原初の大地と焔は其処にあった。
エルフは最初にその大地へ降り立った。
ドワーフはエルフに呼ばれやってきた。
セイレーンはドワーフに呼ばれやってきた。
原初の焔を取り囲んだ三種の影が澱みを造る。
暗闇から這い出て来たのは小鬼に大鬼。
歪んだ欲望の塊<魔物>だった。
そして最後に降り立ったのは<神>と名乗る者だった。
神は魔物を駆逐し三種の王へ云った。
「安心するがよい、もう魔物は姿を顕さない」
森の妖精王は神に訊ねた。
「魔物は我々の影より産まれし存在。どのようにして滅されたのか」
神は答えん。
「深淵に渦巻く澱みへ楔で繋ぎとめたのだ」
鋼鉄の王は神に訊ねた。
「ならば、我らはこの地に繋ぎ止められたのか」
神は答えん。
「然り」
大海原の蛇は神に訊ねた。
「神とはなんぞ」
神は答えた。
「神とは世界なり、神とはヒトなり」
そういうと神は自分の似姿で造りし第四の存在。
世界の善悪と狂気の欲望を秘めた
––––セントバ大図書館 禁忌目録・創世記より。
※
南壁左翼——つまりダフロイト南西端の区域は比較的に安全であった。
というのも先程は<拳旅団>がフリンフロン王国軍を南大門から招き入れる際、外壁に取り付いた魑魅魍魎を一掃したからだ。
粗方の脅威は取り除かれ、この区域は奇しくも<大崩壊>の刻と同じく多くの被災者、負傷者の最後の砦となった。幸か不幸か猪突猛進をした北の軍勢は外壁を周り東西から南を目指す頭はなかったようだ。もし、それが云い過ぎなのだとすれば、そうできなかった理由でもあったのかも知れない。
何にせよ安全だとは云うが、
夢半ばであった子供達は戦禍の音に叩き起こされ、今では残された家族と身を寄せ合う。乳飲み子を抱いた、とある母親は突然見舞われた戦禍へ極度の恐怖を覚えたのか、乳房から一滴の乳も出なくなってしまった。これに赤ん坊は癇癪を起こし泣き喚いた。一変した空気にこの状況だ。仕方がないのは皆が承知をしている。しかし、傍で身を寄せ合った子供達は、すべからく耳を塞ぎ目を閉じるのだ。
理解できなくとも直感する。
ともすると自分達も、今、目の前で息を引き取った男のように命を奪われるのだと。その想いと赤子の鳴き声が、子供達の幼く儚い心を踏みしだき狂気へと誘うようだ。だから、なにもかもから自分を遮断し、全ては悪夢なのだと言い聞かせる。今は赤子の鳴き声は、愛くるしく感じるようなことはなく、ただただひたすらに呪いの音だった。
ナルドアルの軍事教会では、そんな光景が広がった。
普段であれば、名誉の負傷をおった戦士がやってきては、次の任務に就くため魔導師から祝福を受ける。次の任務で救われる命がどれほどあるのかを諭され誇りを喚起するのだ。一度背負った恐怖を拭い去り、誇りを取り戻す。魔導師は教会の天井へ描かれた天使を見上げ「この者へ祝福を」と云うのだ。そして戦士の背中を軽く叩き「天秤の加護を」と締めくくる。これは永世中立都市ダフロイトで、いつの頃からか皆が口にした慣用句だ。世界中の傭兵、戦士達が用いた「鴉に誓って」が揺るぎない決意を示すものなのであれば、ダフロイト民が使ったそれは仕事が、任務が、結末が正当な結果を残すことを願った贈りの言葉だ。
だが、今、礼拝堂を奔走する魔導師達が口にするのは祝福の言葉ではなかった。アウルクス神派から派遣された魔導師エルシールは涙を流し嗚咽の中で苦しく言葉を吐き出していた。
「だ、駄目です。もう傷を塞げるほどの魔力が練れません! 誰か替わりを!」
内臓が飛び出てしまった戦士の腹部を、十分に消毒をされたとは言い難い布で押さえた彼女の手から、たった今、緑の輝きが失われた。その横で、毒矢を受けた男の手当てをしたギルヌール神派のナルドアルは「もう少しで終わる!」と、泣き崩れたエルシールの肩を大袈裟に揺さぶり励ました。「大丈夫だ!」
いや、そんなことはない。
ナルドアルは分かっていた。
礼拝堂を埋め尽くす負傷をした戦士達と
幸いにも空腹や渇きを訴えた者へは教会が備蓄をした保存食を配り、市民の暴徒化といった最悪の事態は抑えることができている。そのはずだ。今のところは略奪などの報告は礼拝堂にもたらされてはいない。
だが、それにだって限度があるだろ。
各神派から派遣された魔導師の数では、この惨状を収めることは不可能だ。圧倒的に魔力の総量が足りていない。
仮に——頼りになるであろう<外環の狩人>は戦いに明け暮れている。
それはダフロイト民のためではない。魔物やアークレイリ軍の頸——つまり金貨なのか銀貨なのかに換金することのできる代物のためだ。それでも脅威を払ってくれるのであれば、それで良い。だが、せめて国政に首を突っ込んだ狩人が手を貸してくれるのであれば、この窮地を乗り越えられるのではないかと、ナルアドルは思うのだ。例えば魔導師ジーウ・ベックマン。彼女の無尽蔵な魔力と、業があれば立ち所に負傷者を癒すことが出来るだろう。彼女が施す魔導の殆どは師団全体へ影響を及ぼすのだそうだ。それであれば、いま礼拝堂で治療を待つ戦士に術師達を癒すのは容易なことのはず。
だが、残念ながら彼女は、ここには居ない。
「ああ……」エルシールの力ない声が聞こえた。「すみません。私に力がないばかりに……力及ばず……ああ……」
※
「そこの魔導師。祝福を」
負傷者をこれ以上横にするのが難しい程に礼拝堂は混乱をしていた。
にも関わらず、そう云ったのは真紅の外套をまとった鈍色甲冑の男だった。外套の背へ描かれたのは、フォルダール連邦サルダールの小王都カイラスを示す紋様だった。広葉樹の森と岩山、そしてそれを守護する盾と斧。恐らく男は、サルダールの貴族の息子でダフロイトへは
男はたった今エルシールの傍で息を引き取った男を跨ぎナルドアルの前に立つと「急いでくれ、北で竜が暴れていると云うではないか」と急かした。
ナルドアルは、それに片眉をあげ「今、あなたが跨いだ戦士は防衛隊の方々を護ろうと身を挺し負傷をしました。名前はご存知で?」と、キツく鈍色を見据えた。
「そんなものは知らぬ。それとこの緊急事態に何の関係がある。さあ、早く祝福を」
「声をかけてやってください」
「なんだと?」
「声をかけてやってくれと云ったんだ。聞こえなかったか? 名前を呼んで声をかけてやってくれと頼んだんだ」
ナルドアルは声を張り上げた。
辺りを満たす苦悶の声。
悲嘆の呻き。
居るはずもない神の名。
ありとあらゆる苦しみと悲しみの聲を斬り裂いたナルドアルの声は、鈍色甲冑の頭を殴りつけるようだった。鈍色は足元に横たわった戦士へ目を落とし、傍で肩を震わせた女魔導師を次に見ると「なんだ、死んでいるではないか。これでは声のかけようも……」と、顔を歪めた。
「そうだ。もう逝ってしまった。
誇り高き戦士の最期だ。私もこの戦士の名を知らないし、エルシールもそうだ。だがな。我々は全身全霊、誇りにかけ彼を救おうとした」ナルドアルはエルシールの肩に軽く手を触れ立ち上がると続けた。「それでも彼は逝ってしまった」
「ああ、それは残念だったな」銀甲冑は苛立ちをあらわに云った。
「それだけか? それだけの想いしか持ち合わせないから、彼の遺体を物であるかのように跨いだのか? この戦士の誇りを汚したのか?」
「いいか魔導師。我々は最前線に立ち、この困難に立ち向かう騎士。一兵卒の死をいちいち……」
「だったら、さっさと最前線に行け。防衛隊の騎士なのだろ?
その剣を誰へ捧げているかは知らないが使命を遂行してきてくれ。
ここは軍事教会だ。戦士が二度と心を折らないよう祈る場所だ。それでも心を折ったのなら、それでも戦士であろうとするならば心へ添木をしよう。だが、もし戦士を辞めるというのであれば、共に道を見出そう。そういう場所だ。ここにはお前が剣を捧げた相手は居ない。お前が見下した見窄らしい戦士の為の教会だ。さあ、さっさと行ってくれ」
ナルドアルは苦渋の顔で云うと、鈍色甲冑の胸元へ乱暴に<言の音>を書き殴ると身体強化の業を施した。「戦士でない奴は、二度とここへ来るな」
※
——南壁右翼。十六番区。
左翼の四十番区砦の麓にある軍事教会までは大通りを越え、さらに二区を進まなければならない。
東大門から少なからず魔物が侵攻をしてきているようだったが警備隊と防衛隊の混成部隊が東内門を死守した。しかし、討ち漏らした
それが本当なのであれば、比較的に安全だと云われたこの地区が戦禍に晒されるのも時間の問題であった。住民達は持ち出せない食料や医療具などの物資を十六番区の砦へ寄せ集め、警備隊の戦士達へ「すまない」と云い残し西の軍事教会へ避難を始めていた。
「爺さん、もうここは駄目だ! ナルドアルの教会へ避難しよう!」
砦と監視塔に挟まれた十七番区の住民達も同様に避難を開始したが、南壁にほどちかい丘へ居を構えた老夫婦は、顔見知りの夫婦に声をかけられたが「先にいってくれ」と、静かに断った。それには理由があった。
※
老夫婦は長い間、この小高い丘で見事に咲き誇る花々を育てることで知られていた。
とある日のこと——。
老夫婦の居へやってきた遠く離れたシラク村の商人だと名乗った恰幅の良い男は「花を育てる技術を教えてくれ」と、不器用に頭を下げたのだそうだ。だが、老夫婦は、それは出来ないと男が投げてよこした金貨の詰まった小袋を突き返し「帰ってくれと」つっけんどにした。
男は案外あっさりと引き下がったが、日が変わるとまた老夫婦のもとを訪れると、今度は「弟子にしてくれ」とかぶりを深々と下げた。
老夫婦はそれに驚き「何故そこまで?」と訊ねると「俺の村で大勢の人間が死んだ」と答え、静かに「だからだ。死ぬほど綺麗な花が必要なんだ。それに、これだけのものだったら飛ぶように売れるぞ」と、最後の方は恥ずかしげもなく、さらりと云った。
「それだけじゃないのだろ?」
花の翁は、はっきりと開くこともない瞼の奥から黒い瞳を覗かせた。翁は、恰幅の良い男の最後の言葉は本心のようには思えなく、そう訊ねたのだ。
「なんだよ爺さん、千里眼でも持っていやがるのか?」
「随分と不器用な男だな」翁は笑ってみせた。
「村を救ってくれた魔術師、といっても小生意気な子供だがな。そいつが、もう馬の糞の片付けは嫌だって云うんだ」
「村の恩人に糞を片付けさせているのか?」
「おうよ。それとこれは別だ。飯を食うなら働けって話だぜ爺さん。それにな、糞を糞と煩えが、糞はな命の源。肥料になるんだ。知ってんだろ?」
翁はそれに、そりゃあなと笑うと「で、それと儂らが育てる花。なんの関係があるのだ?」と訊ね返した。
「云っただろ。飛ぶように売れるって。だからだぜ。小娘には丁度いいだろう、花の世話なんて随分と夢があるじゃあねえか」
「ほんに不器用な男だな」翁は笑って云った。
「そうか? 売れるものは大好きだ。それにな、その小娘はなちょっと難しい奴でな。まあ、訳ありって奴だ。難しいことは分からねえが、寂しそうな顔をするんだ。たまにな。だから俺の村に来た時くらいは……」
「寂しい想いをさせたくないというわけか。それであれば、花の世話をするのは、お前さんだろ? それが本心か?」
「知らねえよ、そんなこと。まあ、花でもみてりゃ気も紛れるだろ? それだけだ。で、どうなんだ?」
「わかった。引き受けよう。おっとその金貨は必要ない。その代わり、この子達の種を絶やさないようにしてくれ。この子らは死んだ息子の形見だ。お前さんの村で大切に育ててくれ」
「なんだよ。ただより高けえもんはないって云うぜ、爺さん」
「そうだな、綺麗に育てるには相当に気を使わなければならないぞ。お前さん、厄介なもんを背負ったな」
「そうでもねえぜ? これでまた一儲け出来るって話だ。じゃあな。準備をして来るぜ。それまで腰は大事にしてくれ」
※
——「爺さん! 魔物がやってくるんだぞ! 花はまた育てれば良いだろ?」
花の翁は、気遣いの言葉に耳を貸さず「いいや、ここを離れたら駄目なんだ。約束を果たさなければならない」と優しく笑うと「さあ、行ってくれ」と、もう一度云い、夫婦を見送った。
老い先短い夫婦を気遣ってくれるだなんて、ありがたい話だ。だが、息子の残した花園が蹂躙されるのは避けねばならない。次の時代へ。あの気の良い男が次の時代へ息子を連れて行ってくれる。子供達へ夢を運んでくれるだろう。
そこはかとなく、翁はそう思ったのだ。
「あなた。嬉しそうね。きっと私達は命を落とすのよ? 私は、あなたとなら何でもよいのだけれど、どうして?」翁の妻は、どこか誇らしげな顔をするとそう訊ね、翁の手を取り花園へ足を向けた。きっと答えは聞くまでもなかったのだろう。
小高い丘の小さな一軒家。老夫婦の庭は、どこまでも広がっているように思えた。小花達が細波をたて、さわさわと月明かりに揺れると翁はやっと、妻に答えた。
「そうだな。儂らの死が何かを繋ぐというのなら嬉しいじゃあないか」
「想いを繋ぐ——あの欲深い商人が? そうだと良いのだけれど。でなければ、あの子が救ってくれた命。無駄にしてしまうようで申し訳ないものね」
「ああ。まんざら、あの男の欲は……どうだろうな愛情深さからくるのかも知れない。争いは不毛で何も産み出さない。だが、ああいう男は不器用ゆえ、不毛の地から、泥を啜ってでも希望を見出すだろうよ」
「あらあら。随分と詩的なことを」妻は優しく笑った。
「最期くらいは格好をつけても良いだろ?」
「ええ、ええ。存分に」
※
「丘の上に灯りが」
十六番区砦を臨む小高い丘の麓に一塊の——恐らく一個小隊ほどの戦士達の姿があった。青い鬣を施した外套を羽織った銀甲冑が数名。多くの剣術士が好んで装備する厚手革の鎧の戦士。片目を潰された弓術士。頭巾を深々と被った魔術師らしき術者。そういった者達も数名、見てとれた。
丘の上に灯りが見えたことを伝えたのは、片腕から血を盛大に流した男の剣術士だった。男は小隊——と、云えるものなのかどうかは別として——へ、身を屈めるよう手で合図を送ると、傍で力無く身体を預けた女剣術士の耳元へ顔を寄せた。「魔導師がいれば、良いのだけれどな。何にせよ身を隠してやりすごそう。もうこんなのは……戦争でもなんでもない」
「貴様。アイロス様を裏切るつもりか」銀甲冑の一人が声を殺し、云った。
だが、剣術士は「お前さん、それ本気で云ってるのか?」と呆れ顔で答えた。
そう思うのも仕方がない。
なにせ、アークレイリ軍青竜騎士団団長が掲げた必勝の策とは、北の砦で敵味方関係なく焼き払う竜の
剣術士達は、ダフロイトの精鋭と狂った魔物を相手に命からがら、ここまで逃げて来ることができた。奇跡と云ってよかった。だがしかしだ。ダフロイト南東の監視塔を挟んで東大門にほど近い二十番区砦は、今しがた魔物の軍勢に呑まれたようだったのだ。
それであれば、魔物共が壁を越える程の知恵がなければ、壁沿いにこちらへ雪崩れ込むのは容易に想像ができる。
早いところ負傷をした仲間を手当し態勢を整える必要がある。
剣術士は顔を挙げ、もう一度丘へ目をやった。「爺さんと婆さんか……」
※
花の翁と妻は、一頻り花園を眺めると「戻って灯りを落とそう」と家へ戻った。翁は部屋の奥の棚から小瓶を引っ張り出すと、灯りを落とし「結界を」と、鎧戸に手をかけ再び外へ向かおうとした。その時だった。勢いよく鎧戸が内側へ開け放たれ、あわや翁の手と顔面を打ち据えるところだった。
翁は見たくれに似合わず身軽に、それを避けると「誰だ」と妻を背にした。
「静かにしろ。爺さん」
云ったのは片腕に大きな傷を負った剣術士だった。「あんた魔導師か?」
片手剣の切っ先を翁へ向け口早に訊ねると、ずかずかと家の中へ押し入り肩にもたれかかった女剣術士を床へ寝かせた「頼む。こいつを助けてやってくれないか」
鎧戸の向こうでは、青い鬣の銀甲冑や幾人かの戦士が周囲を警戒をしている。
「不躾な輩だな」翁は半ば閉じそうな瞼の片方をほんの少し開けると、女戦士へ目を落とした。「それは判っている」剣術士は女の傍に跪き具合を伺った。「どのみち魔物共がやって来るのは時間の問題だ。俺たちが護ってやる。取引をしようじゃないか」
翁は男に倣い女剣術士の傍へ膝を落とすと「お前さん、アークレイリ軍だな?」と、外の銀甲冑に目をやった。剣術士は短く「ああ」と答え、それ以上は口にしなかった。
翁は男の顔へ、ほとほと緊張の色を読み取ると男の緊張は敵前のそれとは違う、もっと別なものに感じた。腹から大量の血を流した女は、剣術士の相棒ないしは、ねんごろの女なのだろう。
「東が破られたのか?」
「だろうな」
「見てはいないのか?」
「必死だったからな」
「そうか」翁は「ふむ」と漏らし跪くと女剣術士の腹へ手を当てた。
「それで、こいつの傷は治せるか?」
「取引と云ったな?」
「ああ、そうだ。だがそれは爺さんが、魔導師であることが条件だ」
「ならば取引成立だ。魔術師は居るのか?」
「居る。だが、からっけつだ。歩くのも覚束ない」
「どんな戦い方をしてきたんだ」翁は苦笑を漏らした。
「聞きたいか? 糞みてえな作戦の内容を」
「いいや。魔術師をここに」翁は時間が惜しいとばかりに急かした。
「どうするんだ?」
「
「一粒だ。それ以上は呑ませるな」
※
フリンフロン軍を招き入れた<拳旅団>から二個小隊を引き連れ、十六番区砦へ向かった魔術師のベリアスは作戦通りに南壁右翼の警戒にあたる予定であった。
もとより臆病で何事にも慎重すぎるこの魔術師は、その指示に胸を撫で下ろしている節がある。<拳旅団>を率いたサーべンスの見立てでは、南壁は安全であるとのことだったからだ。気難しい顔も今は比較的に穏やかだ。
だが、それも束の間。念の為に走らせた斥候が十六番区砦の近くで、魔術の結界が張られたのを目視したと報告したのだ。
「十六番に魔術師は居ないはずだが」
ベリアスの表情が嵐の空よりも突然に
そうなのだ。だから<拳旅団>の中でも、そういった障壁を張るのに長けたベリアスが十六番砦へ向かったのだ。「まさか落ちたわけではないよな。麓にはクロンデル導師が住まわれている。そう易々とは。うむ——」ベリアスは、ひとりごちると「急ごう——音を消すぞ」と、小ぶりな杖を手に構えた。
※
「どうだ爺さん?」
「慌てるな。大丈夫だ。だが少しばかり時間が必要だ。それに儂はもう、歳だからな。
剣術士は翁の妻から手当を受けると、すっかり腕の傷が塞がり回復した様子だった。周りをみれば、翁の妻は幾許かの干し肉と果実酒を外で警戒をする戦士達へ振舞っていた。特に先ほど、大規模な障壁を張った魔術師へは「魔力の源は命。だから食べなさい」と、暖かで不思議な味のするスープを呑ませた。手っ取り早く体力へ還元するには、これが良く効くのだそうだ。
「すまないな」剣術士はその様子を目に、翁へ礼——らしきものを云った。
「ああ、そうだな。迷惑この上ない。よもや敵兵を助けるとはな」翁は、小さく笑った。「だがな。剣術士。これも巡り合わせだ。儂と妻には戦う術が必要だった」
「よく云うぜ。どうだ、あんた高名な魔導師なのだろ? なんでこんな所にひっこんでるんだ? さっきの身のこなしも——」
「幾ら優れていてもな、そんなものは——」翁は向こうで甲斐甲斐しく世話を焼く妻に目をやり、こちらに気が向いていないことを確かめると「——糞の役にもたたないものだ。儂一人の力なんてものは、よっぽどだ……。それにな病に冒されているのだよ」
女剣術士へかざした掌が暖かく溢した緑の輝きが最後にパッと強くなると「良し。これで大丈夫だ」と翁は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「爺さん、あんた——なんでだ」
「なんで?」
「ああ、その。なんだ」剣術士は翁の妻を気に掛けた。
「気にするな。それにこれは取引。魔導師との取引がどんな意味を持つのか。わかっているのだろ?」
「ああ。だが
「待て……」翁は半ば閉じた両の瞼を開いた。
慎ましい家の中へ吹き込んだ微風が土の匂いを運んだからだ。
咲き乱れる小花達の香りではなく土の匂い。
少しばかり乾いた砂塵の様子も感じられた。
※
(小隊規模を確認。騎士も居ますが……どうも見慣れない編成ですね)
ベリアス隊の頭へ一語一句浮かび上がった
——クロンデル導師が囚われたのか? それは考えにくい。
ベリアスの知る導師が、そこまで
寧ろ、塔役が伝えた、急ごしらえの小隊程度であれば軽く捻っているところだろう。考えられるとすれば、導師が大切にした小花の園の被害を懸念し、おとなしくする。そのくらいのものだ。
導師の家をよく見れば、鎧戸に数名の銀甲冑が見てとれた。
随分と派手な外套を羽織っている。よく見なくとも、アークレイリ軍青龍騎士団なのが直ぐに判る。
その周囲には思い思いの装備をした戦士——剣術士に弓術師が数名、周囲を警戒する。屋根へ目をやれば、そこにも数名の弓が四方を見渡している。
銀甲冑に取り囲まれている者も見えた。
頭巾を深々と被った
一人は座り込み、老婆から木製の器を受け取り口に運んでいた。
なるほど、そうか。
ベリアスは丘上の家屋を中心に張り巡らされた魔力の障壁は、あの魔術師によるものだと推測をした。北の魔術師であれば、どうりで術式も荒削りで強度が低いのも納得だ。そのおかげでベリアスは最小限の術式解体を行うだけで障壁内へ隊を潜らせることができたのだ。
だが疑問が残った。
同じ結界の類を張るのであれば、クロンデル導師の専門分野である旅団幻装の方が俄然と効力は上のはずだ。旅団幻装の業には、旅団が突撃をする際、大地そのものから魔力を供給し立ち上げる強力な障壁が存在すると聞く。魔導師の魔力か続く限り、障壁は崩されようとも、ただちに穴を埋めるのだそうだ。
今、張り巡らされた
わざわざ、これを張らせた理由。それは何であるのか。
何にせよだ。導師の安否を確認し敵小隊と対峙すればわかるだろう。
ベリアスは手信号で三人一組を指示すると散会させ、三方から敵小隊を取り囲むよう指示を出した。
※
「くそ! 囲まれたぞ! だから女は捨てて行けと云ったんだ!」
アークレイリの銀甲冑が金切り声を張り上げた。
たった今、黒頭巾の術者が頭を射抜かれ身体を倒すのを目の当たりにすると、周囲を見渡し状況を把握することを急いだ。
屋根の上の弓は何をしていたのだ。
銀甲冑は屋根を見上げ、だらしなく腕と頭を垂らした弓術士の姿を認めると、自分達は既に敵に取り囲まれていることがわかったのだ。
射抜かれた黒頭巾は身体を痙攣させ、手にした木製の皿を強く握りしめた。傍の老婆はそれを見るや否や、銀甲冑の声と被るように「あなた!」と家の中に居るはずの翁を呼んだ。しかし、返ってくる答えはなかった。老婆は顔を青くするともう一度云った「……あなた」
老婆が目にしたのは、よろよろと立ち上がった女剣術士と、翁の背後から首筋へ短剣を当て、腕を捻り上げた男の剣術士の姿だった。男は「外に出ろ。ゆっくりだ」と翁に云うと乱暴に背中を押し前へ歩かせた。
数歩で鎧戸から出ると、男は倒れ込んだ黒頭巾に視線を落とし「やりやがったな」と目を細めた。今度は上を見た。生暖かいものが男の頬を濡らしたような気がしたからだ。見上げれば弓術士が頭を魔力に弾かれた様子で、絶命しているのがわかった。
「こうなるまで、なんで気が付かなかったんだ」男は、呆れ返るように先程、金切り声を挙げた銀甲冑を一瞥すると、もう一度翁の背中を押しつけ前へ歩かせた。
「婆さんは中に入ってろ。一触即発ってやつだ。悪いな」
男は殊更、老婆の前へ大袈裟に進むと小声で云った。
取り囲まれた様子は重々承知をしていたが、未だ姿が見えない敵へ翁を人質に取っていることを示すよう男は、更に数歩前へ出た。そして、息を大きく吸い込むと云った。
「提案だダフロイトの。まずは、お前らが踏み出す前に云っておくが、花園を踏み荒らすな。それは爺さんの大切な花だそうだ」
男は周囲へ目を鋭く配り敵の出方を待った。
そしてまたぞろ大声で話を続けた。
「
敵は未だ姿を現さない。男は続けた。
「見てみろ爺さんの干からびたこの面を。血を使わせすぎだ。すっかり吸い上げた負の魔力が身体を蝕んでる。まあ、そんなのは俺達には関係ないがな、ちょっとした恩義ができた。それでだ。爺さんと取引をした」
三方に気配を感じる。
男は場の空気からそう踏んだ。
取引——その言葉に敵の気配が明らかとなった。
真正面、花園の向こうに恐らくは剣術士と指揮役。左に術者、右の木々には弓。一個小隊……が、どれ程の編成かは想像が付かないが、少なくとも二組は居るはずだ。男は背後に眺めることのできた砦に目をやった。砦に詰めるならば、その程度は居るだろう。
そこはかとなく、緊迫した空気——殺気と云ってもよいだろう——が張り詰めた。
男は思った。
こちらは急造の小隊もどき。連携も何もあったものではない。そこへ手練れのダフロイトの戦士が襲いかかって来たのだとすれば、堪ったものではない。これが噂に聞く<お飾り>なのであれば話は別だが、こちらを削り取るように追い詰めるやり口は、警備隊のそれだ。
不味いな、煽られたか。
事実、花の翁とは取引をした。どのような手段であろうとも、この花園を護ることが出来るのであれば、翁を人質と偽ってもよい。翁はそう云った。が、これほどまでの殺気が剥き出しになるほどに、それは
ねんごろの女の命は助かった。だから——緊張の糸が解かれると、なんとか繋ぎ合わせた理性の膜が、はらはらと音をたて頭の中で型を崩したのだ。そうするれば、あちらこちらから響く戦禍の音が気を狂わせようとする。どうすれば良い? 男はここに来て、いよいよ追い詰められた。
人質を演じる。それそのものが翁の張った罠だったのではないか?
「剣術士。儂が説得をしよう」
腕を締め上げる——ようにした男の手から伝わる緊張に翁は微笑むと、出来るだけ落ち着いた声で云った。「手を緩めてくれ」
「駄目だ」男は短く云った。そして翁の頸に当てた短剣を少しばかり強くした。
赤い筋が翁の頸へ薄く轢かれた。
「それ以上、刺激を与えるな。魔導師との取引をお前さんは、充分に理解をしているのだろ? ならば尚更だ。儂を信じろ。真正面に隠れている魔術師は息子の旧友だ」
花の翁は、恐らく真正面に居るであろうベリアスの魔力を辿ると、後は任せろといった面持ちを見せた。「ここから南壁はすぐだ。馬を数騎、与えるように云おう。この戦況だ。混乱に乗じて女と逃げればよい」
ほんの少しだけこちらに向けられた翁の顔。男はそこへ視線を落とした。嘘を云っているようには思えなかった。
ぐるりと、かぶりを巡らせた。
傍の女は死の淵から生還したばかりで、顔は青ざめ不安に満ちている。
こんな状況に馴れる筈もない銀甲冑達は呆然と、男の動向に目を向けるばかりだ。本当であれば、この場の指揮は彼らの仕事だ。
なぜ、給金外の仕事を自分が背負ったのか。もう一度女に目を落とした。そうか、俺はこいつのためにそうしたのだ。男はそして口を開こうとした。「判っ——」
だが、言葉は最後まで形になることはなかった。
剣術士は、唐突に屋根を見上げると花の翁を乱暴に引っ張り、家の方へ投げ飛ばしたのだ。
翁が後生大切に育てた花は青や緑や赤色で、大小てんでばらばらなものだった。色に何かあるわけではない。だが、不思議と人の目を惹きつけ心に湧き立つ何かを育むようである花々は特に魔導に携わる者、つまり教会の魔導師であったり、穴倉で黙々と業に耽る幻装の導師に愛された。彼らが口を揃えて云ったのは「花弁一枚が、命を代弁する」というような賛辞だった。
今、そこにあった花の翁の姿が乱暴に突き飛ばされると、次にあったのは散った花弁の赤ではなく、剣術士のかぶりから噴き出た鮮血と脳髄の赤であった。
内壁沿いを狂ったように回って来た
そして翁の家の向こうへ、
※
「くそ! 突撃!
失敗した。こんなにも早く魔物が南にやってくるとはベリアスは思ってはいなかったのだ。だが、改めて花園に散った鮮血と花々を目にすると、そうか花の匂いに誘われたのかと納得し、失態を恥じ突撃を命じた。
完全に虚を突かれる格好となった。
剣術士のかぶりを割った
警備隊が
つまり。
「殲滅! それ以外のことは考えるな!」ベリアスはもう一度号令をかけた。
家の中に転げた花の翁に、