あるいは「神殺し」とは概念としての「
種の絶滅を導き、それの保護をする。自ら鞭を打ち据えたにも関わらず、痛みに苦しむ者へ慈善の手を差し伸べる——まるで自らは「神」であるようにだ。
では「
答えは未だ出ることはなく、今後も導かれないだろう。
その繰り返しだ。
探究とは永遠に閉ざされた円環をひたすら歩き続けることのできる愚者に与えられた特権であるが、その反面、その愚者により円環の端を開き新たな円環を描く奇跡の厄災でもある。
そう。この云い振りは「神殺し」を畏れた「
そして我々こそが、その偶然や運命といった不確定要素だ。
故にそれを知り得る我々でさえも、それが「何であるか」はわからない。だからこそ、俺は息子に「好きなようにしろ」と伝えた。何故ならそれが、俺らの本分であるからだ。
——乃木希次の記録より抽出。
※
アッシュ・グラントは ミラの肩をそっと押すと「少し離れていろ。魔力に潰されるなよ」と静かに云った。つい先程は、ミラの身体が潰れてしまうのではと想うほど力強い抱擁で包み込んだアッシュであったが、今は、そこはかとなく優しく、静かな調子だった。
それに少々困り顔をしたミラであったのだが、アッシュのその変わりようはミラにとって心地よかった。いや、悲しくもあったが晴々としたと云ったほうが適切なのかも知れない。どうだろう、ここから新たに二人の関係を築いていけるという希望を感じている——大人びたミラではあるが、特大級な魔術師であるミラではあるが、まだまだ幼い少女はそんな風に具体的に、そう理解したのではなく、心の芯にそれを感じたというわけだ。だから云ったのだ「云われなくてもわかってるよ」と。
アッシュは小さな相棒が、そう云いフンとそっぽを向くのに笑顔を落とし「ああ、そうだったな」と、一度離れたミラの黒髪へ手を伸ばすと、ゴツゴツとした掌で乱暴に撫で付けた。
ミラは笑いとも苦情の表情ともつかない顔をすると「もう」とアッシュの手を払い除け「さっさとしてよ」と、つれなく云ってみせた。きっと恥ずかしかったのだろう。
アッシュは「ああ」と顔を引き締め瞼を閉じた。
その刹那。流れた空気は足を止め両腕を大きく開いたアッシュの姿へ釘付けになったようだった。辺りは静まり、静寂の喧騒ですら息を潜めた。
軽口を叩いたミラは、それに固唾を呑むとアッシュの身体から溢れ出た力——つまり魔力であるのだが、その様相がこれまでのものと異なるのに、目を見開いた。
フロンの修練場で見せたアッシュの魔力は赤黒く禍々しく、そして冷たかった。大崩壊以前のアッシュのそれを目にしたことがないミラにとっての印象は、まさにそれであったから、今目の当たりにする魔力の色に驚いたのだ。
魔術を行使するための魔力の青。
魔導を顕現するための魔力の緑。
等しくそれは魔力——つまり、生命を振るわせ世界へ干渉をする力。その方法、立場、思考、そういったものの違いで異なる色であるが、根源を等しくするものの色である。
では、その根源たる魔力、つまり生命の色とは?
重たさ故にねっとりと纏わりついてくる闇を祓うようであった岩場を走る青や緑の繊条の行先は今や、祭壇にではなくアッシュ・グラントへ向かっていた。
アッシュは両手を大きく広げ向かい来る繊条の光を一身に吸収するようで、あっという間に青や緑の光を喰らい尽くした。
すると大空洞は闇に喰われたのだが、次の瞬間、闇は打ち消されアッシュから溢れた鮮やかな紅色の魔力で満たされたのだ。
固唾を呑み目を見開いたミラは、周囲の闇が祓われ紅に染まると同時に押し寄せた重圧——空間の質量の変化に圧倒され、自身の魔力を練り込むのをすっかり忘れていたことを想い出した。そして、慌てて魔力を練り始めたミラは片膝をつき顔を歪めた。
それほどに、アッシュが放った魔力は重たく圧倒的だったのだ。
気が付けば大空洞が最初は小さく震え、次第に身震いを大きくすると、魔力の紅がどんどんと、未だ祓われなかった闇を掻き分けるように侵食し遂には大空洞の際を露わにしたのだった。
「大丈夫かミラ?」
相変わらず赤黒い蛇目をしたアッシュはミラへ視線を落とし、顔面蒼白と今にも嘔吐しそうな小さな相棒へ手を差し伸べた。ミラは差し伸べられたゴツゴツとした掌を一瞥し掴むと、立ち上がりながらアッシュの顔を見た。
シラク村の大災厄で初めて目にしたアッシュに、どことなく幼さ——と、いうのは語弊があるが、頼りなさを覚えたミラ。
グラドから聞いたアッシュの話や数々の英雄譚から想起されたアッシュのどの表情。どれにも、違和感を感じていた。それは別人であるという疑念ではなく、芯を捉えられないもどかしさ。何かそんなものを感じていた。だが、見上げた先にあったアッシュ——赤黒い蛇目をのぞけば——に、ミラが夢の中に見たアッシュ・グラントその人であると確信する何かを感じると「あったりまえでしょ。おかえりなさいアッシュ」と、自然と口を突いた。
「ただいま? でいいのか?」
アッシュはやっぱり軽口を叩くミラにそう微笑むと、迸った魔力を抑え「ふぅ」と一呼吸置き「エステルに怒られそうだな」と苦笑いをした。
「なんで?」
「エステルは、どの俺を愛していると云ってくれたのだろうなって」
「どの俺? なにそれ?」
アッシュはミラの問いに少々苦笑いをすると、唐突と今では姿を戻した暗闇に指笛を鳴らすと、小さな相棒へ答え始めた。
「ああ、大崩壊の後の俺は——ややこしい話だが、俺の記憶と力を奪った<憤怒>の一部を今日この日を迎えるまで封じていたんだ。
あのままだと<憤怒>は俺の情報を処理しきれなく暴走し——外環に流れ出てしまうところだった。
もっとも、正確に云えば、今日この日でないと<憤怒>を封じることが出来なかったんだけどな。ミラ、お前があの硝子玉を割って、世界の記憶を混乱させた——つまり、なんだ、歴史の修正力というか、そんなものが働く瞬間でないとできなかった。ああそうだ。お前が『揺り返し』にあった時もそれがあった。小さな修正力がな——。
それでだ。それからの俺は一切合切の記憶を奪われて——とんだ博打だったが、今日この日を迎えた。だから——」
「だから——エステルが知っている俺は本当の俺じゃないんだぜ……。とか、云いたいの? それからの記憶はあるんでしょ?」ミラは肩を大袈裟に竦ませアッシュを真似て云ってみせた。
「ああ、勿論。覚えているさ。ちゃんと持って帰ってきた」
「だったら大丈夫だよ。きっとね。だってエステルは本当にアッシュが好きなんだと思うよ?」
「それとこれとは話が違うだろ」
「じゃあ聞くけど、こうなってアッシュはエステルに意地悪とかしちゃうの? 違うでしょ?」
「ああ……」
「じゃあ大丈夫。私がエステルの小さな胸に誓って保証する」
「お前なあ……」
「まあ良いから……ところでさ、アッシュはどうやったかは知らないけれど、自分を取り戻したのでしょ? じゃあ一緒に封じた<憤怒>はどうしたの?」
「俺の肩代わりを——親父が俺の肩代わりをしてくれた」
「アッシュのお父さん?」
「ああ」
「そっか」
「バーナーズ」
「え?」
「今の——いや今までも<憤怒>の名はバーナーズって云うんだ。それを永遠と繰り返している。親父にとっては永遠の牢獄だな」
「そっか——あの犬の名前は、ずーっとバーナーズなんだね」
「狼な……」
ミラは大崩壊前のアッシュを知らない。
だが、そのアッシュでさえも本来のアッシュではなかったのだと確信めいたものを感じた。
数々の英雄譚のなかに謳われたアッシュは勧善懲悪とした英雄ではなく、心のどこかに闇を抱え人々が与えた姿を演じるようだった。先に感じた違和感。きっとそれは、目の前のアッシュ・グラントは記憶も力も取り戻したというのに、心の危うさ——ともすれば、それは怯えのようなものを持ち合わせているようだったから、無垢な子供のようにも思えたのだ——もっともミラ自身も子供であり、それよりは大人であることは確かだが。
そして、これが本当のアッシュ・グラント。
グラドが酔いどれのうわごとのように云った「ありのままのアッシュを見てやれ」というのはこのことだったのだろうか? まさか——あの酒樽が預言者、はたまたは大賢者の御言葉のように云うのだろうか。
いずれにせよ——エステルの話、父親の断片に至ると顔を曇らせたアッシュをミラは気遣うよう話をすると、手をとり「それで。これからどうするの?」と訊ねたのだ。
その時だった——暗闇から溶け出すように大きな鴉が翔んできたのは。
くるりと暗闇で円環を描く影は突飛に翼を広げアッシュ・グラントの遥か頭上で鴉の姿をとると大きく羽ばたき翔んできたのだ。アッシュは、それにごく自然と右腕を差し出し鴉を迎えると、背中を軽く撫でした。もう長いこと鴉との関係はそのように、呼吸をするように、鴉の翼を休める場所はそこであるようにだ。
「アッシュ、この子は?」
ミラは恐る恐るアッシュに近寄ると、小さく身体を振るわせた鴉の背を撫でて云った。違和感はなかった。
まるでそれは当たり前のようにそう感じた。
だから突然と姿をあらわした鴉に幾分か驚きはしたが、ミラはその鴉が何であるかを確かめる——符号するきっかけを得ようとするように訊ねた。
「俺もまた、俺の全てをリードランへ持ち込めない。
それに今はバーナーズと混じっていて、そこには、親父の力も存在している。
だから、よっぽど全部は持ってこれないが……こいつを通じて、持ち込めない力を一時的に引っ張り出すことはできる。
俺が俺に残した<謄写の眼>。その正体——で、最後に取り戻すのは——」
アッシュの腕で翼を休めた鴉は、その言葉に再び身体を小さく振るわせ、少しばかり背を丸める。するとどうだろう。鴉の濡れたような黒い身体——背中あたりから薄らと紅の一本線を輝かせたのだ。輝きは薄く口を開くと、主人——アッシュの手を誘うようにゆらゆらと輝きを揺蕩わせる。
アッシュは目を細め、その誘いのまま鴉の背中へ左手を、ずぶりと突っ込んだのだ。ミラはそれに「うへ」と奇妙な悲鳴を挙げたが、次には驚きの声を挙げた。
アッシュが左手を引っ張り出すと、その挙動に合わせ見事な黒鋼の両手剣が姿を見せたからだ。次には黒鋼の鱗籠手、胸当て、ブーツ。最後には狩猟短剣と一冊の
「アッシュ、それって……」
「ああ、俺の仲間たちの魂だ」
アッシュはそう静かに云うと、右腕を大きく振るい鴉を飛び立たせた。役目を終えたのだろうか。
鴉はそれが意味するところを承知したともでも云うように、一言鳴くと暗闇の中へと姿を溶かして消していったのだった。
見送ったアッシュは、取り出して乱暴に岩場に投げた装備を拾い一つ一つを馴れた手つきで装備していった。もう何年もそうしているように。
全てを装備し終えたアッシュ。
なんの変哲もない顔。
それが、これまで見てきたアッシュの顔であったはずだ。時折みせた人の心を斬り裂くような鋭い視線も印象にある。
だが、今ミラの眼前に佇むのは、そのどれでもなく、英雄譚に姿を見るそれでもなかった。しかしだ。一つだけ、それがアッシュ・グラントであると云うのに十分過ぎるものがあった。それは——神の炯眼を思わせる深く、ひとたび捕われれば逃れることのできない赤黒い蛇目。
多くの伝承では英雄<宵闇の鴉>アッシュ・グラントは黒瞳の炯眼を持った。実際もそうであったはずだ。だが、どうだろう。多くの人々は今のアッシュを目にしても、それが<宵闇の鴉>であると疑うことはないだろう——ミラはそれに、少しばかり笑みを浮かべると「そっか」と満足そうに云った。
最後に黒々とした外套を拾い上げ背に描かれた紋様——ジーウ魔導師団の剣壁の紋様へ手をかざすと、紋様はまるで水の中へ放たれた油のように浮かび上が宙へ霧散し消えてなくなった。
アッシュは無垢な漆黒外套を羽織った。そして黒鋼を背負い、次にはミラへ「背中を」と短く云うと、やはり同じく紋様を消し去り「これで良い」と満足げな顔をした。
「狩りに行くぞ」
アッシュはミラの背中を軽く叩きそう云うと、暗闇へ光球を放ち静かに歩き始めようとしたのだが、顔をハッとさせ咄嗟にミラの肩を抱き寄せた。何か異変を感じ取った。どこかそんな風であったアッシュに身を委ねたミラが次に見たのは、頭上遥か上の暗闇から轟く轟音と共に崩れ落ちてきた岩盤の破片だった。
大空洞のあちこちへ轟音が反響すると、暗闇からぬらりと数多の岩盤が姿を見せ、やはり轟音をたて岩場に激突をした。
アッシュは一言も発することなく、抱き寄せたミラを外套の内へ隠したかと思うと黒鋼で横の一閃を描き、行く先へ立ち塞がろうとする岩盤を一刀両断すると紅の魔力を大きく展開し、やはり崩れ落ちてくる大小様々な岩を蹴散らしながら歩き始めた。
そして呟いた。
「これで——俺の大切なものを傷つけたら……狩人だろうが、なんだろうが——皆殺しにしてやる」