雲湄(うんび)はそっと目元を伏せ、その瞳には確かな自信が宿っていた。
もし一度で皇帝に本当の顔を見せられれば、それだけで十分だ。しかし、まだ半分しか見せていなければ、次に会う時にはその印象も倍増するだろう。
赤く染まった瞳の端を見て、君玄翊(くんげんい)はつい情けなくなり、そっと腰を下ろした。「他にどこか具合が悪いところはないか?」
「もう大丈夫です、陛下。ご心配いただき、ありがとうございます。」
涙があとを引く白く柔らかな頬は、まるで純白の雪玉のように清らかだ。その一方、濡れた衣の下からは妖艶な肢体がちらりと覗く。
「今日のこと、何か朕に言いたいことはないのか?」
薄暗がりの中、君玄翊の彫りの深い顔立ちはその表情を読み取りにくい。
皇帝の整った端正な顔を見つめながら、雲湄はすでに彼が貴妃を庇っていることを見抜いていた。雲妍の性格なら、前世で貴妃にここまで虐められた時点で、きっと大騒ぎをしていただろう。
だが、雲湄は違う。彼女が欲しいのは名誉と富、そして皇帝の心だけだ。
だからこそ感情的にならず、皇帝が望む答えを差し出すのだ。
雲湄はゆっくりと身を起こし、か弱く皇帝の足元に膝をついた。「今日のことは、すべて私の不徳の致すところでございます。規矩を知らず、貴妃様に無礼を働き、水に落ちたのも自身の不注意。お騒がせし、怪我までしてしまい、陛下にもご迷惑をおかけしました。どうかお許しください。」
君玄翊は長く冷ややかな眉をわずかに上げ、雲湄を見下ろす丹鳳の目には探るような光が浮かぶ。
そっと雲湄の顎に手を添えると、濡れた髪が指先に絡みついた。
濃密な眉目、雪のように白い肌、そして血のように赤い唇。怯えた様子で彼を見上げている。
「貴妃に傷つけられても、朕に訴えないつもりなのか?」
冷たい声色に、感情は一切読み取れない。
もし相手が普通の少女であれば、きっと動揺してしまうだろう。
だが、雲湄は違う。彼女は彼と前世で夫婦だったのだから。
もしここで貴妃の非を泣いて訴えでもすれば、次の瞬間には冷宮(牢屋)送りにされていたはずだ。君玄翊とは、そういう人物なのだ。
一瞬は温かくとも、次の瞬間には手のひらを返す。前世でも、秦貴妃は何の苦もなく彼の心を手に入れた。
後宮で皇帝の寵愛を得ることこそが、頂点へと続く唯一の階段だ。
「陛下、貴妃様は決して故意ではありません。ただ、心が痛み、そのあまり衝動に駆られただけなのです。私は理解しておりますし、恨む気持ちはございません。」
「理解だと?」君玄翊は眉をひそめ、上からじっと見つめる。
雲湄は彼の足元で身を縮め、小さく震える声で続けた。「陛下と貴妃様は深く愛し合っておられ、幼い頃からのご縁です。愛する方が他の人と一緒になれば、誰だって心が痛み、思わず涙もこぼれましょう。私も同じ女性として、その気持ちはよく分かります。」
君玄翊の眉が鋭く寄せられる。
危うげに眉を上げる彼。たとえ前世で夜を共にした仲でも、その威圧感は雲湄を震えさせる。
「同じ気持ち…だと?」君玄翊は冷たく口元を歪めた。「つまり、お前も入宮前に誰か想う人がいたと?」
君玄翊の心に残るため、雲湄は彼の気まぐれな感情の中で、あえて危険な賭けに出るしかなかった。
彼女は静かにうつむき、頬を薔薇色に染めて答えた。「……はい。」
君玄翊は何も言わず、立ち上がった。高く伸びた影が雲湄に差し掛かる。
雲湄は指先をきゅっと握りしめ、彼の真意を探る。
だが次の瞬間、君玄翊が手を伸ばし、雲湄の顎を再び持ち上げた。しなやかな指先、手の甲に浮かぶ筋。
底知れぬ瞳に見つめられ、雲湄の心はざわめいた。
彼は何も言わないまま、その場を立ち去ろうとした。龍袍が彼女の肩をかすめ、雲湄は咄嗟にその裾を掴んだ。
君玄翊は見下ろし、雲湄は涙に濡れた顔を少し上げて静かに訴える。「行かないでください。」
冷たい視線が彼女を射抜く。
雲湄は怯えてすぐに手を離した。
「どうした、朕に食われるとでも?」
「陛下、私が…慕っている方は……」
彼女は嗚咽し、まるで大きな勇気を振り絞ったかのように言った。「それは、あなたです……」
君玄翊は言葉をのみ込み、鋭い目で彼女を見下ろす。
「朕を慕うだと?分かっているのか。皇帝を欺く罪は一族にまで及ぶぞ。」
雲湄は長いまつげの陰に目を伏せた。前世の経験から、普段は口数の少ない君玄翊がここまで問い詰めてきた時点で、彼の心に何かが響いたと分かった。
少なくとも、彼の興味を引くことはできた。
相手は若くして即位し、権力の渦中で地位を固めた帝王。そんな男の心を、すぐに掴める自信などない。
雲湄は乱暴に涙を拭き、か細い声で訴える。「私は、嘘などついていません……」
君玄翊が冷たく彼女を見つめる中、雲湄は必死で袖を引き、混乱しているように見せかけながらも、慎重に言葉を選んでいた。
「私はずっと、あなたに憧れてきました。聡明なお方で、国を治める手腕も素晴らしい。若くして奸臣を討ち、民を救ったその勇姿を、護国寺で遠くから拝見したこともあります……」
自分の言葉が多すぎたことに気づいたのか、あるいは敬語を忘れていたことに慌て、雲湄の顔は真っ赤になった。「私、失礼を……」
言い終わる前に、しなやかな腰を君玄翊の大きな手が抱き寄せた。雲湄は驚き、思わず彼の首にしがみついた。
ベッドに下ろされると、雲湄はおびえて奥へと身を寄せる。細い足首と白い足が、君玄翊の目に飛び込む。
彼は思わず微笑んだ。あの勇毅侯・雲崇山も、このようなか弱い娘を育てるとは。少しの雨も怖がるほどだ。
「なぜ最初から言わなかった?」君玄翊の目は冷ややかだ。
また疑っているのだ。
彼は、計算高い女や、策を弄する女を最も嫌う。
雲湄は唇を噛んで答えた。「陛下と貴妃様の絆を壊したくなかったからです。私のような者は取るに足りません。ですから、今日の私の言葉はどうかお忘れください。もう二度と、余計なことは申しません……」
君玄翊はしばらく黙っていたが、先ほど揺れた心も、彼女の「貴妃」という言葉で冷静さを取り戻した。
「もういい。今日、朝陽宮で起きたことは、すべて胸にしまっておけ。さっきの話も、朕は聞かなかったことにする。」
雲湄の目には微かな笑みが浮かぶ。
彼女は知っていた。さっき、君玄翊の心は確かに動いた。だが、彼には常に理性と感情の間で揺れ続けて欲しい。
抑えようとすればするほど、欲望は大きくなるもの。
雲湄は、君玄翊が理性を手放すその日を待ち望んでいた。