藤原理恵と優美が去った後、瀬川達也は医師に指示を出した。
「田中先生、麻酔の用意を。」
「はい、達也様。」田中医師はうなずき、あらかじめ用意してあった注射器を手に取った。
私はその場に立ち尽くし、藤原理恵が去り際に残した言葉が頭の中で繰り返し響いていた。
――彼女たちは父を狙っている!そうだ、婚約披露宴なんてただの口実。私を陥れるためなら、これほど都合のいい舞台はない。どうせいつかは結婚するのだから、少しぐらい遅れても問題ない。誰も彼女たちの自作自演だなんて疑わないはず。父を消し、次は私までも――すべての証拠を闇に葬ることで、彼女たちは本当に安穏と眠れるのだ。
動かない私を見て、瀬川達也は無言で私を突き飛ばし、冷たく言い放った。
「手術台に横になれ!俺に手を出させるな!」
不意を突かれ、私は床に倒れ込み、隣の手術灯のスタンドをなぎ倒した。全身に激痛が走るが、頭の中は真っ白だ。
彼はしゃがみこみ、肩に手を添えた。その仕草には、どこか場違いな…優しさが滲んでいた。
「大丈夫、痛くないから。少し寝ればすぐ終わる……この先、きっと子どもを持つこともできる。でも今じゃない……俺は――」
彼の言葉はもう耳に入らない。意味を考える余裕もなかった。
突如、私は反射的に跳ね起き、瀬川達也を力いっぱい突き飛ばした。倒れたスタンドを掴み、彼の背中めがけて渾身の力で振り下ろす!
「ガンッ!」
達也の目に一瞬、驚愕の色がよぎる。それでも彼は避けず、真正面から一撃を受け止めた。ほぼ同時に、鋭い唇の端から鮮血が流れ、真っ白なシャツの胸元を赤く染めていく。
信じられないものを見るような表情で私を見つめる彼。その目の奥には、今まで見たことのない透き通るような光が宿っていた。
田中医師も固まったまま動かない。
私は心臓が破裂しそうなほど高鳴り、手にしたスタンドは震えていた。次の瞬間、窓を目がけて全力でスタンドを振り下ろす!
「ガシャーン!」
「春子!」達也は苦しそうに身を起こそうとするが、動けない。
振り返る――今、彼は私を何と呼んだ?聞き間違いだろうか?
考える暇などない。私は割れた窓から身を躍らせた。
父を助けなきゃ!
もう十分だ!七年前から、私はもうこれ以上何も失いたくない!
窓から地面まではおよそ二メートル。着地の衝撃で下腹部に激痛が走るが、そんなことに構っていられない。痛みに耐えながら必死に駆け出し、道路に飛び出してタクシーを捕まえる。
「東城聖心リハビリ病院まで!早く!!」
タクシーは夜道を飛ばす。
今夜は月も星も見えない、闇が深い。車のヘッドライトだけがぼんやりと前方を照らし、その先は果てしない黒に包まれていた。聖心リハビリ病院に近づくと、遠くからでも警戒線が見えた。
車を飛び降りると、焦げた臭いが鼻を突く。
この匂い…忘れるはずがない。
また火事だ――。
七年前と違うのは、私が遅すぎたこと。現場は静まり返り、風が舞い上げる灰の音さえ聞こえるほどだった。息苦しいほどの静寂。
火はすでに消され、消防車も救急車もいない。
わずかな作業員が現場を整理しているだけ。
まるで墓場のように、死の静けさが広がっていた。
私は震えながら一歩一歩、瓦礫へ近づいた。
誰も止める者はいない。
目の前には、まさに地獄絵図が広がっていた。父が入院していた特別病棟は、もともと八人の患者がいたが、いまや大部分が崩れ、焦げた木材と瓦礫だけが残っている。焼け落ちた窓やドアは、絶望のまなざしのようにぽっかりと口を開けていた。
そこは巨大な墓のように、静まり返っていた。
私は立ち尽くし、夜風が顔を切るように吹き付ける。温かい涙が頬を伝う。信じられない――この世で唯一の家族が、こうして私の前からいなくなったなんて。
これから私は、いったいどこへ帰ればいいの?
すべて私のせいだ。父の転院の手続きをしていたのに、ベッドが空くのを待っていたせいで、間に合わなかった……
通りかかった職員が、ため息混じりに言った。
「ひどい…誰も助からなかった。」
その瞬間、風が唸りを上げ、激しく吹きすさぶ。
予告もなく、土砂降りの雨が降り出した。
冷たい雨が全身を叩きつけ、私は凍えるほど震えた。
今さら雨が降ったって、何になるっていうの?
遅すぎた。すべてが、遅すぎた。
私の目覚めだって――遅すぎたのだ。
背後で突然、ブレーキ音が響いた。
振り返ると、瀬川達也が車から飛び出し、エンジンさえ切らずにこちらへ駆け寄ってくるのが見えた――。