——人工知能科学センター。
三好葵が気持ち一歩前に踏み出すと白濁とした自動ドアは「シュー」と静音機構の働く音をたて開くと、センター室内を露わにした。
そこは、のっぺりとした白。
彼女は、あまりここが好きではなかった。
どこか緊張感のある様子に気が安まらない。そんな印象を受けるからだ。センターの内壁は、乃木無人の要望でそう設計されたそうなのだが、純度99.9%のシリカガラス繊維を断熱材にした耐熱タイルを繋ぎ合わせて構成されており、特注の白い抗菌塗料でシームレスに塗装が施されている。タイルの繋ぎ目は見えない。
これが、きっと緊張感の要因の一つだ。
どんな些細なシミだろうが、そこに在ることは許されない。そんな息の詰まるような主張が聞こえてくる。
そもそもだ。
その耐熱タイルは大気圏へ突入するスペースシャトルを1600度の熱から護ることができる代物だ。幾らこの部屋の一角に人類の叡智——らしきものが詰め込まれているとはいえ、
三好葵はセンターへ足を踏み入れると透明なコーティング剤が施された白天板が並ぶ部屋を抜け、奥にあったもう一枚の自動ドアをくぐった。
センター室内には煌々とLEDが光を落としていたものだから、足を踏み入れた先の暗さに多少面食らったのか、三好は「颯太君? 居るの?」と、どこか不安げに絶世の美女との約束をすっぽかした犯人の名前を呼んでみた。きっと犯人は、ここに隠れている筈なのだ。
「あ、葵ちゃん?」
答えたのは、三好が期待した通りで白石颯太だった。「ちゃん? 彼女が三好葵?」こちらの声は三好の期待から大きく外れた声だった。むしろ想定外の人物。たった今、白石颯太へ決死の選択——リードランへのシンクロを迫った高木陽菜が答えたのだ。
「本当だ。乃木葵にそっくりね」
陽菜は颯太へ詰め寄ったまま、三好に顔を向けると目を細めた。
三好が背にした白々としたセンターの明かりが妙に眩しかったからだ。だが、それを受けた三好はといえば、不躾に「乃木葵教授に似ているわね」と、云われたように感じ「颯太君、いつから歳上が趣味になったの? こんな暗い所で……」と、あからさまに不機嫌さを滲ませ云った。
「えっと……。あなたにはこの惨状が情事の後にでも見えるの? 大丈夫?」陽菜は、三好の言葉にどこか引っ掛かりを覚え——歳上という言葉が意味するところにだろう——嫌味を云うと、大袈裟に両腕を広げてみせた。周りを見てみろと云いたげに。
センターと同じく白天板の机が規則正しく並んだ部屋のあちこちに、血糊がべったりとしているのを見ると、三好は「な……なにこれ?」と手で口を押さえ目を丸くした。
「高木陽菜。それが私の名前」陽菜はスマートデバイスにホロディスプレイを呼び出すと、身分証明書を映し出した。「DCIAの捜査官。もっと判りやすく云った方が良い? 警察の人。判る? 口の聞き方に気をつけないと、捕まえちゃうわよ。と——ちょっと待ってね……。白石颯太、あなたは、そこを動かないで」
※
「ちょっと颯太君。一体全体、どうなっているの? 理解が追いつかないのだけれど」
茶色の髪を一本に縛った三好を見るのは久しぶりだ。
でも、やっぱり
「あんたね」
三好は、明らかに期待外れの来客だと云う風な颯太の表情にムッとした。随分と近くまで詰め寄り、人差し指で颯太の胸を——結構強くだ——突くと、顔を近づけ小声で詰めた。「約束忘れたの? この私がラーメンに付き合ってあげるって云ったのよ。それをスッポかすなんて、どういう了見よ。なんであんな女と、その、なに——こんな暗い所に居るの?」
「ご、誤解ですよ」
「は? 誤解? 何をしているの? って訊ねているのだけれど」場を外し奥の大硝子に背中を預け独り言——いや恐らく誰かと通話をする高木陽菜に目を向けた三好は「答えなさいよ」と、もう一度、颯太の胸を突いた。
「いや、これはその……」
颯太は、たじたじとそわそわすると事情を説明して良いものかどうか、それを確かめたく陽菜に視線を送るのだが、陽菜はそれに片手を挙げるだけで、暗に待ってくれと云うばかりだった。「ご、ごめんなさい——そうでしたよね、前に行った<はりけんラーメン>ですよね……」
「何よ、そのしどろもどろ。ジェントルマンじゃないわね」
「いや、僕は一度だって自分を紳士だと思ったことは、ないのですが」颯太は、たははと愛想笑いを浮かべた。「ところで、葵ちゃん。スマートデバイスは?」
「それも説明しなさいよね。どうせ訳知りなんでしょ?」
三好はスマートデバイスが巻かれた手首を颯太に見えるよう、大硝子から漏れ出る白だったり青だったり緑だったりする光を当てて見せた。
手首を裏返すと、デバイスから奇妙な繊条が這い出て三好の白い手首に、へばり付いているのがわかった。「痛痒いんですけど、これ」
奇想天外な状況だというのに三好は落ち着いているように見えた。普通であれば、金属から毛細血管のような線が、わらわらと這い出て自分の手首に喰らい付いているのだから、大騒ぎをしても良い所だ。だが彼女は、それを取り繕っている風でもない。むしろ、約束をスッポかされた事の方が重要で、今はその尋問の時間と云うわけだ。
きっと、肝が座っていると云うのは、この様なことなのだろう。で、あればと、颯太は三好の手首を取って見ると、それには三好は過剰に反応し「なに? セクハラで訴えるわよ」と、随分と顔を赤らめた。
「見なきゃ、わからないですよね? それにこれ——葵ちゃん……」
「だから見せたじゃない。それともなに? 私の肌に触れたかったの?」そうではなく——三好は先ほど階段を駆け上がった際に吹き出た汗を気にしていたのだ。だから、そう云うと慌てて腕を背中へ回し、もぞもぞとした。変に意識をしてしまったせいか、余計に汗が吹き出たような錯覚を覚え、照れ隠しに悪態をついたのだ。
※
「ちょっと、あなた達。なにをイチャコラしてんの。白石颯太——どこでも良いわ。ニュースサイトを出して」
そんな風に見えていたのならば心外だ。と、云わんばかりに颯太は憮然とするとデスクのコンソールに手をかざしホロディスプレイを立ち上げた。「三好さんとは、幼馴染なだけです……」と、渋々とブラウザを立ち上げニュースサイトへアクセスをした。
「何が
云ったのは三好だった。
颯太の云いぶりに、そこはかとなく腹を立てたのか、それとも本意無しと想ったのか。少々残念そうな顔で颯太の肩を拳で小突いた。「すぐ、そうやって他所行きの顔をするんだから」
「痛ッ」ニュースサイトへ視線を落とした颯太は肩に拳を感じると、三好の顔を覗いたのだが、画面を二度見、いや三度見をするように取って返した。「ちょっとこれ……」
陽菜はまだ誰かと連絡中のようであったが颯太の声に顔を向けると、かぶりを軽く振った。そして人差し指を耳に当てると、そのまま上を——天井を指差した。音量を上げてくれ。きっとそう云っているのだ。
——颯太はコンソールのボリュームをあげた。
ニュースサイトのメインコンテンツであるライブ映像。
画面に踊った
無人タクシー同士の追突事故に、飛行機の不時着。
そう云った交通網関係の速報とは別の報道も並行した。
そのなかでも、一際異彩を放ったのが原因不明の焼死体の発見だ。これは同時多発的に発見されたもようだ。それだけでも異常性に事欠かないが、極め付けだったのが北海道、東京、大阪、名古屋、福岡と、てんでばらばらな地域でそうであったことだ。
颯太は口をあんぐりとサイトに釘付けとなったが、画面右下で流れたティッカーに気が付くと恐る恐る、
何せホロディスプレイの向こうから伝わる異常な緊張、不安、怒り、悲しみ、そう云った感情がこちらへ湧き出てくるようで、それに翻弄されると、颯太は得意であるはずの英語を頭で処理できずにいたのだ。
※
「本当だ。焼けちゃってるね」
「……え?」
「先輩との連絡が終わった」のだと陽菜は颯太達の傍へやってくると、そっとコンソールのボリュームを落とし「ありがとう」と告げ、云ったのだ。
それに颯太と三好は、陽菜が指したのはニュースサイトが伝えた惨たらしい焼死体のことを云っているのかと耳を疑った。
映画の出来事を観たような、その感想に本当は一連のニュースはフェイクで、二人は騙されているのではないかとさえ錯覚してしまう。そう感じてしまうほどに、あっさりと陽菜は云ったのだ。
「え……何? だってそうでしょ? 皆焼け死んでいるわよね?」
「は、はい、それは……そうなのですが……」
何か可笑しなことを云った? とでも云いたげな陽菜の言葉。
颯太は背後に立った陽菜から鋭い冷たさを感じた。どこか怖くなり、そっと背後に視線を投げ様子を確かめると、悪戯な笑いを浮かべるでもなく能面のように平たい表情をした陽菜は片眉をあげ肩を竦めた。
「先輩が云っていたわ——」
「なんの話をしているの?」割って入ったのは三好だった。しかし陽菜は一瞥をくれただけで、それに答えることはなかった。「——雪竜王ってのが大暴れしているって。白石颯太。乃木無人は向こうで狩人を皆殺しにすると云ったのよね?」
「邪魔をすれば。という条件付きです」
「そう。で、その準備は整っていると云っていいわけね。んで、奇しくもそれは現実に起きている。もっとも死にまくっているのは、向こうで先輩の云うことを聞かなかった阿保で、メリッサじゃない」
「メリッサって、アーカムメトリクスの?」三好は、おずおずと訊いた。
「ええ、そうよ。これ以上の話を聞きたいのなら——」と、陽菜は
「ちょ! 高木さんそれは……」颯太はそれに顔を青くすると陽菜と三好の間へ割って入り「そもそも葵ちゃん、リードランにシェルを持っているの? リードランのことを知らないなら駄目ですよ。危険すぎる」と両掌を三好へ突き出し早口に捲し立てた。
「なにを今更。この気持ち悪いデバイス見てわかったのでしょ? それにさっき、気不味そうな顔をしたじゃない」三好はほくそ笑んで云った。颯太はそれに、やっぱりかと大きく溜息をつくと「そっか。やっぱり、クレイトンに居た先生そっくりの魔術師は……」
「ええ、私よ。レジーヌ・ギルマン。淑女の魔術師ね」
「しゅ……」と、呆れ顔で言葉を詰まらせた颯太だったが「自分で云って、恥ずかしくないのです?」と、三好が電子誓約書に書かれた<accept>の文字をタップするのを目で追いかけた。「はぁ……。おじさんにまた怒られますよ……」
はい、どうも——陽菜は電子誓約書が「三好葵の承認を受理しました」と言葉を発したの聞き届けると「なに? あなた達付き合ってるの?」と悪戯な笑みを浮かべ「二人とも、成人しているからアレだけれど、学生だし——ご両親に通知は必要? って死亡する可能性がある捜索への協力要請とか云ったら私達の立場が危ぶまれるけれどね」と念押しに訊ねた。
「付き合っていませんし、両親に通知は必要ありません」慌て云ったのは颯太だった。「こんなのと付き合うくらいなら——そうだ、シェブロンズのオーナーのような格好良い大人の人が良いわ。私も通知は必要ないですよ、高木さん」とは、三好の返答だった。
陽菜は目を丸くすると三好を見返し「あの人だけは、やめた方がいいわよ」と苦笑で返した。
※
先ほど颯太が立ち上げたニューサイトから新たな速報が聞こえてきた。
今度は都内のマンションの一室でボヤ騒ぎがあったのだが、消防隊が急行すると、そこでは男女の焼死体が発見されたそうなのだ。
このご時世、キッチン周りもほぼ電化され、火の元となりそうなガスを利用することと云えば風呂場くらいのものだ。
それにしたって昨今建てられた、そのデザイナーズマンションでは給湯も電力で賄われている。故に火の元となるものと云えば、愛煙家が未だに嗜む葉巻くらいのもので、なおさらその焼死体が転がった現場には似つかわしくない。二人は高校生であったのだ。
だが報道が注視したのは、そこではなかった。
二人の身元は未成年者保護法の観点から明かされなかったが、二人ともスマートデバイスを装着し、それがアーカムメトリクス社製であることが伝えられた。そして世間では、永らくメンテナンス期間中で閉鎖されたと云われた仮想世界「リードラン」へのアクセスの痕跡が、とある映像に残されたことを報じようとした。
その映像とは。
所謂、野次馬(善意の映像提供者)が撮影をした——偶然に映り込んだ焼死体の左手首——映像だ。
それをご丁寧に拡大してくれと男性キャスターは云った。
惨たらしい映像を拡大しろとは何事かとコメント欄が大荒れするも、これはジャーナリズムだと押し切った男は——勿論、ただの暴挙であるが——「えー、男性の盤面には……ロ……もう少し拡大してください。あ、はい!ストップ! ロジェ・シェルバスと表示されていますね! それに、リード——」
報道は、そこで途絶えた。一拍置いて映し出されたのは「映像の復旧までしばらくお待ちください」というテロップであった。
「まいったわね。
白石颯太。もう待ったなしな状況なのは判ったわね。兎に角——あなたはリードランへ一緒に来て頂戴。そして乃木葵を説得して——乃木無人がどうであれ、一度
陽菜が頭を掻きむしり溜息まじりにそう云うと、リードランへシンクロをする準備のため椅子へ腰をかけた。しかし、待っていろと云われた三好も何故か颯太の傍にあったリクライニングシートを引っ張りだすと、腰をかけ足を放りだしたのだ。それに颯太は「え? 葵ちゃん?」と慌てて訊ねた。
「嫌よ」
「い、嫌って——葵ちゃん、本当に今のリードランは危険なんですよ」
「何が危険なのよ。危険なら、あなたが私を護りなさいよ」
「いや、今の見ましたよね? あれはきっと向こうで、何かに焼かれた証拠です。
それに僕は——僕が護れるのはせいぜい一人か二人。そんな幾つもの命を護れる自信はないんです」
「なにそれ。なんでリードランで焼かれたら、こっちで焼死体になるってのよ。それに、その一人か二人に私は入っていないってこと?」
「そ、それは……。兎に角向こうで何かあったら大変なんですよ」
陽菜は、颯太と三好のやり取りに「あなた達、なんでも良いけれど早くしてもらえる?」と、少々苛立ちを見せた。
三好は陽菜に一瞥をくれると、なにを偉そうにと云った風に鼻を鳴らした。「待ったなし。なんでしょ? 向こうに行ったら何をすれば良いの——まさか、子守じゃないわよね?」
「そうね。
向こうで、甲斐甲斐しく男を追いかけ回している乃木葵をリードランから戻すこと。向こうで遊び半分で竜の相手をしている阿呆な狩人を避難させること。まあでも、そっちは無理そうだって先輩が云っていたから、その竜を斃す必要があるわね。
その後は、乃木葵と無人から真相を訊いて——内容次第では、世界を巻き込んだ張本人を捕まえて……いいえ。きっと保護しろってなるわね。なんせアッシュ——乃木無人はメリッサを殺そうとしている可能性がある。まあ、でも乃木無人も保護しなければならないのよね。なんせ要人中の要人らしいから。判ったかしら——良いわね? いくわよ」
「あああああ! もう!」何故か陽菜の言葉に不快さを示した颯太は、そう叫ぶと「先生はもう無人さんのことは諦めてるんですって」と、すでにシンクロを開始した二人に向かって云った。おそらく、それは聞かれたくない言葉だったのだろう。二人がリードランへシンクロしたことを確かめた上での言葉だったに違いない。
※
野原と木々、そして小鳥が描かれたクレヨンで描かれたような映像に流れた「映像の復旧までしばらくお待ちください」の文字が止まると、ほのぼのとした画が消え、次に映されたのは質素な白壁の部屋と、そこに設られた、やはり質素な机とそこへ着いた防衛省内部部局・サイバーセキュリティ・情報化審議官の姿だった。
審議官は随分と慌てた様子で、次々と画面外から手渡される資料に目を通し、額へ汗を流した。水差しからグラスへ水を注ぎ、資料へ目を落としながら喉へ流し込む。
何度もそうした。
「えー。ここ数時間で報じられている事件、事故についてですが……」