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Ragnarok#1_溶け合う世界




「痛ッ!」

 産学リエゾン共同研究センターの純白の廊下には、シンプルなサインが施され目的地へ到着するのは比較的に簡単だ。洗練されたピクトグラムは的確にセンター内を案内し、勿論の事ながら監視カメラに組み込まれた網膜スキャンは、廊下を歩く人間を認識し必要があれば目的地まで誘導をするアナウンスを脳へ直接送信をする。


 勿論それは、そういった機器を脳へ埋め込むか、政府関係者もしくは<白の王城>の関係者、並びにクライアントへ広く配られたスマートデバイス<セキュア・バイオ・メトリクス>を装着していれば、その恩恵を享受できる仕組みだ。

 だが、それを受信するさいに痛みを伴うケースを高木陽菜は知らない。だからたった今、左手首を刺した痛みに違和感を覚えたのだ。


 痛みといっても、それこそ感じた通り軽く刺した痛みであったからさほど気にも留めなかったのだが、次第に身体が重くなるのを感じると顔を顰め、陽菜は手首に巻かれたスマートデバイスへ視線を落とした。

 人工知能センターのある二階フロアの踊り場に出た陽菜は足をとめ、視界へ入った様相に「何よこれ、キモいんですけど」と毒づいた。


 左手首を裏返しスマートデバイスの盤面を見ると、銀色の外郭の脇から極細の血管のような繊条が数本伸びており皮膚を刺していたのだ。不思議と出血はないものの、手首周辺が腫れ上がってるように思え、ともすれば痒みを感じた。所謂、痛痒いというやつである。陽菜はそれに慌てた表情を浮かべると、デバイスのベルトを緩め外そうと試みたのだが、どうやら皮膚にへばりついてしまい簡単には外すことができない。


「ちょっとちょっと……ええええ……」

 意外とこういった不測の事態に弱い陽菜は、このに困り果て、とうとう森山へ助言を求め通信を投げたのだが、いっこうにそれは受信されなかった。それに陽菜は「もう、肝心な時に!」と、再び毒づいたのだが「——って、時間もないし……なんなのよ」と、身体に若干の倦怠感を感じるものの目的の人工知能センターへ急ぐよう、気持ちを切り替え純白の廊下を小走りした。


 ※


「いててて……なんだこれ……」

 白石颯太は人工知能センターの中でも区分けされた一室に居た。正確には寝転んでいたし、あたり一面に血溜まりができている状態であったから、穏やかな状況ではない。

 ぼんやりとした頭を摩り、懸命にその状況を理解しようと努めたが、なかなかにそれは難しかった。と、云うのも左手首に違和感を感じ、そこが痛痒い。


 先ほどまでは、リードランへシンクロしていた。

 ジーウ・ベックマンとミラ・グラントを北方の永世中立都市ダフロイトへ送り届けた颯太であったが、戻ってきてみれば身体が重たく、そこら中に痛みを感じ困惑したのであった。

 これが数日シンクロしっぱなしといった仮想世界中毒者メタバースホリックであれば、仮想世界と現実世界の時差に酔いを覚えることもあるだろう。だが、少なくとも周囲が血生臭い惨劇になっていたり、身体のあちこちが痛かったり、左手首が痛痒いなんてことはまずない。シンクロ中に強盗にでも入られたのであれば別だが、セキュアなこの研究所へ凶悪な部外者が侵入する可能性は低いといっていい。


 困惑といえば、わざわざ一度こちら側へ戻ったのは蒲田で乃木無人に葵、そして森山を監視したチェンバーズからの連絡に困惑をしたわけであり、身体の不調もあわせると随分と気持ちを不安にしたのだ。リードランでアッシュが投げ捨てた言葉のこともあり、なぜシンクロ中の乃木無人が半覚醒をしているのかも疑問が残り、その不安は尋常でないと云ってよい。葵が無事であれば良いのだが。


 颯太は次第に覚醒してきたようで、スチール製の机に手をかけゆっくりと立ち上がった。そして辺りを見渡し、葵へ連絡を取ろうと左手首を確認し「うわ、なにこれ」と驚きの声を挙げた。しかし、周囲の惨状の方が気になるのか、スマートデバイスからコンソールを呼び出し自分の身に何が起きたのかを確認をした。


 ログを確認すると、デバイスに搭載をされた緊急メディカルプログラムが起動をしたことがわかった。その記録によれば、メディカルプログラムは、とあるタイミングから機能拡張パックがダウンロードされアップグレードされていた。


 デバイスには様々な機能が搭載されている。

 そのうちの一つは、ディスペンサーで購入をした飲料は、スチール缶であろうとリサイクルペットであろうと、飲み終わったら手首に巻かれたデバイスへかざすと、素粒子レベルまで分解しディスペンサーへ転送する仕組みが組み込まれている。転送をされた情報はディスペンサー内で解析され、缶なりペットボトルなりの形状をとり再利用される。


 しかし、この機能はディペンサーに接近をしている状態でないと機能しない。分解された情報をパックし転送するには、時間の概念がある現実世界では極めて短い時間で行われる必要があり、ディスペンサーとの距離が遠い——つまり、距離を移動する時間を要してしまうと失敗に終わってしまう。だから物質を遠方へ瞬間移動させる方法を人類はまだ手にしていない。颯太が好んで観るレトロアーカイブの<スター・トレック>の世界はまだまだ遠いといってよい。


 だが、その機能は極めて接触に近い状況であれば素粒子単位まで物質を解析し、分解、再構築できるということを意味している。アップデートされた内容というものは、それだった。緊急メディカルプログラムは心拍の低下したユーザーの心臓を電気的にマッサージすることや、簡単な裂傷を塞いだりといった簡単な施術を行うものであるがアップデートされた機能では、例えば失われた血液は、予め検出された成分構成を基に——限りはあるが、生成され簡易的な輸血を可能にする。


 ログを眺めた颯太は、辺りに広がった惨状と自身の状況を照らし合わせ——左手首のデバイスから伸びた極細の繊条が皮膚に刺さっていることから、これに助けられたのかと想像をしのだが、どこか怪訝な表情を浮かべた。

 細かくログを確認する。

 そこには、ジーウ・ベックマンがリードランからプログラムへ命令を下し、颯太が負った怪我を再生するような痕跡が残されたいたのだ。そこには肉体への負荷も記録されている。おそらく颯太の感じる倦怠感はこれが原因だろう。


「アッシュさんが云っていたのはこれか……」

 颯太は奇妙な——いや、グロテスクと云ってよかった左手首を裏返しにしたりを繰り返し、状態を確認した。そして、聞き覚えのない声が耳に飛び込んできたのだ。女性らしき声であったが随分と力強い印象だった。


「アドルフ・リンディ——白石颯太ね?」

 研究所の一室へ身体を滑り込ませ、颯太の名を確認したのは高木陽菜であった。

 颯太は目を丸く見開き、なぜか逃げ出すような素振りを見せたのだが「動かないで——っていうかシラク村で約束したでしょ」と陽菜が口にすると「もしかして——ライラさん……ですか?」と、相変わらずの逃げ腰ではあったが、その場に留まった。


「そうそう。ライラさんよ。本名は高木陽菜。DCIAの捜査官」

 陽菜は先程から違和感を感じた左のデバイスからコンソールを呼び出し、そこへ捜査官であることを示す証明された身分証セキュアシールを映し出した。

 颯太はそれを確認すると「本当に警察関係者だったんですね」と惚けて云ってみせたが陽菜は「よく云うわよ。知ってたくせに」と颯太の傍の机に腰をかけた。


「それで、この惨状は?」陽菜は薄暗い一室——部屋の奥から漏れ出ている、緑や青の光の中に浮かんだ惨状を見渡し颯太へ訊ねた。そして、短い黒髪を耳に掛け直し小さく溜息を漏らすと、颯太と視線を絡めた。

 陽菜は随分と疲れた様子だった。

 そう感じた颯太は自然と陽菜の左手首に目をやり「高木さんも——左手の……」と、自分の左手首を見せた。陽菜の疲れた様子は、他にも理由があるのだと分かってはいるが、倦怠感に襲われた颯太の理由と同じことが陽菜にも起きていることは容易に想像できた。


「ええ、ついさっき見たら——」と恨めしそうに陽菜も自分のデバイスを颯太へ見せた。


「それで?」と陽菜は、話がそれないよう言葉を刺した。このパターンはよく森山が使う手だ。都合の悪いことを訊かれると、話の流れを変えようと、やんわりと話題をすり替える。男というのは、そういう生き物なのだろうか? と陽菜はいつも思っている。だから、その手には乗らないとばかりに少々強めに訊ねたのだ。


「あ、はい。でも——気がついたらこんな状況でして」と、あからさまに困った様子を颯太は見せたのだが、陽菜はそれにも「はいはい」と呆れ口調で云い、手を伸ばすと颯太の左頬に付着した血液を指ですくい、デバイスにかざした。そして「どっこいしょ」と、どこか年齢にそぐわない言葉を漏らし重たい腰をあげると、颯太の周囲に広がった血溜まりの前にかがみ、掌をかざしたのだ。つまり、血液の照合をしたのだ。


「ほら、これ。あなたの血じゃない。何があったの? 全部お姉さんに話しなさい——それにしても……血の匂いが嫌ね」

 陽菜は腰をあげ、颯太の血塗れのティーシャツを一瞥し不快そうな顔をしたが、彼の袖をひっぱり部屋の奥——緑や青の光が漏れる大きな硝子窓の方へと移動をした。


「それでね、白石颯太。DCIAの権限であなたは私に協力をする義務が発生しているわ。デバイスもその条項がアクティベートされている。ここからの会話は全部記録されて、こわーい警察のおじさん達のところへ送られる。ええ、そうね。プライバシーも何もあったもんじゃないわよね。でも、これは国民の義務よ。税金を滞納しているなら尚のこと。いいわね?」


 確かに成人をした颯太は納税の義務が発生していて、それを怠っている。かろうじて学費と家賃といったコストは親が支払ってくれているが、厳格な颯太の父は、それ以外は自分で稼いでなんとかしろと云って憚らない。一人っ子である颯太の母は、そんな父へ「それは厳しいのでは」と、助け舟をだすのだが、若くして起業し一代で千人強の従業員を擁する小売販売チェーンを育て上げた父は「甘やかすな」と一喝して終わりだ。


 大体において颯太の父は「甘やかしすぎだ」と、颯太の世間知らずな考えを否定もするのだ。颯太はそんな父に反発するときは決まって「昭和って時代を知っている?」と根性論を是とした時代背景を引き合いに、そんなのはナンセンスだと喰ってかかるのだが「知るかそんなもの」と、やはり一喝され駆逐される。もっとも、レトロアーカイブ愛好家の颯太のそんな論調は、その時代に近しいアーカイブから拾ってきたものであったから、現実味はないと云っていい。ただ、その口調が<イケている>からそうしているのだ。


「そんな昭和じみた理由でですか? 昭和ってわかります?」

「んなもん、知らないわよ。なに、あなたもレトロアーカイブ愛好家なの? ろくなんもんじゃないわね——それで? デバイスがヘンテコなことになっているのと、この惨状は何か関係があるのでしょ?」

「わかりません」颯太は両肩を竦めた。

「で? それじゃ解っていることは何?」陽菜は颯太の胸を指で突いた。

「詰め方が半端じゃないですね、高木さん」

「いい、白石颯太。

 私たちが何かを訊ねるときは、知らないから訊ねるんじゃないの。知っていることと事実の差分を埋めるために訊ねるの。それに——あなたは恐らく、突っ込んじゃいけない事に首を突っ込んでいる。

 それがどれくらいかと云うと、このあたりまで行ってるってことよ。あなたのような大学生が首を突っ込んでよいのは、せいぜい彼氏彼女の痴話喧嘩の仲裁くらい。これは、領分を超えている。さあ、答えなさい。リードランで何があって、あなた達は何をしているの?」

 陽菜はそう云うと、もう一度颯太の胸を指で突いた。

 颯太はそれに幾許か不安を覚えると、先に覚えた不安と合わせ随分と顔を歪めたように思えた。陽菜も、それに気がつき「誰か巻き込んでいるなら、尚のことよ。私達に任せなさい」と、今度はやわらかな口調で諭すように云うと、颯太の血がべったりとついたティーシャツに目をやった。そして、自身のデバイスに手を触れ血糊に手をがざすと、立ち所にそれは分解され消えてなくなった。


「さあ、これでどこか出掛けるにしても大丈夫ね。リードランで何があったか教えてちょうだい。そうしたら、私達があなたや、あなたのお仲間を保護するわ。約束する」

 もう一度、陽菜は声音優しく颯太へ投げかけた。

 だが、颯太はそれに困惑の表情を顕にした。どうも——颯太自身が保護されなければならない理由に思い当たる節がないといった様子だ。陽菜はそれを悟ると「あなた。いいえ、あなた達はイカれた宗教家に命を狙われているの。いい? もうほんのお遊び——ゲームじゃすまなくなっているのよ」と、改めて顔を引き締めた。


 部屋の奥へ設置された大きな硝子窓から漏れ出た青や緑の輝きが、陽菜の顔半分を照らした。少し前、乃木葵もここへ立ち同じ輝きに顔を照らされた。あの時は青色が色濃く輝いたが今は幾分か緑が強いように感じる。颯太は、どこか現実逃避するようぼんやりと、そんなことを考えたが「聞こえてる?」と顔を寄せた陽菜に驚き「あ、あ、はい」と、しどろもどろに答え言葉を続けた。


「わからない。というのは本当なんです。

 アッシュさんはあの後——王都フロンに到着してからエステルさんと結ばれました。でも、エステルさんは、アッシュさんの知らない所でブリタさんに——メリッサに囚われました。そして、恐らくアッシュさんはそれを知ると……どうやったのかは分かりませんが、メリッサを殺してエステルさんを取り戻すべく……」


 そこで颯太は頭を抱え苦悶の表情を浮かべた。

 サタナキア砦の大階段で胸ぐらを掴まれ、あらぬ力で放り投げられたことを思い出したのだ。思い出せば、どうだろう。すっかり忘れたはずであったリードランで感じた、生と死の境界を彷徨う痛み——あくまでも疑似体験であるはずであったが——が、身体のあちこちを襲ったように感じ苦悶した。あれは、現実の感覚ではない。あくまでもリードランでの出来事であるはずだ。だが、今、自身の身体を蝕む痛みは現実のものだ。

 そして、アッシュの言葉が頭をよぎった。


<リードランの人間にも、お前らにも等しく死は訪れる>


 颯太は今一度、空気に触れ赤黒くなった血溜まりへ目を向け、瞼をきつく縛り「くそ」と小さく溢し「そうか、緊急メディカルプログラムは、この為にあったのか。<楔>はそれを個別に行うプログラム。でもアッシュさん——無人さんは、それを——」


「白石颯太。何を云っているの?」

 陽菜は颯太がなにか核心に迫ることを口にしたのではないかと感じると、彼の両肩を掴み強く揺さぶった。「それはこのデバイスのこと?」


「アッシュさんは云ったのです。リードランで<狩人>が死ねば、それは現実の死であると……」颯太はそう力なく云うと硝子窓の向こうに浮かんだ半透明の球体——少し前は青かった球体は、今では緑の球体と半分ほど重なり、青や緑の輝きを放っている——へ目を向けた。


「それとメリッサを殺すことと、何が関係しているというの?」

 陽菜は再び颯太の肩を揺すった。

「リードランでメリッサを殺せば、現実世界でも等しくメリッサは絶命するということです。こちら側でメリッサの居城へ立ち入るのは難しいのでしょ? それは高木さんの方がよく知っているのでは?」


「そうね……なるほど——じゃあ、このデバイスは……」

「はい。強制的にリードランと直結している証拠……なのでしょうね」

「アッシュ・グラント。いいえ、乃木無人がそれをやったというの?」

「はい。それは間違いないと思います。

 どうやったのかは……サタナキア砦の地下で何があったのかは僕にも分かりません。が、僕はアッシュさんに半殺しにされジーウさんに助けてもらいました。あのまま放っておかれたら、恐らく出血でショック死をしていたと思います」

 颯太はもう一度、血溜まりへ目を向けた。

 その視線を追いかけた陽菜は「そう」と颯太の肩から手を離すと「不味いわね——それで、そのジーウって子は大丈夫なの?」と続けた。


「はい。でも今は——」

「今は?」


 何が現実で何が非現実で、何が非常識なのか。

 そんな境界線もいまとなっては、あやふやで不確かで、背中合わせのそれらが精神を蝕むのではないかと颯太は感じた。

 恐る恐る陽菜の顔を見れば、そこにはで実際の使命——それは、仕事と言い換えられる——を遂行しようとする大人の表情があり、まるで自分が口にしていることは、世捨て人よろしく引きこもったの戯言のように感じさせた。

 だが、それは違う。

 先程感じた痛みは現実のものであるし、この世界と少しだけ史実の違うからやって来たという葵も現実のものだ。そのとやらが虚言であるというのであれば、では、葵が予言をし云い当てて来たことは何だったのか。

 しかしだ。陽菜の顔を見れば、そんな確証も立ち所に世迷言のように思え颯太は言葉を詰まらせた。

 陽菜は、颯太をどう思ったのかわからないが、だが、優しく「大丈夫。何が何だか分からないけれども」と、再び颯太の肩へ両手をかけ「とにかく、今起きていることを、一つ一つ明らかにしていきましょう」

 颯太はその声に否定の感情ではなく、寄り添う優しさを感じると「ありがとうございます」と安堵の表情を浮かべ「永世中立都市ダフロイトの北で戦争が起きようとしています。そこへジーウさんと、ミラは向かいました。恐らくそろそろ先生と合流をしているはずです」と云ったのだ。


「先生? ああ、乃木葵教授ね。 ん? いまなんて云ったの? 戦争って云った?」




 ——リードラン北。アークレイリ王国。


 アークレイリ王国軍元帥麾下、白竜騎士団、青竜騎士団、弓兵師団、歩兵師団、それに僅かながらの魔術師師団に魔導師師団。それに混じり将の世話焼きをする従者や参謀達といった軍属を合わせれば、王都エイヤから出陣をした軍隊は実に二万を数えた。


 数日前のことだ。

 <白銀の魔女>がフリンフロン王国王都フロンを出立したエステル一行を急襲し壊滅したかに見えたが、生き残りは居た。生存者は命からがらエイヤに到着をするとエステル・アムネリス・ベーンの存命を伝えた。

 報を受けたアルベリクは薄々と勘づいて居たのか「エステル奪還」の旗をあげると、準備万端な二万の軍隊の尻を叩きエイヤから出撃したのだ。


 弟のアイロス——青竜騎士団団長は兄に云われるがまま指示を飛ばし軍隊を整えたのだが、兄の滑らかすぎる根回しに「俺が尻を叩いて回る必要があったのか?」と、ぼやいたものだが、その反面、兄の洞察力に舌を巻き「いや、だがこれが兄上の偉大さの一端だ」と感服もした。いずれにせよ、アルベリクに何かで勝ろうと思わない方が身のためだ。アイロスはその想いを改めて胸中に抱いていた。

 だが、それも束の間だった。

 アルベリクは何かに取り憑かれたかのように強行軍を敢行したのだ。アイロスは、いざ戦端が開かれときに体力の損耗が足を引っ張っては元も子もないと兄へ野営を具申したのだが、それはあえなく却下され「魔導師を働かせろ。フリンフロンの剣壁は三日三晩の強行軍でもたった一人で軍隊を維持するのだろう?」と無茶を押し付けられる始末だった。

 アイロスはそれに兄の焦りを感じ一抹の不安を覚えたのだ。



 前を征く——純白の全身鎧を着込んだ——兄の背中へ、やはり焦りを感じアイロスは「兄上、棚田で野営を。寝込みを襲うというのは……」と馬を並べ、夜明けと共に宣戦布告の早馬をと、再び具申した。


 しかし、白竜騎士団団長アルベリクは冷ややかに一笑すると、云った。

「お前は、エステルがどうなっても良いと云うのか? それとも……お前が今の座を奪われると都合の悪い輩にでも吹き込まれたか? いいか、アイロス。お前は私の云うことを聞いていれば、それで安泰だ。欲をかくな。エステルは館へ戻っても騎士にはならない。安心しろ」


 アークレイリ人にしては随分と細身で色白長身のアルベリクに対し、アイロスはどこをどうとっても北の男。分厚い胸板、広い肩幅。丸太の様な両腕。馬を並べたアルベリクよりも頭ひとつ分座高が高い。おそらく、下馬をすればアルベリクよりも、随分と背が高いはず。


 傍から見ればアイロスが兄でアルベリクの方が、か弱い弟。といった風に目されても、おかしくはない。もしくは、アイロスをアルベリクだと勘違いをする王都エイヤの酒場を渡り歩く自称事情通までもいる。

 だが、ベーン家に近しい者であれば、あるほどそれは禁句である。特にアルベリクとエステルについては、触れてはならないと云っても過言ではないだろう。


 短く刈り込んだ赤髪が特徴的だったアルベリクだったが、面立ちは女性のような美しさだ。

 アルベリクはそれを嫌っている。

 幼少期に自ら顔へ刃を突き立て、傷をつけようとしたことさえあるほどだ。本人はそれを認めようとはしないが、兄弟達の中ではそれはアルベリクとエステルがよく比べられていたからだろうというのが、通説だ。

 だが、その反面アルベリクは、エステルを溺愛しているという話も耳にする。常に手元で可憐な花を愛でるようだと、館の侍女たちの間ではもっぱらの噂だ。それこそ「絵に描いたような兄妹像」なのだそうだ。


 ともあれ、な臣下の中にはエステルが男であれば家督を継いだのは、アルベリクではなかったであろうと囁く不貞の輩も存在した。そして、前衛的であるが故に女性が家督を継ぐのも良いのではないかと画策もされた。つまり、アルベリクよりもその技量、器量、教養においてエステルの方が上ではないのかと囁かれていたわけだ。


 だが、それはアルベリクが阿呆であるということではない。

 だから、アルベリクはそういった前衛的な芽をで摘み取っては北のバイキング達との血みどろの戦いへ放り込むこともしたし、時には手元の花瓶へ生け、自分の思う通りの花を咲かせるよう矯正もした。妹にべったりだったアイロスもその一つであり、アルベリクを白竜騎士団団長——つまり、栄えあるアークレイリ王国軍元帥の座へと押し上げる立役者となってくれた。


 無骨なこの一輪はといえば、見るからに北の屈強な血筋を色濃く受け継いだ、武人のなかの武人といった容姿であり、中身もその通りだ。額面通りの北の騎士。魔導や魔術に頼ることを良しとしない古風さで、さながらそれは先代のアークレイリ国軍元帥、つまり彼らの父アスベリクの生まれ変わりのようだ。

 故に——といっても良いだろう。

 母の血を色濃く受け継いだアルベリクやエステルやその下の妹達の神秘的な美しさに、籠絡されやすい。青竜の逆鱗に触れさえしなければ随分と扱いやすい男なのである。


 だから、武人然と具申はしたものの、アイロスはアルベリクの幾分か切長の双眸に浮かんだ赤瞳の底に神秘的な冷ややかさを感じると「承知」と、あっさりと馬を下げた。

 云うだけのことは云った。

 兄は今でも弟を必要としている。そう解釈をしたのかアイロスは、頭上に竜の飾りを戴いた青銀色の大兜の奥で「エステル救出が優先ですからな」と、もっともらしい声でいうと、従者にそれを伝令させた。


 ——夜行軍はこのまま決行。

 夜半にはダフロイト北の棚田に布陣し、フリンフロンへ正式に宣戦布告をする——。



 エステルが王都エイヤへと出立をしたとの情報は得ていたのだが、その後、消息不明となる。アルベリクは、それを<月の無い街>がエステル拉致に動いたと考える節があった——実際は異なったが——。

 エステルの生存——それは、事実をひた隠したフリンフロンが満を持して放った矢であったが、アルベリクはそれには乗らなかった。そして、不意に放たれた二の矢はエステルの消息不明というアルベリクの感情を揺さぶるものであったが、その矢尻——結末はまだ見えない。放った者が何者かさえもだ。


 いずれにせよ。

 北の白竜はリードランへ最後に勃興をしたフリンフロンという実に不可思議さ、聞けばその祖は<外環の狩人>であるというではないか——それに疑問を抱き今日に至る。

 ともすれば、これはリードランの覇権を正当な血筋へ取り戻せる好機にもなろう。成し遂げればエステルは白竜の足元を飾る花となり、アルベリクは初めてエステルを我が妹として愛せるのかもしれない。

 そんな風に想いを巡らせ、アルベリクは遠くに広がった桃源郷、永世中立都市ダフロイトを見ながら馬に揺られた。





 これまでの生涯でランドルフ・ラトベリエは、矢継ぎ早にやってくる伝令からの報告を耳にし各所へ指示を出すといったことが自分にできると自信を持ったことはなかった。


 ひっきりなしと司令本部を出たり入ったりをする伝令の数は常時十名はあったように思う。その内容は南に現れた白の吟遊詩人の報告や、東商業地区のメアリー婆さんが腰を抜かして動けなくなった。そんなものまでも混じっていたが——それの報を届けたのが伝令であったかどうかも怪しいが、それにも適切に指示を与え、全てをランドルフは捌いた。


 司令本部が設置された理由。

 それは言わずもがな、かつてのコービーの農園が広がった棚田へ突如として姿を現したアークレイリ軍。その数二万もの軍影に評議会もダフロイト自衛軍、警備隊その全てが蜂の巣を突いた騒ぎとなったからだ。


 評議会はこれに慌てると各ギルドへ通達し<外環の狩人>の斡旋を急ごうとしたが、ランドルフはそれに待ったをかけると、南に姿を現した吟遊詩人へ、更に南に位置するサスカチュワン砦へ配備されたフリンフロン王国軍主力部隊——つまりカイデル元帥麾下の騎士団にあわせ、グラハム伯指揮下の騎士団、魔術師師団、魔導師師団で構成された軍隊、その数一万の目的を確認をしようと、自ら早馬へ身体を預けた。

 あらかたの状況も把握し指示も与えてある。

 ここ数刻はそれで問題ない筈であったし、白の吟遊詩人であれば、この状況を説明できるだろう。だからランドルフは、情報収集を優先し更なる布石を打たなければならない。





「レディー・アオイドス。火急の事態にて馬上から失礼。その……この状況は? 野伏アドルフはご一緒では?」


 ランドルフは少々興奮をした駿馬を回頭させ、どうどうと落ち着かせながら南外大門へ姿を佇ませた白の吟遊詩人へ声をかけた。

 その日の夜と同じ色の黒髪を掻き上げたアオイドスは少しばかり微笑むと「お久しぶりねランドルフ。私にレディーの敬称を振舞ってくれるだなんて、良い心がけ。アドルフ君はとある任務で南で頑張っているわ」と再会を喜びながら簡単に野伏のことも答えた。

 その答えに幾許かランドルフは顔を曇らせかぶりを軽くふると「それで……」と、警備隊総隊長へと抜擢された馬上のランドルフに握手を求めたアオイドスの白魚の手を握り返した。


「この状況……。

 そうね。北の棚田にもう来客はあったと思っていいわよね?

 そして南に一万少々の軍隊が控えている。それがフリンフロン軍元帥閣下麾下の国王軍ともなれば由々しき事態。でなければランドルフ。あなたは馬を降りて私をもてなしてくれるはずね。それで、ランドルフ。エステルのことはどれほど?」


 ランドルフは宵闇のと同じ黒瞳の吟遊詩人が笑ってはいないことを知ると寒気を覚えたのか、身体をぶるぶると振るわせ「いいえ。何も」と短く答えかぶりを横に振った。

 しかしだ。それだけでエステルの身に何かあったことは伺えた。そうでなければ、わざわざ白竜騎士団が、ここまで進軍をするなどと云うことは、他に理由が思いつかない。


 北のバイキングとの攻防戦に手を焼くアルベリクが出張ってくる理由。

 それはとうとうフリンフロンへの勝機を見出したのか、もしくはエステルの生存を知るが、そこに何かが起きた。それくらいのものだ。そして前者は到底あり得ない。それほどまでにアークレイリ王国内情はバイキング共への対応で手一杯の筈であったし、解放戦線が瓦解した今こそが、北海の蛮族を畳み掛ける勝機であるはずなのだ。


 ランドルフは概ねの予測は立っているのだろうと、彼の答えが裏腹であることを表情から察したアオイドスであったが、ここで全てを明かすことに躊躇いを感じどこか、はぐらかすように話を続けた——だが、それも恐らくは看破されるだろう。

 それほどにランドルフは優秀であることを大崩壊の際に見知っている。


「エステルを説得して、南のサスカチュワン砦まで護衛をしてきたの。評議会へも内密にここまで進軍したことは謝るわ。でも、他国にこれを知られたくなかったから——」

「一万もの兵を率いてエステルを護衛?」ランドルフは目を細め鋭く云うと、堪らず下馬をしアオイドスと視線を合わせ静かに話を続けた。


「レディー・アオイドス。

 いいえ、我々の——私とアイネの命の恩人よ。

 エステルとアイネはその後、元気ですか?

 ——アイネからは時折、便りを貰っていました。そこにはエステルの事も英雄アッシュ・グラントの事も書かれていました。私と——あなたの間に何か隠し事をしなければならないことがあるのであれば、それは構いません。

 何か深い理由があってのことだと詮索もしません。でも——どうですか? 二人は息災でしょうか? それくらいであれば——」


 アオイドスはランドルフが浮かべた憂いの瞳に目をそらし「それは——」と、そう、とはわからないほどに言葉を詰まらせ「ええ、もちろん元気よ」と不器用に笑みを浮かべたが、それ以上の言葉が浮かばなかった。

 ランドルフの瞳は暗に語れるところまでで良いから、教えて欲しいと懇願をしている。そのように感じるとアオイドスはこれ以上、詭弁を弄するのが憚れた。


「——そうだ。アッシュ・グラントはサスカチュワン砦に?」

 つくづく困り果てた様子を見せたアオイドスへ、わかったと云わんばかりに、こちらも少々困った笑顔を送ったランドルフは話題を変えた。万が一にも再びダフロイトが戦火に呑まれるようなことがあれば、アッシュの存在の有無は戦果へ大きな影響を及ぼす。


 それにもアオイドスは声を詰まらせた。

 そして次には何か意を決したのか、ランドルフが浮かべた憂いの瞳を真っ直ぐにとらえ「アッシュは——」と口を開いたのだが、その言葉は続かなかった。


「アッシュ・グラントなら南でドンパチしてるぜ大将」

「もり……ショーン・モロウ」

「手続きに手間取っちまって、ギリギリ間に合った。ってところかね」


 白の吟遊詩人の言葉を遮った——苦しそうにしたアオイドスに助けをだした形となったショーン——果たしてそう考えたかどうかは分からないが、ランドルフはその言葉に目を丸くし「ドンパチ?」と首を傾げ、とにかくそれで話の主導はアオイドスから、突如姿を現した<外環の狩人>ショーン・モロウへと移った。


 ショーンは、そうと知ってか知らずか吟遊詩人の肩をポンと軽く叩くと「ショーン・モロウだ」と、ランドルフへ握手を求めた。


 ショーン・モロウと云えば、かつて歴史上初めて吸血鬼の始祖の撃退に成功をした狩人だとランドルフは祖父から話を聞いている。


 <宵闇の鴉>に次ぐ英雄ショーン・モロウを前に幾分か緊張をしたランドルフであったが、差し出された手をとり「ランドルフ・ラトべリエ。ダフロイト警備隊総隊長です」と手短に応じると、固くした表情を崩す努力をした。

 それにショーンは「おおう。警備隊の総大将はこんなに若いのか」と豪快に笑うと、ランドルフの腕を引き寄せ肩を組み「そして、屈強で男前だ! 良い戦士だ。知り合いなのかアオイドス?」と矢継ぎ早に口を走らせた。


 ライラに云わせれば、このショーンの屈託のない豪快な所作は無自覚で——それがまた厄介で、そんな馴れ馴れしい態度が裏目に出ることも、ままあるそうなのだ。無自覚ゆえに、反省をする素振りは見せるが配慮された試しはない。

 ふと、そんなショーンは肩を組まれ「たはは」と苦笑するランドルフと、目を丸くしたアオイドス、二人の顔を交互に覗き込むと「あ、ごめん。これライラさんには内緒で。また怒られちまう」と頭を掻き苦笑を漏らした。





「そこの魔導師、道をあけなくば轢き殺すぞ!」

 叫んだのはアイロスであった。

 先刻ダフロイトからの斥候隊の姿を目にすると夜行軍はいっとき速度を落としたのだがアルベリクは「どのみち専守防衛の斥候、捨て置け。ちょうど良い前触れになるだろうよ」とダフロイトの北外大門へと全軍を急がせようとしたのだ。

 だが、その矢先。両脇を棚田に挟まれた街道へポツりと佇む純白外套の魔導師が忽然と姿を現し、アークレイリ軍は足踏みをすることとなった。そして、ざわつく騎士達へ「何を魔導師一人に!」と怒りを顕にしたアイロスは、件の魔導師へ怒声を浴びせ、剣を突きつけたのだ。


 念の為ではあったが、アイロスは三騎を連れ立ち魔導師と対峙をしたのだが、当の白外套は何やらぶつぶつと独り言を口にし、時折誰かの名を呼んでいるようで、どうも眼前の青竜騎士団団長のことは気にも留めていない様子だ。

 アイロスは「ふむ」とそれに不満の表情を浮かべ「おい、魔導師。耳がないのか?」と馬を数歩進ませ、再び剣の切っ先を突きつけたのだが、やはり魔導師は独り言に夢中なのか、先ほどから胸の前に合わせた両の五指を忙しなくカサカサと擦り合わせるだけであった。


 アイロスはこれに、とうとう堪忍袋の緒が切れると「この痴れ者が!」と声を荒げ、突きつけた剣を振り上げ「化けて出るなよ魔導師。これ以上、我が兄アルベリクの道を塞ぐことは許されない!」と白外套の脳天を目掛け振り下ろしたのだ。

 青竜の剣は白外套の脳天を叩き割り、脳漿をぶちまけるはずであった。だが、それはそうはならなかった。

 白外套はアルベリクの名を耳にすると、合わせ動かした五指を止め「あの女狐め……まあいい……」と呟き、どこからともなく抜き放った剣で、アイロスの怒涛の撃ち下ろしをいなしたのだ。


「青竜よ白竜は何処に?」

 白外套の魔導師は深々と被ったフードから赤黒に輝く蛇目を覗かせ、カサカサであるが、どこか端々にねっとりとした印象のある声で、馬上のアイロスに訊ねた。



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