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Ragnarok#11_第四の獣③




 ——フォーセット王国属州ベルガルキー王都クルロスの南南東。


 雪竜王ヴァノックの放った<竜の息ドラゴンブレス>はサタナキア砦を襲ったが、砦に居合わせた野伏と魔導師の手で直撃を逃れた。しかし弾かれた極寒と業火の息は、あらゆる生を崩壊へと導き今ではサタナキア砦と王都クルロスをつなぐ街道を、黒く爛れ固まった一本の溶岩道のようにした。


 夜の帷は降り東の空が白むにはまだまだ時間がある。

 それだと云うのに黒い溶岩道の上を翔ぶ黒く濡れた鳥——黒鴉は、じっと溶岩道をみつめたが、翼を休める様子は見せなかった。

 視線の先には、黒々とした人影があった。

 ヴァノックが放った死の息は、生きとし生けるものの細胞を打ち砕き凍えさせ熱すると命を奪った筈であったし、今でもその影響から逃れることはできない。

 だが、人影はまるで死の街道を滑るように歩き王都を目指しているようであった。


 鴉が見た人影の背後へ急接近する、やはり黒い影があった。

 上空の鴉は、怪しい影を見つけると首を傾げ何度か目を瞬かせ、ほんの少しだけ高度を下げた。怪しい黒い影をよく確かめるようと思ったのだろう。

 先に歩いたのはサタナキア砦を出たアッシュ・グラントだった。

 黒く暗い外套の頭巾を深々と被り首に巻いた黒布で口を覆ったアッシュは、その奥で赤黒い瞳を輝かせ、ただひたすらに遠くに見える王都クルロスの影を捉えていた。背後に迫る影へ気が付いているような様子見は微塵も感じられない。


 だからアッシュの背後に迫った怪しげな黒い影は、自分には気が付いていないだろうと踏んだのだろう。ぐんぐんと走る速度を上げると腰裏に刺された鞘から黒鋼の短剣を抜き放った。

 この男もアッシュと同じく頭巾を深々と被ったが、特徴的な鷲鼻を覗かせていた。きっとアドルフ・リンディがこの場に居れば、それは王都フロンでアッシュへ接触をしたギャスパル・ランドウォーカーだと判っただろう。


 ギャスパルは頭巾の奥でほくそ笑むと街道の両側に競り上がった黒々とした溶岩もどきの壁を音もなく駆け登り、アッシュの頭をそろそろ超えるだろう位置まで来ると、まるで矢が放たれるように飛び、宵闇の背後を目掛けた。

 瞬く間にアッシュの背後に迫ったギャスパルは、どういうわけか、あれだけ勢いよく飛び出したというのに宵闇の頸を捉えるところまでくると、ふわりと身体を捌くと羽毛のように街道に着地をした。


 アッシュは、どこからだったろうか背後に迫る気配は感じていた。

 この死の街道を歩くのだ。追跡者はよっぽどの手練れか、死に急ぎの野盗か、はたまたは魔物の類だろう。それであれば放っておいてもどうにでもできる。その手合いの扱いには随分と馴れているのだから。


 背後に急接近をした気配は卓越した抜き足でやってくるとアッシュの頸に腕を巻き、延髄に何やら刃物を突き立てた。身体を密着させ背負った黒鋼の大剣を抜かせないようにする周到ぶりを見れば手練れの追跡者だと判った。

 追跡者——ギャスパルは、それに動揺も、反抗もしないアッシュの胆力は想定内だったのか落ち着いた声で「よお」と、随分と乱暴な挨拶を口にした。「宵闇の。感の鋭さは相変わらずだな」そして、少しばかり顔を歪ませた。


 ギャスパルはアッシュの黒鋼は身体で押さえたのだったが、仄かな緑の輝きを放った狩猟短剣の存在には気付いていなかった。

 いや、自分の脇腹に突き立てられたに、そっと目を降ろしたが、アッシュがそれをどこから抜き放ったのか覚えがない。これだけ魔力をダダ漏れにした得物であればギャスパルなら、直ぐに察知できたはずだ。そう思うと大盗賊は頭巾の奥で冷や汗を流した。


「宝運び。お前の抜き足も、刃の毒も相変わらずだな」アッシュはそう答えると、ほんの少しだけ狩猟短剣の切先に力を込めた。「そうかい。ってことは全部想い出したのか?」ギャスパルはアッシュの切先を、よけるように身体を避け拘束を解くと、アッシュの眼前へ周り頭巾を取り払った。そして、髪を掻き上げ後ろへ流すと細く鋭い眼差しで宵闇を足元から縛るように見回した。


「いや。お前が何であるかを知った。と、云ったところだ」

「難しいことをぬかすもんだな、グラント。ああ、この呼び方はアランを想い出すから嫌か?」ギャスパルは、この時はじめてアッシュの瞳が赤黒く輝いていることに気が付いたのか、少しばかり顔色を変えた。こりゃ、どうなってるんだ? ギャスパルは心中に想った。


「——好きなように呼んでくれ——。

 ことの発端はお前達とエドラスで出会ってからだ。だが、それは——事象の根源は既に辿れない程に編み込まれ複雑な模様を描いている。それを辿る意味はない。描かれたものを把握できればいい。そんなところだ」

「淡々としていやがるな」ギャスパルは鋭く目を細め、アッシュの頭巾の中を覗き込むようにかぶりを向けた。本当に、あのアッシュか? ギャスパルは疑いの目をむけながら「まあ、難しい話は置いておいてだ。アガサのところへは行ってくれるんだろうな?」と、声音を落とし確認をした。


「ギャス——」大盗賊は愛称で呼ばれたことに、ぎょっとすると「おう」と小さく返した。それにアッシュは続け「お前は、あの刻の俺に嘘をついたな?」と、下から覗くギャスパルの目を赤黒の蛇目で捕らえた。


「なんの話だ?」再び大盗賊は冷や汗を垂らした。これじゃ、まるで蛇に睨まれた鼠のようだ。ギャスパルはそう自尊心を傷つけると、ブルっと気付かれないほどに身体を震わせアッシュを覗き込むことをやめた。

「エステルは白銀の魔女に囚われた。そうだ。赤髪の女だ。それにだ。お前の飼い主——あの魔導師の同族が大農園へ向かっている。それは、?」

 大盗賊は、アッシュがそう云うと頭巾を取払い顔を顕にするのを眺め目を丸くした。

 ギャスパルの知っているアッシュ・グラントは黒髪黒瞳の魔導師だったし、にはアラン・フォスターの黒鋼を携え六員環の頸を叩き落とした。つまりだ。剣術士を継いだのだ。黒瞳のアッシュ・グラントはそうだった。だが、先ほど見た赤黒の蛇目は、見間違いではなく眼前の宵闇は、あのアイザックと同じ瞳をしている。

 だから、アッシュに問われると警戒し素早く一歩下がった。


「知らねえな——俺はアガサに会って頸を叩き落とす必要がある。爺はそれにはお前が必要だと云った。だから網は張ったが、それは知らねえぜ。なあアッシュ。俺は爺に嵌められたのか? いいや。お前が俺を嵌めようとしているのか? どっちだ」



 ※



 ——永世中立都市ダフロイト。


 アッシュ・グラントが追跡者——ギャスパル・ランドウォーカーと出会い王都クルロス入りを果たし、白の吟遊詩人が大鉄鎖で雪竜王を大地へ引きずり降ろし、ショーン・モロウがヴァノックへ刃を突き立てようとした頃、ギネス・エイヴァリーとトルステン・ルエガーはクロンデルの花園へ足を踏み入れた。

 到着をするまでに何体かの人喰い鬼オルグを屠ってはいたが、想像以上の——人喰い鬼オルグ以外にもアークレイリの残党も居た——敵の数に面食らった二人の狩人は、それぞれが<野伏の丸薬>を口に放り込み、ダフロイト警備隊ベリアス達の応援に奮闘をした。

 ベリアスはそれに「助かりました」と短く伝え、二人の狩人へ出来うる限りの<殻>をはることで、その助力となった。幸運にもベリアス隊には負傷者は出たが死者はでなかった。もちろん無傷、五体満足とはいかなかったが、それでも二人の狩人の加勢で死者は出ないで済みそうだ。


「ギネス! クロンデル導師は?」

 苦戦を強いられたベリアス隊への加勢に気を取られ、本来の目的であったクロンデルの保護を——失念をしたわけではなかったが、導師の姿が見当たらないことにトルステンは焦りを感じた。

 とりわけこの野伏は生真面目であったから、重要な選択を迫られると明らかに無価値であると断ずることが出来なければ、選択肢のいずれも切り捨てることができない。ギネスは、その性格をよく知っていた。

 だからトルステンが躊躇し奪えなかった命を奪う引き金を引き続け——最後にそれをしたのはモスクワ州リュベルツイでの市街地戦だった。武装した年端もいかない子供をドローンで撃ち殺し自軍兵の命を救ったのだ。それに、トルステンは随分と冷ややかな目をよこしたものだったが、そうしなければ命を奪われたのは自軍兵だ。


「わかりません。保護をするのは奥さんでも構いませんよ」ギネスは淡々と答えた。「いずれにせよ、保護——回収したのならば農園の大木に組み込まなければなりません」

 ギネスの淡々とした答えを耳にしたのはトルステンが十五体目の人喰い鬼オルグの頸を斬り落としたときだった。生真面目な野伏は最初は、その答えに耳を疑ったが、それがギネスという男だと想い出すと「わかりました」と小さく答えた。殺伐としたでなければギネスは至って温厚で情に厚い男だ。酔っ払いに絡まれたところで腹を立てるわけでもなく、必要があれば介抱をするような、お人よしな面も持ち合わせている。それであるから、フとこの男の非情な面を忘れてしまうことが往々にしてあるのだ。


 そのギネスは徒手空拳で人喰い鬼オルグの一団を相手取った。

 魔導で身体強化をはかってはいたが、頭三つほどは体格差のある相手を拳で牽制し上段の回し蹴りで仕留める技は先ほど口に放り込んだ<丸薬>の効果だ。もとよりギネスは得物を好まない。それはちょっとしたトラウマによるもだったが、本人は得物を振るうのは野蛮で粗野であるから徒手空拳で挑み、仕留める相手へ敬意を払うのだと嘯く。


 こうして、苦戦を強いられたベリアス隊であったが二人の狩人の登場で壊滅の危機を逃れ、一度は諦めたクロンデル導師の救出に再び集中した。丁度。二十体目の人喰い鬼オルグの頸を野伏が斬り落とした姿の先——導師の家屋の先にゆらりと姿を現したクロンデルの姿を目にしたからだ。「クロンデル導師!」ベリアスは声を張り挙げた。それは歓喜の声音ではなく、絶叫に近かった。





 花の翁は人喰い鬼オルグを真っ二つに割ると、ドス黒い鮮血を浴びながら身体を跳ね上げた。翁のみてくれから想像できない体捌きは先ほど噛み砕いた翁の丸薬の効果もあった。つまり命の根源を削り最後の力をこの刻この場に集中させたのだ。

 翁は返り血でドス黒く染まったが、年相応に皮と骨の間に浮き出た血管からはヒトらしい血が滲み、どろりと流れているのがわかった。クロンデルの妻はその姿を目にすると「あなた……」と小さく漏らし両掌で口を押さえ頬に涙を流した。その姿がきっと彼女が目にする、夫の最後の姿になるだろうと予感したからだ。その出血の量を見れば恐らくは、そうであろうと誰でも判るだろう。


「ギネス達も来てくれたようだな。これで安心だ」翁は、自分を小さく呼んだ妻に顔を向けることなく、しゃがれた声でそう云うと「あの商人との約束は果たせそうもないが……だが、忌々しい役目はこれで終わらせることができそうで良かった」と、最後に力無く笑った。


 外から響く怒声に悲鳴。

 それに気が付くと、翁は破られた扉の外へゆっくりと目を向けた——。

 折角、命を繋ぎとめたアークレイリ人の女剣術士が身包みを剥がされ、二体の人喰い鬼オルグが彼女を取り合っている。その少し奥では、てんで役に立った様子もなかったアークレイリの騎士と魔術師が仲良く人喰い鬼オルグの大雑把な大剣の餌食となった。二人は胸の辺りから身体を吹き飛ばされ、肋骨と背骨を剥き出しにすると花園に血を振り撒き転がった。

 クロンデルはその光景にかぶりをふると、足をゆらりと運び「あとは頼んだ……」と妻に声をかけ、やはり振り返ることなはなかった。「……儂らの一生とは、なんなのだろうな。何かの意味であって欲しいものだ……」クロンデルはそう云うと、かつて扉であったところを跨ぎ一歩外へ踏み出した。


「クロンデル導師!」ベリアスの声が翁の鼓膜を震わせた。すると脇腹へ冷たく熱く鋭い感触を覚えた。丸薬の効果のせいか感覚が鈍っていて最初はが、なんであるのか理解することは出来なかった。だが、こちらへ突撃を開始したベリアス達の鬨の声とは裏腹の苦悶の表情を目にした翁は、そこはかとなく脇腹に覚えた違和感の正体を理解した。


 翁は、ゆっくりと視線を落とした。

 翁が救った——今では丸裸にされた女剣術士を「捨てていけばよかった」と云った銀甲冑は、この騒動に恥ずかしげもなく家屋の影に身を隠した。そして、ふらりと姿を現した翁を見るやいなやクロンデルの脇腹へ剣を突き刺したのだ。

 翁の目に映ったのは、歯をカチカチと鳴らし震えた銀甲冑の歪んだ半笑いと、脇腹に刺さった銀色の刃。翁はそれを、ぼんやりとを交互に眺めた。

 「この結末は、これまで奪った命の怨嗟が導いたのだろうな」翁は最後に顔を歪めると、手刀を掲げ銀甲冑の頸を斬り落とした。


 それと同時に、どこか遠くから獣の咆哮が鳴り響き、大地を揺るがした。両膝を折ったクロンデルは、そこはとなく、それがアスタロト砦の方から聞こえたように思った。



 ※



 ——ダフロイト西区画の小湖。


 ギネス達がクロンデルの元へ到着し、オズヴァルド・グローハーツが青竜騎士団団長アイロスを見限り南からフリンフロン軍を翻弄しようと戦線を離脱、南へ迂回をした頃。つまり、ランドルフが小湖の湖畔に魔術の痕跡を認める少し前のことだ。

 二人の術者キャスターが湖畔に姿を現した。

 一人は甘栗色の髪の女魔導師——夜戦用と思しき黒い外套を身にまとっていた。外套の背には多くの剣が円環に並び切先を内に向けた紋様が描かれていた。宙空へ浮かんだ数多くの剣は――きっとその紋様のモチーフだ――彼女が制御をしている様子だ。

 その傍らで小さな魔術師の杖を振るうのは、女——と云ってもまだ子供のような黒髪の魔術師だ。彼女も女魔導師と同じ形状の黒い外套に身を包んでいたが、背中に紋様は描かれていなかった。


「ジーウ、大丈夫!?」

「あのねー。私を誰だと思っているのー? 剣壁のジーウさんよ。ミラ、あなたこそ大丈夫なの? ほらっ! そこ!」

 丁度背中合わせになった二人——ジーウ・ベックマンとミラ・グラントは互いに声を掛け合うと、薄気味悪い黄土色にぬらりと身体を光らせた——ミラ曰く「濡れた気持ち悪い馬」——水魔馬ケルピーを同時に仕留めた。ジーウに迫った水魔馬ケルピーのかぶりをミラは<魔力の矢>で吹き飛ばし、ミラに迫ったそれの全身に数十本の魔力の剣を突き立てたのはジーウだった。

 二人はアドルフが用意をしたポータルでダフロイトへ到着をしたのだが、特異な力での移動に馬が正気を失い逃げてしまった。だからジーウとミラは、出来うる限りの速度でダフロイトを脚で駆け北にうっすらと姿を見ることのできたヴァノックの元へ急いだのだ。しかし、ヴァノックの何度目かの咆哮が鼓膜を揺らした頃に小湖へさしかかると、わらわらと姿を現した水魔馬ケルピーとの遭遇戦を向かえていたのだ。


 最後の水魔馬ケルピーを仕留める頃になると、北から再び咆哮が鳴り響き地響きを感じた二人は顔を見合わせた。

「これって、まさか雪竜王が?」とミラが顔をしかめると、ジーウは「さあ?」と肩を小さく竦めてみせた。そんな随分と呑気な魔導師にミラは「だからもっと早く走らないとって云ったのに!」と地団駄を踏んで見せたのだが、ジーウは「お馬さんが逃げちゃったんだから、仕方ないでしょ?」と、ミラのそんな姿に笑みを溢した。まるで妹の我儘を笑って聞いている姉のようにだ。


 その刻だった。

 北と南からそれぞれ、蹄鉄が土を忙しなく踏みしだく音が聞こえてきたのだ。

 双方から聞こえる数は——相当数いるようだった。「ええー。まだ居るのですかねー?」ジーウは惚けて云うと、魔力の剣を再び展開し北と南へわけて並べた。

「もう、あの気色悪い馬を見るのは嫌ッ! ジーウ見た? あのいやらしい瞳——どこ見てるんだかわからないんだけど、なんか気持ち悪いの。舌も青くて長いし……ああ、気持ち悪い!」ミラはそう云うと、南に向かい杖を構えた。


「ミラの豊満ボディーにお馬さんが欲情しちゃったんじゃないのですかねー?」ジーウは、お年頃な少女が口にした無意識な自意識へ思わずちゃちゃを入れるように返した。当のミラは「え? 豊満……の後なんて云ったの? 馬が人間に欲情しちゃうわけないでしょ」と、幾分か不機嫌な顔をすると<欲情>だなんてアオイドスが聞けば、淑女が口にするような言葉じゃないって怒られるよ? と心中に溢した。



 ※


 ——十六番区砦を臨む小高い丘の麓。クロンデルの花園。


 ミラとジーウが水魔馬ケルピーを仕留め終わり、二陣の気配を感じた頃、クロンデルが膝を折り命果てるのを防げなかった二人の狩人は、同じ頃に突撃を開始したベリアス隊と共に人喰い鬼オルグの氏族を掃討し終えた。

 結果、五十四の人喰い鬼オルグの躯が転がり、クロンデルの家へ押し入ったアークレイリの残党は全て命を散らした。無惨な光景であった。


 死屍累々の花園に北から乱暴な風が吹き込んだ。

 少し前には遠くから咆哮が響き地響きも感じた。きっとこの風はその余波だろう。血生臭さに花の甘い香り、重苦しい湿気。その全てが花園に不快を造り風で運び凄惨さを際立たせたのだ。

 ギネスはそれに無表情で、トルステンは悲壮な面持ちで辺りを見回した。ベリアス達の隊はと云えばクロンデルの死に当然ながら困惑をしたが、隊長は妻が抱きかかえた骸の前に跪き「天秤のご加護を」とクロンデルの胸へ手を当てた。「十六番砦から人をよこします」ベリアスは導師の妻に声をかけ、唇を一文字にかぶりを深々と垂れた。


 ※


 ギネスはベリアス達が早々に立ち去り砦へ向かった後、導師の妻へ語りかけていた。

「伝えなければならない言葉がある」

 ギネスは、そう云ったが先程から導師の妻の骨ばった手を取り口を閉ざしていた。トルステンはそれに不安——と云って良いだろう、胸につかえるものを感じていた。ギネスが押し黙る前に云った「争いの中に意味を失った価値」の言葉が、何を示していたのか。それが気になった。

 きっとそれは自分にも等しく降り注ぐ無価値だ。

 老夫婦が等しく感じた無価値。盲目な価値。生きることが死という概念への旅路なら、そこに価値はあるのだろうか。



 ※



 ギネスが忠誠を誓った主人は、気取った鷲鼻の魔導師へ「証拠は掴まれないように。そうですね——折を見て始末してしまいましょう」と随分と物騒な命令を、しれっと口にした。

 彼女が云う証拠とは、森の中へ木を隠すようリードランに幾つか存在する。


 一つは<とある術式>だ。

 術式とは魔術師達が几帳面に書き上げる幾何学模様と、鼻持ちならない筆跡の組み合わせであり、謂わば大図書館所蔵の書物から模写した智慧。そして、その書物の大部分は幾つか存在する魔術学院が管理をするものだ。マグナス魔術学院もその一つ。

 貪欲な学院長シモンは<光の学徒>ルートヘル・ガラシアと取引をすると、術式攻城兵器の開発に手を染めたのだと耳にする。


 だが、それは彼女の云う<とある術式>とは関係ない。


 探究のためであれば身をも差し出すギネスの主人が指したものは、魔術と医術と魔導の狭間に偶然と産み落とされた<万物錬成>の術式。つまりレッドウッドの秘術。錬金術だ。レッドウッド家は優秀な雷使いの家系で魔術師師団を率いたが、その影では魔導を紐解き破壊と再生の研究に没頭をしたのだ。

 ギネス達は、をが産み出されたのをいち早く察知するとレッドウッド家へ接触し、密約を結んだ。それを現実世界へ持ち出すことが出来たのならば、ギネスのきみは目標に一歩近づくことができる。


 一つは<とある魔導>だ。

 魔導書グリモワールとは、ドルイド達が森羅万象から見出した幻装を改変し源泉を万物へ求めたものだ。

 リードランの人々は元来<神>と云う概念を持ち合わせていなかった。世界の王が、それを望まなかったからだ。だが魔導書グリモワールが起こす奇蹟を前にリードランの人々は、それを、そこはかとなく神と喚び、崇め、あまつさえ書を管理する組織を「教会」として築いた。

 云ってみれば、それは既得権益を護り暴利を貪るための仕組みだ。

 回帰派とはよく云ったものだ——ヒトの命を循環し奇蹟を起こす。対価は術者に還元される。その対価は奇蹟を望んだものが、汗水、時には血を流し得た稼ぎから支払われる。


 だが<とある魔導>とはそれではなく、魔導の源泉であるドルイド達の業——幻装の中に見出せる。大きくは<武技><豊穣><旅団>に別れる幻装の派閥であったが、それとは別に源泉となったドルイド達の<循環置換>が存在する。


 三つが隆盛すると、<循環置換>は外法とされ、そのうちに秘匿されたが<花の一族>が修練の中で見出した<言の音>は、不死性の音色だった。

 生命の破壊と再生、そして置換——それは魂の入れ替えと云っても良い。

 この音色を持ち出すには準備が必要であったが、それは奇しくも<大崩壊>が促進し、獣が実践してみせた。もっとも相変わらず外から内にではあったが理論は確立されたのだから、あとは反転するだけだ。それで命を置き換えることができるようになる。

 これを主人は欲している。探究のため永遠の命を欲している。


 そして最後の一つ。

 ギネスの主人が求めたのはリードランと現実世界を繋ぐ可能性だ。

 <白の王城>は既にその術を確立しているようであったが、しかし、それは独占されていると云ってよかった。つまり選ばれた者でなければリードランの力を享受できない仕組みであったし、その術を持ってしまえば<白の王城>のモルモットとなる可能性も大きかった。

 だからギネスの主人は、ギネスとあと数人のを潜り込ませリードランの力を独自に引き出す術を探った。そして、その目的は成された。いみじくも敬虔な信徒が、それこそ身体をはってだ。

 成されたは業でも、術式でもなく新たな在り方、命、そう云った何かの誕生。未だそれを維持するには膨大な魔力を必要としたが、今はそれで良い。

 その気にさえなればギネスの主人が欲したものを現実世界へ持ち出せる。<白の王城>が独占する<API>を介さずにだ。


 ※


 ギネスの長い沈黙は、再び吹き込んだ風と共に優しく解かれた。

「あなた達が蓄えた人生ログは大切に使わせていただきます——感謝します」


 そう云った魔導師は優しく握った老婆の手を解くと、トントンと彼女の手の甲を軽く叩き静かに立ち上がった。風がギネスの外套の裾をたなびかせた。今度の風は強かった。

 その姿を眺めたトルステンは思わず風に顔を背けてしまったが「ギネス?」と、魔導師へ何をどうするつもりなのかを問うように彼の名を呼んだ。

 ギネスがゆっくりと立ち上がる姿を見上げた老婆も、突然の強風に顔を背けたが「どうか、この人も一緒に……」と、トルステンが魔導師の名を呼ぶのに折り重ねるように云った。非常に弱々しい声音だった。

 二人の言葉が強風に流されはしたが、ギネスは被った丸鍔の帽子が飛ばされないよう手で押さえ「ええ、判っています」と、どちらに答えたのか? どちらにも答えたのか、兎に角そう口にした。

 そして魔導師は右に手刀をつくり横へ薙ぎ払った。「残される者の辛さは判っているつもりです」



 ※



「ねぇ」

「はい……」

「明らかにあなたの方がリードランに詳しいはずよね?」

「だと……思います」

「じゃあなんで私達は今——これ、どうするのよ?」


 ライラ・リンパルの云った言葉が酷い風の音に掻き消され、すんなりと聞き取れなかったアドルフ・リンディは腕を組み頸を傾げ、真横に見えたライラの姿をぼけっと眺めた。「ライラさん、なんでこっちだと金髪なんです?」アドルフは、まったく明後日の質問をした。


「趣味よ……」

「え? なんです!?」アドルフは背後から吹き荒れる風に黒髪を激しく乱すなか、それは気にせず、耳に手をあて大声で訊き返した。


「な・ん・ど・も・い・わ・せ・な・い・で! 趣味よ趣味! エマ・ストーンって判る? もう一世紀は前の女優! 彼女が好きなの! 変な蜘蛛男のヒーローものの映画に出ていた時の彼女は最高だったわ!」


 真横のアドルフへ不自然と顔を向けたライラもやはり、背後から逆巻く風にブロンドを荒ぶらせた。片手でできるだけそれを押さえつけようとしていたし、なんとかアドルフへ声を届けようと片手を口にあて大声で返した。


「え? もう一回!?」

 アドルフはふざけている訳ではなく、本当に轟音のおかげでライラの言葉が聞き取れないのだ。もっともその状況で話をする方が非常識であるはずだったが、アドルフはこの緊急事態をどう回避するか思案するのに、なぜだか他愛のない話を望んだのだ。

 前方を静かに見れば、少しばかり遠くに、いや、上には大きく両手を開き純白の外套を激しくばたばたとさせたレジーヌ・ギルマンの姿が見えた。彼女の黒髪が背後に激しく波打っていた。アドルフの背後から逆巻く風に煽られているようにも思える。

 と、レジーヌの方から大声が


「なああにを二人でいちゃいちゃしてんのよ! これどうすんのよ!」

「レジーヌさん!」アドルフは両手を口に当て大声で彼女を呼んだ。

「何よ!」


 アドルフは不自然に背後を向いたり、ゆっくりと左右を眺めたりをしながら辺りを見回した。「やっぱり、そうか——空間座標が……」この言葉はライラとレジーヌには届かなかった。

 アドルフ達の辺り一面は闇夜に満たされ、時折白い靄の塊が自分達の真横を物凄い速されで流れていくのだ。次には靄の塊が突撃をしそうになったが三人は気に留める様子もなく、レジーヌとライラは「ねえ、どうするの?」と再び声を挙げた。

 ついに靄の塊は三人を捕らえたが、そこを突き抜け三拍ほどすると再び闇夜が訪れた。アドルフはそれと同時に再び背後に身体を向け前方の様子を伺った。

 遥か前方から白煙に炎、瓦解した尖塔、広大な都市、なにかそんなようなものが目に飛び込んできた。


「——なんでだろう? ダフロイトの上空にでちゃいましたね!」

 アドルフは続いて「たはは」と笑い「さて、どうしましょう?」と惚けるように叫んで見せた。


「だから、それをさっきから訊いてるのよ!」

 ライラとレジーヌが声を合わせアドルフを詰めたのは、アオイドスが大鉄鎖で雪竜王を大地へ引きずり落としたすぐ後の事だ。

 測ったようにその現場へ到着をするはずの三人だったが、どこをどう間違えたのか。いやどうすればそんなにも正確に、雪竜王の直上へ出てこれたのか不思議なほど直線上に竜が踠き苦しむ姿を目にできた。

 だが、そうだ。

 ライラとレジーヌが云う通りで、まずは自分達の安全を確保をしなければ愛しの吟遊詩人の役には立てないだろう。


「レジーヌさん! 飛翔の術式は使えますか!?」

「使えるけれど、もっと地面に近寄らないと無理! 魔力を通せない! それにね、飛翔じゃなくて浮遊ね! 空飛べるならこんなに焦らないわよ!」

「確かに!」アドルフは、ポンと左の掌を右で叩いてみせた。


「それで? どうするの!?」

 もう一度、ライラとレジーヌが、惚けたアドルフを詰めにかかった。

 そろそろ雪竜王ヴァノックの身体が豆粒ほどの大きさから、ちょっとした子供の大きさほどに見えるようになってきた。


 そう。もう待ったなしの状況だ。





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