに視線を落とし同じように俯いた。
流転する罪はどこまでも罪人を追いかけ抜き身の真実を突き立てる。そうやって罪の重さを測らせるのだろう。アッシュが硝子玉の向こうで見た真実もそれであった。身勝手な親の背中を追いかけた顛末。しかし——今はそれを云うまい。口にしてしまえば、ミラが小さな胸に構えた覚悟の剣を折ってしまう——贋作の海で希次の残滓が口にした言葉が頭に蘇ってきた。
「本当は——こんなものお前に背負わせたくはないんだけどな」
そう云って背負わせるのだから、やはり随分と酷く身勝手な話だ。
アッシュはそう想うと、おもてをあげミラの黒髪を撫で付けながら「全部終わったら、一緒に来い」と言葉をかけた。
ミラはそれに目を丸くすると「私ね、すぐに嫌な夢を見ちゃうんだ。一緒に行ったら、大きくなるまで一緒に寝てくれる?」と、もじもじと返した。
小さな大魔術師は、どこまで行っても今はまだ小さい。子供なのである。その願いはまさにそれに起因した。とても小さな願いであったが、とても大切な願望だったはずだ。だが、アッシュはそれを口にしたミラを覗き込んだのだが、どうだろう、どこかその願いの中心には別の何かがあるように思えた。
「ああ。でもな、子守唄は唄ってやれないぞ」
「そっか。じゃあ大丈夫——アオイドスは子守唄を唄ってくれるんだ。アイシャも同じ子守唄を唄ってくれる。グラドのは——うるさいだけだから寝れないから、いいや……。でもさ、ちゃんと唄えるようにしないと駄目だよ? エステルはお姫様なんでしょ? 絶対に唄えないもん」
ミラはそう云うと口角を揺らしながら口を一文字に縛った。
大粒の涙が溢れた。
ミラの黒瞳が濡れ下瞼に水玉を作ると、ついには止め処なく溢れ続け、乾くことのない涙痕がふっくらとした頬に線を引っ張った。
アッシュは思わずそれから目を逸らし「すまない」と苦しく言葉を吐き出すと、ミラを固く抱きしめた。ミラはわかっているのだ。そしてアッシュ自身もわかっている。この世界でアッシュを父と呼ぶのは——誰なのかを。
こうなったのは誰の責でもないのかもしれないが、しかしだ。これは子供に背負わせるには、あまりにも重く残酷な現実だ。
それであるならばせめて——アッシュは、どうやら改めて何か決意を固めたように、しばらくの抱擁からミラを解き放つと、ただ一言「行くぞ」と云ったのであった。
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