目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

アッシュとアドルフ②




 ——サタナキア砦中庭。


 サタナキア砦は正確な記述は残されていないが、百年程前にも現在アドルフが目にする惨憺たる光景が広がったそうだ。その際は砦が佇む丘の麓へこじんまりと身を寄せ合ったエドラス村も甚大な被害を被った。今では紫紺の沼地と化したエドラスに大量の屍喰らいグールが発生し、奇しくも肉塊腫瘍グールの病巣を形成すると永遠と屍喰らいを産み落としたのだそうだ。


 それを壊滅し——村は滅びてしまったが、被害の拡大を防いだのは<宵闇の英雄>アラン・フォスターとその一行だったと聞く。

 肉塊腫瘍グールの病巣は、サタナキア砦の地下深くに存在すると謂れる地下大空洞へ封じられた魔導工芸品アーティファクトが垂れ流す邪悪な魔力が根源だと知ると、英雄一行は、それを独占しようとフォーセット王国属州ベルガルキーへ反旗を翻した将軍オセとその息子、竜騎士リベラトーレを討ち取った。

 その際に英雄一行は魔導工芸品アーティファクトを守護した四翼の竜、地竜オルゴロスを討伐している。故に将軍を屠った功績に合わせ<竜殺し>の栄誉を手にしたアラン・フォスター一行は英雄と讃えられた。

 しかし彼らはクルロスの魔導災害に巻き込まれ行方知れずとなると、まことしやかに「竜の呪いにあてられ塚人になった」と囁かれたのだった。


 この話を耳にしたのは随分と前だ。

 アドルフは得体の知れない重圧から解放され、あまつさえ国境向こうから放たれた死の光線から中庭に佇む人々を守ると、力尽き、へろへろと本丸へと続く石階段に腰を下ろしボヤっと竜殺しの英雄譚を思い返していた。


 左頬に光を感じた。

 東の空が次第と夜の帷をあげていた。

 もうこれで暫くは——少なくとも夜までは塚人の脅威に晒されることはないだろう。少し休んだら、古の種族、原初の種族エルフ達からアッシュのことを詳しく訊ねて後を追おう。アドルフはそう考えていた。


 ジーウはといえば、珍しく甲斐甲斐しくエルフ達の手当に奔走をしていた。アドルフとジーウは旧知の仲だと云ってよい。だから彼女の性格は理解している。一度信じれば、良くも悪くも一途——盲目的にといってもいいだろう——になれる。

 だから、アオイドスが口にした、とんでもない計画にも面喰らうことなく良く手伝っていたように思う。


 そんな彼女だったが——ジーウは、そこはかとなくリードランの人々を軽視している側面があったのだ。よく口にしたのは「だってゲームでしょ?」という、句点にも似た割り切りの言葉だ。飄々とし冗談を仄めかすようタフな願いごとをイカロスへしていたのは、しょっちゅうだったことも知っている。

 それが彼らを軽視し死んでも構わないと想ってのことがどうかは、アドルフはこれまで訊ねたことはなかった。訊ねても仕方のないことである。そう想っていた。


 確かにジーウの言葉は真理を孕んだ。

 ゲームだというには、ほとほと重要な役割を担っているリードランという世界ではあったが、では現実世界へどれほどの影響を与えるというのか。

 云ってみれば、大規模な災害が現実世界を襲ったとしよう。そして電源の供給が絶たれたとしたのならばリードランは、照明の灯りを落とすよりも簡単にパッと消滅してしまうではないか。

 そういった観点からリードランが儚い存在であることは確かだ。

 だが、アオイドスから真実の何割かを打ち明けられたアドルフとジーウは、リードランに感じた儚さは誤解で、もっと根本的な部分で二人が知らない「重大な何か」があるのではないか? と思っていた。

 それはきっとメリッサ・アーカムが握っている何かだろうし、アッシュ・グラントの存在そのものがそうなのだという可能性も大いにある。


 そう考えればきっとこのリードランに何か重大な秘密が隠されている。そして、ジーウが甲斐甲斐しく手当をするリードランの人々もきっとその秘密の一つ。

 あまりにも突飛な考えだが、アドルフ達、外環の人間もリードランの人々も分解をしていけば、気が遠くなるほど微細な可能性の粒子へと源流を遡るのだ。

 何が「現実」で、何が「仮想」なのか。その考えさえも実は、おこがましい傲慢なのかも知れない。

 だってそうだろう。

 命を取り留めたシルダリエルの顔に涙したアラグル。あの涙は何がどうであろうとも「現実」だ。「仮想である」と一笑するものが居るのだとすれば、それは糞ったれだ。

 ジーウの軽視が、その糞ったれなものではないのか、どうか。それはジーウ個人の考え方であるのだとアドルフは思い、そうなのだとしたらそれは、相容れない価値観であるとも思う。

 だから訊いても仕方のないことだ。そう思うのだ。

 もっとも、今の彼女を見れば、そんな価値観の違いなどないのだろうが。


 アドルフはそんな風に思いを巡らせ、今では階段下でアラグル達エルフへラーメンという食べ物がどれほど旨いのかを力説するジーウと、やっぱりその言葉に理解を示せないエルフ達、もっといえば魔導師団の面々、イカロス騎士団の面々が困った顔をするのを眺めると「あの人、本当……天然なんですかね」と苦笑をした。


 その刻だった。

 打ち破られてしまっていた本丸への大扉の向こうから、感じたことのない魔力を察知したのは。

 アラグルが練り上げた紅い魔力にもにていると、アドルフは思うと、それは正解だったようでアラグル達は困り果てた談笑から一変し、緊張した面持ちで大扉の方へと顔を向けたのだ。

 そしてアラグルと今ではすっかりと気力を取り戻したシルダリエルは身を寄せ合い「王よ」と一言漏らしたのだ。


「王? あ、アッシュさん?」



 ※



「ねえ、アッシュ」

 大空洞へ潜る際に通った永遠の螺旋階段を登るアッシュとミラ。ミラは先を歩くアッシュの外套をつまみ小さく訊ねの合図を口にした。先にアッシュが口にした「狩人だろうがなんだろうが、皆殺しにしてやる」その言葉がひっかかっていた。


「どうした?」アッシュは短くミラに答え訊ねの続きを促した。

「アオイドス達と仲直りするんだよね?」

「それは、あいつら次第だ」

「……アオイドスは自分たちの世界を守りたくて……」

「ああ、わかっている」

「もう、アオイドス達の世界に<憤怒>が流れ出ることがないならアオイドスが——その……」

「俺を殺さなくても大丈夫だな——だが、元凶はメリッサだ」

「白銀の魔女?」

「そうだ。あいつはまだ生きていてエステルをどうにかしようとしている。だから、どちらにせよアオイドス達にはまだ俺を殺す理由がある」

「どういう意味?」

「俺がエステルを助け外環に戻れば、十中八九、リードランの力は完全でないにせよ流れ出る。その逆もそうだ」

「逆って……」

「俺は俺の力—得体が知れないけれどな、それを制御できない。エステルが居ない世界——俺はそれを望まない」

「……だったら、それをアオイドス——お母さんに説明してあげ——」

「それもわかっている——だが、事態はもう少しだけ深刻だ」

「深刻? それはどう云う意味……」

「そのうちに解る——さあ、出るぞ。もう夜が明けている頃だろう」


 深刻な事態。

 ミラはそれが何か皆目見当もつかなかった。だが、どれほど深刻であろうと小さな大魔術師は白の吟遊詩人の無事を願い、お人好しの野伏の気苦労がすっかりと身を結ぶことを願っている。

 そして、キーンのグラドとアイシャの元へ帰るのだ。

 またグラドがアイシャの目を盗んでアイボルトと悪い遊びに出かけるのを尾行し、ミラがアイシャに告げ口をする。結末はこうだ。ぐでんぐでんになったグラドとアイボルトのお尻をアイシャが、擂り粉木棒でひっぱたいて連れて帰る。

 そんな結末ばかりではアイシャが気の毒だからミラは精一杯、アイシャの手伝いをし、暖かいキーン料理を作って、アイシャとアオイドスとアドルフに振る舞うのだ。

 それが、どんなに尊い光景だろう——グラドとアイボルトにとっては地獄だが——と、ミラは思う。そして、そんな日常が願いだ。

 いつの日か、アオイドスのいうレディーになれたのであれば、アッシュのような男と恋に落ちて少しだけ苦しい想いもして結ばれる。

 そんな日が来るのをミラは待ち望んでいる。

 いや、待っているだけでは——聖霊ロアの言葉が蘇った。


「あなたの名は、その字によって二つの意味を成します。不思議さゆえに不平不満を撒き散らす嫉妬の小悪魔にもなれば、ご主人様と同じく承認者とし、その不思議から理を世界に与えます。いずれを選ぶにせよ、あなたは吟遊詩人の唄の旋律の外。だから、。それがあなたに与えられた、いいえ、あなたの母が望んだ道です」



 アッシュの最後の言葉にミラは、心細く摘んだ<宵闇の鴉>の外套から手を離した。

 そして顔を上げる。

 前を行くアッシュの背中は真っ黒く周囲は白々とした。階段を登り切ると打ち破られた本丸の大扉へ戻ってきたのだ。





(アドルフ、颯太。白石颯太)

 どこか慌てた風な声がアドルフの頭をよぎった。

 大扉の前へ姿を現したアッシュ・グラントの姿に目を疑ったアドルフはすこしばかり、茫然と<宵闇の鴉>の凱旋を眺めたのだが、慌てふためく声に我へ返ると(えっと、その声は……無人さんのところのヘルパーさん? どうかしましたか?)と、やはり慌てて返した。


(無人が目を開きました……が、意識を取り戻したようではなく)

(まさか……だっていま目の前にアッシュさんが……シンクロ時の意識はこちらにあるはずだから、そちらの肉体に動きがあるのは……)

(ですが……。時折、瞬きをするくらいで焦点はあっておらず、瞳孔も半ば開いているような状態ではあります)

(そうですか……。ところで先生達にそのことは?)

(メッセージを送ったのですが、無反応です。こちらの状態もシンクロしたままで帰ってくる様子がありません)

(何がどうなっているんだ……)

(颯太、一点気になることが)

(なんですか?)

(その、この無人の肉体ですが……)





「*@sfse./gde&%でね! 喉越しもよく美味しいの。今度食べる?」

「導師ジーウ……何を仰っているのかさっぱり」

 嬉々と外環の食事がどれだけ旨いかを力説するジーウへ、声を揃え苦情を伝えたのは騎士イカロスと古エルフのアラグルだった。シルダリエルは未だ身体が重くアラグルの腕の中で、それを笑って眺めていた。


 イカロスの探究心は、すでに世界を隔てる壁の向こうへ姿を消したと云われたエルフの存在に向けられ、アラグルは最初それに面喰らったものだが、イカロスの真剣な眼差しに押されたのか——気持ちよくしたのかも知れないが——あれこれと、エルフについてを語っていたのだ。

 そこへアラグルの手当をとやってきたジーウに、話の腰やら背骨やらを折られ今では、すっかり手当のことを忘れた大魔導師が、いかに食通かという話へとすり替えられたというわけだ。


 苦情を面と向かって云われたジーウは、半ばムスッとすると「世界観も大事だと思うけれど、ここまでしなくてもねえ」と、やはりイカロス達には理解の及ばない文句を口にし「移動にしたってそうよ。そうは思わない? アッシュ・グラント」と、それまでの戯けた表情を改め、精巧な人形のように双眸を無機質にした。


 アラグルとシルダリエルはそれに驚き大魔導師の視線を追いかけた。そして、そこに見たのだ。自分達、原初の種族が練る魔力と同じ色のそれを纏った王の姿を。

 それはアッシュ・グラントであった——二人は口を揃え「王よ」と呟いた。


 ジーウはそれに冷たく視線を落とし二人のエルフを一瞥する。そして「あれが王……ね——」と声を平たく冷たく吐き捨てると、修練場での屈辱が脳裏に蘇った。

 あの対峙で感じたのは云いかたをもっともらしくするのであれば「禍々しい」魔力だった。強大で押し付けがましく、そして尊大であったように思う。何もかもを見下したような鼻持ちならない気配。自分はそれに屈すると、己の死を植え付けられたのだ。

 完敗であったと云ってよい。

 だが、たったいま姿を現したアッシュ・グラントから感じる魔力はまるで異なるように思えた。少しでも気を緩めれば飲み込まれ、まるであの男の一部にされてしまうのではないかという、得体のしれない恐怖を感じる。そうなのだ。まるで勝負する気力すらも沸かせない圧倒的な威圧感。そんなものを感じる。


「——いいえ。アラグルさん、あれはもっと違うものよ。えーっとね。あれは魔神ね。あんなの外に出せるわけないじゃない」

 ジーウの言葉の最後は恐らく自分に云い聞かせたのであろう。言葉を投げかけられたアラグルはジーウを見上げ、外された彼女の視線にそう思った。

 大魔導師の視線は階段の踊り場に佇んだアッシュ・グラントに釘付けだった。



「アッシュさん! 無事だったのですね!」

 わざとらしかっただろうか。

 アドルフは自分の顔がひきつっているであろうことを承知の上で、笑顔を造り気持ちを偽りアッシュに声をかけたのだ。それが、露呈するのは、まあそう時間はかからないだろう。何せアッシュを迎えようと階段を登る足も重く、どこか落ち着かずに所作がぎこちない。

 きっとそれだからであろう。

 アッシュがアドルフへ投げた視線は冷たく、心臓に剣を突き立てられるように感じた。いや、もっと他にも理由はあった。そうだ。その瞳は赤黒く蛇目であったからだ。

 シラク村で初めて見た時。王都の修練場で見た時。そのいずれでも目にしたことがない——洗練されたとでも云うのだろうか、赤黒の蛇目はどの獣の瞳よりも、獣の瞳であったのだ——そして、アドルフは息を呑み「アッシュさん、その瞳は」と声を震わせた。



「アッシュ、ほらアドルフだよ」

 ミラは朝ぼらけに目を瞬かせると、アッシュを追い抜き大扉の外へ躍り出た。そして石階段の踊り場から見下ろした先に、顔馴染みの野伏の姿を認めると嬉々と云ったのだ。


 それにアッシュは短く「ああ」と云ったのだがアドルフの様子に冷たく視線を投げ、それ以上は言葉を発しなかった。踊り場に出ると辺りを眺めたからだ。

 そして不自然に北西に穿たれた、焼け爛れた大地の線に気がつくと北東に目をやり、再び視線をそちらへ戻した。

 無事だったのかとアドルフは声をかけたようだったが、それに気を留める様子もないアッシュは「ヴァノックか」と小さく溢しただけであった。


 さすがにミラはそれに両頬を膨らませると「ねえ、アッシュ! 聞いているの?」と声を荒げ胸のまえで腕を組むと、ずんずんとアッシュに歩み寄り肘で脇腹を叩いたのだ。

 アドルフのことが見えていないわけがない。

 なんで大人ってこんな意地悪ができるの? とミラは思う。何か嫌なことがあるならそれを伝えれば良いのに。嬉しいことがあったのなら、もっと伝えたらいいのに。素直になれだなんて大人は云うけれど、自分達だってそうじゃないか。

 ミラは腹落ちのしないアッシュの態度に苛立ち、もう一度脇腹を強く叩いたのだ。今のアッシュなら幾らだって叩いても大丈夫だろう。<宵闇の鴉>がそんなことで痛がるとも思えない。ならばと、思いの丈をぶつけるよう強くそうした。


 アッシュは小さな相棒が繰り出した強打に気が付くと「なんだ」と一瞥をしたのだが、ミラが本気で怒っているのを悟ると、アドルフが投げかけた問いにようやく耳を貸し答えたのだった。

 もっともその答えはアドルフの問いを見透かし、一足飛びに先に得たい答えを告げるようで、アドルフは苦悶の表情を浮かべ、ただ沈黙するしかなかった。


「大凡のことはアオイドスから聞いているのだろ?

 本当はこうなる前に可能性ごと俺を殺したかった。そうだな? だが、アオイドスの予想は少しばかりズレた——」

 アッシュはそこで言葉を短く切り、アドルフの向こうに見えたジーウ・ベックマンへも視線を送り言葉を続けた。

「——どうする? それでも俺を殺すか? 

 俺の本体の近くにはアオイドスが居る。そうなのだろ? お前達が俺の邪魔をすると云うのならば、この場で屠ってアオイドスの本体を殺し、リードランへ戻ってきても良い。だがな、願わくば今は時間が欲しい。早いところエステルを取り返したい」


 アオイドスを殺す。

 その一言にアドルフもジーウも表情を歪めた。

 きっとそれは本心ではないのであろう——そうであって欲しい。だが、その可能性を示唆されてしまえば、本心でなかったとしても眼前のアッシュ・グラントは恐らく自分達の敵である。きっとアッシュにとってのアドルフとジーウもそうなのであろう。


 アッシュの口振りから<宵闇の鴉>は全ての真相——アオイドスの言葉を借りれば世界因子を繋ぎ合わせ、ほぼ全てを知り得ているのだろう。

 しかし、それが確定するのは、その事実を認識したその時だ。だからアッシュの言葉には探るように疑問符が付いて回っている。だが何故なのか。その気になればアッシュがアッシュを取り戻す機会に世界を塗り替えることだってできる筈ではなかったのか?

 アオイドスの言によればそうだった。だがアッシュはそうはしなかった。いや、できなかったのか?

 アドルフはそれ以上の思考を巡らせるには時間がないと慌てた。時間を稼げ。考えろ。どう答えればよい?


「それは勿論わかっています。邪魔なんてしませんしエステルさんを助けに僕らも行きます」


「エステルを見殺しにしたお前らが助けにいくというのか? 何故——いいや、失敗はしたが、この機会を造り出す為にお前達はエステルが捕縛されたことを黙っていた。次の機会は俺がメリッサと対峙するときだ。そこまで俺との関係はつないでおきたい。そういうことか?」


「違います! 本当にエステルさんを——」

「アッシュ!」


 アドルフの言葉が途絶えるのとミラが宵闇の名を叫んだのは同時であった。

 アッシュがその場から姿を消し、アドルフの胸ぐらを捕らえ階段下へ投げ飛ばしたのもだ。アッシュがアドルフへ飛びかかった姿は、まるっきり目にできなかった。なんの予兆もなく起こされた動作は光の速さの中での出来事のようで、瞬きの刹那にアドルフの身体は放たれた矢のように投げ飛ばされた。


 石階段へ無惨に身体を打ち付けたアドルフは声も挙げられず苦悶し、そして口から鮮血を撒き散らした。あまりもの衝撃に内臓のいくつかを破いたのかも知れない。

 だが<外環の狩人>であれば、それも立ち所に治癒をするはずである。もしくは、その傷を意に介することなく反撃に出ることが出来たはずだ。ミラの記憶では——リードランの理はそのように出来ているはずなのだ。


 しかしアドルフは暫くの間、転げ落ちた先で身体をピクリとも動かさず声にならない声を挙げ苦しみ続けた。何かがおかしかった。ミラはそれを悟ると「なんで、こんなことを」とアッシュを睨みつけると急いで階段を駆け降り、アドルフの元へと急いだ。

 野伏の傍らに跪き容態を確かめる。

 アドルフは半ば白目を剥き呼吸がままならない状態であった。


「ジーウさん! 手当をお願い! アドルフが死んじゃう!」

 ジーウは、まさかと驚きの表情を見せたがミラの必死の形相に、それが現実に起きていることなのだと理解をすると、急いで駆け出した。

 ミラの向かいでアドルフの容態を確かめたジーウは「大丈夫、任せて」と珍しく神妙に云うと、指を噛み切り、目にも留まらぬ速さでアドルフの身体へ<言の音>を描いた。そして、そこへ掌をあて身体を治癒する唄を口ずさむ。

 緑の輝きがアドルフを包み込み、少しの間を置くと緑輝は野伏の身体の内へ染み込むように消えていった。すると、「ゲフッ!」と、アドルフは喉に詰まらせた血塊を吐き出し剥き出した白目をしまい意識を取り戻したのだ。


「もう大丈夫」とジーウは顔面蒼白となったミラの黒髪に手をあて「教えてくれてありがとうミラ」と微笑んだ。

 微笑む余裕など本当はない。

 ジーウは唄を口ずさみながら、階段を静かに降りてくるアッシュに目をやり考えていたのだ。アドルフがこうなった可能性をだ。


 リードランから肉体への五感のフィードバックは、身体への影響を考慮し制限が施されている。命に関わるフィードバックが抜き身で行われれば、脳はそれを死と錯覚し身体機能を止めてしまう可能性があるからだ。

 だが、それらのフィードバックは記録はされる。

 つまり、どれだけの衝撃を与えれば死に至るのか? などといった物騒な情報は刻々とウェッジプロセッサを介し情報として蓄積されるのだ。その基準はリードラン内での身体能力に礎を置くことから、現実世界の人間のそれとは対比することは難しいが、なぜかそれは記録されている。



 ジーウは意識を取り戻したアドルフの頬に一度触れ、静かに立ち上がると「アッシュ・グラント。どういうつもり?」と、階段を降りてきた<宵闇の鴉>へ鋭く訊ねた。


「ご想像の通り——リードランからのフィードバックを直結した。ここでの死は現実世界での死。俺の邪魔をして死にたくなければ、早々に外環へ戻れ。これは警告だ——」

 アッシュはそう云うと赤黒の蛇目を絞り、黒鋼の両手剣を大魔導師へ突き出した。

「——お前達、狩人が俺の邪魔をすると云うのであれば……皆殺しにするだけだ。もうこの世界で狩人が『神の如き』力を振るえると思うな。リードランの人間にも、お前らにも等しく死は訪れる。ああ、そうだ。俺にもだ——」


 アッシュの赤黒の蛇目は冷たかったように思えた。

 突き出された黒鋼の切っ先はジーウに向けられているはずであったが、意識を取り戻し薄らとした目に一部始終を焼き付けたアドルフは、その言葉は自分に向けられている。そう思った。何故ならアオイドスの手となり足となり、筋書きを調整したのは、他でもないアドルフ自身で、そしてアッシュはそれを知った。いや、その可能性を現実に近い形で掴んでいる。


 情けをかける——いいや、違う。

 言葉の表層はいつだって真実を覆い隠し、滲み出た色の具合で都合よく解釈をする。アドルフだってそうなのだ。だから、アッシュの言葉の裏には何か真意がある。そう想いたい。それこそ、都合よくそう思ったのだ。

 アドルフはミラの膝へ頭を乗せ介抱された姿も相まって「情けないな……」と、そんな蜃気楼のように揺らぐ可能性にすがる自分へ小さく言葉を吐き出した。


 だがしかし、アドルフにも許せないことがある。

 それはアッシュ・グラントがアオイドスを手にかけると——言葉の裏に真意があろうか無かろうが、それだけは許せなかった。

 だから、ボロボロの身体へ鞭を打ち、情けなく立ち上がり云ったのだ。


「アオイドスを殺すと云ったなアッシュ。

 撤回しろ。僕はどうなったって良い。だけどな。それだけは許せない。あなたがエステルを想うように僕もアオイドスを——」


「——『さん』が抜けてるぞ野伏——」


 赤黒の蛇目が一瞬燃え上がったように見えた。

 アドルフにもジーウにもミラにもそう見えた。

 それは束の間であった。

 宵闇の前に立ちはだかるジーウの頬に鱗籠手が触れると、大魔導師はその場から姿を消した。いや、正確には強烈な衝撃派に見舞われ吹き飛んだのだ。

 ジーウはその瞬間「ヤバ」と短く呻き咄嗟に魔力を集中をした。そのおかげで首をへし折ることはなかったが階段下に集まった古エルフ達の群衆の中に吹き飛ばされ、鮮血を吹き上げたのだ。


 虫ほどにも気に留めない。

 アッシュはまるでそんな風にジーウを吹き飛ばし、ふらふらと立ち上がった野伏に黒鋼の切っ先を向けた。


「——撤回だと? 俺がもうやめてくれと云っても聞く耳を持たないお前らが、それを要求するのか?

 いいか野伏。世界の理は円環ではあるが、収束点はある。それは漏斗に落ちるよう巡り周り因果は役割を果たし、収束し原初の海へ還る。ではお前の因果はどうだ? どのような収束を描く。俺に殺される結末か? それとも、あの吟遊詩人との幸せな世界か? もし、それが二律背反の質を孕み成り立たないとしたら?」


 つまり。

 それは、眼前の魔神を見て見ぬ振りをすれば成立するが世界の行く末はわからない。あまつさえ屠ることで自分達の世界を守るのであれば、成立しない。愛する人を守るには世界を諦めなければならない。

 アドルフは切っ先の黒光を睨みつけ「これ、大学生が判断することなのかよ……」と苦笑をした。


 その時であった——アドルフと黒鋼の切っ先の間へ割って入った影があった。

 アラグルとシルダリエルであった。

 二人はアドルフの肩を抱き数歩後ろへ下がると、アラグルはシルダリエルへかぶりを振り半歩前へ踏み出し「世界の王よ、身勝手な拝謁をお許しください」と膝を折り首を垂れた。


「アラグル、王というのはやめてくれ」

「では、宵闇の。発言の許可を」

「それもだ。やめてくれ。

 俺はお前達の王でもなんでもない。むしろ俺はお前達に謝罪しなければならない。魔女の甘言に乗ってしまい第四の獣を放ってしまった」

「それも、宵闇の、貴方が云うように因果の円環なれば……」

「勝手にしろ……それで、その野伏に……あの魔導師をどうするつもりだ」


「野伏アドルフ・リンディは、魔女の獣——アイザック・バーグの謀略により落命寸前となったシルダリエルの命を、狩人の法で救ってくれました。狩人であれば見殺しにしても毛程の悲しみも感じない瑣末なことに、かの野伏は禁忌を犯してまで……このアラグル、あの野伏には——」

「——借りがあるか」

「はい。大恩なれば。我が命を差し出してでも」

「そうか。だったら好きにしてくれ。ただし——一つ条件がある」

 アッシュはアラグルの肩へ手を添え、その向こうに見えたアドルフを一瞥し、今ではすっかりアドルフの傍を離れないミラを見ると寂しそうに口を開いた。


「俺はこれから、ヴァノックが示した道を征く。

 そうだな、あれはクルロスへ向かっているのだろ? であれば、俺はそこで魔女と決着を付けなければならない。アイザック・バーグともな。

 それでだ——アドルフ。

 ミラをキーンのグラドの所へ送ってやってくれ。それが条件だ。そのついでに北で苦戦しているアオイドス達を助けてやれ。禁忌を犯したのなら、ポータルのこともわかっているだろ。今すぐに出れば間に合うはずだ。不完全とはいえヴァノックは強敵だ」


 それに大声を張り上げたのはミラだった。


「なんでよ! 一緒に色欲おばさんも斃すのでしょ? なのになんで私がキーンに帰らなければならないの!」


「ミラ、これは俺の問題だ。

 もうお前が俺の因果に振り回されて悲しむ必要はない。お前の家族はお前が守れ——相棒、それができるのはお前と、そこの野伏だけだ。あとの事は俺に任せろ」

 それきり、アッシュはミラのこともアドルフのことも見ようとはしなかった。


「そんな——」

 ミラは野伏のチュニックをギュッと掴み項垂れた。

 アドルフはミラの黒髪に視線を落とし肩を抱くと手を振るわせた。今、自分はこの二人に何かを背負わせた気がしたのだ。未だアッシュの真意には辿り着けない。だけれども——小さな大魔術師とリードランの王は何かを決断した。いや、決意を改めて確認をした。そんな風に思えたのだ。


 階段下ではようやく意識を戻したジーウがエルフ達に支えられ起き上がった。エルフの一人がジーウへ治癒の術を施し、時間はかかったが、あとはなんとかジーウ自身の魔力で身体を活性化したのであろう。


 アッシュはそれを見届けると外套を翻しサタナキア砦の石段を静かに降りていった。

 東から登った陽の光がアッシュの影を西へ西へと伸ばした。

 はためく外套の裾はまるでそれが王のマントでもあるように影を揺らし、背に掛けられた黒鋼の両手剣の影は、王が背負った十字架のような影を落とした。

 はたしてリードランに十字架の意図があるとは思えない。であるのならば、その影はまるで墓標のようであったが、アドルフはその影を追いながら願うよう瞼を閉じた。


「アッシュさん。ご武運を。貴方にも、貴方が生きて救わなければならないものがあるはずですよね……」


「ああ、そうだな」

 最後のアッシュの言葉はアドルフには聞こえなかった。

 だが、軽く挙げられたアッシュの左腕。それは、きっとそう云ったのだ。


 アッシュ・グラントはヴァノックが穿ったという焼け爛れた大地の線を辿るように北西へと歩みを進めた。残されたエルフ達は皆、アッシュの姿が見えなくなるまで膝をつき頭を垂れた。





 アドルフとジーウはミラを迎え今後の話をするのだが、そうそう時間はない。しかし、アドルフは何かに気が付いたように顔をハッとさせると、ジーウへ先に北に向かってくれと頼んだのだ。

 どうやら外環で何かがあったようだ。

 ジーウは怪訝な顔をしたが、ミラを連れ北に向かうことを了承した。

 ミラはと云えば、アッシュとの別れにショックを隠しきれない様子であったが、アオイドスが北の地で苦戦をしている可能性が高いと改めてアドルフに云われると、両頬をパンパンと叩き「アッシュとはまたいつか会えるよね?」と気持ちを新たにしたのだ。

 アドルフはそれに「そうだね。アッシュさんは少なくとも死ぬ気はない筈だ」とミラの気持ちの下支えをし「それじゃ、禁忌というか——まあ、いっか。二人を北の安全な地域へ送るよ」と、あの爽やかな笑顔を見せた。


「アドルフ君のそれー。なんか嘘臭いから気持ち悪い」とジーウは云うのだが、当のアドルフは「それはジーウさんが、ひねくれてるから、そう見えるのでしょ?」と、やはり爽やかな笑顔でやり返す。ミラはそれにクスクスと小さく笑って見せると、馬上のジーウにしがみ付きやはり小さく「ありがとう」と云った。


 二人は顔を見合わせ、小鼻を掻くと「それじゃ、後で」と別れの言葉を口にした。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?