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第三話:砂漠に魚を放つ日

「領主さま、本当に……魚を育てるつもりなんですか?」

 老人が困惑した顔で尋ねるのも無理はない。この砂漠に水が湧いたことすら奇跡なのに、今度は魚を育てると言い出したのだから。彼の顔には、信じられないという困惑と、ほんの少しの期待が入り混じっていた。

「もちろんだ!」

 アルトは自信満々に胸を張った。その瞳には、すでに完成された未来のオアシスが映っているかのようだった。

「水があれば魚は育つ。問題はどこから種魚を持ってくるか……だが、それも解決済みだ!」

「ど、どこから?」

 村人たちは半信半疑の顔をしている。そりゃそうだ。王国は内陸にあり、海はない。自然の川や湖も限られている。そんな環境でどうやって魚を持ち込むのか——。彼らの脳裏には、過去の絶望が刻み込まれており、到底信じられないという色が濃く出ていた。

「実はな、俺、もう目星をつけてるんだ」

 アルトはニヤリと笑った。


 バルハ砂漠から北へ向かうこと数日。そこには《死者の湖》と呼ばれる塩湖があった。その名の通り、周囲には生命の気配が乏しく、不気味な静寂に包まれている。王国の地図にはほとんど載っていないが、古い文献によれば、かつては淡水湖だったらしい。

「この湖が完全な塩水ってわけじゃないなら……もしかすると、魚がいるかもしれない」

 アルトは湖の縁に立ち、水面をじっと見つめた。彼の視線は、かすかな希望を求めて水底を探っていた。

「《水操作》——成分変化!」

 彼はそっと水に触れ、スキルを発動させる。水面に波紋が広がり、湖の持つ情報が津波のように脳内に押し寄せてきた。すると、水の情報が脳内に流れ込んできた。

(やっぱりな……塩分濃度は高いけど、完全な海水ではない。つまり、塩分を取り除けば淡水になる!)

 アルトは湖の一部を変化させ、少しずつ塩分を抜いた。すると、水の中で動く影が——。

「いたぞ……!」

 最初に視界に入ったのは、かすかに揺らめく細い影。それは徐々に鮮明になり、間違いなく魚の形をとった。湖の奥に、細長い魚が泳いでいた。

「この魚、たぶん《デザートフィッシュ》ってやつだな」

 デザートフィッシュは極限環境に適応した淡水魚で、塩湖や地下水脈に生息することがある。文献で読んだことはあったが、実際に生きた個体を見るのは初めてだった。その姿は、この地の未来を担う希望の象徴のように見えた。

「これならいける! この魚を持ち帰って、湖に放てば……!」

 アルトは早速、村人たちと協力して魚を捕獲し、大きな水瓶に入れた。魚が生き延びられるよう、水質維持には細心の注意を払った。そして——。


 バルハ砂漠の新しい湖に戻ったアルトは、慎重に水瓶を開けた。

「よし……ここからが本番だ!」

 彼はまず、湖の水質を魚に合うように微調整した。塩分を調整し、ミネラルのバランスを整え、水温を安定させる。この緻密な作業こそ、《水操作》スキルの真骨頂だった。そして、デザートフィッシュを湖へ放つ。

「泳げ……お前たちの新しい故郷だ!」

 村人たちが固唾を飲んで見守る中、魚たちは湖の中へと消えていった。水面に小さな波紋が広がり、やがて水底の闇へと溶け込むように姿を消した。

「こ、これで本当に育つんですかね?」

 老人の声には、まだわずかな不安が残っていた。

「まぁ、すぐには増えないだろうけどな。環境さえ整えれば、繁殖するはずだ」

 アルトは確信していた。彼の脳裏には、数年後の豊かな湖が鮮やかに描かれていた。この湖が安定し、魚が増えれば、ここは砂漠のオアシスへと変わる。

 そして——彼の挑戦は次の段階へ進む。

「よし、次は……畑を作るぞ!」

 こうして、砂漠の領主の大いなる計画が着実に、そして力強く動き出したのだった。

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