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page.170

現在の時刻、午前9時2分。

いつも《おばタク》は、だいたい午前9時半頃に美容院クローシュ・ドレに来てくれる。


アンナさんはもう一度、iPhoneで電話を掛けはじめた。



『…あっ、もしもし。岡本さ…』


「《…ただ今運転中のため、電話に出ることができません。ピーッという発信音のあとに、お名前とご用件をお話しください》」


『…。』



《ピーッ》



『もしもし。美容院クローシュ・ドレです。申し訳ありませんが、今日は11時半…』


『アンナさん!10時30分頃でお願い!』



…って言ったのは、僕じゃなくて詩織です。



『あ…ごめんなさい。10時半頃に来てくださいますか?宜しくお願いします…失礼致します』



アンナさんは、岡ちゃんの留守電に用件を残すと、そのまま電話を切った。







…そして予定どおり《おばタク》は、午前10時27分に美容院に来てくれた。





早瀬ヶ池へと向かう《おばタク》の車内では、いつも鈴ちゃんの話題。今週は徳島県に行ってるらしい。







別に本当にお偉いさんでも芸能人でもないのに…毎週毎週、高級タクシーに乗り、優雅に運転手の岡ちゃんにドアを開けてもらい、降車する僕ら…この瞬間は、ちょっとだけ贅沢してる気分。



『岡ちゃん、ありがとう』

『どうもありがとぉ。岡ちゃん』


『じゃあ、またあとでね』



役務を終え、駅前大通りを走り去る《おばタク》。それに手を振って見送る。


そして僕らの周りは、僕らのお迎えに集まった女の子たち…何人いるだろう…たぶん100人はいる…でもこんなの、もう毎週のこと。



『ちょっとだけ前開けてー。ごめんねー。ちょっと通してー』



詩織は誇らし気に、そう言って女の子たちの集団の輪の中から脱出した。

そして…いつもと変わらず、女の子たちの視線に晒されて心地良さそうな詩織。



『ねぇ、金魚』


『うん…なに?』


『女の子たちに、こうやって囲まれちゃうのにも、金魚もそろそろ慣れてきたんじゃない?』


『うん。《そろそろ》どころか《すっかり》かなぁ…』


『それは良いことね。きゃははは』



詩織…周囲の女の子たちに目も暮れず、気持ち良さ気に笑ってるし。



『あのさ、詩織…なんで瀬ヶ池に来るの、1時間早めたの?』


『んとね…』



詩織が自分のバッグに手を入れ、中身をガサゴソ掻き回す…出てきたのは小さな数枚の紙片。



『これよ。この前ナオさんのお店へ行く前に立ち寄った、ケーキ屋さんの特別割引チケット』


『へぇ…』



詩織は割引チケットを再びバッグに戻し、ファスナーを閉じて歩き出した。僕も揃って歩き出す。



『このチケットの使用期限、明日までなの。特別割引なんて言っても2割引きなんだけどね。でも、せっかくだから使わないと、なんか勿体ないでしょ?』



うん…確かに。



『だけど詩織…あのケーキ屋さんってテイクアウトだけじゃなくて、お店の中でケーキ、食べられるんだった?』


『うん。お店のその奥に、テーブル席があるらしいの』


『ふうん。そうなんだ…』



…だから1時間早めた…ってことらしい。








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