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Ragnarok#3_白竜と魔導師




 大体において自分を阿呆だと云う人間は、阿呆ではない。と、いうことが多い。はたまたは人を阿呆と呼ぶ人間は、大体において井の中の蛙である。これはアオイドスが持つ幾つかの持論のうちの一つだ。


 それが、精悍な面持ちをしているが、どこか人懐っこい笑顔を溢す捜査官が、そうへりくだって云うのであれば前者の筈だ。

 これは、火を見るよりも明らかな事実だろうし、サンティエル産ワインの酸味のようにハッキリとしている。

 アオイドスはあれをワインだと認めていない。

 呑めば酔うのだろうし酒であることに間違いはないが、だがあれは、何か乱暴な酒を果実酒で割った何かだからだ。そして、目の前の捜査官——双刀の剣術士も、どこかそんな感じだ。

 捜査官というには、雰囲気が緩く感じるし、しかし、何かを常に探るような眼光は冷たく鋭い。捜査官というには、どこにも捜査官らしき雰囲気は無いが、だがそういった仕事を生業としているのは確かに感じる。名うての探偵と云えば察しがつくだろうか。

 だからアオイドスは、彼に「知っていることを全部話せ」と云われれば、話さなければならないだろうと考えた。

 こういう生業の人間は事実確認のため、知っていることをわざわざ語らせる面倒な輩なのだ。誤魔化せば冷たい檻の向こうへ放り込まれるだろうし、に割り振られた役——つまり、現在のアオイドスの生い立ちにキャリアをしどろもどろに説明をする姿を見れば、どのような扱いを受けるかわかったものじゃない。


 ——永世中立都市ダフロイト。


 アオイドスは警備隊本部の屋上を見渡した。

 確認できるのは、竜の息の轟音にひっくりかえった数名の警備隊員——気を失い口から泡をふいている——と、両手に片手剣を握ったショーン・モロウ。そして遥か北の空に姿を見せたヴァノックの巨躯。


 白の吟遊詩人は大きく息を吸い込みショーン・モロウヘ向き直った。


「さっきも訊いたけれども、あなた達は何を何処まで把握しているの?

 いいえ、誤魔化そうってことじゃないの。私の話をどこまで、あなた達が受け入れてくれるのか? それが知りたい。ただそれだけ。そうじゃないと私が話すことは、随分と荒唐無稽に聞こえるだろうし、私はそんなことで足止めを喰らうわけにはいかないの。大袈裟に云えば……いいえ、これも云っては駄目ね」


「おいおい、なんだよ。随分と勿体つけるな先生。

 俺たちが把握していることなんて、多分だが、ほんの一摘みのあやふやとしたものだよ。ああ……でも、たった一つの事実を云うなら、それは『乃木無人の命を守る』って俺たちの仕事のことだ。あれは国の重要人物らしいからな。

 で……そのためだけに今ここでこうしているわけだ。それは先生にも説明したろ? とにかく俺はアッシュ・グラント様に会って現実世界へお戻り頂き身柄を保護しなきゃならない」

 ショーン・モロウは最後の方は、両眉をへの字にすると肩を竦ませた。

 明らかにこの仕事は、本意ではないといった様子だ。だが、それは、やりたくもない仕事のため、ここまで足を踏み入れる——その気になれば、乱暴に無人を連れて行けばよいのだから——気概を持っているという証拠。つまり、仕事は完璧にこなすという信念を持ち合わせているのだろう。それが本意であろうとなかとうとだ。


「わかった。では、こうしましょうショーン・モロウ」未だ吹き付ける冷たい夜風に黒髪が揺られるのを、アオイドスは片手で押さえながら北を指差した。

「あれをどうにかしないと、私もあなたも、もっと云うと下で寝転んでいる狩人もしまうわ。だからヴァノックを斃すのを手伝って。それで無事だったら話してあげる」

「なんだって?」

「どっちが? 死んでしまうこと? それともヴァノックを斃すこと?」

「どっちもだよ」ショーンは、おどけた表情を一変させ険しさを顔に浮かべた。

「死んでしまうってのは……こっちで死ねば、現実世界でも本当に死んでしまうってこと。で、あのヴァノックはアッシュ・グラントを追いかける。

 追いついて楽しくピクニックをしようって、わけじゃないことは解るわよね? そう。アッシュを殺そうとしているのよ。

 まあでも、その死が現実世界の死であるということはヴァノックは知らない。当たり前よね。外環の存在を彼は知らないから。でも……これは、推測だけれども、その存在を知っている——いえ、感じているがヴァノックを蘇らせて——憑依させた。のほうが正しいかも知れないけれど——アッシュ・グラントを根本的に消し去りたいのでしょうね。

 もしくは、アッシュの力を奪いたい。の、かも知れない。そこは解らないわ」





 ——数刻前。北の棚田近隣。



「白竜の名をそのままに——雪竜王でも黄泉還えらせようとでも……?」

 左腕を捻り上げられたアルベリクは、あまりもの苦痛に顔を歪め遂に膝を折ると、呻くように白外套に訊ねた。

 周囲では「アルベリク様を放せ!」と、白のたてがみを巻いた騎士やら、それが青の騎士が剣を構え、ジリジリと魔導師に身を寄せていくのだが、白外套が溢す異様な魔力の残滓に当てられ、間近に——切っ先の届くところまで踏み込むことができない。

 とうとう騎士達が描いた人集りは、真ん中にポッカリと穴のあいた円環となった。きっとその様子をクレイトンの住人が見ればこう云っただろう——シェブロンズのドーナッツみたいだなと。


「その気が有るのか無いのか。儂が訊ねておるのだ。訊き返すな阿呆が」

 白外套はカサカサと云った。

 そして、更に左腕を捻り上げた。

 すると白竜の飾り肩当てが弾け飛び、アルベリクの絶叫が棚田に響いた。白外套は、深く被ったフードの奥で気味悪く輝く赤黒の瞳を燃やし、口を三日月に歪め「いい声で鳴くじゃあないか」と声音の端々へ不愉快な湿気を含ませ云った。

 口角に唾を溜めたような喋り方。やもすれば、泥酔男が下卑た調子で女を品定めでもしているような、そんな不愉快さだ——サンティエル戦線の悪魔もそんな風だったと伝承に聞いたことを騎士達は思い出した。


「我々の勝利を疑ってはいない——痛ッ!

 お前は栄えあるアークレイリ軍が、中央の詐欺師どもに屈するとでも思ったのか。

 下劣な魔導師——お前がどのように囁こうとも……!」

 アルベリクは捻られた左腕が馬鹿になっていると承知をしていた。だから、片膝を軸に身体を右へ半捻りし開くと、馬鹿になった左肩へ体重を乗せ白外套を押し返した。「魔導師!」アルベリクは、そう叫ぶと右で剣を拾いあげ、目にも留まらぬ速さで白外套の体躯へ撃ち込んだ。

「そうかそうか。器となりうる魂は、そうも不屈でなければな。いいぞ白竜。儂を楽しませろ」

 白外套は、せせら笑うと云い放ち、ひらりと強烈な一閃を躱した。次には右手の親指と中指を合わせ、擦り、パチンと音をたてた。

 すると、どうだろう。

 宙空にパッと無数の蒼い小花が咲いたかと思うと、それは強く輝き、落ち着く頃には小花は、錫杖の姿を造り出したのだ。「あれは<外環の狩人>の業では」周囲からどよめきの声が挙がった。

 白外套はパッと錫杖を握りしめ、何度かくるくると回すとアルベリクへ突き出し、かぶりを巡らせた。


「<外環の狩人>? そうだな。儂はの残り滓から産まれた獣だ。

 お前ら人間が<夜の王>だと畏れる吸血鬼。その始祖。メルクルスの阿呆に、色惚のハインリヒ。その主人だ。お前ら人間は儂が授ける叡智を、ことごとく無駄にする猿と同じだが、まあ……その中でも、あの二人は賢い方だったな。

 嗚呼、間違えてくれるなよ。儂はクルシャのように人を喰わぬし、アレクシスのように血を啜らない。ましてやミネルバのように人の身体を弄んだりもしない。安心しろ。ああ、儂か? 儂はアイザック。<傲慢>のアイザック・バーグ。お前らを勝利に導く天使だ。どうだ。嬉しいか?」


 左腕をだらんと垂らしたアルベリクは鋭くアイザックを睨みつけていた。傲慢はそれにカサカサと笑うと、そう云ったのだ。


 どうにもアルベリクの綺麗な顔が歪むのを愉しみたい。アイザックは自分の醜さ故に見目麗しいものは男でも女でも汚し屈服させ、見上げさせたいのだ。

 この世界に産み落とされたときから、アイザックは醜悪だった。

 それには理由があったようにアイザックは思う。

 その理由とは? それはひとえにに主人である<白銀の魔女>の憂さ晴らしの供物であったと云うことだ。

 魔女は極度に男を嫌っていた。魔女はそれをアイザックに溢したことがあった。

 男は皆、愚かで馬鹿で、快楽を獲られるのであれば何にでも性欲をぶち撒ける猿だと。だから、アイザックはその罪を一身に背負い魔女に打ち据えられ、晴れぬ罪を償い続けるために産み出されたのだと魔女は云った。

 それ故に傲慢を植え付けられ、魔女はそれを打ち据えることで愉悦を得る。つまりはそう云うことだ。無邪気な悪趣味。その為の人形。


 だが、それから逃れる方法もあった。

 魔女が特に気にした<宵闇の鴉>に罪の肩代わりをさせることで、アイザックは魔女の寵愛を受けることを許された。それが、心当たりも無い罪——云ってみれば「男」などといった大きな枠組みの罪を背負えと理不尽極まりない話であっても、アイザックは何故かそれを受け入れた。

 それは自分でも不思議に思った。

 恐らくは、その理不尽さの裏に感じた——少女の吐き出しようもない虚しさ、怒り、後悔、自己嫌悪などと云ったものがあったかは分からないが、仄暗い陰鬱なものを感じ、それを払拭できるのならばと受け入れたのだと思う。流石に産まれ落ち百以上の歳を重ねれば、その理由は連綿と続く時間の向こうで五里霧中となっている。

 ただ残ったのは、傲慢としての性質。醜さを覆い隠すそれだ。

 「天使だ。嬉しいか?」などと云った自分にアイザックは少々可笑しくなってしまい、云うなら「神」とでも、「悪魔」とでも云っておけば良かっただろうかと、カサカサと小さく笑った。それは、だと。


 アイザックの言葉が終わると周囲の騒めきは、いよいよ頂点を迎え、その場の空気は臨界を迎えた。あまりにも不愉快な問答に怒りが極まった命知らずの騎士、もしくはアルベリクを助け今後の恩を売っておこうと打算した騎士、素直に畏怖の念が極まった騎士、そういった騎士が白も青も関係なく連鎖的に其々の怒号を飛ばした。

 一人。子供が騒ぎ始めれば、その質がなんであろうと周囲の子供にそれは感染し同じように騒ぎ始めるのと一緒だ。

 そして、その中から数名のな騎士が剣を抜き放ち、アイザックへ斬りかかった。


「やめろ!」それにアルベリクは力の限りの制止の声を張り上げた。





 鈍い黄金の輪。

 水平に円環の軌跡が描かれた。

 アイザックが構えた錫杖は静かにそれを描くと次にはドス黒い赤色の円環を宙空に描いた。斬りかかった白や青の騎士達は刹那の空白の後、そうだと気が付く間も無く胴を腰から切り離され臓物をぶち撒け、腰は崩れ、胴は地に転がった。「無粋な」アイザックは吐き捨てた。


「貴様!」アルベリクは一瞬に生まれた隙を掴み取り、ひらりと後方に飛ぶと、すぐさま剣を構えアイザックとの距離を詰めた。まるで弩から放たれた矢のように——白のたてがみに同じ色の外套が勢いよく後方に流れたからなのか、周囲の騎士たちの目に、それは一本の白い線のように映った。


 放たれた矢——アルベリクはアイザックの頸を捕らえたように見えた。

 だがパッと散った白い火花が、甲高い金属の衝突音と共に踊ると、それは失敗を知らせ、次にアルベリクの腹へ鈍い黄金の錫杖が打ちつけられた姿を皆が目にした。

 先に斬り伏せられた騎士の骸に慄いた様子見の騎士達は、アルベリクが再び膝を折る姿を目にすると、さすがにといったところか「この日陰蟲ピルバグ!」などと思いつく限りの悪態を吐き一斉にアイザックに襲い掛かった。


 その数は、ざっと十三といったところだったか。「一、二……十二……ああ、面倒な猿どもだ」白の魔導師は飛び掛かった騎士の一人一人の肩を叩きながら、躱し、いなし、水の流れのように動いた。

 挑みかかった騎士達は、ふわりと動いたアイザックに肩透かしを喰らったように前のめりの倒れるこむ者もいれば、無様に背中に土をつける者もいた。

 アイザックはアルベリクから少しばかり離れた場所に位置取り無様な騎士たちへ目を落とし「お前ら猿に、そんな着飾った鎧は不要だろう。せいぜい血みどろのチュニック……ああ、それが分相応だろう」と、錫杖で地面を強く突いた。


 鈍色の金属音が夜空に鳴った。

 音は、イイイイィンと尾を引くと耳元へ纏わりつくように思えたし、はたまたはアイザックが見下した騎士たちを縫い合わせるように動いたようにも思えた。とかく甲高い金属音というものは耳穴を通り鼓膜を揺らしたかと思うと、余韻をひっぱり今度は、目の裏へ中途半端な鋭さで届き脳を振るわせ吐き気を喚び起す。

 気を確かに持てない者はきっとこう云うのだ「酒に呑まれたほうが、幾分かましだ」と。そして両手を地につけると、折角、金を払い胃の中へ放り込んだものをぶちまける。


 実際にそうなった。

 だが、吐き出した物は、出撃前の壮行で口へ放り込んだ、鶏肉でもパンでも、エール酒でもない。ドス黒い血反吐と、弾け飛んだ鎧と同時に割られた背中から飛び散った鮮血だった。アイザックに肩を触れられた騎士たち。彼らは一様に四肢を地に着き血反吐に塗れ呻き声を挙げた。


「白竜よ。躾がなっていないが故に、見ろ。この有様を。

 不憫だとは思わないか? 生きながらにして死すら許されぬ苦痛に苛まれるのだ。

 だが、お前はそうやって情けなく生き恥を晒し、部下が苦痛に苛まれる姿をただただ自身の命に縋り、指を咥えて眺めるのだ。とんだ騎士団長、いや、元帥様だな」

 カカカカ——アイザックは言葉の最後に乾いた笑い声をたてると、錫杖を振り回し、とっくに絶命をしたか、気を失ったか、苦痛に苦しんだ騎士を薙ぎ払いながらアルベリクの前までゆっくりと行くと、再び錫杖で地を突いた。今度はあの嫌な音はしなかった。

 薙ぎ払われた騎士は、壊れた人形のように力無く吹き飛ばされ、臆病風に吹かれた、いや懸命な騎士たちが肩を寄せ合う塊の中へ飛び込んだ。

 アイザックは投げ込む場所を決めていたのか、が、しっかりと飛び込むのを一つ一つ確認をし「ふむ」と満足げに漏らした。


だと? 魔導師、何をした!」

 やっとのことで身体を起こしたアルベリクは、そう叫んだ。剣を構え、今度は激情に駆られることはなく神妙にアイザックとの間合いを測った。


「前言撤回だ。

 お前はやはり阿呆だな。良いか白竜。最初に訊ねたのは儂だ。それに答えろ。

 お前ら如き北の蛮族が魔男の王国を、どうにかできるとでも思ったか? それは思い上がるにも程があるというもの。儂はお前が冠する名の通りの力を授けようと云っておるのだ。ただただ静かに、その軽いかぶりを縦に振ればよい——人心の上に己が想いをかぶせるのに躊躇いは禁物だ。即断即決。それをしなければ——見ろ」


 皺々の顎を突き出しアルベリクの周囲を指したアイザックは、アルベリクに目を疑うような光景を見せた。周囲から悲鳴が上がった。鬨の声でも怒声でもない。

 騎士たちの中には並み居る男共を足蹴に騎士の座を掴み取った女騎士も多くいた。力で勝れないのであれば技で。剣威で圧倒できないのであれば戦略で、知力で。そうやって身を立てた女騎士達は一様に意志が強く、肝が据わっている。そうでなければ、あっという間に押し流され、明日の夜には剣を握っていないだろう。別の何かを握っているはずだ。

 悲鳴の主人達はそんな女騎士達のものもあれば、情けなくも裏返った声で「うわああ!」と叫んだ男達だった。

 アイザックが投げ込んだ壊れた人形——十三の背中の割れた騎士達が、あちこちで突如に起き上がり騎士達を襲ったのだ。

 そこらじゅうから、悲鳴に——今度は怒声もあがりアークレイリ軍列の最前は混乱の渦に呑まれた。


「おっと。こいつを喰うな阿呆が!」

 アイザックはこの阿鼻叫喚の光景——生きた騎士の四肢をちぎり、喰らい、血を啜る屍喰らいが駆けずり回る光景を目に高らかと笑ったが、半ば意識のあった女騎士が「アルベリクさまああぁ!」と、疾風の如く白竜へ駆け寄る姿に錫杖を思い切り叩きつけた。

 女騎士はかぶりを砕かれ眼孔から目玉を溢し脳髄をぶちまけた。「この男には役目があるのだ。それを喰い散らかすやつがいるか、阿呆め」


 ※


 狂気の音が支配する夜空の下へ再び剣戟の音が響いた。

 アルベリクは端正に整った顔を歪め狂ったように剣を振るっていた。

 白の魔導師は、弄ぶように錫杖でやり過ごし、時には剣の稽古をつける剣匠のようにアルベリクを押し返し、尻餅をつかせ「儂を愉しませろ。地獄絵図に華を添えろ」と嘲笑と共に云い放っていた。

 周囲では屍喰らいが生きた騎士たちを追い回し、喰らい付き、転げたてしまった哀れな贄があれば、そのかぶりを噛み砕いた。

 ほんの少しの、糸のように細くのこった意識の残滓がある屍喰らいは、ある者は同輩の女騎士にのし掛かると鎧を剥ぎ取り、狂ったように白肌に歯を立て貪った。そして最後には頸に喰らいついた。


 青竜騎士団団長——アイロスはその光景を目にすると、何かに心を囚われた。

 指の一本も動かせずに一部始終を茫然と眺めることしか出来なかった。

 巨躯に見合わない囁やかな胆力では、この狂気の宴で踊ることはできない。愚かにもホールに出て踊ってしまえば、手を取った姫君の足を鉄靴で踏みつけ平手打ちを喰らい退場となることだろう。いや、主賓席のテーブルに肉を晒すと云った方が正しい。


 耳を削ぎ落とされ苦痛に呻いたアイロスには、確かに兄の声が届いていた。

 あの得体の知れない魔導師と渡り合っている。苦痛に気が遠のきそうになるボヤけた意識の中アイロスは「ああ兄上がなんとかしてくれるだろう」そう思っていたが、駆け寄った魔導師の癒しの業に気を持ちなおした頃には、そんな淡い期待は、その通り儚いものであったと思い知らされたのだ。

 繰り広げられた肉を喰らい血を啜る狂宴に最初は現実味が持てず、最初の屍喰らいが襲いかかってきたことで、それはアイロスの中でも現実となった。

 反射的に屍喰らいの頸を斬った。

 それは、長年アイロスに付き従った腹心の女騎士であった。転げたかぶりを見下ろし、アイロスは


「兄上……兄上……ディ、ディアーヌが、これは……」

 情けなく兄を呼び、手を挙げた姿をきっとアルベリクは叱りつけるだろう。

 アイロスはこの期に及んで、なおも現実と恐怖の狭間に身体を揺らしそんなことを思った。昔からそうだった。身体だけが大きく、それだけは兄に勝っていたが、その他はすべて兄に劣っていた。兄弟というものは、そんなものなのだろう——兄に従っていれば万事問題ない。そんな風に生きる理由でさえ兄に預け、後ろめたさを覚えながらも、それをやめられなかった。

 共依存。そう——きっとその言葉がそれには似合っている。

 やはり今も、何も出来ず、騎士団の面々が血の海に沈み、そして起き上がる光景を目の当たりにしてもアルベリクの「大丈夫だ」という言葉を聞こうとしている。


 屍喰らいが騎士を貪る光景の向こうで、すっかりと純白のたてがみと外套が赤黒に染まったアルベリクが魔導師と撃ち合っているのが見えた。

 左腕は使い物にならないらしく、だらりと降ろしていた。

 激しく揺れれば神経が触れ激痛が走るのか、その度にアルベリクは強く叫びを挙げ、無鉄砲に剣を撃ち込んでいるようだった。どう見てもアルベリクの劣勢は疑いようもない。

 アイロスの元には、三体の屍喰らいが、猛烈な速さで襲いかかってきた。

 青竜はちらりとそれに目を落としたが、すぐに兄へ目を戻し三体を難なく斬り伏せ、ようやくそこで恐怖の拘束から逃れられた。


 次第に周囲から焦げ臭さと、生木を燻るような酸味のある臭いが、血の臭いに混じった。この騒動に気が付いた元帥麾下弓兵師団から遠距離大弓中隊が棚田の上に陣取り、屍喰らいへ火矢を浴びせようとしたが、人の身では到底考えられない速さで棚田を駆け上がった屍喰らいの一団に接敵されると、あっという間に陣を崩された。

 這々ほうほうの体で屍喰らいから逃れた弓兵達が落とした火矢に油は、運良く屍喰らいを焼くこともしたが、鉛色をした身体に焔をのせた屍鬼があちこちに火を運ぶと、そのうちに棚田をちょっとした火の海に変えたのだ。


 少しばかり黄ばんだ白煙が棚田からもくもくと流れ落ちてくると、いよいよアイロスの眼前に広がった地獄絵図は、その様相を色濃くした。地獄なんてものが本当にあるのだとしたら、それはきっとこのような感じなのだろう。

 どこかまだ心が麻痺をしたアイロスであったが、そんな想いに捕われそうになると、かぶりを勢いよく横に振り叫んだ。「兄上! 上だ!」



「なんだこれは」

 アルベリクは、いつの間にかに周囲に垂れ込んだ白煙と焦げ臭さに顔をしかめ云った。剣を振るい白煙を払うが、そこに晴れた視界が戻ることはなかった。

 先ほどから弄ばれるように剣を撃ち込んだアルベリクにいよいよ疲労困憊ひろうこんぱいの色が浮かんできた。周囲の叫声は未だに止むことはなかった。恐らく軍列の奥深くまで届いている屍喰らいもいるのだろう。随分と遠くからも騒々しい音が聞こえて来るように思えた。

 だが、ともすると、それは間近の声が遠くに聞こえているだけ——疲れから感覚が遠のいているのかも知れない。その判断もつかない。それほどに疲労が身体を蝕んでいる。

 最後の撃ち込みの後、アルベリクはアイザックの姿を白煙の中に見失い、しきりにあちこちにかぶりを振り忌々しい姿を求めた。だが、それは叶わなかった。



 アイザックはアルベリクの最後の一撃を錫杖で受け流すと、その頃には周囲に流れ込んだ白煙に紛れ——翔び立っていた。


 アルベリク達の遥か上空に巨大な梟の姿が浮かんでいた。

 梟の眼下では白煙に紛れ終わることを知らない血肉の狂宴が繰り広げられている。梟はクリっと頸を傾げるように何度か左右に回し、その様相を眺めた。

 何度かまばたきをした両眼に浮かんだのは赤黒い蛇目だった。

 随分と奇妙な、その梟は何回か夜空を旋回すると南に顔を向け「そろそろ頃合いか……」と口にすると、再び眼下に伸びるアークレイリ軍の軍列を見渡し「よくもまあ、これだけの猿を従えたものだ。供物には——そうだな。半分も居れば足りるだろう」と、カサカサと云った。

 そう云うと梟は、身体をシュッとすぼませたかと思うと、紫紺の霧に包まれ次に姿を見せたときには、白外套の魔導師——アイザック・バーグの姿をとった。

 アイザックは何度か瞬きをした。魔導師の視界がどんどんと地上に迫っていく。アイザックが地上に降りているのではなく。何度かの瞬きの後に、視界に捕らえたのは白煙の中、アイザックを探すアルベリクの姿だった。


「終ぞ……答えなんだが、まあ良い。白竜よ。

 微睡の中でお前の歪な想いと対峙するのだ。そしてそこで望め。

 お前が望んだ血縁喰らいという悍ましい想いを目の当たりに絶望し、渇望するのだ。お前の魂の重さに、心象の型は——どうだろうな、産まれの因果か、はたまたは想いの相関なのか、雪竜王が持った心の型に良く似ている。

 良いか、アッシュ・グラントがそうしたように、白竜、お前も心の隅に燻る想いの火種をそこへ焚べるのだ」



 アイザックは今や眼前と云って良いほどの近くにアルベリクの顔を視界に収め静かに云うと錫杖を振り上げ「そのための力は儂が与えてやろう」と、一振りしてみせた。


 シャン。と、錫杖が薄く鋭い音を鳴らした。





 息をする。それは至極当たり前の行為だろう。

 息を吸いこみ、芳しい薫りで肺を満たすことを、まさか悪とは思わない。だが、今は違った。シャン。と音が響いたかと思うと宙空に突然と質量が与えられ、さながら水槽に溜められた油の中へ身体を押し込められるように感じた。

 アルベリクは膝を折り、遂には腹に土を着けるまでになると息を吸い込み、押し潰されそうな感覚を相殺しようと試みる。だが、肺を満たそうとする空気は微量にしか流れ込まず、そして、喉と肺を焼くようなのだ。

 白竜団長は、本日何度目かの苦悶を顔に浮かべ仰向けになった。

 この状況をなんとかしようと、いよいよ苦しくなってきた腹を逃した。このままでは、胃の中の物を全て戻してしまいそうだったからだ。

 その重圧ゆえか棚田の焔はすっかりと姿を消し、酸味のある白煙も霧散したようで、ぼんやりとし始めたアルベリクの頭にもその光景が見えた。

 大きく息を吸い込もうと思ったが、胸を焼く空気を思い出し思い留まったが、しかし、このままでは何れにせよ酸欠で気を失い命を落とすだろう。だから、できるだけ薄く薄く息を吸い込んだ。

 他の騎士たち、軍はどうなったのか。

 焼ける感覚に更に顔を歪めたアルベリクは、可能な範囲でかぶりを回し周囲を確認した。そこに見えたのは騎士だろうが馬だろうが、屍喰らいだろうが、あらゆるものが地に腹や背をつけ——そして血を吐き出し潰れていた。


 たった一人の魔導師に。

 そう。たった一人の魔導師の手でこの惨状を迎えた。

 薄らと遠くから聞こえる喧騒もそのうちに聞こえなくなるのだろう。

 そう想うとアルベリクは激しく歯を食いしばり、薄らと唇から血を流した。


「また……魔導師か。

 熟々この手合いとは相性が悪い。海賊相手の方が幾分か楽だ……どうだ、翁。やはり騎士などと云うものは地を這う蟲よりも、容易いものか?」


 気が付けば、遥か上空からゆっくりと降下をしたアイザックの姿が目に映った。

 アルベリクはそして、白の魔導師に聞かせるつもりも無いのか小さく云った。アイザックは重圧の中、ふわりと地に足を着けアルベリクの傍に立つと、左手を胸元に掲げ「どうだろうな」そう小さく答えると、掌へ楔型の石を浮かべ、フードの中で珍しく神妙な顔をしてみせた。

「つい先程のことだ」アイザックは云うと、浮かべた楔をゆっくりとアルベリクの胸へおろした。「お前ほどの器量のある騎士ではなかったが、その親子へ夢を見せた。だがな、心象の型は、どうしようもなく醜かったな。故に母親は人狼に成り果て、父と息子は過去の英雄を求めおった。人とは真に何を望んでいるのか。それを知り得ない愚かな生き物……いや、在り方か……もっとも、母親のほうは少々特別であったがな」アイザックは膝を折ると、剥き出しになった白竜団長の胸へ、グイッと楔を埋め込んだ。アルベリクは、それに血を吐き出し「あぐぅ」と顔を歪めた。


「……儂は知っておるよ。お前が望んだ物の何もかもを。

 儂は見た通り、醜い。だが、お前がその秀麗を憎むように想ったことはない。そうだ。この醜さも儂の一部であり、儂そのものだ——しかし、お前は違うな。唯一無二でありたい。比べられる者ではなく、讃えられる者でありたい。羨望を一身に受け、玉座に身体を深く預けたい。

 だからお前は、赤毛の姫を求めた——お前の理想を体現しようとした姫をだ。

 お前の一部とするべく、貪ろうとした。家のためと、お前の息のかかった男を当てがおうともしたな。ああ……話が逸れたな。

 騎士が云々。そうではないと云うことだ。今日は気分が良い。だから答えてやろう……」


 ついに楔はアルベリクの胸へ埋没した。


「騎士が云々ではない。お前らは人間は蟲以下だ」





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