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第3話 二十五歳

「わたしたち、別れましょ」


 唐突に彼女から別れを切り出された輝真は、短い言葉の意味をすぐに受け取ることができなかった。

 台風六号の接近に伴い、被爆七十八年となる二〇二三年の長崎市での平和祈念式典は屋内での開催となったというニュースを伝えるテレビの画面から、輝真はゆっくりと視線を彼女のほうへと移した。

 十二時十二分というテレビ画面の右上に小さく表示された時刻がやけに強く輝真の印象に残った。


「え? どうしたんだよ、急に」

「急じゃないよ。わたしにとってはね」


 急じゃないと言う彼女の口調はひどくあっさりとしていた。


「え……?」

「わたし、もう悠人ゆうとと付き合ってるから」

「……はぁ!?」


 彼女がすんなりと口にした悠人という、二人にとって共通の友人である男の名前に輝真は動転した。


「どういうことだよ洋香ひろか! 二股かけてたってことか?」


 動揺で声のボリューム調整が壊れる輝真に対して洋香は、


「結果的には、そうなるね」


 と博物館で受付をするスタッフのトーンで答えた。

 洋香が発する抑揚のない声と冷淡な答えを聞いた輝真は、逆上するでもなくただ消沈した。


「そうなるって、いつからだよ……」

「五月のゴールデンウィーク頃から」

「ゴールデンウィークって……俺が落選してどん底だった時に、なのか?」


 立て続けに三つの公募で落選した今年の暗い春を輝真は思い出してしまった。

 つい深めに記憶へと潜ってしまったせいで、胸が圧迫されるような息苦しさを錯覚する輝真に対して洋香は、


「そうだよ。まあ、その前から相談には乗ってもらってたけど」


 と当然の成り行きを説明する口調で答えた。


「三ヶ月も……いや、その前から俺を裏切ってた、ってことか?」

「先に裏切ったのは輝真でしょ?」

「は……? なに言ってんだ? 俺は浮気なんかしてない……」


 輝真の返答を聞いた洋香は、落胆を隠さずに短い息を吐き捨てた。


「輝真……輝真がわたしに、何て言い続けてきたのか、忘れたとは言わせないよ? 今度こそ受賞する。絶対にデビューする」


 水銀と化した自分の言葉を口に無理矢理流し込まれたような顔をする輝真の反応が、洋香の苛つきに焚き木をくべる。


「わたしは六年も待った。六年だよ? 繰り返すだけの同じ言葉を信じ続けて」

「俺は、本気で……」

「女はね、夢があれば生きていけるほど単純じゃないし、バカでもないの」


 洋香が突き付けるリアルな言葉の前に、肩を落とすことしかできない自分を輝真は呪った。


「どうして……よりによって、悠人なんだ……?」

「ねえ、輝真。わたしたち、もう二十五歳なんだよ?」

「それと、悠人に何の関係が?」

「悠人は商社マンになった」


 理解の遅い生徒に付き合わされる塾講師の口調で説明する洋香に対し、


「それが、何だっていうんだ……?」


 理解できないことを晒してしまった輝真の後悔は遅すぎた。

 洋香が緩衝材に包んで示している現実に、輝真の理解が追い付いたときには緩衝材は目の前でバリバリと剥がされた。


「自分の立ち位置をまだ理解できてないとか、それこそ本気!? もうハッキリ言うけど、未だに夢なんか追いかけてるフリーターと、しっかりキャリア形成してる商社マンとじゃ、同じ二十五歳でも全く違うの。立ってる場所も、見えてる景色もね!」


 言い回しを気にしない洋香の言葉を聞いたのは久し振りだと感じた輝真は、こんな場面で見当違いな感想を浮かべる自分に、反論する権利なんかあるわけがないと思った。

 小説家になる夢を追うといって就職活動から逃げた自分と、厳しい就職活動を勝ち抜いて希望する商社への入社を果たした悠人。

 学生の頃は一緒にバカをやってた悠人が、今はやりがいのある仕事をしているであろうことは輝真にも容易に想像ができた。

 施設警備の当務という二十四時間の勤務が終わった後の、妙に覚醒した頭と疲労と解放感を鎮めるように平日の昼間からビールを飲んでいる自分と、悠人との違いを叩き付けられた輝真は何も言い返すことができなかった。


「学生の頃とは、わたしも違うの」


 わずかに声のトーンをやわらげた洋香に対する言葉が、何一つとして浮かんでこないことに輝真は失望した。

 言葉を生業にしようと努力していたはずの自分の、この不甲斐なさには呆れることさえ許されないと輝真は思った。


「じゃあ、部屋の鍵、返すね」


 洋香が小振りなハイブランドのバッグからこの部屋の合鍵を取り出し、ローテーブルの上に置いてから立ち上がる。


「じゃあ。もう、わたしたち会わないほうがいいと思う。さよなら」


 別れをしっかりと伝えて出て行く洋香にさえ、輝真は何の一言も掛けることができなかった。

 取り残された部屋の静けさに耐えられず、汗をかいた飲みかけの缶ビールを一気に呷った輝真は、苦いだけのクソ不味い液体を口に流し込んでしまったと後悔した。


「まずっ……まずいよ、なあ……」


 この部屋に居ちゃいけない。

 今の自分には洋香との思い出が詰まったこの部屋はキツすぎると思った輝真は、スマートフォンと財布に部屋の鍵だけをジーンズのポケットへ突っ込んで部屋を出た。

 大学を卒業した頃から住み続けているワンルームの木造アパートが今の自分を投影しているようで、早く離れたいと思った輝真は足早に徒歩でも五分ほどの井の頭公園を目指した。


「蒸してんな……」


 数時間前に降ったにわか雨のせいで湿度が高い真夏の井の頭公園に入ると、カップルや家族連れの姿がやけに目に付くと感じた輝真は、


「明日は休みだし……呑みにでも……」


 と誰に向けたでもない言い訳のような独り言を漏らした。

 大希は井の頭公園を東西に突っ切り、吉祥寺通り沿いにある焼き鳥で有名な老舗の居酒屋へと入った。

 平日の昼間だというのに八割方の席が埋まる人気店のベテラン店員に案内され、輝真はカウンター席に腰を下ろした。

 注文したモツ煮込みとレモンサワーがすぐに出てくる。


「オレなあ、攻略士になろうと決めたんだ」

「はあ? 本気かお前?」


 隣の席に座る二人づれの中年男性が交わすしゃがれ声が、輝真の耳に土足で入り込んできた。

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