着いた両掌があったのは鈍色の海面であった。
凪いでいるとはいえ、少なからず水面は揺れ動いている。
暗転した視界が次に見せたのは視界一杯に広がった、そんな海原であった。どこまでも広がっている。音はしない。潮の香りもだ。頬を撫でる風は少なからず感じた。それが風であればの話しだが。
ここは? アルベリクは、どうにも晴れない頭でもっともな疑問を浮かべたが、それに答えを出す光景も人も、そこにはなかった。「なんだ……海の上に立っている……のか?」空を見上げれば、海原と同じ鈍色の雲海が空いっぱいに広がり、水平線で海原と交わると天地の境界を朧げにしていた。
アルベリクは警戒をしながら、海原の上を歩いた。「夢……ではないようだな」何度か足元を確かめるように踏みしめると海原はしっかりと硬く、歩くことができる。その硬さは夢の中で見るような不確かさはなく、それが今そこで
前の開いた白外套を大きく払い、腰に吊るした剣を抜けるように整えると、アルベリクは顎に細々と纏わりつく白の飾り
掴んだ鬣を投げ捨て、吐き捨てたアルベリクは苛立ちを露わに大きく溜息をついた。「だとすれば、熟々運に見放されているな私は……」
アルベリクは半ば、この状況を受け入れるようだったが、しかし再び顎をあげ、鈍色の雲海を目にすると、もう一度大きく溜息をつき目を見開いた「今度はなんだ? 幻か?」
※
鈍色の雲海は乳白色の繊条を覗かせながら、ゆっくりと水平線へ向かい流れこんで行く。朧げな境界にゆっくりと。幻聴だったのかも知れないが、その様相は遠雷の音を頭に響かせた。
そして。
アルベリクがそこに見たものは、乳白色の繊条を纏わせながら顔を出した、ひっくりかえった山、木々に、あらゆる大地とあらゆる街並みであった。そして、気が付けば、白竜団長の周囲には、像を薄らとした人々が無気力に佇む光景が広がった。どれも見たことのある顔であった。アルベリクとエステルを比べ、揶揄した大聖人。罪を贖えと迫った生臭坊主。一夜を共にしたと云う理由で城館へ押しかけた娼婦。夫の無罪を訴えるため、陳情書を握りしめた女。
どれもアルベリクの完璧さを綻ばせる屑であった。だから、自らの手で屠った者もあったし凌辱し二度と刃向かえないよう躾けたこともあった。躾けられた者は、その言葉通りに二度と歯向かうことはなかった。自害するか、野党に犯され冬の冷たい河口に投げ捨てられたからだ。
そんな幻想とも現実もつかぬ像の隙間に色づくものもあった。
薄桃色のドレスで着飾った赤毛の少女の姿。彼女の目は実の詰まった紅玉のように爛々と輝き、利発さを伺わせた。双眸の下へ広がった
振り返り少女の姿を追った。
そこには、純白の上着に比較的にゆるやかなブリーチズを合わせた少年に跨った、先程の少女の姿があった。少女はコロコロと笑うと誇らしげに「アルベリク兄様は弱いね!」と胸の前で腕を組んだ。少年はそれに「ゆ、油断をしただけだ!」と動揺を隠そうともせずに云うと、腹の上の少女を、どうにかどけようと捥がいた。
「謝って! 私の大切なペンを折ってしまったのだから、ちゃんと謝って。でないと、お父様に言いつけるわ」少女は、捥がく兄の肩を両手で押さえつけ、綺麗な赤毛を垂らしそう迫った。
「いや、あれはエステルが我儘を云ったのが悪いのだろ? それにペンを投げつけたのはエステルじゃないか。折ったのは僕じゃない」
これは——アルベリクは二人の子供の姿を知っている。当前だ。それは幼少期の自分とエステルの姿だった。この時のことは良く覚えている。街へ出かけたいと云ったエステルは、アルベリクに剣の稽古をさぼって連れていってくれと頼んだのだ。
そんなことをすれば、父から厳しく叱責されるのは目に見えている。そうでなくとも、長兄のアルベリクは弟妹の不始末の尻拭いを数多くしてきている。街に行きたいというだけの理由で、余計な代償を支払う気にはなれない。父の叱責は酷くおっかないのだし、嫌な思いをしたところで弟や妹達から感謝された試しもない。
だからエステルには「駄目だ。行きたいなら侍女のアイリーンに頼んでくれ」と云ったのだ。エステルはそれに酷く憤慨し五歳の誕生日に国王から賜った、ペンをアルベリクに投げつけ折ってしまった。
「この時は酷く怒られたな」アルベリクは再び現実味なく、頭をふんわりとさせると微かに笑った。「父上、あなたは私に云いましたね。お前でなくともエステルの望みを叶える方法はあっただろうと。でもね父上。こんな小さな頃に、そこまで頭は回らないものですよ。自分のことで必死なのですし。剣だって私はエステルに劣っていた。だから、妹のことを考える余裕なんてなかった……」
アルベリクの独り言に、少年少女の姿はふわりと青い粒子となり霧散すると、再び別の過去の面影が姿を見せ、幾つかの想い出を綴った。白竜団長は静かにそれを目で追いかけた。綴られた過去は次第にアルベリクとエステルが成長をした姿を見せた。
水彩画のような書斎を背景に横に広い骨太な机が一基。そこに白髭を蓄えた父アスベリクの姿とアルベリクとエステルの姿があった。どうやら何か重要な話をしているようで、アスベリクは熱心にエステルに話しかけていた。
エステルの横に同じく直立不動になったアルベリクは、幾分か表情を曇らせ俯き、二人の会話をぼんやりと自分なりに咀嚼をした。つまりはこうだった。アスベリクはエステルを白竜騎士団へ迎えアルベリクの補佐をして欲しいと望んだのだが、エステルはそれを拒むよう「アルベリク兄様に必要なのは武に秀でた腹心で、私のような半端者ではありません。それに私が兄上のおそばに居ては足を引っ張ってしまいます」と云ったのだ。
アルベリクはその光景に硬く拳を握った。
「足を引っ張る……か。それはお前が無能である。と、いうことではなく有能である。と、云うことが私の足を引っ張る要因になる。そう云いたかったのか? 私の無能さを際立たせるお前の有能さ。そう云いたかったのか?
父上も皆も私の中身を見てくれようとはしなかった。私が振る舞う何もかも、全ては私の虚勢のように映ったのか。そう。だからだ。私はこの時から——それであるのならば、手中に納め貪り利用をしてやろうと想ったのだ。ああそうだ。エステル。お前が集めた羨望でさえも自分のものにしようと考えた——なんとも浅ましい願望だろう」
アルベリクはそう云うと両手で顔を覆い——クククと小さく笑った。
※
「兄様。こんなところで何をされているのですか? お父様がお呼びでした。書斎へ急いでください」
俯き顔を覆ったアルベリクに声をかけたのはエステルの残滓だった。
残滓とはいえ他のものとは比べようもなく鮮やかに色づいたエステルの姿は、ここ数年の姿——美しく無垢に育った我が妹のそれだった。アルベリクはまた残滓が観せた思い出の綴りかと思ったが、再び「兄様?」と手で頬を触れることができるほどの距離に近寄ったエステルは、確かにアルベリクを瞳に収めていた。利発を思わせる瞳にアルベリクの疲れ切った顔が映っていたのだから確かにそうだ。
気が付けば周囲は王都のベーン家城館の光景を映し出しているようだった。見慣れたアークレイリ産の檜葉の扉が、長く続いた廊下にいくつか眺めることができた。特徴的な建材の香りが漂っているような錯覚を覚えるほどに、その光景ははっきりとしている。
アルベリクは驚き、かぶりを回したが先程まで目に出来た鈍色の海原や雲はなく、ほぼ目の前の光景は、つい先日に出立をした王都の城館そのものであった。だが。そんな筈はないとアルベリクは、かぶりを振った。
しかしどうだろう。
まさか、それまでに見た光景、棚田で魔導師から受けた苦痛、侮蔑の言葉、そういったものは夢なのではないか。エステルは未だ去ることはなく、アルベリクに優しく言葉をかけてくれている。そちらの方が夢であり悪夢であったのではないか。
恐る恐る顔をエステルに向けアルベリクは口にした。「父上の用向きは?」
※
エステルは兄の質問に「わかりません。ただ大事な話だと」と、ただ肩を竦め「私は魔術の修練に行って参ります」と廊下を小走りに立ち去った。
ベーン家は、魔導は如何わしいものと忌み嫌ったが、魔術は一般教養として習得に相応しいと、ある程度の階級までをエステルや妹たちに習わせた。そんな背景もあり、この頃のエステルはすっかりと剣の稽古の頻度が減り、魔術の修練に勤しんでいた。
だからと云って剣の腕が衰えたかと云えば、そうではなく、寧ろそれまでよりも、鋭く研ぎ澄まされた。実際のところアイロスは、最近の模擬戦でエステルに勝利したことはない。一撃を入れることができるか、完敗か。その何れかだった。
アルベリクとは互角か、それ以上。魔術を戦術に取り入れられれば、アルベリクは完敗を喫することが殆どだ。
ひときわ無骨な造りの扉の前でアルベリクは足を止めた。
拳で何度か扉を叩くと、向こうから厳かな声が答えた。「アルベリクか。入れ」
正直なところアルベリクは、この状況が現在進行形のものなのか、それとも幻想の類なのか判断に苦しんでいる。あまりにも現実味があり、拳に残った扉の感触もそうだったからだ。
だから尚更に——この扉の先に在るアスベリクの威厳に満ちた顔と、放たれる筈の言葉に備え、胸中身構えたのだ。知っているのだ。この後に言い渡される言葉が何であるのかを。聞きたくもない言葉。
言葉は時に、研ぎ澄まされた剣よりも刃を鋭くする。そして心を紙のように斬り裂く。それを知っているし、自分も同じ類の刃を振り回してきた——だから尚更そうするのだ。
「失礼いたします。父上遅くなりました」
顔を強張らせたのが自分でもよくわかった。アルベリクはまじまじと父の視線を受け止めた。
「アルベリク……一つ相談だ——」父が厳かに言い渡したのは、白竜の称号をエステルに譲るというもので、アルベリクは青竜の称号を戴きエステルを支えろと云うものだった。
歯を食いしばり、物陰に潜む輩の揶揄に目を瞑りここまでやってきた。白竜の称号さえあれば全てを手中に収められる。そうすれば、眼前の威厳に満ちた父は館の奥で穏やかに隠遁生活を送ってくれる筈だ。なんだったら郊外の保養地を買い上げそこに住まわせても良い。
だが、その想いは砕かれようとした。アルベリクはそれをよく覚えていた。
顎になにか生暖かいものを感じた。
強く噛んだ下唇から赤い筋が流れ落ちた。「そんな理不尽があってなるものか……」
アルベリクは再び、静かに俯き瞼をおろした。
※
「お父様!」
俯いたアルベリクの耳へ悲鳴にも似た声が届いた。
それはエステルだった。
アルベリクは身体をビクっとさせると慌てて周囲を見回した。今度はそこまで広くはない質素な寝室に場面が変わっていた。「ここは……。それに……」
佇む寝室にはベッドの傍で膝を折ったエステルと、アイロスや弟妹達が慌てふためく姿があった。アイロスは、何事かと集まった侍女達を慌てて寝室から追い出し「ここで目にしたことは他言無用。少しでも漏れ出れば、そうでなかったとしてもお前らの家系末代まで罪を背負わせる」と声を荒げた。
ベッドの中でアスベリクは大量の血を吐き事切れていた。
両の下瞼は紫色に腫れ、目尻は心なしか裂傷が見てとれた。喉元に見えた多くの引っ掻き傷は、苦しみ、喉を強く掻きむしった跡だろう。父の両の五指には皮脂がこびりつき、右の中指に至っては爪が剥がれている。相当な苦痛に襲われたことが容易に想像できた。
「アルベリク兄様。お父様は最期に何か仰られましたか?」悲しみに暮れた兄弟にかわり訊ねたのはエステルだった。
すっかり紅玉の瞳は濡れ、双眸を腫らした赤髪の姫に視線を落としたアルベリクは何度か空気を喰らうように口を動かしたが、何を云うわけではなく、静かにかぶりを横に振った。
「嘘です! 最期にお父様と話したのは兄上の筈。大事な話とはなんだったのですか?」その様子にエステルは、言葉の裏に潜んだ疑念を隠すことなく兄を問いただしたように思えた。そう……思えたのだ。
アルベリクは少なくとも、この場面を目にしたことがない。
万が一失念でもしていたのだとしたら、人間性に問題があるのではないかと疑ってしまう。どの基準においてかはさておきだ。
つまり、エステルはあの場面で、
※
すると——光景は再び鈍色の世界に戻ると、アルベリクはエステルと対峙した。
雲海から、あらゆる物が崩れながら青の粒子に還り、堕ちてきた。還りきらなかった事象は飛沫をあげたが音を立てずに海原へ沈んでいった。
あらゆる生命は皮が捲れ内側を晒し青く崩れ去って行く——そんな崩壊を背景にエステルは優しく寂しそうに兄を見つめた。
アルベリクは憂いの視線に心を抉られそうだった。
この期に及んで妹は血塗られた兄を包もうと云うのだろうか。
全てを知っても尚そうなのか。はたまたは、なにも知らずにそうなのか。それであれば、真相を知ったそのときエステルは何を口にするのだろう。
きっとこう云うのだ。
憐れみの面持ちで「辛かったね。もう大丈夫だよ。でも罪は償わないと」と、父親殺しがどんなに罪深いものかを知ってか知らずか口にするのだろう。
城館を飛び出したエステルが、どんな成長を遂げたのか。
風の噂では<宵闇の鴉>と行動を共にしているところを目撃されたと聞く。そしてフリンフロン王国王都の大使館へ姿を現した。一度は命を散らしたと思った妹であったが、どのような数奇な運命に揉まれ、そこへ辿り着いたのだろう。
きっと一筋縄でいくようなものではなかった筈だ。
聞けば、自ら大使館へ足を運んだエステルは冷静に、各国大使からの会談の申し出を謝絶し、迅速に祖国王都への馬を走らせたのだそうだ。城館を飛び出した頃のエステル——世間知らずの姫であれば、そのような高度な判断はできなかった筈。
自分が同じ立場であれば、そのような判断はできなかったかも知れない——またぞろ有象無象がエステルの成長を見れば、アルベリクを揶揄するのだろう。
それであれば。
きっとアルベリクにかける言葉は、死罪を告げるのと同義である。と、理解をしているのだ。
そう思うとアルベリクは、心中にわだかまった暗い何かに気がついた。
それが嫉妬にも似た感情であること。
矮小で見るのも悍ましい傲慢であること。
そうである自分や、自分をそう形造る他人への謂れのない憤怒であること。
醜悪を覆い隠し快楽に身を委ね逃避しようという、怠惰であり、色欲であること。
そのどれもが浅ましく全てを欲する暴食と強欲であること。
全ては人間であるが故の業なのだろうか——アルベリクはその想いの中に父の姿を見た。
アスベリクはベッド脇のサイドテーブルに置かれた水差しを寝台から眺め悲しそうな顔をすると弱々しく言葉を溢した。「ああ、わかっている。お前の不出来は儂の責任だ」
そしてアスベリクは杯に水を注ぐと、グっとあおり——暫くすると苦しみ始めた。アルベリクはそれを目の当たりにすると、胸の奥から込み上げてくる吐き気を感じた。
今でも自分を黙って見つめるエステルの脚元に、アルベリクは膝を折り両手を着くと——堪らず嘔吐した。エステルはそれを見下ろし黙っていた。
悲痛な沈黙だった。
周囲では変わらず様々な物が崩壊を起こし、海原へ還っていく。
エステルはアルベリクの心を見透かし、無言で責めているように思えた。
そうだ、私が父上を——。
見るな——私をそんな目で見るな。
※
アルベリクは刹那の間、意識を失っていたようだ。
そして無意識に身体を動かしていたようだ——でなければ、この状況に説明がつかない。アルベリクは両手に暖かく、か細いものを感じた。両掌から伝わる打ち震えた脈動は血管を流れる血のそれだったのか。少しづつ脈動は弱々しくなったようにも感じた。そう思うたびにアルベリクの両手の位置はゆっくりと下がっていった。
いや、動もすると自ら位置を下げるよう力を込めていたようにも思う。
その衝動を止めることができなかったのだ。
アルベリクはエステルよりもほんの少し暗い赤瞳を濡らすと、嗚咽を漏らし涙を溢した。
そして両手に収まったエステルのか細い首に力を込め締め上げると、争う様子もないエステルの膝を折った。弓形に身体を反らせつつあるエステルの身体は、どうだろう、アルベリクの腕に釣られ支えられているようにも見えた。
「すまない。私は心底お前を愛していたようだ……だから……」
アルベリクは声を震わせ云うと、瞳孔がすっかり開いてしまったエステルの顔を引き寄せ静かに唇を重ね、固く抱きしめた。
エステルの身体は弓形から、力無く人形のように不自然と後ろに折れ曲がった。
※
「素晴らしいではないか白竜!」
乾いた叫びが鈍色の世界に響き渡った。
アルベリクは青の粒子に還っていくエステルの躯を最後まで抱きしめ、その声を聞いた。その声には覚えがあった。怒りとも悲しみともわからない感情にすっかりと顔を歪めたアルベリクは、不快な音が鼓膜をゆらすと、ゆらりと亡霊のように立ち上がり、虚しく崩れ去る事象が海原に呑まれていく様を見つめた。虚しい宙に白い何かが浮かび上がった。それは、何やら鳥を彷彿する煙であったが、くるんと回り人の姿をとった。
それは、アイザック・バーグだった。両の五指を忙しなく擦り合わせ、三日月に歪んだ口をフードから覗かせていた。
「魔導師……」
「白竜よ。愛しき女と唇を合わせ何をみた」
「あれはなんの冗談だ」
「何を見た」アイザックは苛立ちを隠さず短く迫った。
「エステルの腹には子供が居たのか? 誰の子だ?」アルベリクは、押し付けられた質問を振り払うように腕を振るい、グいと魔導師との距離を詰めた。
アイザックは、それに「おうおう」嘲笑い顎をあげ、アルベリクの顔をまじまじと見つめた。
「その答えの前に、昔話をしてやろう。
かの雪竜王には愛する者が在った。竜の巫女。ヴァノックと同じ角を持った美しい雌の
だがな、雪竜王はそれでも第四の獣へ報復はしなかった。何故だかわかるか?
それは世界の監視の命を与えた世界の王との誓約ゆえ。怒りくるい竜の息を吐き出せば、立ち所に世界は焼き尽くされただろう。そうだ。巫女の死は、あくまでも雪竜王への責苦。世界の理を脅かす事象ではない。そう判断したのだ。
だから雪竜王は自分の血を巫女の口に含ませ黄泉還らせた。
再び傍で愛を囁いて欲しいと願ったのだ。そして人間の手にかからぬように、人の型に巫女の魂を注いだ。巫女はそうして一糸纏わぬ姿でヴァノックの前に還ってきた。
だが、それは禁忌であった。
心象の型を変え魂を呼び戻す。それは神だけが行える采配。そうだ——世界の王か四翼の竜だけが振るえる権能だ。
聖霊はそれを察知すると雪竜王を諌めた。お前に与えられた死命は蔓延る獣への鉄槌だと。その力は破壊にのみ使われなければ底をつくだろうと。
その証拠に雪竜王は力のほとんどをそれに使い果たしてしまった。もう宝物を護るだけの力も、空を翔ぶ力も残されてはいなかった。
それに聖霊は呆れ、巫女は悲しんだ。かくして雪竜王は少しばかりの休眠についた。聖霊は巫女に云った。雪竜王が目を醒ますまでの間、オブグスタンの森に匿おうと。そして王から賜った宝物は聖霊族が守護しようと約束をした」
アイザックはそこまで饒舌に話すと、魔導師を警戒し身体を強張らせたアルベリクの周囲をぐるりと周り「月読の湖の伝承は知っているな」と、小さな笑いを含ませカサカサと云った。「それが、なんの因果があるというのだ」
「まあ聞きたまえよ白竜。
かの竜の巫女は注がれた血ゆえに永遠の刻を大森林で過ごした。そのうちに森の女神と呼ばれたようだがな。だが、彼奴は、そんな大層なものではない。神を語るには
聖霊が与えた居を度々離れ、人間の街に足を運ぶようになった巫女はついには人間の子を孕み大森林へ戻った。ちょうどその頃だ。ヴァノックが休眠から戻ったのは。
雪竜王は醜くふくれた巫女の腹を見てとうとう怒り狂った。
見れば森の一部も人間の手で汚く拓かれる始末。だから雪竜王は決断したのだ。人間を滅ぼそうと。そして僭越にも神を気取ったのだ。第四の獣へ
アイザックは、何度かアルベリクの周囲を歩き話を終える頃には、掌に青白く揺れる焔を浮かべ白竜へ差し出した。「これはなんだ?」アルベリクはアイザックが云わんとするところを察したのか、振るえた声で訊ねた。
「ヴァノックの心象。残滓。根源。そう云ったものだ。
お前の心象の型に丁度良い。お前が辿り着いた高み。それはこの鈍色の世界——原初の海の贋作。そして願望が成されわけだ。まあ実にお前らしい半端な結末であったが、それでもお前は愛するものを手にかけ因果が実を結ぶ準備はできた。さあ、これを手に取れ」
アイザックは乱暴にアルベリクの手をとり、青白の焔を渡した。
「さて、白竜よ。
先のお前の質問に答えるとしよう。
お前が赤髪の姫の残滓から読み取った、忌み子の情景。あれは真に姫が宿した運命の子だ。そして、その父はお前ではない。勿論な。あれの父親は<宵闇の鴉>。我々を見下し、よもや世界図録へ筆を下ろす外環の人神」
アルベリクはその名を耳にし愕然とした。
鈍色の水面が激しく揺れた。アルベリクが手にした青白の焔が大きく膨れ上がり揺れる水面を照らすと、そこにアルベリクの顔が映し出された。
酷く歪んだ顔は、醜くやつれ——そして笑っていた。
「どうだ白竜。いや、アルベリク。
焔を抱き雪竜王を宿せば、お前に嘲笑をあびせた輩は勿論のこと、それと等しくお前を嘲笑うよう手をすり抜けていったエステルに、そうさせたアッシュ・グラントに鉄槌をくだすことが出来るぞ。
そしてお前は、お前が望んだように畏敬の眼差し、羨望——そうだったな、尊厳……そういったものを手にすることが可能だ。神の如しとはよく云ったものだ——ああ、だがな白竜。一つだけ約束をしてくれ。アッシュ・グラントへ辿り着けたのならば、命の燈が消える前に儂へ預けてくれ。儂にも儂の都合があるのでな。ゆめゆめ忘れるな」
アイザックはそういうとカサカサと笑った。
「アイザック・バーグ。その話は本当なのだな。
エステルは私を捨て、宵闇へ貞操を捧げ子を宿した。そうだな?」
「まてまて白竜。
間違ってはいないが、エステルがお前を捨てたのではない。お前がエステルをとうの昔に捨てたのだ。履き違えるな。
お前はお前の息のかかった男を赤髪の姫に当てがおうとしたではないか。良いか。どう足掻いたところで、お前の児戯に等しい処世術は醜く歪んでいる。どう転んでもお前に正義はない。それは、お前が父親を——」
「わかっている」
「そうか——ほお。良い顔つきになったな」
アルベリクはアイザックの言葉を斬り落とし、白の魔導師を刺すように睨んだ。
「どうすれば良いのだ、魔導師」
「……」アイザックは沈黙しアルベリクが願いを吐露するのを待った。
「雪竜王の力を得るには、どうすれば良いのだ」アルベリクは苛立ちを露わにした。「簡単なことだ」アイザックは、にやりと笑うと白竜の手を取り、ゆっくりと掌の焔をアルベリクの胸へ押し当てた。「魔導師。この力を得たら私はどうなる」
「無論その姿は白竜となる。
真にお前は白竜の名を戴くと云うわけだ。お前が汚く手にかけたアスベリクよりも、お前はその名を得るのに相応しい御姿となるわけだ。
そうだな。エステルよりも相応しい。ああ、そうだ。それはお前が求めた物の一つだったな」
最後の方はよく聞き取れなかった。
青白の焔が胸を焼き、身体の中で大きく膨れ上がるのがわかった。胸を焼き、喉を焼き、そして身体の芯は凍てつき四肢から感覚が失われていくのがわかる。だがアルベリクはそれを不快には思わなかった。寧ろその感覚は心地よく、身体の隅々に張り巡らされた神経の末端まで心地よさが伝わっているように思えた。
そして膨れ上がった焔が身体を突き抜けるような感覚を覚えた。
アルベリクの視界が再び暗転したのはその時だった。
※
どうも外野が騒々しい。
足元で猫なのか犬なのか、はたまたは猿なのか。そんなものが騒いでいるように感じたアルベリクは、気怠く瞼をあげた。
随分と視界が高かった。その高さがどれ程かと云えば、木々に邪魔されることなく遠くに街並みを望めるほどだ。
アルベリクは暫くはその感覚に酔いを感じたが、次第に馴れてくるとかぶりを巡らせた。棚田が眼下に広がり、その先に身を寄せ合った針葉樹達が所々で白々と煙をあげ燃えているのがわかった。
すると、訝しむアルベリクの眼前へ奇妙な梟が飛んでくると、何回かアルベリクの目の前を旋回し言葉を発した。「雪竜王よ。お前が求めたものは南南西にある」
その言葉を耳にしたアルベリクは「そうか」と口にしたつもりであったが、どうも舌が上手く回らない。
そのかわりに、喉の奥から鼻を刺激する硫黄の臭いが込み上げてくると、それを追いかけるよう別の物も込み上げてきた。
アルベリクは、熱さと冷たさを互いに、ぐるぐると巻き込み合いながら喉を駆け上がるものに顔をしかめた。初めて感じるその感触に不快さを覚え、身体を仰け反らせた。
どうだろう。
そうすると次第にアルベリクの意識がぼんやりとし、違和感が全身を駆け巡る。今度は喉元がどんどんと膨れ上がるのがわかると、身体を不快に震わせた。
「さあ竜王よ。その喉に溜め込んだ奔流を吐き出せ。世界を滅ぼす狼煙とするのだ。お前が望んだ物の全てはその先にある」梟が再び大きく旋回をした。
アルベリク——いや、雪竜王ヴァノックはそうして、世界を滅ぼす
軌跡にあるものを薙ぎ払い、凍てつかせ、業火で焼き払う。
凍えの内に閉ざされた物は、刻の流れから外れ瞬時に寿命を枯らすと浮き上がり、甲高い悲鳴を挙げながら電磁線を放った。そして互いに、身を擦り合わせたり反発をした。
全ての
そして全てを溶かし固めたような、鈍く黒く輝く死の回廊を作り上げた。
そこには一切の生命が在ることを許されない。
※
——
「ショーン・モロウ!
残念だけれど、やっぱり
未だ
「奇遇ね! 私は爬虫類全般と誰にも尻尾を振らない可愛げのない犬が苦手なの!」
「そうかい先生! だったら今は尻尾を振ってやる! どうすれば良い?」
「あの竜の頸を斬り落として! 中にあるヘンテコな石を砕いてちょうだい!」
「その石は、見ればわかるか?」
「そうね、リバーシーの駒くらいの大きさよ!」
「そりゃ良かった!
ショーンの言葉は段々とアオイドスから遠ざかり、最後の方は暴風の轟音に掻き消された。ショーン・モロウは、驚異的な跳躍で警備隊本部の屋上から隣の建物の屋根に飛び移り、次には物見櫓に足をかけた。そうやって、北に迫った雪竜王のもとへ急行をした。
「皮肉を云うくらいには余裕がありそうで良かったわ。こちらも準備しなくちゃね」アオイドスは逆巻く風の中、屋上からひらりと通りへ飛び降りると、北の内大門胸壁を目指し駆け出した。