「こんにちは」
鈴のなるような声で挨拶が聞こえ、営業前の酒場のドアが空く。カウンターにいた店主が顔をあげると、日傘をたたみ、日除けの帽子を取って壁にかけた少女が、此方を向いたところだった。
アプリコットブラウンの艶やかな髪は、癖で緩やかに波打ち、背中の半ばまである長さのそれが、細い肩を川のように流れている。瞳の色は深い藍で、ラピスラズリを思わせる。全体的にやや白さの強い肌。普通なら、暑い外の影響で上気するはずの頬は、あまり血色が良くなく、細い身体のラインも手伝って弱そうに見えた。
「また怒られたんだって?レティ」
「はい……」
レティと呼ばれた少女――レティアーナは、店主に苦笑いを返した。ここの店主ジョアンは、両親を失った幼いレティが独り立ちできるまで育ててくれた、親代わりの人。そしてこの島で唯一、レティに愛情を注いでくれる良き理解者でもある。現在一人で暮らしているその生活費を稼ぐために、彼のこの店でレティは雇ってもらっている。
彼だけが、好んでレティの歌を聞いてくれた。「ご両親からの贈り物の歌を、大事にしなさい」と、歌うことを許してくれた。
今の家だって彼が用意してくれたし、本当にどこまでもお世話になって、頭が上がらない。
「おじ様の所にも、もしかしてお叱りが?」
恩人に迷惑を掛けたことを思い、レティの表情が曇る。けれど恰幅のいい店主は、磨いたグラスを棚に置きながら、落ち着いて言った。
「言わせておけばいいのさ。俺は自分に都合の悪いことは聞こえない、便利な耳を持っているからね」
「おじ様ったら」
ジョアンの優しい言葉を聞き、レティの顔から不安が消えた。
「さあレティ、準備を手伝っておくれ。今日は港に船が着いたらしい。きっと忙しくなる」
「はい、マスター」
鞄をカウンターの裏に置き、エプロンを取り出した。そして軽く床を箒で掃いて、テーブルを拭いていく。狭い店のテーブルを一巡する頃には、ジョアンがドアのプレートを『営業中』の表示にしていた。
「港の船って、商船ですか?」
「いや、それが……」
ジョアンの答えを待つ前に荒っぽくドアが開いて、たくさんの人がなだれ込むように入ってきた。鍛えたと言う言葉だけで表せないほど、隆々とした筋肉の持ち主が多く、肌は日に焼けて、そして傷痕もたくさんある。
「おい、ここいいかぁ?」
「はい。どうぞ、空いている席にお掛けください」
見かけ通り粗暴な言葉遣いの男たちに、ジョアンが答えた。
(この方は恐らく……。港に来たのは、海賊船だったのね)
「いらっしゃいませ」
レティが声を掛けると、ガラガラとした大きな声と、ニヤニヤとした笑いが返ってきた。
「この店にゃ、可愛い姉ちゃんがいるじゃねーか」
「おい姉ちゃん、急げ!酒だ酒!」
客の声に、レティはラミネートされたメニュー表とメモを持った。
「あっ、はい。ただ今」
ガヤガヤと大きな声がフロアを埋め尽くす。ここは海に囲まれた島。海賊が来るのは頻繁ではないが、経験くらいはある。どんな人でもお客様だ。聞き直したり復唱したりしながら、レティは丁寧にてきぱきと注文を取る。全てのテーブルを一回巡り、カウンターに走った。それと同時に、またドアが開いた。
入り口に立っていたのは一人。店内に人が溢れている様子を見た新たな客が、踵を返しそうになったのを見て、レティが声をかける。
「あの!いらっしゃいませ。カウンターが空いております。そちらで宜しかったらどうぞ」
少し考えるようにそのまま立っていたが、やがて男はゆっくりとした足取りで丸テーブルの間を移動し、カウンターの席に座った。客席に注文の品を配膳し、カウンターに戻ったレティは、メニューを彼の側に置く。
「メニューは、此方になります」
入り口付近にいたときは夕日の逆光で見えなかったが、カウンターに座ったら、店内の明かりに照らされて、姿が良く分かった。僅かに長いらしい黒い髪を赤い布で結わえ、レティの立ってる側からは、表情があまり窺えなかった。と言うのも、彼は黒い眼帯をしていたからだ。
彼は今ここを騒がしくしている連中とは違って細身であったが、肩幅の広さはやはり男性らしさを思わせる。銀色のボタンとフリルのような襟の洒落たシャツの上に、一回り大きな深紅のロングジャケットを羽織り、薄いグレーのジーンズ、黒いブーツを履いていた。
彼はテーブルに左の肘をつき、手の甲に軽く顎をのせた。レティの置いたメニューをちらりと横目で見ただけで、ジョアンに向かって注文をいれた。
「マスター、ウイスキーのロック」
「はい。かしこまりました」
その様子を視野の範囲で見ながら、「姉ちゃーん」と呼ぶ海賊たちの所へレティは小走りに向かった。その注文のメモを取っていた時、騒がしさを抜ける高い声が走った。
「きゃああっ」
もちろん、そんな声を出すのはレティ以外にいない。
理由は、臀部に生暖かい感触を感じたからだ。無骨で大きな男の手が、彼女の柔らかなそこに触れたのだった。鳥肌を立てて驚いたレティは数歩下がり、メモを持ったまま尻を腕で隠す。
「お客様、何を……」
「まあ、良いじゃねえか」
手の隙間を見つけて、今度は尻の片側を鷲掴みにされる。こういう場所で、露出をしての刺激は避けるべきだというのは承知の上。動きやすさも考慮して、七分丈のジーンズを履いていたのだが、構わず尻を揉まれる。
「どうかお止めくださいませ、お客様……っ」
あくまで相手は客で、振り払って平手打ち等と言うわけにはいかない。が、黙っているわけにもいかず。
「レティ!」
気づいたジョアンが声を上げる。
「ほぉ。姉ちゃん、レティって言うのか?随分可愛い名前だな」
このフロアでも特に身体の大きな男は、尻から腰に手を滑らせて、レティを引き寄せた。レティの眼前に、酔っぱらって赤い男の顔が近づく。生暖かいアルコールを含んだ息がかかった為、顔を歪ませた。髭も髪の毛も焦げ茶色のボサボサした男の目は、厭らしく淀みぎらついている。
「こ、困ります、お客様。お願いですから、どうかお放しください」
「そう嫌がるなよ、レティちゃん?」
無意識に抵抗したレティの腕の力など、全く通用するはずがない。
「姉ちゃん。船長に気に入られたなんて、光栄な話だぜ。喜びな」
周囲のどこかから声が飛んできて、そうだそうだと
「やっ……」
義娘のピンチを見かねて、ジョアンがカウンターから駆けつけた。そんなジョアンに向かって、船長の男は尋ねた。
「おいマスター、いくらだ?」
「はっ……?」
「この娘、一晩いくらだって聞いてるんだよ」
「い、いえっ。その娘には、そういう仕事を割り当ててはおりませんで……。どうかお願いです。申し訳ございませんが、その子を解放して頂け……」
「煩せぇ!俺の質問は聞いてたのかよ!聞きてぇのは、そんな答えじゃねーんだよ!シラケさせんなや、このグズが!」
バン!と拳がテーブルに振り下ろされ、直後に足蹴にされる。頭を下げたジョアンに酒やつまみが振りかかった挙げ句、床でガラスの割れる派手な音が響く。
「おじ様っ!」
レティは息を呑む。それでもジョアンは更に膝をつき、床にこすりつけるように頭を下げた。
「どうかどうかその子を」
「しつけぇ!もういい!俺が連れていくと決めたら、連れていくんだよ!」
船長が、割れた酒瓶を取って振り上げた。
(あんなので殴られたら死んじゃう!)
「いやああっ!やめっ……!止めて下さい!」
レティは敵わないと知りながら、反射的に太い腕に両手を伸ばした。
「おじ様を傷つけないで下さい。私、行きますから、何でも言うこと聞き――」
ヒュン!レティの言葉を切るように、視界で何かが光って駆け抜けた。直後にカツッという音と共に、壁に何かが突き刺さる。そして船長が叫ぶ。
「ぐ、ぐああぁああっっ!腕が!」
船長の腕から血が出ており、腕を押さえながら周囲を睨み付ける。
「誰がやりやがった!?」
だが、仲間が行うはずはない。見覚えのない姿は、カウンターの席にあった。
此方に深紅の背を向けた男は、左手で何かを宙に放り、掴むと言う仕草を繰り返している。レティはその何かに見覚えがあった。
長年の使い込みにより最近柄が壊れてしまい、次の休みに買い換えよう。それまでは、騙し騙し使うしかないなとジョアンは話していた。氷を砕くそれは。
(アイスピック……?)
柄がとれたアイスピックを、彼が船長に向かって投げたのだと知った。仲間たちは、船長の怒りとカウンターの男を交互に見ながら静まり返る。
「てめぇええ!」
耳元で怒鳴られ、レティは肩を跳ねさせて両耳を塞いだ。
「俺に何した!」
男はちょうど落ちてきた柄を握り、それからカウンターに置いた。はぁ、と短いため息を吐いた後。
「……下衆な声で騒ぐな。酒が不味くなる。ここはお前たちの家じゃない」
落ち着いた男の声。そこまで大きな声を出してもいないのに、静まり返ったこの雰囲気では、皆の耳に良く響いた。はっと我に返ったジョアンがレティを引き寄せて、自分の腕の中に庇う。
「何だと!?てめぇ、誰に向かって口聞いてんだ!」
船長はドスドスと大股でガサツに歩き、男の肩を掴んだ。しかし、それは瞬時に払われる。
「触るな」
船長の目付きがこれでもかと言うくらいに最大に殺気を帯び、隆々とした筋肉がビキビキと音をたてる。そこから作られた大きな拳が高く上がり、振り下ろされた。
「やっ……」
レティはジョアンの身体の中で縮こまり、顔を手で覆う。けれども痛々しい音が耳をつくことはなく、代わりにパンという軽い音がした。指の隙間からレティが目を開けたら、細身の彼が、筋肉の塊のような腕を片手で掴んで動きを阻んでいた。
「なっ……!?」
まさか防がれるとは思わなかったと、船長の顔が語っていた。カウンターから男が降りる。船長は、自然と後ろに下がった。
「いいか、よく聞け。先に手を出したのはお前だ」
閉じられていた男の目がゆっくり開く。現れたのは、狼のような鋭い光を宿したグレーの瞳。
「伏せな」
短い一言。誰に向けられたのか察知したジョアンが、レティの頭を自分の胸に押し付けて二人でしゃがむ。
「ぐ……あ……ぁっ?」
すぐに、カウンターから呻き声が聞こえる。
メリメリッと音がしそうなほど、堅いであろう船長の腹部にめり込む肘。やや怯んだその隙に、男は片足を軸にして身体を回した。その力を利用して、船長を蹴り飛ばす。ドゴォォオン!!!しゃがんだレティ達の上を風が通った。船長の身体はドアごと吹き飛ばされ、街路で土煙を上げた。
「てめぇえええっ!」
「よくも!」
「覚悟しろォ!」
「殺っちまえ!」
ナイフや剣を振り上げる残りのクルー達が、船長の仇と一斉に男に襲いかかる。
それはあっという間だった。身軽な動き、洞察力、無駄に力を入れなくとも、確実に相手を仕留める的確な攻撃。店の外にやられたクルーの体が、ポイポイと山のように積まれていった。
「こ、うなったら」
最後に取り残されたクルーは、仲間が吹き飛んだ時に、レティの腕を引っ張った。
「あ……っ」
が、人質にされる間もジョアンが取り戻す暇も無く、床に転がっていた短剣を男拾って素早く投げ、敵の二の腕に突き刺す。
「ぐあっ」
「弱い者を盾にしようなど、やはり下衆だな」
よろめいたその最後の一人が応戦している男に容赦なく倒され、白目を剥いて地面に仰向けに転がった。船長を吹き飛ばしてから、まだ五分も経っていない。レティは膝と両手を床に着いたまま、ぽかんとしていた。
男は服を叩いて埃を払う。そして、いつの間にかカウンターの椅子にかけられていたロングジャケットを取った。
「マスター、店を滅茶苦茶にしてすまなかった」
男はコートの中から何かを取り出して、カウンターに置く。
「ドアも壊してしまったし、修理費用と会計はこれで勘弁してくれ」
「い、いや、そんな……。こちらこそレティを助けていただいて、助かりました」
ジョアンが立ち上がる。
「お代など結構です」
そんな店主に向かい、彼は少しだけ笑みを見せた。
「貰っておくといい」
それだけ言うと、ジャケットを肩に担ぐように掛けて出ていった。
(いけない!お礼を言わなくちゃ!)
呆けていたレティはやっと我に返り、立ち上がって、店から去っていく足音を慌てて追った。
「おっ……、お待ちください!」
「?」
男が足を止め、少しだけ振り返る。レティはその背中に向かって、頭を下げた。
「本当に、……ありがとうございました!」
ジョアンもレティも救われた。その感謝の意を込めて、膝に手をついて深々と。足音が今までと逆に、此方へ向かってくる。五歩でそれは止まり、月明かりに照らされて男の影がレティを暗くした。ぽふ、と軽く頭に手が乗る。
「可愛いってのも、大変だな……」
「え?」
レティは顔を上げる。改めて見る男の顔。容姿端麗で、ミステリアス。肩の向こうに上がる月の影響も手伝い、妖艶に見えた。
「近いうちに、何かお礼をさせてください」
その言葉を聞いて、男は口の端を少し上げた。
「そうだな。なら……」
頬を男の左手が包む。そして身を屈めた男の唇が、レティの反対側の頬に触れた。レティの心がドクンと大きく跳ね上がり、ざわめき出す。男が離れ、触れられた箇所を無意識に手で触った。
「礼はこれで十分だ。じゃあな」
男はゆっくりとした足取りでレティから離れ、去っていった。無許可に触れたあの海賊たちには嫌悪感しか感じなかったのに、目の前の彼にはそれがない。
それどころか、身体の芯から痺れて甘く疼くようなこの感情は――。
(何……?)
レティは夜風に煽られる髪を抑えながら呆然と立ち尽くし、視界から消えるまで深紅の後ろ姿を見つめるのだった。